東京、神宮前の「トキ・アートスペース」で「鳥居純子(Junko Torii)」展が今日(2022年8月21日)まで開催されています。いつものように週末に画廊を廻るので、ご紹介がこういうタイミングになってしまって申し訳ないです。もしもお出かけになることが可能な方がいらっしゃったら、時間と場所を確認してください。
http://tokiart.life.coocan.jp/2022/220816.html
展覧会のタイトルは「せめて色を汲む」です。「Artist's Comment」として次の言葉が添えられています。
色とは何か。
色とは表面なのか。色とは個性なのか。
今、世の中は色で溢れる。
色に迷う。色の洪水で目が眩む。
しかしその中に真実の色は潜む。
私はそれを、ひとつずつ大事に汲んでいく。
その色が、私を通して画面に染みた絵となり、
みなさまに何かを訴えかけると信じている。
(展覧会の「Artist's Comment」より)
もしもあなたが、私のblogを読んでくださっている方なら、この鳥居さんの考え方と私の「主観的な色彩」が似ていると思いませんか?色彩には、光学的な色彩学とは別に、人間の心理に働きかける何かがあります。しかし、それは色彩心理学に関するお手軽な本に出てくるような感情の誘発ではなくて、もっと根源的な何かです。ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749 - 1832)、ゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853 - 1890)、マティス(Henri Matisse, 1869 - 1954)、それから中西夏之(1935 - 2016)などを事例として、そのような「主観的な色彩」の系譜を挙げました。よかったら3本のblogがありますので、さかのぼって読んでみてください。
ただし、私のblogを読んだからといって、色彩の神秘がわかる訳ではありません。鳥居さんが書かれていますが「みなさまに何かを訴えかける」というところの「何か」については、私たち自身が感じ取らなくてはなりません。色彩はパソコンのディスプレイで見ても、大まかな程度にしかわかりません。ぜひ、鳥居さんの作品の実物を見に行ってみてください。
さて、ここで私はその色彩について云々するのではなくて、鳥居さんの作品の深化について考えてみたいと思います。とはいえ、鳥居さんの過去の作品の実物を見るわけにはいきません。先ほど書いたことと矛盾するようですが、鳥居さんの作品の系譜を辿ることができるギャラリーのホームページを探しましたので、まずは以下のリンクをご覧ください。
略歴
2008年 初個展「dialog」(ハートフィールドギャラリー/名古屋市)
2011年 個展 「油彩小品展」(月の庭/名古屋市)
https://tukinoniwa.jp/gallery/679
2016年 個展「koe」(トキ・アートスペース)
http://tokiart.life.coocan.jp/2016/161003.html
2018年個展「koeの行方」(トキ・アートスペース)
http://tokiart.life.coocan.jp/2018/181119.html
2019年個展「それでも想うこと」(ギャラリーラウラ/愛知県日進市)
http://www.gallerylaura.com/pastexhibition/1905torii.html
2020年個展「point of view / nymphの視点」(トキ アートスペース)
http://tokiart.life.coocan.jp/2020/201102.html
2021年 個展(ハートフィールドギャラリー/名古屋市)
http://www.heartfieldgallery.com/210401.html
そして現在の「トキ・アートスペース」のホームページとなります。トキさんのホームページは貴重な資料を提供していますね、さすがです。継続して、そして真剣に作家の作品と向き合うギャラリーが数少なくなってきました。こうして数年をさかのぼるだけでも、ギャラリーの姿勢がわかります。
話が横道にそれました。
鳥居さんの2011年の個展の作品から、ざっとした印象だけを拾ってみましょう。まず初期の作品からは、ヴィヴィッドな色彩感覚が目に入ります。そして並んで紹介されている小品二点ですが、たった2枚でほとんどすべての色が使われていることに気が付きます。画面構成も柔軟で、おおらかな点が好ましいです。何かを深く思考した作品ではありませんが、鳥居さんの豊かな資質を感じさせる作品です。
それが2016年の作品になると、何かの形象を彷彿とさせるものに変わってきます。キュレーターの山内舞子さんはモネ(Claude Monet, 1840 - 1926)やターナー(Joseph Mallord William Turner、1775 - 1851)の名前をあげていますね。「むしろターナー」と書いていますが、こんな感じでしょうか?
