平らな深み、緩やかな時間

76.セザンヌについて読むこと、語ること

※この文章は、来週からの私の個展(4月10日~15日/ギャラリー檜)に寄せて書いたものです。長いblogになってしまいましたが、展覧会に来ていただいた方には、プリントしたものをお渡しする予定です。(http://hinoki.main.jp/access.html



東京国立近代美術館に、セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)の静物画があります。
「ポール・セザンヌ《大きな花束》1892-95年頃」
http://www.momat.go.jp/am/exhibition/permanent20170218/#section1-2
この作品を私が初めて見たのは、現代美術家のトーマス・ルフ(Thomas Ruff, 1958 - )の展覧会を見に行ったときのことです。そのとき、私は次のようなことを、このblogで書いています。

ルフの大胆なコンセプトによる作品群を見ると、これだけ写真という概念を自由に広げることが出来るなら、例えばそこに絵画表現との差異は存在するのだろうか、とふと疑問に思いました。ある面では、それらの差異を考えることに、もうたいした意味がなくなっている、というふうに思いました。写真だろうが絵画だろうが、視覚的な表現方法として個々の作家が自分にしっくりとするやり方を選べばよい、ということが言えるでしょう。その一方で、トーマス・ルフはやはり写真家だな、と思わせる面もあります。それは彼が「画像」という出発点から、つねに発想している点からそう思うのです。うまく説明するのは難しいのですが、それと対照的な表現をしているのが、今回、近代美術館の所蔵作品展の中で展示されていたセザンヌの静物画です。セザンヌが写真のような既成の画像から出発していないのはもちろんですが、おそらく彼の中には完成した絵のイメージすらないでしょう。彼は目の前にあるモチーフが空間の中で占める位置を、ひとつひとつ確認するように筆を置いていくのです。その確認する行為、過程が重要なのであって、それが画像としてどこまで完成するものなのか、彼自身にもやってみなくてはわからないことでしょう。ルフの場合は、自分で撮影するにしろ、すでに存在する画像を収集するにしろ、あくまでも「画像」から出発するのです。一方のセザンヌは、「画像」という概念を持たずにそれを構築する行為から出発します。そこには表現者として大きな違いがあります。
(2016年9月)

 このセザンヌの静物画を見たとき、このような作品が日本の美術館に所蔵されていることがうれしくて、模写のようなことをしてみよう、と思いつきました。本格的な模写は無理でも、小さな水彩画に置き換えてみるくらいのことは、プリントアウトした画像を見ながらでもできるでしょう。そのことも、前回のblogに書きました。

昨年、東京の国立近代美術館でセザンヌの花の絵を見ました。その絵を自分で模写してみたいと思い、水彩画にしてみました。できれば、ただの模写ではなくて、自分なりの見方を加えたかったのですが、なかなかうまくいきません。その作品は、年末のギャラリー檜の小品展に出したのですが、どうも納得いかず、さらに何枚か、水彩画を試しています。これを機会に、現在、セザンヌを見るということはどういうことなのか、もう少しはっきりと確認したいと思っています。躓いたことがよい経験になって、予想外の成果が得られればよいのですが、それは少し虫がよすぎるのかもしれませんね。とにかく、しばらくは試みの日々が続きそうです。
(2017年2月)

 さて、そのセザンヌの絵の模写らしきことを始めてみると、予想通り一筋縄ではいきません。試しに花瓶が置かれているテーブルの線を引いてみましょう。これが湾曲していて、なかなかテーブルらしい真っ直ぐな線になりません。それに奥に行くほど広がっていってしまって、逆遠近法のように形が歪んでしまいます。そして一番手前の角は布に覆われていて、どこまでがテーブルの台面なのかわかりません。このようなセザンヌの特異な構図について、詳しく解説した本に『セザンヌの構図』(アール・ローラン著、 内田 園生訳)があります。例えばセザンヌのテーブルの歪みについて、次のような説明があります。

 ・・・上記の2点より更に重要な問題は、机の歪がセザンヌの構図に与える空間の要素と緊張関係の要素とであろう。これらの歪は、しばしば非常に極端なので、机の表面に実際に断層があるように見えるくらいである。・・・この静物画の中では、机の表面の向側の輪郭が水差によって分断されているが、その両側の間の変化が余り甚だしいので、あたかもこれらの両面の高さが異なっているかのように、その両面の間に空間的緊張関係が生じている。
(『セザンヌの構図』アール・ローラン著、 内田 園生訳 p148より)

