平らな深み、緩やかな時間

377.谷川俊太郎の記事、『不機嫌な英語たち』『親愛なるレニー』吉原真里を読む


はじめに、前回まで取り上げた千葉雅也さんの『センスの哲学』に関するインタビュー記事がありましたのでご紹介します。
文春オンラインの『センスを良くするにはどうすればいいのか? 千葉雅也が語る「センスの哲学」』という記事です。
https://bunshun.jp/articles/-/70525
著書に書かれている以上のことを語っているわけではありませんが、これから読まれる方には参考になるかもしれませんので、ご紹介しておきます。

次に、2024年4月28日の朝日新聞に『谷川俊太郎 未来を生きる人たちへ』という記事がありました。
https://www.asahi.com/articles/DA3S15922830.html
新聞紙面上の副題は「違うものを書くには変わらなきゃ」「表現できる自己なんてあるのかな」というものです。
谷川 俊太郎(たにかわ しゅんたろう、1931 - )さんは、詩人であり、さまざまなジャンルで活躍する文学者です。私たちの世代では、『鉄腕アトム』の主題歌の歌詞が、もしかしたら谷川さんの作品の中でもっとも親しまれているものかもしれません。
https://www.uta-net.com/song/7373/
また、チャールズ・M・シュルツ(Charles Monroe Schulz、1922 - 2000)さんの『ピーナッツ』シリーズの翻訳も手掛けています。チャーリー・ブラウンやスヌーピーが活躍する漫画です。
谷川さんは、日本の詩人の中で、もっとも有名な人だと言ってよいでしょう。その人が「表現できる自己なんてあるのかな」と言うのですから、短絡的に読んでしまうとショッキングな記事です。その部分を読んでみましょう。

みんな自己表現ってことをすごい大事にしてますよね。僕は最初から疑問でした。大体、表現できる自己なんてものが自分にあるのかなって。

私は背の低い禿頭の老人です。
もう半世紀以上のあいだ名詞や動詞や形容詞や疑問符など
言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたから
どちらかと言うと無言を好みます
(「自己紹介」から抜粋)

自分の言いたいことはないんですよ。みんな、自分に言いたいことがある、表現できるって信じているんじゃないかな。僕はそんな簡単に言葉にできないと思ってる。
(2024年4月28日の朝日新聞『谷川俊太郎 未来を生きる人たちへ』)

谷川さんは、詩のスタイルをさまざまに変えてきた人です。詩人といえば貧乏で、実は大学の先生として収入を得ている、という人が多い中で、谷川さんは文筆家として生計を立てた人です。そのことについては、こんなふうに語っています。

原稿を書くこと以外でお金を稼ぐ道がなかったから。どうしたらウケるか、というのはずっと意識してきました。
(2024年4月28日の朝日新聞『谷川俊太郎 未来を生きる人たちへ』)

大衆のウケを狙って文章を書く、というのは、高尚であるはずの詩人としてどうなの?と聞きたくなりますが、そんなことは谷川さんには織り込み済みです。その結果、先に引用した「表現できる自己なんてものが自分にあるのかな」という自問自答につながるわけです。
確固たる自己があって、それを表現するのが芸術である、というのはモダニズム思想が生んだ呪縛である、と私は思っています。その結果、真面目な芸術家は自分独自のスタイルを模索し、一度自分のスタイルを身につけたなら、一生そのスタイルを貫かなければならないのです。
美術の世界では、ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter, 1932 - )さんがいくつかのスタイルを並行的に進めたことで話題になりましたが、リヒターさんが戦略的にそのような方法を進めたのに対し、谷川さんはもっと自然体のままで表現しているように感じます。
先ほど、「どうしたらウケるか」を考えて谷川さんが原稿を書いていることに対して、それはどうなの?という疑問をぶつけてみましたが、谷川さんの場合には、「ウケる」ことを真剣に考えた結果、スタイルを変え、表現を変え、そのことが作品の水準を維持することにつながっているように思います。その時々で、自分の作品が読者にどのように受け入れられるのか、そのことを真剣に考えるというのは、表現者として誠実な態度であるとも言えます。谷川さんは本能的に「自己表現」にこだわることの偽善に気づき、それに囚われない自由を手にした、と言えそうです。このことが、谷川さんの詩の軽やかさにもつながっているように思います。深刻なモチーフを扱っても、谷川さんの言葉にはどこかに解放感があるような気がするのです。
よかったら、そんなことを考えながら、あるいはそんなことも考えずに、自由に谷川さんの詩を読み直してみてください。