https://spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/collection/symphony/fukei/pt3_30.php
それが2018年の作品になると、描写が少し骨格的になります。うまく言えませんが、ペイント的な作品からドローイングを重視するような作品に変わったような気がします。色彩の自由度は相変わらずです。作家によっては、使いやすい色と使いにくい色が自然と作品に表れるのですが、鳥居さんにはそういう癖がないようです。
2019年以降は、今回の作品とかなり近くなります。ペイント的な鳥居さんと、ドローイング的な鳥居さんがうまく合わさって、作品によって、あるいは作品の部分によって自由に両方の鳥居さんが顔を出します。色使いは作品によって異なりますが、画面の当たり方には、共通したものがあります。
今回、鳥居さんにお伺いすると、鳥居さんは絵を平らに置いて描くそうです。アクリル絵の具を水で溶いて、布で拭いたり、押しつけたり、そんな痕跡が画面上からうかがい知れます。私の知っている著名な作家で、そういう描き方をする方に、松本陽子さんという作家がいます。彼女もアクリル絵の具を薄く水で溶いて、画面と対話しながら描いています。
http://www.hinogallery.com/matsumoto/
これらの作品の、ピンク色の作品がアクリル絵の具を使っていた頃の松本陽子さんの作品です。それが2000年を過ぎた頃からでしょうか、緑色の油絵の作品へと移行します。いずれも素晴らしい作品です。
しかしその一方で、松本陽子さんの作品には、はっきりとした傾向があって、それが彼女の作品の水準を押し上げていると同時に、彼女の絵画を規定しているような気がします。それはどういうことでしょうか?
アクリル絵画の頃の松本陽子さんは、先ほども書いたように、おおむねピンク色の作品が多かったようです。そのピンク系の色が、水っぽいアクリル絵の具を拭き取るときにキャンバスの地肌と相まって、独特の透明感のあるマチエールを作ります。彼女ののびやかな画面上での動きが、そのような色彩と作画方法の構造に支えられていて、その方法論が常に水準の高い作品を生むのです。アメリカのジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)が実現した「オール・オーヴァー」な隙のない画面と、その後のヘレン・フランケンサーラー(Helen Frankenthaler, 1928 - 2011)らのカラーフィールド・ペインティングなどの動向に対し、それらを総合した上で新たな方法論で挑んだのが、松本陽子さんでした。
https://www.artnews.com/feature/helen-frankenthaler-who-is-she-why-is-she-important-1234586555/
しかし、彼女の作画方法は密接に色彩とマチエールと連携しているために、同じ方法論で描いた場合には、どれも似たタイプの絵になってしまいます。そこで彼女は絵の具を油絵具に変えて、基調となる色彩も緑色に変えて新たな試みに挑みました。松本陽子さんほどの高名な作家が、このように大胆に手法を変えるというのは、勇気のいることだったのではないかと推察します。あるいは、私のような凡人の心配ごとは、才能のある作家には無用だったのかもしれません。
しかしここでも、彼女の色彩とマチエールは新たな油絵の手法に規定されているように見えます。高水準の作品を制作するための方程式のようなものを感じるのです。現代絵画にあっては、おおむねそのような方法論は肯定的に捉えられます。先日もblogで展覧会について書いたゲルハルト・リヒターさんは、まさにその方法論の人です。リヒターさんに比べると、松本陽子さんの作品の方が作家の息遣いを感受できるものだと私は考えますが、それでも作品のかなりの部分が制作の方法論に規定されて、制作前からすでに決まっているように見えるのです。
さて、私たちは、抽象表現主義、カラーフィールド・ペインティング、そして松本陽子さんやリヒターさんらの偉大な足跡に学びながら、私たち自身の絵画を探さなければなりません。偉大な足跡をなぞるだけでは意味がないのです。それでは、私たちはどうしたら良いのでしょうか?