 この『セザンヌの構図』の初版が出たのが1943年のことです。セザンヌが亡くなったのが1906年ですから、死後40年が経たないうちに、このような詳細な研究書が出版されたわけです。この本は、セザンヌの絵の構造を、その構図の作り方から徹底的に解き明かそうとした本です。セザンヌの絵については、日本語に翻訳されているものだけでも読み切れないほどの評論がありますが、この本はセザンヌの絵の外見、形式から論じたものの極端な例、ということになるのでしょう。しかしローランは、セザンヌの絵を技法的に解き明かすことだけでは、セザンヌの絵の魅力の全てを語り尽くすことはできない、と考えています。

 しかし、このような構図の要素の厳存のみが究極的意味における芸術的重要性を決定するのであるなどと教えるのは、将来性のない現代的アカデミー作家たちのみであろう。美術は幸いにして、もう少し神秘的なものである。私は、セザンヌに見出されるような構図の問題は、あらゆる種類の美術教育の初歩的基礎となるべきであると高唱したいのである。
(『セザンヌの構図』アール・ローラン著、 内田 園生訳 p206より)

 「美術は幸いにして、もう少し神秘的なもの」という一節が、気になるところです。こう書いたアール・ローランは、いったいどういう人だったのでしょうか。
アール・ローラン(Erle Loran, 1905 - 1999)ですが、ミネアポリス生まれ、と本の末尾に書いてあります。さらに読み進めると、ミネアポリス美術学校を卒業して22歳から24歳までエクス・アン・プロヴァンスのセザンヌの画室で制作したのだそうです。この本を出版したのはその10年後ぐらいですね。ちなみにインターネットで調べてみると、ローランは抒情的な抽象画から風景画まで、さまざまにスタイルを変えた画家で、抽象表現主義の画家たちに影響を与えたハンス・ホフマン(Hans Hofmann 1881-1966)ともつながりがあったようです。ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock, 1912 - 1956)が少し年下にあたり、バーネット・ニューマン(Barnett Newman、1905 - 1970)が同い年です。そしてこの本が出版された頃は、おそらく抽象表現主義が美術界を席巻する少し前ということになります。
と、ここまで書いて、ローランについて手際よくまとめられた日本語の文章を見つけました。『美術手帖』(1999年10月号)で「新セザンヌ解剖学」という特集が組まれたのですが、そのなかに『セザンヌ in アメリカ/川田都樹子』という論文があります。現代アメリカ美術におけるセザンヌの影響、あるいは受容について書かれた文章ですが、その末尾にローランの『セザンヌの構図』についての言及があるのです。この論文によれば、ホフマンとローランはバークレーのカリフォルニア大学で一緒に教鞭を執っていたようです。ちなみに抽象表現主義の流れをくむサム・フランシス(Sam Francis, 1923 - 1994)は「1948年から50年にカリフォルニア大学でローランの指導を受けたからこそフランスに渡った」のだそうです。彼の絵に特徴的な青が登場するのは、「大学卒業後、1951年と翌年の夏にセザンヌの生まれ故郷、エクス=アン=プロヴァンスを訪れている」頃からだとのことです。セザンヌ、ローラン、サム・フランシスと意外なところで現代美術につながっていますね。
さて、現在に生きる私たちは、セザンヌが絵の構図に科学的な遠近法とは異なる工夫を凝らした、という事実を基礎知識としつつ、ローランが書いた絵の「神秘的なもの」について、もっと具体的な言葉で追究しなければならないでしょう。

 それでは、セザンヌについて書かれた評論は現在どのような状況にあり、その中でこの『セザンヌの構図』は、どのような評価を受けているのでしょうか。さきの『美術手帖』(1999年10月号)で、浅野春男(1950- )が『造形から無意識へ-セザンヌ論の系譜』という論文を寄せています。これはセザンヌが生前から現在まで、どのように論じられてきたのかを分かりやすくまとめた文章です。海外でのセザンヌ研究など知るよしもなく、日本語で書かれた、あるいは翻訳された文章でさえ、目を通すことがおぼつかない私のような素人には、とてもよいガイドとなる論文です。『セザンヌの構図』についてはこう書かれています。

