平らな深み、緩やかな時間

194.「異化」について、さとう陽子、大江健三郎、ブレヒト

私は前回、美術家で詩も創作するさとう陽子さんの詩集『ペインとペイント』について、私の拙い解釈を書いてみました。さとうさんの詩作品からは視覚や触覚といった感覚の垣根を越えた「共通感覚」を見出すことができる、と書きました。これは彼女自身がそういう独特の感性の人だからで、彼女の美術作品にも共通している特徴だと思います。
そのblogを読んだ友人から、さとうさんの詩の特徴として私の指摘したこと以外にも、「イメージの衝突」という特徴が見られるのではないか、という指摘をもらいました。これは実に興味深い意見であり、さとうさんの制作の特徴を技法的な面からも解き明かすきっかけになるのではないか、と考えました。そこで今回は、そういうアプローチで少し掘り下げてみようと思います。
その友人の指摘は、具体的には次のようなものでした。さとうさんの詩とともに掲載してみます。

『無題』


世界の味は

傷のすっぱさ


(『ペインとペイント』さとう陽子)

友人は、この詩には「世界/傷」というイメージの衝突が見られるといいます。
あるいは次の例です。

『日曜の朝』


人気(ひとけ)ない公園は

眠る子どもたちの密度


(『ペインとペイント』さとう陽子)

こちらには「公園/子ども」というイメージの衝突が見られると言います。
この言葉の衝突が具体的にどのような効果をもたらすのか、ということは後で考察してみます。
ところで、こういう異なるイメージのぶつかり合いというと、シュルレアリスムの技法の一つ、デペイズマン (仏: Dépaysement)が思い浮かびます。日常から切り離した意外な組み合わせを行うことによって、受け手に強い衝撃を与える手法で文学や絵画で用いられた技法です。しかし、ここではその手法とは関係ありません。
ここで思い浮かぶのは、「異化(効果)」という技法です。
「異化効果」とはドイツの劇作家ブレヒト(Eugen Beht、1898 - 1956)が提唱したものだと言われています。そのブレヒトは、ロシア・フォルマリズムのシクロフスキー(1893 - 1984)の「異化」という概念からヒントを得たと言われています。そのことを、私は誰の著書から学んだのか、もう記憶がありません。とりあえず作家の大江健三郎が『新しい文学のために』(1988)という新書の中で、「異化」について言及していますので、それを見てみましょう。
その前にちょっとだけ、お断りというかお願いです。私は以前に『新しい文学のために』をこのblogで取り上げました。もしも今回の私の文章に興味を持っていただけたなら、こちらも参照してください。かなりくわしく『新しい文学のために』を紹介しています。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/138.html
今回は、さとうさんの詩の解釈において「異化」の手法を応用することをやってみたいので、「異化」そのものの説明は最小限におさえておきたいと思います。
それでは、次の部分をお読みください。

「異化」という言葉は、もともとロシア語「オストラニエーニエ」の訳語として作られた。革命前後のロシアの芸術の多様な分野は、世界にさきがける新しく生きいきした輝きを示した。その一環として、文学の科学に進展をもたらしたロシア・フォルマリズムのグループの用語である。この学者たちは、文学がーそれは新しく作られるもののみならず、伝承された民話や俚謡(りよう)も含む広さのものだがー、その表現している内容・思想よりも形式・かたちをつうじて研究されるべきものだと主張した。その態度に批判的な者たちから、決して賞め言葉のニュアンスではなしに、フォルマリストと呼ばれはじめたのである。
(『新しい文学のために』「3 基本的な手法としての<異化>(一)」大江健三郎)

