まずは『マティス 自由なフォルム』という展覧会です。
国立新美術館の企画だけあって、とても楽しめる展覧会です。
https://matisse2024.jp/
もう少し早くご紹介できるとよかったのですが、自分の展覧会と先ほど書いた事情が重なって、会期終了間際になってしまいました。
展覧会の概要について、公式サイトから案内文を引用してみましょう。
20世紀最大の巨匠の一人アンリ・マティス(1869-1954)。自然に忠実な色彩から解放された大胆な表現が特徴のフォーヴィスムの中心人物としてパリで頭角を現します。後半生の大半を過ごすこととなるニースではアトリエで様々なモデルやオブジェを精力的に描く一方で、マティスは色が塗られた紙をハサミで切り取り、それを紙に貼り付ける技法「切り紙絵」に取り組みます。
本展はフランスのニース市マティス美術館の所蔵作品を中心に、切り紙絵に焦点を当てながら、絵画、彫刻、版画、テキスタイル等の作品や資料、約160点超を紹介するものです。なかでも切り紙絵の代表的作例である《ブルー・ヌードⅣ》が出品されるほか、大作《花と果実》は本展のためにフランスでの修復を経て日本初公開される必見の作品です。
本展ではさらに、マティスが最晩年にその建設に取り組んだ、芸術家人生の集大成ともいえるヴァンスのロザリオ礼拝堂にも着目し、建築から室内装飾、祭服に至るまで、マティスの至高の芸術を紹介します。
(『マティス 自由なフォルム』公式サイトより)
これを読むと、マティスさんのキャリアの最晩年に制作された「切り絵」作品や「ヴァンスのロザリオ礼拝堂」の展示に主眼が置かれていることがわかります。
実は昨年もマティスさんの大きな展覧会があり、内容も少し似ていました。私はその展覧会についても、このblogで感想を書きました。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/da795fea0432e5eea4e30528dd172c6b
この時も書いたのですが、マティスさんがもっとも革新的な仕事をしていた時期のタブローの作品が少なかったことについて、若干の不満を書きました。今回の展覧会も、私は同じことを感じました。
しかし、マティスさんのその時期(1910年代)の作品はそう多くありませんし、またそれらはマティスさんの芸術の中でも最も難解な時期でしたから、そういう作品を集める企画は難しいのかもしれません。
ですから、その話は別としておきましょう。それならば、今回の展示は昨年の展覧会にも増して、美術作品を見ることの楽しみが堪能できると思います。
例えば、ふんだんに集められた切り絵作品ですが、これは実物を見る価値があります。画集でそれらを見るのと違って、マティスさんが木炭やコンテなどで形を推敲した痕跡が残っているので、マティスさんの制作過程がよくわかるのです。また、装飾的な大きな作品をそのまま持ってきて、国立新美術館の壁にぜいたくに展示しているので、ゆったりとした身体感覚でマティスさんの作品を味わうことができるのです。私は常々、マティスさんの色彩豊かな作品は、その色面の広さをそのまま感受しないと、マティスさんの真意がわからないのではないか、と思っていました。色彩というのは眼の感覚的な心地よさと直接つながっているので、色彩の面積、量、大きさなどがとても重要なのです。
例えばあなたが、大きな窓のカーテンを選ぶのならば、あまり派手な色合いだと疲れてしまいますよね。それが小さな窓で、常時いる部屋でなかったならば、気持ちのアクセントとしてキリッとした色が欲しくなるかもしれません。マティスさんがそれぞれの作品について、どんな塩梅で色彩を割り振っているのか、そんなことを考えながら眺めてみると、より興味が広がります。
さらに今回は、「ヴァンスのロザリオ礼拝堂」をそのままそっくりに作った部屋を用意し、朝から夜までの光がステンドグラスを通して差し込む様子を演出する、という手の込んだ仕掛けがあって、これが本当に楽しめます。この部屋は写真撮影はOKだけど、動画撮影はNGということになっていますが、思わず動画を撮り始めて係員に注意されてしまう、という人が私が見ていた中でも何人かいました。動画を撮りたくなる気持ちがわかります。私は佇む場所を移動しながら、それぞれのところで何日分かの光の移動を体感しました。
さて、タブロー作品の展示について、少し物足りないものがあると感じたものの、個人的にはやはりマティスさんのそれらの作品が興味深かったです。
マティスさんは、画家としての空間把握に長けた人で、今回の展示作品では特に初期の静物作品に心地よい空間の広がりを感じました。そのマティスさんが、色彩の改革に取り組み、絵画の平面化へと突き進むのですが、その時に彼は豊かな空間表現との葛藤に悩むのです。
マティスさんは、1910年頃を中心に革新的な絵画作品を探究しましたが、それからあとは一見すると色彩豊かな、そして平面的なタブロー作品を盛んに制作しましたが、私はそれらの作品についてそれほどの興味を感じません。一時期の葛藤が解消されて、安心して眺められる作品になっているのですが、それが私には物足りないのです。
ただ、今回の展示では、その時期に描かれたと思われるドローイングが数多く展示されていましたが、その中で面白いものがありました。このドローイングも、平面的な表現を謳歌するものと、絵画の奥行きとの間で葛藤する作品に分かれるのですが、やはり後者の作品が興味深いのです。