 アール・ローランの『セザンヌの構図』(美術出版社)になると、まるで立体模型の分解図のようにして、セザンヌの造形性が図示され、造形至上主義は行き着くところまでいったという感慨を抱く。
(『美術手帖』1999年10月号「造形から無意識へ-セザンヌ論の系譜」p90-91)

 浅野春男のこの「造形至上主義は行き着くところまでいったという感慨」の裏には、基本的に次のようなセザンヌ解釈に対する考え方があります。

 セザンヌによって開拓された新しい造形の世界が20世紀の芸術の展開に大きな影響を与えたとする見方は、教科書のなかの記述のように、私たちに親しいものとなっている。近代的な造形とはなにか、それを知りたければセザンヌを勉強しなさい。ピカソもマティスも皆セザンヌから学んだ。彼こそが近代絵画の父なのである、と。
 しかし、セザンヌ没後百年になろうとしている今日、南仏の画家をめぐる言説は大きく変化し、ほとんど逆転してしまったかのようにも思われる。モダニズムにかかわる状況もすっかり変化し、現在、セザンヌやピカソから造形の基本を学ぼうなどと時代錯誤的なことを考える若者はいないのかもしれない。もしもセザンヌをひとつの起点として展開されたモダニズムがすでに崩壊しているのだとしたら、いまセザンヌを観ることにどんな意味があるのだろうか。
(『美術手帖』1999年10月号「造形から無意識へ-セザンヌ論の系譜」p89)

 この文章を読むと、いまさらセザンヌの静物画の模写などやっている私は、まさに「時代錯誤的」でしかない、ということになります。しかし、すでに「若者」ではないので、少しは弁解の余地があるのかもしれません。とはいえ、「近代絵画の父」としてセザンヌの造形性をただ礼賛するのでは、まさに時代遅れのモダニストと思われても仕方のないことになります。このような考え方をふまえた上で、いまセザンヌから何を学ぼうとしているのか、言葉にすることを迫られているのだと思います。
そのことを問う前に、浅野が書いている「南仏の画家をめぐる言説は大きく変化し、ほとんど逆転してしまった」というのはどういうことなのか、が気になります。この論文に、さらに目を向けてみましょう。

 形式主義への学問的な反省は、もっとも早い時期のものとしては、クルト・バットの著書にみられたが、かなり難解で文学的ともいえるバットのセザンヌ論は孤立したものであった。具体的で説得力のある仕方で、形式主義が批判されることになったのは、メイヤー・シャピロの論文である。シャピロが1968年に発表した『セザンヌのリンゴ』は、セザンヌの造形の奥に非常に複雑で繊細な精神の律動が隠されていることを、ほかの研究者にはなし難い博識をもって論じる画期的な論文であった。「りんご」は古典文学や画家の生涯に関連した意義をもつ性愛の形態と解される。純粋造形の神話は大胆にも打ち破られ、セザンヌの絵画は周到な読解の対象となる。
 シャピロの論文以後、精神分析的な方法を用いた研究が行われるようになる。とくにシオドア・レフの諸論考は、抑制のきいた論理展開と鋭い指摘をもち、セザンヌの精神の内部に分け入っていく姿勢を示すものである。
(『美術手帖』1999年10月号「造形から無意識へ-セザンヌ論の系譜」p92)