さて、今回は吉原真里さんというアメリカ文化研究者の書いた話題の二冊の本を取り上げます。吉原さんの本については、これまでも新聞の書評やインタビュー記事で知っていました。

『吉原真里さん「不機嫌な英語たち」インタビュー ふたつの言語のはざまで』
バイリンガルには、複数言語を使えて格好いいというイメージがつきまとう。でも、当事者は必ずしもそう考えていないようだ。アメリカ研究を専門とするハワイ大教授の半自伝的私小説は、英語で考える自分と日本語で考える自分が時に交差し、時に引き裂かれて、アイデンティティーを問い続ける姿を描く。
 昨年刊行した『親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』で、日本エッセイスト・クラブ賞や河合隼雄物語賞を受け話題となった。今回初めて小説の形を選んだのは「社会や学問における正論とは違う、私にとっての真実を記しておきたかったから」という。
https://book.asahi.com/article/15049619


『「親愛なるレニー」 巨匠へ宛てられた書簡に宿る愛』
 愛とは創造であり、創造とは対象に於(おい)て自己を見出(みいだ)すことである―。哲学者・三木清『人生論ノート』からの一節だ。
 世界的指揮者レナード・バーンスタイン(1918~90)に書簡を送り続けた2人の日本人。その書簡をめぐる本書には、三つの愛が描かれる。
 一つ目。それは47年から40年以上、手紙を送り続けたカズコの言葉の中に。
<中略>
 戦時下の国家主義的な教育にうんざりしていた10代のカズコ。そんな少女にバーンスタインは想像の翼を旋律で与えた。彼女はそこに自己を見出し、激動の戦後を駆け抜ける。愛は希望の源泉なのだ。
 二つ目。それはバーンスタインと激しい恋に落ち、その後、彼の仕事の一翼を担ったクニの言葉の中に。
<中略>
 相手と一体化したい欲情。それは津波のように自らをのみ込む厄介な代物だ。しかしクニは、溺れるままでいることなく、彼との間に生まれた愛を足場に自らの人生を拓(ひら)く。愛はこんなにも人を成長させるのか。
 三つ目。それは著者吉原が、本書に注ぎ込む、狂気と紙一重の情熱の中に。
<中略>
 きっと吉原は書簡の美しさに取り憑(つ)かれ、澄み切った渦に巻き込まれるように本書を書いたに違いない。
 閲覧数を狙い、匿名の誰か「たち」に向けた言葉が大量に去来する現代社会。でも、そんな言葉のどこに愛が宿ろうか。
 その人「だけ」に向け、ただ一心に投げられた言葉たち。そこに宿る愛は、「だけ」以外の「たち」にも届く。三つの愛に深い感謝を。
https://book.asahi.com/article/14813680


それでは、本を読んでいきましょう。
まず『不機嫌な英語たち』ですが、これは小学生の時に家庭の事情でアメリカに渡った主人公が、数年の後に日本に帰って勉強を重ね、そして再びアメリカに留学して最終的にはアメリカと日本を股にかける研究者となる姿を断片的に描いた半自伝的短編小説集です。
著者の経歴を見るとたいへんなエリートであり、誰もがうらやむような研究者ですが、本のタイトルに「不機嫌な」とあるように、内容的には極めて苦いものがあります。それは吉原さんの鋭い人間観察眼によるところが大きくて、その視線は主人公である自分自身にも容赦なく向けられます。
例えば、主人公の少女が不本意ながらアメリカに行くことになった時の心境と、英語が堪能になって両親を見下すようになった時の内面描写を読み比べてみてください。

