2月6日(月)から2月11日(土)まで、京橋のギャラリー檜で『dialogue vol.5 橘田尚之×稲 憲一郎』展が始まります。
(http://hinoki.main.jp/img2017-2/exhibition.html)
このblogで展覧会を取り上げる場合は、基本的に私が実際に見に行ったものについて書くことにしています。しかし今回は、ほんの数日ですが予告のようなものを書いてみたいと思います。
それにはふたつ理由があります。ひとつは、私の尊敬する二人の作家の展覧会なので、できるだけ多くの人にこの展覧会を見てもらいたい、ということ。もうひとつはこの展覧会は二人の作家のdialogue、つまり対話を冊子にしていて、この内容を紹介するだけでもblogとして十分に成立するだろう、と考えたことです。
今回はこの対談のことを中心に書きたいので、二人の作品に関する基本的な紹介は省略します。このblogでも何回か彼らについて書いていますが、それ以外に何か資料を参照したい場合は、次のギャラリー檜のホームページを見ていただくと、それぞれの作品写真や関連するテキストがご覧になれます。
(http://www.g-hinoki.com/artist.html)
また、橘田さんの作品については、すばらしい画集が出版されたばかりです。興味のある方はgallery21yo-jのホームページをご覧ください。現代美術に興味のある方には必携です。2,000円は安いと思います。
(http://gallery21yo-j.com/)
さて、展覧会の話に戻りましょう。
この二人の作家は旧知の間柄です。これまでもグループ展などで一緒に活動していますから、今回の展覧会がとりたててめずらしい企画というわけではありません。そして二人の作品は、立体と平面を並行して制作しているという点で共通するところがありますから、おそらく今回の展覧会で作品を並べてみても、目立って意表をつくような展示にはならないでしょう。しかし内容をよく見れば、新たな発見があるはずです。そんなことを予感させるものが、二人の対談の中にあります。
私が最も興味を持ったのは、二人の平面作品へのアプローチについて語った部分です。彼らが話している部分を引用してみましょう。それらを比べてみると、二人が対照的な表現をしていることがわかってきます。もちろん、これまでの作品を見てもそのことがわかるのですが、対談の中ではっきりと語られていることによって、さらに私たちに考える材料を提供してくれます。
まず、稲は自分の平面の成り立ちについて、次のように言っています。
稲 - キャンバスの一番下の層に描かれた部分と透明な2ミリ強の膜を挟んで上に描かれた部分とは、それぞれ全く違うものが層として重なっています。ちょうどパソコン画面上でレイヤーをかけていくようなかたちです。
また2ミリ強の膜がつくるほんの僅かな隙間によって、上に描かれたものと下に描かれたものは連続して見ることができない-上の像に焦点を当てると下は見えにくくなります。
そういった二つの層をめぐる視線の行き来の中に、今までとは違う絵画の空間を生み出すことが出来るのではないかと考えます。
(『dialogue vol.5 橘田尚之×稲 憲一郎』カタログより)
稲の作品は、写実的な描写の層の上に、抽象的なタッチの色の層が重なっている場合が多いのですが、その層の関係について、ここでは語られています。絵画の絵の具の層は、本来ならば見る者の視線を心地よく絡め取るために協調し合います。しかし、稲の作品ではそれがときに夾雑物となり、見る者の視線を戸惑わせます。その重なり方を、稲はコンピュータ・グラフィックのレイヤーに例えています。
それに対して橘田は次のように言います。
橘田 - 異なる二つのモノが厚いメデュームを挟んで重なっている-ここが稲さんの作品が今までの絵画と大きく違う点だと思いますが、私は出来るだけ重ならないようにしています(笑)。
稲 - それは作品を見ていて、よく分かります(笑)。
橘田 - 今のシリーズでは立体を平板にして二次元に入れるというものです。平面は厳密に言うと厚みがないので、ものは重ならないのではということです。
(『dialogue vol.5 橘田尚之×稲 憲一郎』カタログより)