 このように、精神分析的な方法まで用いてセザンヌの内面に分け入っていく研究は、浅野自身が翻訳したシドニー・ガイストの『セザンヌ解釈』に至ってフロイト(Sigmund Freud, 1856 – 1939)を援用するだけではなく、「心霊現象的芸術学とか真面目な冗談とか呼ぶしかないような側面がある」(『セザンヌとその時代』浅野春男著p122)というところに達しています。
なぜ、このようなセザンヌ解釈が、学問的に隆盛となっているのでしょうか。私のような「時代錯誤」な人間からすると不思議な感じがします。私の考えでは、例えば私たちが「セザンヌの『水浴図』がすばらしい」と言うとき、なぜセザンヌが「屋外での大人数での裸の人物群」という特殊な題材に執拗に興味を示し、表現を続けたのか、という疑問に目をつぶっている側面があります。人体の造形的な魅力に惹かれた、とか、風景の中に裸体を配する西洋絵画の伝統にのっとったもの、とか、セザンヌ自身の子どもの頃の水遊びの記憶によるもの、とか、いろいろと言われているようですが、動機としていまひとつ決定的なものではないような気がします。それからセザンヌの絵画のモチーフには、殺人や女性の強奪など、穏やかでない内容のものがしばしば登場します。それを古典主義からロマン主義時代の絵画の影響、といって片付けるには、少々無理がありそうです。セザンヌという表現者の内面には、精神分析的な側面からみて興味深い何かが潜んでいる、ということは確かなことでしょう。それを「そんなことはセザンヌの作品の良し悪しとは関係ない」と割り切ってしまうのは、「造形至上主義」的な、あるいは要素還元主義的な、つまりモダニズムによる偏狭な解釈だ、ということになるのです。モダニズムが盛んであった頃には顧みられなかったセザンヌの内面への分析が、モダニズム以降、セザンヌの研究者によって意欲的に進められている、というのが現在の状況でしょう。浅野の論文に戻ると、彼はこう結んでいます。

セザンヌは新しい造形をつくり出す近代芸術の旗手であったのと同時に、その造形の底に個人の無意識の欲望を秘め隠す精神的な芸術家でもあった。それが、この一世紀のセザンヌ論がゆくりなく示している画家の姿である。セザンヌの絵画が画家の精神を抜きにして成立するものでないこと、純粋造形の神話で祭り上げることはできないこと、この単純な事実を学ぶのに私たちはずいぶんと時間をかけてしまった。セザンヌの絵画に自律性を読み取ったリルケ(Rainer Maria Rilke, 1875 - 1926)がまちがっていたわけではない。しかし彼がそこに「究極の客観性」をみたのはやはり行き過ぎであった。セザンヌは同時代の画家たちと較べるならば、絵画の自律性ないし抽象性に向かう傾向が強かったことは明らかである。だが、彼の絵画は個人的な問題や地域的な土着性を隠していた。私たちはセザンヌの芸術と彼の隠された心との関係をどう考えればよいのだろうか。
(『美術手帖』1999年10月号「造形から無意識へ-セザンヌ論の系譜」p92)

 浅野が書いていることは、セザンヌ研究の方向性として理解できます。でもその一方で、例えばセザンヌが静物画のモチーフとして描いたりんごが、「性愛の形態と解される」と言われても、私自身のセザンヌの絵の見方は変わりません。確かにセザンヌのモチーフの選び方には、そういう側面があるのだろうと思いつつも、私がセザンヌの静物画を見るときには、やはりりんごの配置や造形性に目が向くのです。
それからもうひとつ重要なことは、浅野が論文のはじめのところで書いている「もしもセザンヌをひとつの起点として展開されたモダニズムがすでに崩壊しているのだとしたら」という前提です。例えば現代絵画を考えるときに、セザンヌからキュビズム、フォービズム、さらには抽象絵画や抽象表現主義を経て、完全な平面であるミニマル・アートへと至った、という筋道を想起してみましょう。ミニマル・アートの絵画の工業製品のような平面性を思うと、モダニズムの絵画は行き着くところまで行ってしまった、という感慨もわからないではありません。しかし、これは以前から私が書いてきたことですが、現代絵画のこの展開はあまりにも性急で、そのために一面的なものだったのではないか、という疑いがあるのです。美術史上にひとつの動向が生じると、それに呼応して新たな動向が生じ、その連続運動が商業主義とも連動して、どんどん加速していったのが20世紀の絵画だと思います。この運動のさなかにあって、しばし立ち止まってその動向の一つ一つの意味合いを吟味することは難しいことです。しかしセザンヌの造形性への探究がモダニズムによって限界に達し、あるいは「崩壊」し、その試みが「時代錯誤」であるとは言うのは言い過ぎでしょう。セザンヌの芸術に対して、精神分析的な内面性から新しい光を当てることも必要だとは思います。それと同時に、セザンヌの造形性への探究も、もっと深めていくことが可能だと思うのです。