父がカリフォルニアに転勤になったとき、私は小学5年生だった。
クラス替えで気の合う新しい友達もでき、学校から家まで本の2分ほどの道を、好きな男の子が一緒に帰ってくれるようにもなって、せっかく楽しい毎日を送っていたのに、みんなと離れて知らない土地に引っ越すなんてイヤだ、ましてや言葉の通じないところに行くなんて絶対にイヤだと、泣いて地団駄を踏んだ。
しかしそんなことをしたところで、どうにもならなかった。ひとあし先に父が現地に行って、住居などをひととおり整えてから、数ヶ月後の10月下旬のある日、私はちょっとよそ行きの紺のスカートとベストを着て、この日のために買ってもらった布のスーツケースを引っ張って、母と一緒にマンションを出た。
(『不機嫌な英語たち』「ある日、とつぜん」吉原真里)

自分がそれなりに英語を解するようになると、アメリカに来たばかりの頃は親が英語で用を足すのを見ていたく感心したのをすっかり忘れて、私は両親の英語を心底ばかにするようになっていった。
両親は、高校生の頃に若者向けの英語学習雑誌のペンパル募集欄を通じて知り合ったくらいだから、かつては熱心に英語を勉強していたらしく、じっさいのところ、多くの日本人駐在員とくらべると、父の英語はわりとまともなほうだった。それでも私は、ときおり連れられていくレストランやパーティの場で、父の会社のおじさんたちが英語を話しているのを聞くと、この人たちはいったいどうやってこのアメリカで仕事をしているのだろう、こんな英語でも製品を売り込めるということは、噂どおり日本の技術力は相当なものなのだろうなどと、子供ながらに考えた。
(『不機嫌な英語たち』「こちら側の人間」吉原真里)


これを読むと、私たちは英語が堪能な人に憧れ、英会話学習などを試みたりしますが、いったいどんなレベルで英語をマスターしたいのか、と考えてしまいます。とりあえず商取引が成立したら良い、とするなら、この小説の父親のような英語でよいのでしょう。しかし、主人公の少女のように、学校で友だちからバカにされないようにしなくてはならない、としたらたいへんです。そこを乗り越えた子供から見ると、親の英語力が滑稽に見えたのでしょう。
しかし、そんなことをあからさまに書いてしまうと、ちょっと嫌な奴に見られそうで、英語が堪能な方でもあまりこういうことは書かないのでしょう。この『不機嫌な英語たち』の主人公は、その鋭敏な感性で感じたことをズケズケと書いていきます。それがこの本の読みどころであり、辛いところでもあります。
この「こちら側の人間」という短編には、そんな事例が次々と登場します。
例えば、主人公よりも数ヶ月遅れて転校してきたマチコちゃんについて、こんなことが書かれています。

私の英語の上達は、マチコちゃんよりも速かった。学年が終わる頃には、私はいなり寿司の発表をなし遂げ、日々の学校生活もどうにかこうにか送るようになっていたが、マチコちゃんは、ごく基本的なやりとりにもまだ苦労していた。先生やスタッフは、連絡事項があると、私を通訳としてマチコちゃんに伝えるようになった。
私はマチコちゃんに対して、大いなる優越感を抱くようになった。
お昼休みには、一緒に座っているマチコちゃんを仲間外れにして、ほかの女の子たちと英語で話をした。
(『不機嫌な英語たち』「こちら側の人間」吉原真里)

