平らな深み、緩やかな時間

376.『センスの哲学』千葉雅也を読む②

前回の続きです。
今回は、千葉雅也さんの『センスの哲学』がどのように現代美術にアプローチしているのか、を見ていきましょう。

さて、皆さんは現代芸術、つまりモダニズムの時代の芸術について、どれほど親しんでいらっしゃいますか?
現代美術、現代音楽、現代文学など「現代=モダン」という言葉がつくと、芸術はすべて難解になってしまいます。それらを見たり、聞いたり、読んだりしても意味が「わからない」ということになってしまうのです。この「わかる」とか「わからない」というのは、普通の場合なら、ものごとをどれくらい理解できるのか、つまり理性的な認識の問題として捉えられるでしょう。
しかし、芸術の理解は言葉による理解以前の、もっと先天的な、アプリオリな性質のものです。そこでイマヌエル・カント(Immanuel Kant 、1724 - 1804)さんは、理性や悟性による認識の中間に「判断力」という能力を見出したのです。彼はその「判断力」を原理的に語ろうとして、『判断力批判』という厚くて難解な本を書きました。
カントさんの言う「判断力」というのは、例えば芸術作品の良し悪しが「わかる」、「わからない」と言うときの「判断する力」ということになります。千葉さんはこの『センスの哲学』という著書の中で、「センス」という言葉を「直観的な判断力」というふうに位置付けました。つまり「センス」の良し悪しというのは、ものごとを理性的に考える前に「直観的」に「わかる」能力だということになります。ですから、「センス」についての理解を深める、ということは、例えば現代芸術のような難解な芸術表現について「直観的」に「わかる」領域を広げていく、ということになります。
さらりと書いてしまいましたが、理性的な認識に当てはまらないことについて、言葉で説明する、ということは並大抵のことではありません。私は現代美術の評論をかなり読んでいる方だと思いますが、だいたいの評論はこの部分をうまくごまかしています。だから「わかる」人にはわかるし、「わからない」人にはわからないままなのです。
そのことを意識したのかどうかわかりませんが、千葉さんがこの『センスの哲学』を書くにあたって参照している本は、一般的な現代芸術の評論が参照している本と少し違っています。もしかしたら、千葉さんはそれらの本を意図的に避けたのかもしれません。
現代芸術を「わかる」人を前提にした本を参考にしても、「わかる」ことへの理解が広がるわけではないからです。

それでは、具体的に千葉さんがどのように「センス」について語っているのかを見ていきましょう。
千葉さんは、現代芸術を理解するには、まず、ものごとを描写したり、再現したりということから離れることが必要だ、と説明します。絵画でいえば、写実的な再現描写から離れること、音楽なら楽典通りに厳格に作られた音楽から外れること、などがそれにあたります。
その上で、千葉さんはこう語り始めます。

「モデルに合わせようとしても合わせきれない」というのが悪い意味でのズレで、それがセンスが悪いと見なされる。だったら、そもそもモデルを目指すことから降りてしまい、自分の積極性を肯定する「ヘタウマ」でいいじゃないか。このことを第一章で説明したのでした。
何らかのモデルを目指すというのは、それが持つ意味を求め、その意味を自分に取り込もうとしているわけです。第一章の例ならば、部屋をヨーロッパ風にしたいというとき、貴族っぽさとか伝統とか優雅さみたいな意味を求めている。同様に、ファッションとか絵にしても、意味を目指してしまうわけです。
しかしこの本では、意味より手前で、ものごとがそれ自体としてどう面白いのか、という観点を重視します。ここで言う「それ自体」というのが、リズムなのです。

・ものごとをリズムとして捉えること、それがセンスである。

では、リズムとは何なのか。
ちょっと寄り道をしましょう。1990年代に、社会学者の宮台真司が「意味から強度へ」というフレーズで有名になりました。
宮台さんが注目したのは、当時「コギャル」と呼ばれていた女子中高生たちの生活です。特別何かを目指すわけではなく、つまり何か「意味があること」をしようとせずに、みんなでファミレスで適当にだべったり、そのときなんとなくの空気が楽しければいいと言う生き方。その感じを「まったり」と言ったんですが、ただまったりしていることの豊かさを彼女たちは教えてくれる。それを宮台さんは「まったり革命」と呼んで、とくに何を目指しているのでもない感じのことを「強度」と言う概念で言い表しました。
「強度」は、今日の言葉で言えば「エモい」につながってくると思います。なんか曖昧ないい感じ。それは「意味」ではない。「意味」ではなくて、じんわりいい感じだったり、ワクワクする感じを「強度」と呼んだんです。ちなみに宮台さんはこの「強度」という言葉を、ジル・ドゥルーズという哲学者から持ってきています。ドゥルーズは僕の専門なんですが、大まかに言えばドゥルーズは、意味ではなくて「存在感」というか、ただそれ自体の価値みたいなことを言うときに「強度」と言う概念を使いました。
この「強度」を、「リズム」と言い換えてみたい。
「強度」と言われると、「強い」のが大事なのかと思われるかもしれません。そうではなく、「強度」とは、強い/弱いのことです。強いところがあって弱いところがあって、強弱が交代する。それは「リズム」のことだと言えるでしょう。
(『センスの哲学』「第二章 リズムとして捉える」千葉雅也)