その「造形性への探究」の、可能性の一つとして私が考えていることは、浅野も書いているセザンヌの「絵画の自律性ないし抽象性」という問題です。私がセザンヌの模写をしていて、つくづく惑い、考えてしまうことは、この「自律性ないし抽象性」に関連することなのです。浅野が言うように「セザンヌは同時代の画家たちと較べるならば、絵画の自律性ないし抽象性に向かう傾向が強かった」ことは、まぎれもない事実です。その一方で、セザンヌ自身が完全な抽象絵画に至るということはありませんでした。それはセザンヌの生きた時代がそこまで至っていなかった、ということだけではないと思います。セザンヌの芸術は、現実のモチーフを描くことと、強く結びついているのです。セザンヌの静物画のテーブルの形が科学的な遠近法ではあり得ない変形を被っていたとしても、それはテーブルである、という必然性があったのです。
この点について、美術史家の若桑みどり(1935-2007)は次のような興味深い文章を書いています。そして、セザンヌの芸術の成果を大胆に評価しています。

網膜に映ずる自然の世界を造形の語彙として使用するこの太古の造形言語がもはや無意味になったことは感じていても、まだ新しい言語は見あたらない、セザンヌの苦悩はただその一言につきている。それは数千年以上伝承された自然世界とその語彙が無効となったというかつてない絵画の危機の苦悩そのものである。絵画の存在理由をどこに求めるのか。純粋形態による純粋表現に行くか。自然形態の変形による情念の激発に発露を求めるか。いずれにせよ、絵画は「騙し絵」であることをやめ、したがって騙しのテクニックとしての三次元表現をやめ、明暗・立体・質感の克明な技術をやめ、物体の正確な素描をやめる方向に向かった。絵画の独自性、絵画が絵画であるその本性、それは第一に「ペイントすること」である。二次元の支持体の上に「塗る」ことである。セザンヌのタッチは彼が塗っていることを示している。これは新しい造形語法であった。カンヴァス上の空白、これも革命的な語法である。騙しではなく、画家が白地の上に塗っていることを宣言しているからだ。したがって、描かれたものはすべて画家の世界に属するものであって外の世界に属するものではないことが明らかになった。
だがセザンヌは外の世界なかんずく「自然」を棄てることは出来なかった。自然は彼にとって非常に重要で本質的なものに思われていた。 -<中略>- 世界は脱物質化・脱実態化され、画面はそれ自体となる。堅牢で実態的なこの自然を面前にして、その実態性を破壊し、脱現実化する苦悩の制作が続く。目の前の自然を葬り去ることはできなかった。彼はそれにあまりに結びついていたからだ。その呪縛はあまりに強かった。だがまたその呪縛を破壊し、自分にとっての純粋な自然を再創造することを彼は激しく望んだ。彼自身の手になる自然の再創造。プロメテウスのような苦闘。それは結局壮大な失敗ではなかったか。白状すればその失敗の跡は無条件に美しい。
(『ユリイカ』1996年9月号「破壊者としてのセザンヌ」p52-53)

 長い引用で申し訳ありません。しかしさすがに若桑みどりだけあって、モダニズム絵画の課題を一気に凝縮したような文章です。ちなみにプロメテウスとは、ギリシャ神話に登場する男神です。人類に火をもたらしたことでゼウスの怒りを買い、山頂にはりつけられて、生きながらにして鷲に肝臓をついばまれるという責め苦を負った気の毒な神様です。そのプロメテウスにセザンヌが例えられているのです。それは絵画がもはや「描かれたものはすべて画家の世界に属するものであって外の世界に属するものではないことが明らかになった」にもかかわらず、セザンヌは「世界なかんずく『自然』を棄てることは出来なかった」から、ということでしょう。セザンヌの営みは「結局壮大な失敗ではなかったか」というのが、若桑みどりの結論です。
しかし、ここでも私は次のような疑問を持ってしまいます。「描かれたものはすべて画家の世界に属するものであって外の世界に属するものではないことが明らかになった」と若桑みどりは書いていますが、それは本当のことでしょうか。そんなふうにモダニズムの絵画は、きっぱりとそれ以前の絵画を切り捨てて進んできたのでしょうか。ある意味では、そうだと思います。「画家の世界」だけを追究した、すばらしい作品が数多く作られてきたことを私は否定しません。しかし私は、「外の世界なかんずく『自然』を棄てることは出来なかった」というセザンヌの態度がきわめて重要だと思います。ここでもやはり、セザンヌの絵画の「自律性ないし抽象性」が問題となります。セザンヌは、絵画が「自然」から切り離された、自律した表現でありうると気づいていながら、その手前で不毛な試みを続けた芸術家だったのか・・・、私はそうは考えません。セザンヌは「自然」と対峙する中で絵画の自律性に気づき、その「自然」と向き合う自分の姿勢を表現するために、「自然」をたんに描写するだけではない自律した表現をもつ絵画を求めたのです。