ちょっとよけいな説明をしますが、フォルマリズム(フォーマリズム)とは、芸術における「フォーム(形式)」を重んじる考え方のことです。美術の世界では、アメリカの美術評論家グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)がフォーマリズムの代表的な存在として知られています。大江が言うようにフォルマリズムは「内容・思想よりも形式・かたちをつうじて研究」する立場だったことから、芸術の「形式」ばかりをつついていると批判されたのです。しかしグリーンバーグの例で言えば、作品の形式をみるということは、作品そのものをよく見るということでもあり、作品制作に関わる思想的な背景などを重視する批評よりも作品に寄り添っている、とも言えるのです。何もかも完璧な批評というものはありませんので、何かを重視すれば、何かを軽視することになります。私自身、いまはフォーマリズムを批判的に検証する立場ですが、このことを肝に銘じておかなければなりません。
そして大江によれば、ロシア・フォルマリストの代表的な理論家シクロフスキーが唱えたことは、私たちが日常的に使っている言葉は無意識に、あるいは反射的に発せられていて「自動化」してしまっている、ということです。
このような言葉の「自動化」は、例えば核戦争の恐怖さえ反射的な常套句で語るようになり、意識から消えてしまう、という大江らしい説明をしています。それに対して芸術の言葉は、意識から消えてしまった言葉を可視化すること、つまり「明視(化)すること」が目的なのだと大江は書いています。だからルポルタージュの言葉が情報を正確に伝達するために読みやすくてわかりやすい言葉を用いるのに対し、芸術の言葉は意図的に難渋な言葉を使って「能動的な行為を読み手に呼び起こす」のだと言っています。そして「異化」はそのための手法なのです。
大江は、はじめに現代ダンスを例にとって「異化」を説明しています。現代ダンスにしばしば見られる奇妙な体の使い方は、日常的な生活の中では見られないものです。私たちはそれを見て、人間の肉体の不思議さについてあらためて考えるのです。ふだんは自分の体の動きをあたりまえのものだと思っているので、ことさらに自分の体について意識することはありません。それが、現代ダンスを見ることで意識化されてくるのです。これが「異化効果」にあたるものです。
それでは言葉において「異化」はどのような方法でなされるのでしょうか。大江はそれを「それらの単語のひとつひとつが、洗いきよめられたように、言葉の持つ本来の意味をはっきりと示してくる、と感じられること」だと言います。大江はここで具体的に、『新しい文学のために』の前年に出版されて話題になっていた歌集『サラダ記念日』のタイトルについて解説しています。ちなみに作者の俵万智は、当時、神奈川の県立高校の教師でした。当然のことながら、私の職場でも話題になりました。
ちょっと脱線しました。大江の解説を見てみましょう。

さきの若く生きいきした言語感覚の短歌でいえば「サラダ」という言葉、「記念日」という言葉が、この歌をつうじていかに新しく洗いきよめられていることか。それには端的に「サラダ」プラス「記念日」という言葉のしくみが効果をあげている。加えて伝統に根ざす短歌そのものの呼吸が、効果を助長している。こうした仕方も、ひとつひとつの言葉を「異化」するやり方である。
(『新しい文学のために』「基本的な手法としての<異化>(ニ)大江健三郎)

この場合は、「サラダ」と「記念日」という言葉の意表をつく組み合わせが「異化」の効果のひとつめです。その組み合わせの語感の新鮮さ、美しさが効果のふたつめでしょう。さらにそれがどのような文脈、状況で使われたのか、例えば伝統的な短歌の世界で「サラダ記念日」というカタカナ文字を含んだ造語が使われたことが、三つめの効果としてあげられるでしょう。ただ、この三つ目の効果について言えば、俵万智の作品が話題になったことで、短歌というものが身近になったおかげで、もう「サラダ記念日」ぐらいでは「異化効果」はないのかもしれません。
このように「異化」という手法は言葉のひとつひとつから、文章全体、あるいは言葉や文章を取り巻く状況などまで含めて、広い範囲で効果をあげるものです。
しかし、そこまで読んだ上で、私は以前のblogで次のように書きました。

その「異化」という理論ですが、大江はその理論を「単純なほどの明快さで、しかも深く、それはどのように日常・実用の言葉が、文学表現の言葉とちがうのかを見る指標をあたえる」と書いていますが、私にはそのような便利なものだとは思えません。大江がこの本の中で書いている事例を読むと、なるほど、と理解はしますが、それでは自分が文学作品と向き合った時に、「異化」理論を応用して大江と同様の分析ができるのか、と言えばできないのです。優秀な人はしばしばこのような気軽な物言いをしますが、私のような凡人からするとそれは決して「単純」でも「明快」でもないので、その点は割り引いて読み込まなくてはなりません。