いかがでしょうか?
「コギャル」から「リズム」を説明しようという発想が、そもそもオーソドックスな美術批評ではあり得ません。「コギャル」の集団が、まったりしたり、笑いで盛り上がったり、という変化を「リズム」として捉え、それを音楽の「リズム」へと敷衍して、千葉さんは考察を進めていきます。この「リズム」が、美術表現においては写実的な「意味」から離れる手がかりになります。
それがモダニズムの美術表現へとつながっていくのですが、千葉さんの次の文章をお読みください。

意味から離れたリズムの面白さ、それがわかることが最小限のセンスの良さなのだと言いましたが、それは、20世紀にいろんなジャンルの芸術が向かった方向なんです。ここで言うセンスの良さとは、意味へのこだわりが強かった時代から、より自由に音や形を構成していくようになるという近代化、現代化ーそのことを「モダニズム」と呼ぶのですが、そのモダニズムを良しとする価値観を指していることになります。
ただ、芸術のあり方としてモダニズムがベストとも言えないのですが、そのあたりは難しい話になるので省略します。本書によるセンスの良さへのガイドとは、言ってみれば、モダニズム入門です。日常的な例によって、広い意味でのモダニズムを体感してもらいたいんですね。
19世紀から、(西洋の)芸術は、意味、メッセージ、物語を伝えるものというより、その存在自体に面白さ=存在意義があるようなものへと展開していきました。
モダニズムのそういう方向として、まず理解されやすいのは視覚的なもの、美術だと思います。
(『センスの哲学』「第二章 リズムとして捉える」千葉雅也)

千葉さんが苦心しているのは、いかにして「意味」や「メッセージ」から離脱して、自由に絵そのものの存在感を楽しむことができるのか、ということにあるようです。その事例としては、モダニズムの美術がうってつけのものになるのでしょう。千葉さんは「芸術のあり方としてモダニズムがベストとは言えない」と書きつつも、モダニズム美術にこだわるのはそういうわけなのです。
ここでさらに、具体的に千葉さんの作品の見方を参照してみましょう。この『センスの哲学』という本の表紙は、ロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg, 1925 - 2008)さんの『Summer Rental+1』という作品です。
https://www.rauschenbergfoundation.org/art/artwork/summer-rental-1
この作品には、次のような説明が書かれています。

ちょっと冗談ですが、赤いあたりはラー油のようだし、餃子っぽい感じがしなくもない・・・まあ、餃子を食べるときの口の中というのはこういう感じじゃないかと。では、この作品をよく見てみましょう。
どこに注目するかは自由ですが、まず、中央左下では三つの色が使われていて、それが交代しています。黒、カーキ、赤茶と三つの色が並んでいますね。A、B、Cという並びがリズムを形成していて、音楽で言えばド・レ・ミが並んでいるみたいなもの。
一番下にある黒は比較的びっちりと塗りつぶされているが、左の方はヒョッヒョッと手描きらしい勢いがあります。
その上のカーキは、もっと勢いのある粗いタッチになっていて、上のところのカーキの粗さと、すぐ右下の黒い正方形の密度感が対比になるわけです。
さて、そのカーキの上に、隙間をつぶすように塗られた赤茶色は、ぎゅっと凝縮されているが、勢いもあって・・・細かい話ですが、真ん中のカーキの勢いがバラけているのに対し、赤茶の方には凝集感があってそれが対比をなしている。
(『センスの哲学』「第二章 リズムとして捉える」千葉雅也)

説明はもっと続きますが、このように楽譜の音符を一つ一つ追いかけながら音楽の流れを楽しむように絵を見る見方が、まさにリズムで絵を見る、ということなのでしょう。このような絵の見方はモダニズムの絵画を見るときには、多かれ少なかれ、誰にでもあると私は思います。
このようなリズムによる絵の見方を、千葉さんは次のように整理しています。