この会話を聞くと、時代は少し前のことになりますが、ピカソとマチスという二人の巨匠のことを思い出します。印象派やとくにセザンヌの影響を受けながら、ピカソは絵画のなかに単純化された形体の重なりを見て、分析的なキュビズムの絵画へと発展していきました。一方のマチスは、遠近法を逸脱した画面の広がりを見て、平面化への道を進みました。稲と橘田の、絵画へのアプローチの差異は、わかりやすい比喩として言うと、ピカソとマチスのアプローチの差異のようなもの、と言えるのかもしれません。 もちろん私は、彼らがピカソやマチスに似ている、というのではありません。彼らはその歴史をふまえた上で、新しいアプローチを模索しているのです。
例えば彼らの立体作品は、いわゆる彫刻的な作品ではありません。彫刻特有の量感表現のない、オリジナルな形式の作品だと言ってよいでしょう。それはまるで、絵画の平面が隆起していったり、その一部が切り取られて自由に空間を浮遊していったりするような作品なのです。ですから彼らの絵画作品を見ると、私はその立体表現が平面へと回帰していったような印象を持つのです。そして絵画空間という不思議な磁場の中に置かれたとき、彼らの作品は立体の時とはまた違った輝きを放ちます。彼らが立体作品と平面作品を並行して制作しているのは、リテラルな性格の濃い立体作品と、イリュージョンの空間である平面作品の相違を自覚し、その狭間を旅することで新しい可能性を探っているのでしょう。今回の展覧会は、その二人の旅程の違いを浮き彫りにするものになる、と私は予想しています。そういうことが、この対談からうかがい知ることが出来るのです。
ここまで書いてきて、昨年、私がこの『dialogue』展のシリーズで稲と作品を展示したとき、稲が次のようなことを言っていたことを思い出しました。「ただ単に、二人の作品を見比べるような展覧会になってしまってはつまらない・・・。二人の作品がそれぞれに見えてきて、そのことによって相乗的に見えてくるものがなければ・・・」というような趣旨のことです。前回の展覧会がそうなっていたのかどうかはわかりませんが、今回はおそらくそのように見えてくるはずです。
以上のこととは別に、個々の表現としてもこの対談からいろいろな発見があります。例えば、私の発見したことを書き留めておきます。それは、次の橘田の言葉です。
橘田 - 私は正面を重視して立体を作ります。いくつかの不定形なパーツを組み合わせていくのですが、正面と同時に裏側も一緒に作られてしまうのです。つまり裏側は自分の意図とは関係なく自動的にできるのです。出来上がった裏側は、自分の知らない自分が作ったようで落ち着きません。このことをどう解釈して受け入れるか考えていかなければならない問題です。
(『dialogue vol.5 橘田尚之×稲 憲一郎』カタログより)
私も橘田の作品を見るときに、その正面性を意識していました。しかし彼の作品は、裏から見てもよくできているのです。さらに私は、下からのぞき込んでみたり、背伸びして見てみたりするのですが、それぞれに面白く見えるところがあります。それで私は、「きっと橘田さんは、いろんな角度から作品を検討し、熟考の末に形を決めて、制作しているに違いない」と勝手に思いこんでいました。ですから、この言葉はなかなか興味深い。ほんとうに、「裏側は自分の意図とは関係なく自動的にできる」のだとしたら、それはどう考えたらよいのでしょう?
まだ、始まっていない展覧会について、あれこれ書きすぎたでしょうか?展覧会が楽しみではありますが、実はその週はたいへんに忙しくなりそうです。仕事の隙間を見つけて、いつ見に行ったものか、いまから思案しているところです。
ところで、遅くなりましたが、これが2017年の年頭の文章になります。そこで自分のことも少し書いておきます。
昨年、東京の国立近代美術館でセザンヌの花の絵を見ました。その絵を自分で模写してみたいと思い、水彩画にしてみました。できれば、ただの模写ではなくて、自分なりの見方を加えたかったのですが、なかなかうまくいきません。その作品は、年末のギャラリー檜の小品展に出したのですが、どうも納得いかず、さらに何枚か、水彩画を試しています。これを機会に、現在、セザンヌを見るということはどういうことなのか、もう少しはっきりと確認したいと思っています。躓いたことがよい経験になって、予想外の成果が得られればよいのですが、それは少し虫がよすぎるかもしれませんね。とにかく、しばらくは試みの日々が続きそうです。
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