このような理屈っぽい話を鳥居さんからお聞きしたわけではありませんが、それにも関わらず鳥居さんの言葉の端々から、そしてもちろん作品から、私たちが今を生きて表現していることの意味を彼女が表現していることをビシビシと感じました。
鳥居さんが真っ先に語ったことは、冒頭で紹介した色彩のことでした。彼女は色彩をできるだけ絞り込まず、さまざまな色を自由に使おうとしたのだそうです。これは、画面に統一感を持たせるためにはかなり厄介なことです。今回の展覧会の正面の壁の作品には、右から左へと大きな色彩の変化があります。それでも作品はバラつくこともなく、統一した表現として大きな力を持っていました。
それから作画上の技法として、何か決まった手法で描くのではなく、ペイント的な描き方とドローイング的な描き方が混在し、時に絵の具のにじみの偶然性を利用しつつ、作為的な描画も排除しない、ということを鳥居さんは自然体でやっているようでした。私が画面の一部を見て、これは偶然にできた形をあえて残したのですか?と聞くと、実はそれは後から描き足した部分だと言われました。
考えてみると、絵の具のシミやにじみなどの偶然性に依存した作品は、今ではそこら中にあります。その中には息も止まるほど美しい作品もあります。しかし私は、そのような偶然性は画家の新たな可能性を切り拓くものではなく、その表現の限界を規定するものとなっている、と考えています。偶然性の美しさに酔っているだけでは、表現は深化しないのです。リヒターならば、そんなこぎれいな作品ならばいとも簡単に作ってしまうでしょう。そこにはすでに新鮮なものはないのです。
画家が本当の新鮮さを求めるなら、偶然であれ、意図的であれ、常に画面上にハラハラするような緊張感を持たせなければなりません。描く前から決まっている方法論を、ただ画面上に実践するだけならば、その作品は描かれる前からほぼ規定されてしまっています。そういう規定を常に裏切ること、そのためならばどんな手法でも受け入れること、私はそんなことがこれからの絵画に必要だと思っています。
鳥居さんの作品には、その緊張感を感じます。ギャラリーに並んだ作品を見てみると、色や構成が似た作品がありません。一枚一枚の作品が、それぞれ真摯に対峙したものだからです。もちろん、画面の当たり方には共通したものがありますが、それ以外の要素はかなり自由に作られています。逆に言うと、画面へのあたり方がしっかりとしているならば、どんなに多彩な色を使っても、あるいは画面構成上の明暗のコントラストがはっきりとしていても、旧套的な画面構成に陥ることはありません。彼女は画面上に具体的な形をイメージすることはないそうです。だから画面に不必要な奥行きや立体感が存在しないのです。そして画面をまとめるようなアクセントになる明確な色や形もありません。それでいて、一点一点の作品に締まりがあるのは、そこに緊張感があるからでしょう。
このような彼女の作品ですが、これからどのように深化していくのか、興味深いところです。写真で彼女の作品の変遷を見ていくと、そこには平面としての絵画の強度が増しているように思います。キャリアを積むにつれて、画面への余計な思い込みが排除されていって、画面に触れる感性がよりヴィヴィッドになっているように感じられるのです。
それから、彼女が今回のテーマとして掲げた「真実の色」という言葉も気になります。かつて印象派が色彩を光学的に分析したときに、ゴッホやゴーギャンは色彩に科学的な知見とは別の意味を持たせようとしました。そしてセザンヌは、色彩を色価として捉え、画面上に明確な位置を持たせました。光の画家であったはずのモネも、最終的には表現主義的な色彩表現に到達したのです。その後、ボナールやマティスといった優れた画家がいたとはいえ、もしかしたら絵画における色彩表現は、印象派の後の時代ほどには深化していないのかもしれません。絵画制作における方法論があまりに劇的に変わってしまったために、色彩の問題はその方法論に付随するものになってしまったのです。リヒターさんや松本陽子さんなどの色彩に魅力のある画家たちであっても、それは例外ではありません。絵画における色彩の問題は、これからの私たちの探究に委ねられています。鳥居さんの作品は、その問題に対する重要な試みになりそうな予感がします。