・センスとは、ものごとを意味や目的でまとめようとせず、ただそれを、いろんな要素のデコボコ=リズムとして楽しむことである。

・そしてセンスとは、リズムを捉えるときに、(1) 欠如を埋めてはまた欠如し、というビート、(2) もっと複雑にいろんな側面が絡み合ったうねり、という両面に乗ることである。

・さらにセンスとは、意味を捉えるときに、それを「距離のデコボコ=リズム」として捉え、そこにやはり、うねりとビートを感じ取ることである。
(『センスの哲学』「前半のまとめ」千葉雅也)

モダニズムの絵を見るときに、描かれているものの「意味」や「メッセージ」を振り切るために、まずは「リズム」に注目する、という千葉さんの方法は、わかりやすくて良いと思います。
しかし、ちょっと一言、言わせてもらうなら、これではやはり物足りないものを感じます。
例えば、先ほどのラウシェンバーグさんの作品ですが、私は絵画作品として彼の絵を見ると、その密度の薄さが気になります。彼の絵は、絵画が新たな自由さを獲得するときの過度期の作品として見るのなら良いのですが、『Summer Rental+1』を自宅に飾って、毎日、飽きずに眺められるか、と問われると自信がありません。先ほどの千葉さんの解説にあるように、パッとみたときの印象は素晴らしいと思います。でも、この絵をじーっと見たときに、それ以上の深い感想を抱けるか、と問われると、それは厳しいなあ、と思ってしまいます。
このラウシェンバーグさんの作品について、千葉さんはこの後にもところどころで言及していますので、私たちもそれを読みながら、引き続き考えていきましょう。

ここまでが『センスの哲学』の前半部分にあたるのですが、後半は意味から解き放たれた「リズム」が、表現上でどのように工夫されたり、発展していったりしたのか、という話になります。千葉さんがそれをどのように説明していったのか、本の章立てを見ていくとよくわかります。

第五章 並べること
第六章 センスと偶然性
第七章 時間と人間
第八章 反復とアンチセンス

わかりやすい章立てではありませんか?
「リズム」について考えるなら、それぞれの要素の配置、つまり並べ方が重要になるのは言うまでもありません。音楽で言えば、どのような拍数で音符を並べるのか、ということが「リズム」になるのですから、美術における色や形の並べ方だって同様です。
私ならば、美術における「リズム」を論じるなら、アンリ・マティス(Henri Matisse, 1869 - 1954)さんの切り絵作品や、日本の琳派の作品を例に挙げたいところです。
https://bijutsutecho.com/magazine/insight/28474
https://www.nezu-muse.or.jp/sp/collection/detail.php?id=10301
ところが千葉さんは、映画におけるモンタージュ手法について論じたり、ジャン=リュック・ゴダール (Jean-Luc Godard, 1930 - 2022)さんの映画について言及したりしています。ちょっと興味深いので、その部分を参照してみましょう。

朝、鳥が鳴いていて、白い家を正面から映し出した映像があるとします。これをショットAとします。次に薄暗い部屋に光が差し込んでいて、ベッドから起きあがろうとする女性の映像が来るとします。これをショットBとします。Aが来て、次にBが来ると、Bの女性は、おそらくAの家に住んでいて、朝起きるところなのだと普通は考えるでしょう。このように複数のショットを並べると、人間の脳は物語化を行なって、「こうなんだな」という意味が生じます。このようなショットのつながりを「モンタージュ」と言います。
ちなみに、大学に入り、映画論の授業に出て、最初に受けた衝撃は、まさにこの「ショット」との出会いでした(それに、大学では映画を研究することもできるのかと驚きました)。97年か98年、それは松浦寿輝先生の授業でした。映画の一部を映してから、ショットがいくつありましたか、という質問が教室に投げかけられました。そのときに初めて、映画をいわば即物的に観る、ということを教えられたのです。どういう物語なのかと意味優先で観るのではなく、作り手サイドが何をしているのかを分析するわけです。
(『センスの哲学』「第五章 並べること」千葉雅也)

さすがに東京大学の授業は贅沢ですね。松浦寿輝さんの映画の授業なら、受講してみたいものです。
それはともかくとして、本来、物語を構築していくはずの「モンタージュ」ですが、そのような予測を裏切るようにショットばかりが繋がれていくと、意味不明な、つまり難解な前衛的な映画になるわけです。意味不明な映像ばかりが延々と繋がれてしまえば、それは退屈な映画であり、不快でさえあるわけです。
ところがゴダールさんの映画は、物語の予測を裏切るショットを繋げつつも、なぜかそれがカッコいい、ヒリヒリするような快感にさえなってしまうのです。
それはどういうことなのか、千葉さんは「リズム」から説明します。

