「凌辱 この罪を負って私は地獄へ堕ちる!」
加藤美希雄
装幀挿絵:秋吉巒
あまとりあ社、1963年
栃木主婦殺し、千葉おせんころがし母子殺害事件など、
昭和27年から5年間で8人を殺害し、「第2の小平義雄」と言われた栗田源蔵の懺悔録
加藤氏は桃田との2度の面会で信頼を得ることで書籍化を一任された。
手記を編集し、取材者の立場からそれを補足した文章を加えることで一冊の本にまとめている。
その概要
・大正15年に秋田県で生まれた桃田は、9歳の頃に酒、盗み、そして女性の身体を知った。
・子供の頃から夜尿症でありそれがコンプレックスになっていた。
・小学校を卒業すると各地を放浪し、やがて上京すると犯罪グループの一員となり違法行為で金を稼いでいた。
・第二次大戦中に旧日本軍に召集されるものの、病により出征することなく終戦を迎えた。
・終戦後、放浪生活を再開。生業につくこともあったが、窃盗により逮捕、起訴され刑務所に入ったこともあった。
・放浪生活の先々で、知り合った女性10名以上と、合意の上で肉体関係を持ったり、力ずくで強姦したりすることを繰り返し、その上でほとんどを殺害していた。
1952年(昭和27年)10月11日に千葉県安房郡小湊町(現在の鴨川市)にある断崖、通称「おせんころがし」で起こった殺人事件。
栗田 源蔵(1926年11月3日 - 1959年10月14日)
1948年、栗田は、三角関係のもつれから静岡県において交際女性を殺害した(交際相手2名を殺害したと供述したが立件されたのは1名のみ)。
1951年8月8日、栃木県で子供を寝かしつけようとしていた主婦を強姦しながら絞殺した揚句、屍姦した。
10月10日、国鉄上総興津駅において行商に出たまま行方不明になった夫を探すために偶々同駅に降り立った母子4名を誘い出し、日付が変わり翌日深夜長男と長女を断崖絶壁の「おせんころがし」にて投げ落とした挙句、主婦を強姦して背中に背負っていた次女ごと投げ落とした。被害者達は崖の途中に止まっていたが、犯人の栗田はそんな被害者達を石で殴打し殺害した。次女だけは隠れていたため奇跡的に生き延びることができた。
1952年1月13日、千葉県千葉郡検見川町で主婦と叔母が殺され、主婦は屍姦された。この際指紋が検出され、これにより栗田が割り出され栗田は逮捕された。
1952年1月13日の事件で千葉地裁で1952年8月13日、栗田に死刑の判決が下された。
1953年12月21日には宇都宮地裁で他の件に関して死刑の判決が下された。一審で二つの死刑判決を受けた初の例でもあり、後に警察庁広域重要指定事件113号が起こるまでは、この例は裁判例としては死刑を二つ宣告された唯一の例だった。
栗田は「懺悔録」という手記を書いている。曰く、「女と寝る時は叩いたり、締めたりすると、とてもいいぞ」と9歳の頃老人に言われたとの事である。栗田本人はこの書物を売ろうとしたが断られた。
1959年10月14日に宮城刑務所において、栗田の死刑が執行された。
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