最後になりますが、ちょっとだけ理屈っぽい話を書いておきます。こういう話が嫌いな方は読み飛ばしていただいても構いませんが、この内容を知っておくと鳥居さんの作品の価値が一層よくわかります。
私が、現代絵画を見て、その内容を検証するときに頭に浮かぶ批評がいくつかあります。その一つが藤枝 晃雄(ふじえだ てるお、1936 -2018)さんがポロックについて書いたものです。藤枝さんは現代絵画について評論を書いた日本の批評家の中で、もっとも読み応えのある文章を書いた人です。彼は主著『ジャクソン・ポロック』の中で、ポロックの代表作とも言われる『ブルー・ポールズ』について次のようなことを書いています。
「ブルー・ポールズ」は、一説によると、ポロックが成熟した絵画を描いた後、制作に行きづまりを感じ、再び酒におぼれ精神状態が不安定になったのを助けるため、トニー・スミスと(バーネット)ニューマンが手伝って描いたといわれている。制作はスミスとポロックによって着手された後、しばらく放置されていたが、ニューマンの参加によって再開されたとされている。
<中略>
また、(クレメント)グリーンバーグの、「二人はジャクソンをアトリエに引きずっていった。彼らはポロックが色彩によって再び制作するのを望んだ。バーニィ(ニューマン)がそれにたいして何かをしたかもしれないが、私はそこに居合わせたわけではないから知る由もない。しかし、ポロックは後になってそれを一変させたと話したことがある」という証言は、スミスとニューマンがどの程度まで関与したかはともかく、共同制作が行われたことをにおわしている。
グリーンバーグの証言のなかで重要なのは、スミスとニューマンが色彩による制作を期待していたということである。それは色彩を用いるにしても抑制的であったポロックが、当時はきわめて抑制的な白と黒の絵画を多く描いていたことと結びついている。しかるに「ブルー・ポールズ」は色彩を用いても抑制的であるどころか、三原色という生々しい色彩が使われている。そこにはすでに原色による色相の絵画を制作していたニューマンの教示があったのかもしれないが、「ブルー・ポールズ」の色彩はニューマンのそれとは異なり、色相を対照の誇示のために使用しているものであり、それがとりもなおさず赤い紙、青い柱のように線による対照のそれになっているし、そのため線は抽象的であるが指示的である。このようなことは、かつてのオールオーヴァの絵画ではなされえなかったことである。画面のなかでもとりわけ強烈な青い柱は、いま記したように指示的であるだけではなく、それなくしては画面を弛緩させてしまう役割をになっている。それはニューマンの線条(ジップ)とは違うし、柱から横に伸びる枝をともない方向性のある動勢によって画面をまとめる大規模なアクセントである。この作品がポロックの代表作と見なされるのは、原色による対照、動勢を持つアクセントなど素人受けする動的な要素が大画面と結合して、ヒロイックに感じられたからであろう。
(『ジャクソン・ポロック』「枠の設定」藤枝晃雄)
ジャクソン・ポロック《ブルー・ポールズ:ナンバー11, 1952》です。
ここには、いくつかの戒めの言葉が並んでいますね。
「色相を対照の誇示のために使用している」
「線は抽象的であるが指示的である」
「方向性のある動勢によって画面をまとめる大規模なアクセントである」
「原色による対照、動勢を持つアクセントなど素人受けする動的な要素が大画面と結合して、ヒロイックに感じられた」
これらの言葉は、私の中ではすでに感覚的に染み付いています。つまり、色を対象の誇示のために使ってはいけないし、線は指示的であってはならないし、画面をまとめるアクセントなどはもってのほか、ということです。これらの藤枝さんの戒めは、確かに安易な絵作りに繋がる要因でもあり、そういう意味で私の中では有効な戒めなのです。