例えばそのなかの一点は、裸婦を背中から描いたものですが、線を重ねて抽象化していく中で、女性の滑らかな体の線とそれに伴う周囲の空気の流れを同時に表現したような作品になっていました。このようなドローイング作品は、考えてみるとマティスさんのあとにも先にも見ることができません。マティスさんは若い頃に、おそらく触覚的な空間の把握の仕方をセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)さんの絵画から学んだと思うのですが、それがマティスさんの中で消化されて、独自ののびのびとした広がりのあるドローイングとして表現されたのでしょう。
こんな作品を見ると、私ももっとドローイングをやらなければ、と思ってしまいます。マティスさんのようにモデルを雇うお金はありませんが、風景を描いても似たようなことができるはずです。もしもうまく描けたら、次の個展で展示しますので、ご期待ください。
マティスさんは、晩年には「ヴァンスのロザリオ礼拝堂」に見られるように、建築や装飾、それに宗教的な内面表現などを含めた総合的な芸術表現へと向かいました。それはマティスさんほどのスケールの大きな芸術家でないとできないことですし、その素晴らしさは誰にでもわかるものです。しかし、私は今のところ、マティスさんが豊かな空間把握と絵画の平面性との間で引き裂かれていたことに興味があります。それはマティスさんが、自分を取り囲んでいた豊かな空間と、それと対立するような最新の絵画表現の方向性、つまり絵画の平面性の、両方の現実が同時に見えていたことによるものです。それらのどちらかでも見えていたなら、それだけで十分に偉大な画家になれたと思いますし、そういう画家は数多くいます。しかし、マティスさんはその両方が見えていたのです。
結果的にマティスさんは、ヒリヒリするような矛盾した現実と直面することになりました。私は、そういうふうに世界の現実と対峙し、そこで表現活動を展開した芸術家に興味があります。ただ単に美しい作品を作ることでは満足できず、もっと確からしい真実に触れずにはいられない、という芸術家たちです。
このことについては、ブランクーシさんとも共通することなので、最後に触れることにしましょう。
さて、もう一つの展覧会『ブランクーシ 本質を象る』を見てみましょう。
こちらも、展覧会の公式サイトから、その案内文を見てみます。
20世紀彫刻を代表する作家としてブランクーシの名は知られながらも、その彫刻作品を主体とする大規模な展覧会は、これまで日本の美術館で開催されておらず、本展が初めての機会にあたります。
アカデミックな写実性やロダンの影響をとどめた初期から、対象のフォルムをそのエッセンスへと還元させていく1910年代、そして、「鳥」に代表される主題の抽象化が進められる 1920年代以降の時期まで、彫刻家ブランクーシの歩みをうかがうことのできる充実した展観が実現します。
本展では、ブランクーシによる絵画作品や写真作品も紹介します。一貫して彫刻を創作の核に据えながらも、異なる手法でそれを相対化していく横断的なアプローチは、近代的なものといえます。他方、彫刻作品にみられる、素材の性質への鋭敏な意識は職人的といえるもので、こうした創作者としての多面性にも光が当てられます。
(『ブランクーシ 本質を象る』公式サイトより)
https://www.artizon.museum/exhibition_sp/brancusi/
ブランクーシさんは、現代彫刻家の中でも最も重要な芸術家だと思います。私にとって最も興味深い彫刻家は、アルベルト・ジャコメッティ(Alberto Giacometti、1901 - 1966)さんですが、ブランクーシさんはジャコメッティさんとは違った意味で素晴らしい彫刻家だと思います。
しかし、「その彫刻作品を主体とする大規模な展覧会は、これまで日本の美術館で開催されておらず、本展が初めての機会にあたります」というのは意外で、そう言われればそうだったかもしれません。私は、この展覧会で展示されていたブランクーシさんの撮影した写真を写真集として持っていますし、何かの折にブランクーシさんの作品を見る機会があれば、そのときは必ず注目してきました。ですから、今回の展覧会は、ブランクーシさんの作品を一同にみるという貴重な機会でありながら、どこか既視感もありました。私には「初めて」!という高揚感はありませんでしたが、もしも若い方でブランクーシさんをそれほど見ていないとしたら、今回の展覧会は必見です。欲を言えば、もう少し作品数が多いとよかったし、初期の具象的な作品も、もっと見たかったのですが、それは贅沢というものでしょう。ぜひこの機会を見逃さないようにしてください。
いろいろと書いてしまいましたが、今回の展示で特筆すべき点は、少し奥まった部屋にブランクーシさんのアトリエを彷彿とさせる展示があったことです。ブランクーシさんのアトリエは、高いところまで窓のある自然光が特徴だったようですが、その光もちゃんと模倣されていました。これはブランクーシさんの創造の現場に迫ろう!という企画者の意図が感じられるもので、その情熱に敬服しました。素晴らしいです!