主人公の意地悪はこれだけでは収まらず、誕生日のパーティーに自分の優越感を満足させるためにマチコちゃんを招待し、マチコちゃんの母親から断りの電話があると駄々をこねて、自分の母親を介してマチコちゃんを呼び出すということまでします。もちろん、仲良しの友達と英語で会話をして、せっかくパーティーに来てくれたマチコちゃんを困らせたのは言うまでもありません。
また、日本の愛知県から四人の中学生が訪問に来た時には、彼らのジャージ姿や丸刈り、短髪の姿に苛立ちをおぼえ、「ジャージ姿の田舎っぺたちのせいで、私の祖国である日本が格好悪い国だと思われる」と大いに憤慨するのです。
この辺りの記述を読むと、私たち自身も何だか居心地の悪い思いに駆られます。
日本では、一律のジャージ姿で登校する子供たちを見ても違和感を覚えません。朝から運動部の活動があったり、体育行事で着替えが面倒だったり、という都合で学校が彼らに一律の服装を強要していることを、みんながわかっているからです。そんな私たちの常識が、吉原さんの視線にさらされると、何だかヒリヒリするような感じがするのです。
この感触はこの本のテーマでもあります。主人公の少女は、子供の頃から大人になるまで、このヒリヒリする感触の中で生きていくのです。国籍や人種、性別、学歴や職業による差別は至るところにあって、私たちはそのことに鈍感すぎるのかもしれません。先ほど紹介したインタビュー記事には、こんな言葉が書かれています。

「日本人は女性と男性で英語への関わりが違う。アメリカ社会やアメリカ人との関係性も女性と男性で違うと改めて感じました」
「アジア人、女性、大学教授のような属性が交差して私になっている。でも見え方は、相手や状況によって変わる」

日本のせまい社会で男性として生きている私は、このような吉原さんの国際的な感性とは対極にあるのかもしれません。日本の男性政治家は、日本がやたらと同質社会であることを強調しますが、彼らはこのせまい社会の中で頂点に立っていると実感しているのでしょう。そんな居心地の良い社会を壊すわけにいきません。彼らが奨励するトンチンカンな英語教育に私は日頃から憤りを感じていますが、ひょっとしたら彼らはそれが効果的ではないことを、本当は知っているのかもしれません。(イヤ、そんなに賢くないか・・・)
さて、このような一人一人の人間の差異は、単純に考えて良い問題ではありませんし、そこに課題があったとしても、簡単に解決できるものでもありません。例えばこの本の中では、ベトナム戦争の終結時にベトナムを脱してアメリカに来た一家の末っ子であるLouieという男性が登場します。Louieとは、主人公が結婚したいと思うような関係になりますが、彼は次のように言ってそれを拒絶します。

「マリと結婚したら自分は幸せになると思う。でも、僕の人生には、ベトナム難民として生きてきたってことが決定的な意味をもっている。だから、結婚して子供を作って、僕の親やきょうだいや親戚の一員となってもらう相手は、ベトナム難民とし生きることの意味を経験として知っている女性、と思ってる。」
(『不機嫌な英語たち』「山手線とナマチュウ」吉原真里)

このLouieの言葉を本当の意味で理解できる、という人はいないでしょう。
だからと言って、せまい社会に生きている自分を正当化するわけにはいきません。もちろん、生半可な学習で自分は国際人だと誇るわけにもいかないでしょう。
私たちはいろいろな人や社会と出会い、さまざまな本を読み、その都度、壁にぶつかりながら、時に感銘し、時にショックを受けながら生きていくしかないのだと思います。吉原さんのこの本は、そんな私たちにガツンとくる一冊です。短編小説としての出来、不出来はともかくとして、さまざまな、そして大きな問題を孕んだ本であることは間違いありません。英語に興味がある人もない人も、ぜひ手に取ってみてください。