しかし、ゴダールのような特殊なケースを挙げるまでもなく、人間は、予測が外れること、予測誤差に喜びを見出すことがしばしばです。意外な展開が面白いわけです。とはいえ、予測通りだと心地よいというのがベースにある。
これはリズムそのものだと言えそうです。リズムとは、(1)一定の反復があり、(2)そこから外れるとき=差異がある、という構造をしている。反復と差異です。たとえば、デジタルで表すと、「0・0・0・1・0・0・・・」という流ればあるとき、まず「0が続くな」と予測するでしょう。そこで0が三つ続いてから1が来たとき、「あ、違う」=予測誤差、となるわけです。そしてまた0になり、もうひとつ0が続けば、「まだ続くな、三つ続くな、その後1だ」という予測になる。学習が働いて予測する。このように、「0・0・0・1」という反復と差異が、ワンセットになってパターン化するわけです。
(『センスの哲学』「第五章 並べること」千葉雅也)

だんだん話が面白くなってきましたね。
「反復と差異」とは、千葉さんが研究しているフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)さんの重要なテーマでもあります。このように千葉さんはリズムの反復と差異をパターンとして捉え、その上で人間の内面でどのようなことが起こっているのか、次のように分析します。

細かい刻みで予測の当たり外れに一喜一憂するのではなく、パターンとして捉え、外れが起きることもパターンの一種として捉えている、というスタンス。これ、退いた視点から世界を眺めているというイメージが湧いてきませんか。
これが人間において顕著な「意識」であり、「精神」ではないか、と思います。他の動物にも多少ありそうですが、人間においてとくに発達しているのが、この退いたところに立って、予測誤差をいわば視野に収めようとする意識で、これをときに「メタ認知」と言ったりします。「メタ」というのは、上から眺めているような視点のことです。
いま「視野」と言いましたが、これは大きな「フレーム」、「外枠」を設定することだと言える。何が起きようが、フレーム内であれば耐えられるわけです。フレームが小さいと、それをはみ出した経験は耐えがたいものになる。ならば、フレームを最大限デカくしてしまえば、諸行無常、何でも平気にある・・・というのは、仏教的方向性ではないかと思います。
(『センスの哲学』「第五章 並べること」千葉雅也)

話がどんどん深まっていきます。
動物にとって、物事の予測が外れるということは、場合によっては生命の危険にさらされることになります。
ここからは精神分析的な話になりますが、人間には死への欲動があって、リズムが外れることを人間はパターンとして捉え、その予測の誤差のパターンを大きなフレームとして捉え、そのような大きな視野から眺めることで、「死の危険」さえも、ある種の興奮を孕んだ快感にしてしまう・・・、という分析も成り立つのです。
うーん、そこまで難しい話なのかどうかわかりませんが、私は絵を描く時に、あるいは絵を見るときにも、千葉さんが言うような「リズムの外れ」をいつも意識しています。一定の「リズム」で収まってしまっている表現は、言わば単なる「模様」と違いないのではないか、と私は思っています。だとすると、どのように「リズム」を外すのか、という点が、芸術表現の根本的な問題そのものだとも言えるのです。

それでは、先ほどのラウシェンバーグさんの作品に立ち戻ると、この「予測誤差」の概念はどのように解釈できるのでしょうか?
千葉さんは次のように書いています。

予測が大きく外れるのは、通常は不快なことです。しかし、不快かつ快という状態、ラカンが言うところの享楽が人間にはあるー享楽という形で、わからないものを楽しむこともできる。
ラウシェンバーグのような抽象絵画でも、何かわかるイメージを見ようとすることに対する裏切り、つまり、花瓶とかリンゴといった「わかる形を目指した予測」から外れる予測誤差が続くわけです。何の絵かわからない、というのは、目でスキャンして予測的に理解することができない、ということです。これは前衛的な映画のよくわからないモンタージュと同様です。抽象絵画もまた、解決のないサスペンスとして、享楽によって味わうことになる。補足すると、ものを見たり聞いたりするときには予測の計算を行なっているわけです(というのが現代的な捉え方です)。
(『センスの哲学』「第五章 並べること」千葉雅也)