そして今回の鳥居さんの作品を見ると、ほぼこれらの要素を克服しています。それも彼女は理屈っぽい言い方をせずに、感覚的にそうしているのです。例えば、彼女は彩度の高い色も画面上で使っていますが、それらは見た目が心地よい対照性を持たないように使われています。画面をまとめるようなアクセントは彼女の絵では避けられています。おそらく素人目にもわかりやすいようなアクセントを画面上に置くことなど、彼女は考えてもいないでしょうし、そんなことをやりたくもないのだと思います。
実はこれは理論上の問題ではありません。例えばわかりやすいアクセントでまとめられた絵は、長い時間眺めていると飽きてしまうのです。色相を対照の誇示のために使った作品の場合は、一瞥した時の見た目は心地良いのでしょうが、それ以上には深まっていきません。要するに藤枝さんの戒めは、つまらない絵を見分ける時の指標となるのです。
しかし、その一方で戒めが先行すると、絵を見ていても楽しくありません。こういう絵はだめ!というのではなく、見ていて飽きない、素晴らしい作品だと思ったら、なるほど、藤枝さんの指標にもかなっているなあ、という程度に受け止めるのが好ましいところです。
絵を描く側からすると、それはさらに深刻です。こう描いてはだめ!という感情が先行するようでは一筆も入れられなくなります。そうならないためには、戒めよりも自分が目指すべき高みを意識することが大切だと私は思います。例えば、鳥居さんにとってこれからの課題は「真実の色」をつかむことだとしたら、自然と藤枝さんの示した指標を超えていくことになるでしょう。
このように書くと、それでは批評は、あるいはこのblogのような面倒な文章は何の役に立つの?と思われますよね。そういう時に私が思い出すのが、持田季未子(1947 - 2018)さんの書いた『絵画の思考』という本です。この本では「序」の部分で、評論というのは画家が制作を通じて成し遂げた「絵画の思考」を、言葉として発するために書くのだ、という趣旨のことを言っています。それだけでも泣けてくるほどうれしくなります。そして例えば、ここで書いたような藤枝さんの批評のことを「フォーマリズム」批評というのですが、持田さんはその「フォーマリズム」を乗り越えるべきだ、と書いています。彼女はマーク・ロスコ(1903 - 1970)の絵画を取り上げて、次のように書いているのです。
ロスコの言明はフォーマリズム批評的な接近を拒否するかのようである。自分の芸術は色と形の関係ごときで語りつくせる幾何学図形じみたものではない、と言わんばかりのロスコの断固たる主張はその意味で重要である。私たちはグリーンバーグらによって60年代まで盛んになされたフォーマリズム批評をいつまでも踏襲するべきではないだろう。
(『絵画の思考』「雲のドラマーロスコ」持田季未子)
私はこの文章を何回も読み返して、その力をもらっています。
しかし断っておくと、「フォーマリズム批評をいつまでも踏襲するべきではない」という言葉は、フォーマリズム批評を知らなくてもよい、ということではありません。絵について文章を書く者なら、フォーマリズム批評を一度は学習するべきです。その上でそれにとらわれない批評を試みなくてはならないのです。アメリカの批評の世界では、明確にそのことがテーマになっています。日本ではどうでしょうか?
画家は感覚的にフォーマリズム的な絵画を学習し、心ある画家ならばその乗り越えを無意識のうちに試みます。私は鳥居さんの作品がフォーマリズム絵画の次の絵画を目指しているものだと感じました。そのことをはっきりと認識して彼女の絵の価値について語るならば、「フォーマリズム批評をいつまでも踏襲するべきではない」という持田さんの文章を理解できる程度までは、勉強しておくことが好ましいと思います。
鳥居さんの絵画が、見た目が似たように見える平凡な抽象絵画とはどこか違うな、と漠然と感じたなら、ちょっとだけ学習してみてください。