さて、もう一冊の『親愛なるレニー』ですが、こちらは本を買おうと思って紹介文を読むと、次のように書いてあります。

図書館に人知れず眠っていたふたりの日本人からの手紙がいま、語りはじめる。
カズコとクニ、そしてレニー 
芸術と愛に生きた巨匠バーンスタインの実像にせまる感動のノンフィクション!
(amazonの紹介文より)

うーん、この紹介文では、かなり生ぬるい感じがします。
この本は、ワシントンのアメリカ議会図書館に所蔵されている指揮者で作曲家でもあったレーナード・バーンスタインさんの膨大な資料の中から、二人の日本人の書簡に注目し、その手紙の内容からバーンスタインさんの新たな人物像を紡ぎ出そうとする本です。表面的にはそういう本ですから、どんなバーンスタイン像が現れるのか、と期待しながら読むのですが、なかなかそんなふうに読み進めることができません。
それはなぜかと言えば、この二人の日本人、天野和子さんと橋本邦彦さんのバーンスタインさんへの愛情があまりに深く、そして二人の手紙への吉原さんの読み込みがあまりに細やかなために、おいそれとページをめくるわけにいかないのです。新聞の書評に「著者吉原が、本書に注ぎ込む、狂気と紙一重の情熱」と書かれていましたが、まさにその通りです。彼ら三人について、一人一人を見ていきましょう。

天野和子さんは旧姓上野和子さんといって、1929年生まれで商社勤務の父親の仕事のため、子供時代をパリで過ごし、パリ国立高等音楽院でピアノを勉強した才女でした。フランス語と英語をこなし、音楽にも造詣が深い、という点で、ピアノと英語が堪能だった著者の吉原さんと共通するものがあります。その和子さんがアメリカ占領下の日本で、アメリカ情報教育局が設置した図書館からバーンスタインさんに関する資料を閲覧し、まだ20代だったこの音楽家がやがて偉大な芸術家になると予感して、ファンレターを送ったのがバーンスタインさんへの書簡の始まりでした。そのファンレターに思いがけず返事が来て、それからバーンスタインさんと和子さんは、個人的な知人になるのです。

ご親切なお返事とお写真をいただいて、ほんとうにどうもありがとうございました。心からうれしい気持ちでいっぱいになりました。こんな素晴らしい驚きがあるなんて!
あなたのお写真をいただいてとてもうれしく、光栄です。とくに、いまのところは、私の国であなたのお写真をもっているのは私ひとりだろうと思うと、なおさらです。これで、あなたが日本にいらっしゃるときまで、我慢してじっと待っていることができます。
(『親愛なるレニー』「戦禍のスター誕生」上野和子の手紙より 吉原真里)

思春期にバーンスタインさんに憧れた和子さんは、やがて恋心に近い感情を抱くようになりますが、そんな夢のような話はともかくとして、それぞれの生活があることを認識して天野さんという日本人と結婚し、子供にも恵まれ、主婦と子育てに専念するようになります。そういう生活の中で、和子さんは来日したバーンスタインさんと家族を連れて面会したこともありました。和子さんとバーンスタインさんの関係は、年齢に応じて成熟したものとなっていったのです。
その和子さんの内面を細やかに分析する吉原さんの記述が見事であり、時にはハラハラしながら読んでしまいます。その一つ一つをここで引用するわけにはいかないので、彼女が結婚した頃の手紙に関する分析を少しだけ読んでみましょう。