この千葉さんの解釈は、抽象絵画やラウシェンバーグさんの作品を初めて見る初心者には良いのかもしれませんが、おそらくこのblogをお読みになっている方には、物足りないものだと思います。
「何の絵かわからない」ということは、すでに当然のことであって、そのことがラウシェンバーグさんの絵の魅力である、とは私たちは思わないでしょう。数限りない抽象的な表現の中にあって、ラウシェンバーグさんの作品が光を放っているとしたら、そこにはもっと語るべき何かがあるはずでしょう。
千葉さんは、この後の章で「偶然性」と美術表現の問題、「時間」と美術表現の問題について考察しています。その後で、ラウシェンバーグさんの作品について、もう少し深い解釈をしています。
次の文章をお読みください。

ただ、ラウシェンバーグという個人に着目して言うと、土色のような、汚れたような色彩が多用されるのはなぜだろう、ガラクタが寄せ集められたようなイメージはいったい何の表現なのだろう、と考えていく楽しみがある。確かにそうした作品の傾向には、その作者独特のもの、つまり個性が表れています。
個性とは、何かを反復してしまうことではないでしょうか。
個性的な反復。それは何らかの問題の表現です。その問題が結局何を意味するのかは曖昧なままです。ラウシェンバーグは、問題を解決するために作品を作るのではなく、問題を「抱えている」から作品を作る。個人が抱えている、自分では十分自覚できていないような問題をめぐって作品が生み出される。
問題が変形されて、いろんな形をとる。何かが繰り返されているらしいのだが、それがいろいろな差異で表現される。私たちは、自分の体験や嗜好に照らして、それはこういう意味じゃないかという感想を持つわけですが、当然答えはひとつに定まらない。ラウシェンバーグ固有の「身体の癖」のようなものである色や形のリズムに付き合って、それをシンクロするようにして、何かを考えさせられるわけです。
(『センスの哲学』「第八章 反復とアンチセンス」千葉雅也)

千葉さんが書いている「土色」のような色彩、「ガラクタが寄せ集められたようなイメージ」は、確かにラウシェンバーグさんの芸術を特徴づけるものです。そこにラウシェンバーグさんの個性が表れている、というのは妥当な解釈だと思います。
しかしその一方で、「自分では十分自覚できていないような問題をめぐって作品が生み出される」というくだりは、どうでしょうか?
私の目には、ラウシェンバーグさんはその時代の美術界が要請するものについて、かなり敏感に、そして知的に応え続けた人のように見えます。同時代のジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns, 1930 - )さんほど観念的ではなかったものの、「自分では十分自覚できていないような問題をめぐって作品が生み出される」というタイプの芸術家の事例としては、あまり的確ではないように思います。
ただし、この本を通して読むと、千葉さんのラウシェンバーグさんへの愛着がよくわかります。私の見ているラウシェンバーグさんとは、また違ったイメージが千葉さんの中にはあるのでしょう。このように、自分の好きなものについて書こうとしている美術批評は、読んでいて気持ちがよく、また信頼がおけるものです。自分の意見と他人の批評が異なることは、むしろ当然のことですから、そのこととその批評の価値とは別なものだと考えるべきでしょう。

さて、最後になりますが、この『センスの哲学』とはどのような本なのか、私なりにまとめてみましょう。
まずこの本は、「センス」という概念について考える本であり、また現代美術の入門書でもあります。千葉さんは、主に「フォーマリズム」と呼ばれる批評の方法を手掛かりに書いていますが、おそらくは意識的に本格的なフォーマリズム批評には触れないままに書き進めています。私も機会があれば書いている通り、現代美術におけるフォーマリズム批評は、現代美術を語る上で避けて通れない批評の方法ですが、そこにはまた様々な批判があるのです。そんな面倒なことは後回しにして、まずは画面を丹念に見てみよう、と千葉さんは呼びかけているのです。その手がかりとして「リズム」という概念がありました。
このように、現代美術に疎い方に向けて書かれた本ではありますが、既存の美術批評と違って、「リズム」、「予測誤差」、「偶然性」、「反復と差異」といったことについて、哲学者らしいラディカルな知見が散りばめられています。だから現代美術の入門書としてだけでなく、私のように美術批評を読み慣れてしまって、その論旨に根本的な問題を見出せなくなってしまっている人間にも読む価値のある本だと思います。むしろ、そういう人こそ読んだ方が良い本なのかもしれません。

私自身、もう少し千葉さんの哲学について勉強して、そして改めてこの本を読んでみたい、という気持ちになっています。その時に何か成果があれば、またblogに書いてみたいと思います。
千葉さんは、この本の最後にていねいな読書案内も掲載しています。既存の美術批評とは異なる経路で現代美術について理解を深める方がいれば、それはまた面白いことだと思います。どんどんユニークな「センス」を広げる人が出てくれば楽しみも広がるなあ、と思っています。
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