こんなことを書きましたが、今回は友人の助けを得て、さとうさんの詩の言葉を「異化」という観点から解釈してみましょう。
まず友人は、「世界/傷」というイメージの衝突について指摘しました。この点について考えてみましょう。
この詩には広大な「世界」と、小さな「傷」という言葉の広がりの差異があります。あるいは「世界」と「傷」という、異なる文脈が想定される言葉のぶつかり合い、ということも考えられます。いずれも異質な言葉が衝突しながらも、そこに味覚をあらわす言葉をさしはさむことで、独特の実感のある新たなイメージを作り出しています。さらに考えてみれば、世界の味が「すっぱい」という表現そのものが「異化効果」であり、それが新鮮で、かつリアルな感触を生んでいます。
次に「公園/子ども」というイメージの衝突についてです。
こちらも大きな「公園」と小さな「子ども」という大きさの差異があります。あるいは無機的な建造物である「公園」と、生命力の象徴である「子ども」というイメージの衝突があります。さらには「人気のない」という空白感と「密度」という言葉の衝突も重なって、詩全体が「異化効果」の積み上げでできているとも言えます。そのことによって、私たちはふだん何気なく見過ごしてしまう無人の公園に、新たなイメージや意味を見出すのです。

そして、このような解釈を試みた後で、さとう陽子さんの絵のことを思い出すと、作品のいろいろなところに「異化効果」を見出すことができます。
さとうさんの絵の特徴の一つにさまざまなイメージや技法が画面上に混在している、ということがあります。あるいは画面上だけでなく、ときに額縁にまで彩色を施し、額縁と画面との境界をも軽々と乗り越えて表現されています。それらは統一した手法でタブローを仕上げなくてはならない、という私たちの思い込みを「異化」するものでありますし、それぞれの手法のぶつかり合いが、画面上である種の覚醒をうながす効果を発揮しています。このことについては、もう少し説明しておきましょう。
例えばさとうさんは、ときにパステル・カラーと呼ばれるような甘美な色の組み合わせを大胆に使いますが、だからといってさとうさんの作品が甘ったるいものになることはありません。その背景に鉛筆の黒鉛によって描かれた模様があったり、厚塗りの絵の具やメディウムによって物質感が強調されたりして、絵画作品が心地よく消費されるだけのものではないことを、常に私たちに思い出させるのです。だからこそ、さとうさんの作品の美しさは私たちの心に刺さるのです。これは「異化効果」だと言って良いのだと思います。
私はこのような「異化効果」を、意識しないうちに使いこなしている人がいることを知っています。そういう人は、ただ単に美的な感覚が優れた人というだけでなく、本当に才能がある人だと思います。たぶん、さとうさんもその一人なのではないか、と私は思っています。そういう人には、「異化効果」に関する説明など不要でしょう。
しかし、「異化効果」を意識しないと使えない人、「異化」という手法について試行錯誤することで少しずつ作品を改善していくタイプの人もいます。私はまさにそのタイプの人間で、「異化効果」をかなり意識して作品を制作しています。それがうまくいく時といかない時とありますが、長い目で見れば改善に向かっていると思っています。

さて、最後に「異化」という言葉を広めたブレヒトについて、少しだけ書いておきましょう。劇作家であったブレヒトは、演劇において観衆が作中の人物に同化しすぎず、常に批判的に見ることができるように工夫したそうです。私はブレヒトの演劇を見たことがないので、偉そうなことは言えないのですが、そのブレヒトの手法は現代演劇において、すでに馴染みの方法になっているのではないか、と思います。深刻な舞台なのかと思いきや、コント的なお笑いがさしはさまれるという演劇をよく見ますが、これは観客を楽しませるためという面もありますが、演劇を客観的なものにする効果がある、つまり「異化効果」なのではないかと私は思っています。
そのブレヒトは詩も書きました。「動物詩」という作品のはじめの部分を見てみましょう。


むかし一羽のワシがいて
彼を悪くいうもの多かった
彼らは彼をひきずりおろし
池で泳ぐことできまいと
言って彼につめよった
そこでさっそくやってみたら
彼はやっぱり溺れちまった
(かくしてこの悪口はあたってた。)

むかし一羽のカラスがいた
こすっからいやっこさんさ
籠の中で歌うカナリアいわく
どうだいおまえさん
てんで芸術
わかっちゃいまい
むっとしてカラスのいわく
歌なんか歌えなかったら
おれみたいに自由だろうぜ。