こうしてバーンスタインが大スターとして成長していく時期、和子の生活も大きく変化していた。彼女が1957年(昭和32)11月にバーンスタインに送った手紙は、「天野」という姓でサインされている。1955年秋に、天野礼二という男性と結婚したのである。そしてその翌年、和子は第一子を出産している。しかし彼女は、1954年のホリデイカードから3年近くにわたって、バーンスタインに手紙を送っておらず、結婚や出産についても報告していなかった。
「天野和子」になった彼女はなぜ、このような人生の大変化をバーンスタインに書き伝えなかったのだろうか?
結婚式、引越、出産という慌ただしさのなかで、落ち着いて手紙を書く時間がなかった、というだけのことかもしれない。あるいは、結婚式や出産といった彼女の個人的なできごとに、バーンスタインは興味がないだろうと思ったのかもしれない。だが他の理由も考えられる。それまで何年にもわたって、マエストロへの思いを「上野和子」や「和子」として書きつづってきた彼女は、結婚や家庭や性といった自分の現実と、それまであたためてきたバーンスタインへの感情とのあいだで、どのように折り合いをつけるべきなのか戸惑っていた、そう考えられなくもない。結婚や出産については、バーンスタインには事後報告で伝えるほうが、気持ちが楽だったのかもしれない。
(『親愛なるレニー』「戦禍のスター誕生」 吉原真里)

一方の橋本邦彦さんです。
この方は同性愛者でもあったバーンスタインさんが1979年に来日した時に知り合い、恋に落ちたのでした。その時に、橋本さんがバーンスタインさんに書き送った手紙の書き出し部分です。

親愛なるレニーへ
あなたがアメリカに行ってしまったあと、僕の心は空っぽになっています。ともに過ごした一夜から翌日の午後にかけての時間が、あまりにも夢のようなできごとだったからです。そしてめざめて、その夢が消えてしまったことに気づき、そしてそれが夢であったと思うと、どうしようもない悲しみに襲われるのです。
(『親愛なるレニー』「DearからDearestへ」橋本邦彦の手紙より 吉原理恵)

この後、二人はヨーロッパで会ったり、橋本さんがアメリカでバーンスタインさんと共に暮らすことを相談したり、終生、愛情のこもったやり取りをしていたようです。若い頃の熱烈なラブレターは、このような私信が公的な資料として閲覧できることに驚いてしまうほどです。さらにそれらが、こうして出版されているのですから、これ、大丈夫?と心配になります。そのことについては、後で書きましょう。
そして橋本さんは、当初、損害保険会社に勤めて安定した暮らしをしていましたが、次第に自分の舞台芸術への興味や才能に気づき、劇団四季に入って活躍することになります。
橋本さんのバーンスタインさんへの、愛情の成熟と、自分の才能に目覚めて成長していく様子は、この本の読みどころの一つになっていると思います。そして、橋本さんは核兵器廃絶を訴えたバーンスタインさんの平和コンサートをサポートすることになります。個人的な愛情が、もっと大きな感情へと変わっていったのです。
吉原さんがその経緯を語った部分を読んでみましょう。

こうしてバーンスタインは、すでに決まっていたツアーのスケジュールを変更してまで、見ず知らずの日本人(佐野光徳さんという企画者)によって持ち込まれた企画を受け入れたのである。
その根底にはまず、彼の核兵器廃絶運動へのコミットメントと、加速する軍拡競争への憤りがあったのだろう。それにエイズにかかわる運動でも明らかなように、バーンスタインは、現実世界の状況や人々の声に耳を傾けようとしない国家にたいする怒りを年々募らせていた。そんななかで、平和コンサートは、みずからの信念を表現するのにまさにふさわしい企画だった。そして65歳の誕生日のキャンペーンをつうじて、自分の影響力を行使する意義と重要性も再認識していた。また、もともと若い音楽家たちの育成に力を入れていたバーンスタインは、年齢を重ねるにつれて教育活動をさらに重視するようになっていた。広島でのコンサートは、ユース・オーケストラのメンバーたちにも大きな意味があるにちがいなかった。
<中略>
9月のクラウトの日本滞在中、橋本は多くの会議に同行して通訳を務めた。演奏会場や宿泊施設の調査のため、広島と長崎にも足を運び、さまざまな施設状況の確認もおこなった。その結果、長崎には適切なコンサート・ホールも一行全員が滞在できる宿泊施設もないことが判明し、長崎公演は企画から外されることとなった。しかしそのいっぽうで、企画自体はどんどん規模が大きくなったのである。
(『親愛なるレニー』「二度目の春」吉原真里)