さて、そのブランクーシさんという彫刻家ですが、一体どのような芸術家なのか、あらためて確認しておきましょう。公式サイトには、次のように紹介されています。
ルーマニアのホビツァに生まれる。ブカレスト国立美術学校に学んだ後、1904年にパリに出て、ロダンのアトリエに助手として招き入れられるも、短期間で離れ、独自に創作に取り組み始める。同時期に発見されたアフリカ彫刻などの非西欧圏の芸術に通じる、野性的な造形を特徴とするとともに、素材への鋭い感性に裏打ちされた洗練されたフォルムを追求。同時代および後続世代の芸術家に多大な影響を及ぼしたことで知られる。
(『ブランクーシ 本質を象る』公式サイトより)
文中のロダン(François-Auguste-René Rodin、1840 - 1917)さんは、言うまでもなく近代彫刻の最大の芸術家ですが、彼の影響を受けつつ、独自の創作に取り組んだこと、そしてアフリカ彫刻などにも注目したことを考えると、ブランクーシさんの歩みは、彼より少し年少だったピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)さんの歩みと共通するものがあります。
ピカソさんも、若い頃にパリに出て、印象派の芸術に影響を受けながらも独自の芸術であるキュビスムの作品を創作しました。そのキュビスムの創造の過程で、アフリカ彫刻などのプリミティブな美術を自らのうちに取り込んでいったのです。
そしてピカソさんのキュビスムも、ブランクーシさんの彫刻も、現実の形象を単純化し、その本質に迫ろうとしたところが、とてもよく似てます。これは偶然ではなく、彼らがモダニズムの時代に生きた芸術家であった証だと私は思います。モダニズムという時代は、あらゆる分野において、ものごとの構造を捉え、その核心部分を取り出し、それを他の分野でも応用する、ということが同時的に行われていたのです。そのモダニズムの考え方が、とくに科学や産業の分野で人間社会に大きな変革をもたらしたことは、言うまでもありません。ピカソさんもブランクーシさんも、その時代の精神を先鋭的に表現した芸術家だったのです。
ただし、ピカソさんがキュビスムの芸術を経たのちに、あたかも古典から現代までの西洋美術史を踏破し、それらを自由自在に表現したような作品を創作したのに対し、ブランクーシさんは終生、形象をシンプルにして、そのことによってものの本質に迫るという表現をやめませんでした。そのことが一層、ブランクーシさんを孤高の芸術家として近寄りがたいものにしていることは確かだと思います。ピカソさんに比べると、一見、ストイックな芸術家に見えるブランクーシさんですが、しかし私は、意外なことに彼を幸福な芸術家であると思ってきましたし、今回の展覧会でもその思いを強くしました。
そのことについて、少し書いておきます。
ブランクーシさんは、ものの形には本質的な核心のようなものがあって、それを彫刻によって表現できると考えた人だと思います。しかしそれは、一般的なモダニズムの芸術家のような要素還元主義的なものではありませんでした。例えば、彼が鳥の姿の本質を捉えようとする時には、その外見的な形象だけではなく、鳥が飛翔するということの本質、つまり飛翔のイメージの核心のようなものについて、彼は考えたのです。
その「飛翔」のイメージを表現するには、彫刻作品の物質的な形状だけでは不可能だったのでしょう。彼の彫刻は、通常の彫刻の物質感を超越するほどにピカピカでなければならなかったし、飛翔するイメージを表現するには作品を見上げるような位置に高く置く必要がありました。そして、その彫刻が置かれる台座も、彫刻を重力から解放するような、下から上へと突き上げるような仕掛けになっている必要があったのです。かくして彫刻の台座は上昇運動を継続するようなギザギザの形になり、それらが複雑に組み合わされるようになりました。
そして、もしもその作品を写真として記録するのなら、単に作品を正確に画像として記録するのでは物足りません。その写真は「飛翔」のイメージをまるごと画像として定着させなければならなかったのです。ブランクーシさんが自分の作品を自ら撮影したのは、そのためだったのです。彼の写真は、彫刻作品の客観的な情報には欠けているのかもしれませんが、彼の作品に対する解釈がよく読み取れるものとなっています。