(『ブレヒト詩集』「動物詩」ブレヒト作 長谷川四郎訳)

皮肉たっぷりな詩ですが、どの動物にも感情移入のできない「異化効果」を感じます。強くないワシ、嫌なやつだけど言うことに一理あるカラス、歌がうまくても不自由なカナリア、この後も同じような動物たちが続いて登場します。どうしてブレヒトはこんな詩を書いたのでしょうか。詩人の長田弘(1939 - 2015)は次のように解説しています。

ワシといったらいわば鳥の王様とされて、なんにでも秀でた鳥のはずですね。ところが、ブレヒトのワシはどんなワシかというと、どんなにえらい鳥だろうと池で泳ぐことはできまいといわれて、腹を立てて、さっそく池で泳いでみせるんだ。だけど、やっぱり溺れちゃうんです(笑)。
あたりまえの人びとのあたりまえの生きかたの持つ魅力をね、どんなものよりないがしろにしちゃいけない大切なものとして語って、自分はえらいんだみたいにしてね、人間が自分の背丈以上に自分をおおきく見せかけて生きることを嫌った。ブレヒトは、だから、人間のもつ身ぶりというものをとっても大事に考えたんです。
(『マイ・ブック』「ブレヒト詩集」長田弘ほか)

あるいは、「けむり」というブレヒトの詩があります。短くて、比較的素直に読める詩ですので、全編を書き写しておきます。

みずうみのほとり
木立のかげに小さな家
屋根から、けむりが立つ。
もしそれが立たないならば
なんとさびしいことだろう
家も、木立も、みずうみも

(『ブレヒト詩集』「けむり」ブレヒト作 長谷川四郎訳)

今の時代だと、煙といってもなかなか実感が湧きません。例えば夕暮れ時の家の明かりだと思っていただくと良いのかもしれません。暗くなって道を歩いていて、明かりの灯った家を見ると、どこかほっとします。現実には、どんな人たちが中で暮らしているのかわかりませんが、明かりを見ているこちらの気持ちは温かいものになるでしょう。しかし、もしも明かりのつかない家が並んでいたら寂しいのではないでしょうか。
長田弘は次のように解説しています。

屋根からけむりが立っているというのは、そこに人が暮らしているということですね。そこに人間がいて、あたりまえの人がいて、あたりまえの暮らしをいとなんでいる。それが世界をうつくしくしているという詩人の目がね、なんでもないごくごくあたりまえの風景を、明るい奥行きをもった風景にしている。そんなふうにあたりまえの世界のもつ平凡な気づかれないうつくしさにね。ハッと気づかせてくれる。そういう詩ですね。失っても奪われてもならないのは、そういうあたりまえのうつくしさをもった世界なんだ、とブレヒトはいってるんです。
(『マイ・ブック』「ブレヒト詩集」長田弘ほか)

この詩も、「けむりが立たない」家というイメージを喚起している点において、「異化効果」をあげている、という解釈も可能ですが、長田弘はそういう技法については語らず、ブレヒトがどういうふうに世界を見ていて、何を言いたかったのか、ということを平易な言葉で語っています。私は学生時代にこの長田弘の解説を読んで、『ブレヒト詩集』を探し出して買いました。大江のように技法から文学を解き明かすことも、長田弘のように平易な言葉で語ることも、両方とも大切だと私は思います。技法ばかりを問題にしていては、それが何のための技法なのか見失ってしまいますし、作者が何を語ろうとしたのかということばかりを考えていても、思考が前に進まないことがあります。いずれにしても、絵を見たり、詩を読んだりしたときの自分の感動に立ち戻ることが何より大切だと私は思っています。
ということで、二回にわたって違う観点からさとう陽子さんの詩を読んでみました。良い作品というのは、いろんな見方ができますね。私の絵もそうあってほしいです。
それから、長田弘はアメリカの歌についても本を書いていて、音楽の好みは私とは多少ずれているものの、その本を読むこと自体がとても楽しいものです。とにかく、文章が良いのです。もしも、アメリカのフォークソングやカントリー・ミュージックがお好きでしたら、絶対におすすめです。

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