そしてこの頃、天野さんと橋本さんは連絡を取り合い、初めて出会ったようです。吉原さんはそのことを手短に、さりげなく次のように書いています。

天野と橋本がバーンスタインと築いてきた関係は、大きく性質の異なるものだった。しかしふたりには、マエストロへの愛という、深く大切な共通点があった。それを媒介にして、このふたりのあいだにも、かけがえのない友情が生まれたのである。
(『親愛なるレニー』「二度目の春」吉原真里)

短い文章ながら、この本のなかでもとても好きな部分です。二人はこの後も、陰に陽にバーンスタインを愛し、支えていったのです。そしてバーンスタインが亡くなった後も、二人の思いは変わらなかったようです。

さて、最後にこの本を書いた吉原真里さんの「狂気と紙一重の情熱」について見ておきましょう。吉原さんのこの本は、単にバーンスタインさんの書簡から彼の人生を浮き彫りにする、という通常のノンフィクションやドキュメンタリーを超えています。それほど天野さんと橋本さんの愛情は深く、他人が覗き見ることを躊躇させるものがあります。だから吉原さんはあえて、この本の成立過程を本の最後の章「コーダ」として加えているのです。
まずは何と言っても橋本さんのことが気になります。橋本さんとバーンスタインさんの関係を公にして良いものなのかどうか、誰もがそのハードルは高いと思うのではないでしょうか。吉原さんは、橋本さんにそのことを判断してもらうために、おおむね執筆を終えて、原稿がまとまってから連絡を取ったようです。橋本さんは現在、シドニーにいて、オーストラリアと日本の両方で、俳優、声優、著述家、プロデューサー、ディレクターとして活躍されているそうです。あの宮本亜門さんから台本の翻訳を任されたこともあるということです。吉原さんは、橋本さんのことを理解するために二週間ほどシドニーに滞在したそうです。この本は、書簡の研究という学究的な側面だけでなく、もっと深い人間理解に根差した本なのです。
そして吉原さんは、天野さんからも承諾を得るために、東京に暮らしている天野さんを訪ねています。現在の天野さんは、バーンスタインさんとも親しくなった娘さんと同居しているということです。
最終的には、橋本さんも、天野さんも、この本によってバーンスタインさんへの理解が進むのならば、ということで協力してくれることになりました。この本ははじめに英語で出版され、日本語版では橋本さんの書簡部分は本人が翻訳したそうです。
そして、吉原さんが自らの思いを綴った「あとがき」の最後の部分を読んでみましょう。コロナ禍や戦争に満ちたこの世界に対する吉原さんの思いが伝わってきます。これを読むと、皆さんもこの本を読まなければ、と思うのではないでしょうか?

ものごとの急速なオンライン化によって、距離や時差を超えて人々と顔を合わせることできるようになったと同時に、世界の多くの地域で、愛する人の手を握ったり抱擁したりすることも、音楽の生演奏を聴くこともしづらい状況が長く続いた。多くの人々にとって国境がこれまでにない障壁となり、人類が何世紀にもわたって築いたり壊したりしてきた「共同体」や「境界」の意味が問われもした。バーンスタインが生きていたら、さぞかし大声を上げて抗議活動をしながら、音楽を分かちあい、境界を超えて人を愛し生きる術をさし示してくれたにちがいない。
世界の政治的・社会的・倫理的な問題に、どんなときにも妥協せず真正面から向きあいつづけ、平和への信念を失わず、発言と行動と表現をしつづけ、なによりも音楽を愛し、人間を愛しつづけたバーンスタイン。愛にあふれた偉大な魂だったマエストロが、アメリカ、日本、そして世界に残してくれたものが、いまなお大きく感じられる。
(『親愛なるレニー』「あとがき」吉原真里)
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