このように、ブランクーシさんは自らの表現に一切の妥協を許さなかったのですが、このような芸術家の生き方は、苦しくて不幸なものだったのでしょうか?私はそう思わないのです。私は、ブランクーシさんがこのように芸術を追求することで、何か確かな現実の核心に触れているということを実感していたのではないか、と思います。そして、そのような実感を得ることは、芸術家にとって最大の幸福だったと思うのです。
今回の展覧会では、ブランクーシさんの制作する様子を映像で見ることができます。貧しい工場の親方のような風体のブランクーシさんが、素材をノコギリで切ったり、作品に囲まれたアトリエでそれらに触れてみたり、そんな姿が映されていました。それはいかにも充足した人のようでした。
最後に、ブランクーシさんの展覧会について、一言だけ注意をしておきます。展示されている作品には、ただ番号のついたキャプションが付されているだけで、タイトルや説明書きが何もありません。すっきりと作品を見るための工夫だと思いますが、会場内に置いてある解説文書を見ないと、とくにはじめてブランクーシさんの作品を見る方には、何が何やらよくわからないと思います。
例えば初期の彫刻作品に並んで、ロダンさんの作品が混じって置いてあるなど、ブランクーシさんの作品理解を助けるような他の人の作品がさり気なく展示されているのですが、美術に疎い方だとそれもブランクーシさんの作品だと思ってしまうかもしれません。一つ一つの作品を、文書と首っ引きで見る必要はありませんが、時折確認するとよいかもしれません。
さてさて、マティスさんとブランクーシさんと、モダニズムの時代を先駆的に駆け抜けた巨匠を並べてみると、当然のことながら共通するものがあります。それはブランクーシさんとピカソさんを比較してみたことと同じです。
しかし彼らは、モダニズムという時代に踊らされることなく、いま見ても、彼らがなにかの真実に触れようとしたことが実感できます。例えば彼らが形を単純化するときに、ただ単にフォルムを単純化するのではなくて、形の周囲に流れる空間や、そのものがもつイメージまでも含めて単純化しているのです。
モダニズムの時代は、そのような形の単純化を、例えば工業的な形状の単純化と同一視したようなミニマルな芸術を生み出しました。そのミニマルアートと呼ばれる作品群には良いものも美しいものもありますが、ときにマティスさんやブランクーシさんがその先駆者のように呼ばれることに、私は違和を感じます。
彼らが作品の創造過程で触れようとしたものの核心部分は、はたして「単純化」というような言葉で言い表していいものなのかどうか、今回の展示を見てますます疑問が深まりました。彼らはモダニズムの時代の巨匠ではありますが、彼ら一人ひとりはそれぞれ独自の真実に向かって邁進しました。いま、彼らの作品を顧みることは、その個別の試みに目を向けることにその意義があるのだと思います。単なる回顧であっては面白くありません。
今回の展示には、そういう意図が読み取れました。マティスさんのヴァンスの礼拝堂を大胆に展示化してみたり、ブランクーシさんのアトリエを彷彿とさせる部屋を作ったり、ということは先ほど書いたとおりです。彼らの創造の過程に迫ること、彼らの創造の現場を体感すること、これらのことが鑑賞の鍵になりそうです。
連休も、もう終わってしまいますが、これらの展覧会を見ることも忘れないでください。彼らの創造の過程に迫ることは、娯楽施設に行くことの数倍のスリルがありますし、郊外の自然の豊かさに抱かれることとは違った感動を私たちにもたらします。
人間の愚かさばかりが目立つ最近の世界情勢ですが、たまには人間の素晴らしさを堪能しませんか?私はマティスさんとブランクーシさんの作品から、芸術は人間を健全にするものだとあらためて確信しましたが、皆さんはどう感じることでしょうか?
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