 この「外の世界なかんずく『自然』を棄てることは出来なかった」というセザンヌの態度について考えるとき、フランスの哲学者モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)がセザンヌについて書いたことを思い出します。ここでポンティの哲学について、あるいはフッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859 - 1938)から影響を受けた「現象学」について説明することは、私の任ではありません。それでも、次のようなポンティの言葉を読むと、セザンヌという芸術家の存在した意味を、これほど深く読み取った哲学者がいたという事実に愕然としてしまいます。

 ところで芸術、とりわけ絵画は、〔科学的思考の〕あの活動主義〔=操作主義〕がおよそ知ろうとは望まないこの<生な意味>の層から、すべてを汲みとるのだ。
(『眼と精神』モーリス・メルロー=ポンティ著、滝浦静雄・木田元訳)

 セザンヌが描こうとしていた「世界の瞬間」、それはずっと以前に過ぎ去ったものではあるが、彼の画布はわれわれにこの瞬間を投げかけ続けている。そして彼のサント・ヴィクトワールの嶺は、世界のどこにでも現れ、繰り返し現れて来よう。エクスに聳える固い岩陵とは違ったふうに、だがそれに劣らず力強く、本質と実存・想像と実在・見えるものと見えないもの、絵画はそういったすべてのカテゴリーをかきまぜ、肉体をそなえた本質、作用因的類似性、無言の意味から成るその夢の世界を繰り広げるのである。
(『眼と精神』モーリス・メルロー=ポンティ著、滝浦静雄・木田元訳)

 これらのポンティが書いたことに対し、私なりの理解を述べるなら、次のようになります。
私たちは日常、何気なくものを見て、私たちのまわりの世界を把握しながら生きています。そして、そのうちのあるものに対しては科学的な操作を加え、自分たちの生活に役立てているのです。そんな日常を重ねていくうちに、私たちは周囲のものを深く理解し、場合によってはそれらを支配したような気持ちになってしまいます。しかし、そうして見ている世界は、私たちにとって都合よく解釈された世界だとは言えないでしょうか。私たちは知らないうちに、周囲の世界に色眼鏡をかけて見てしまっているのです。それでは、その色眼鏡をはずして「生な」世界を見るにはどうしたらよいのでしょうか。現象学の開祖であるフッサールは、そのためには日常的な判断を一旦停止しなければならない、ということを言っています。このような態度を「エポケー」と言うのだそうです。何だか仙人の問答のようで、私のような凡人には何のことだがよくわかりませんが、そこでポンティが持ち出した事例が画家の視覚、とりわけセザンヌが表現した絵の世界なのです。ポンティが書いている「<生な意味>の層」というのは、あらゆる先入観を廃して見えてくる「生な」世界の層、という意味です。その層の中で見えてくる視界は、例えば生まれたての赤ん坊が見る初めての世界、もののひとつひとつに余計な意味が付与されていない新鮮な世界、というものです。そのように世界が見えることを、生まれたての「世界の瞬間」だと言うのです。
それならば、私たちの誰もが生まれたての頃に「世界の瞬間」を見ているはずですから、何も特筆すべき事ではないような気がします。しかし、私たちはそんな世界のことは物心ついた頃に忘れてしまって、自分にとって都合のよい色眼鏡を何重にもかけて生きているのです。セザンヌの素晴らしいところは、そんな「世界の瞬間」を画布の上に描き出し、定着してみせたところです。それは永遠の「世界の瞬間」であり、「彼の画布はわれわれにこの瞬間を投げかけ続けて」いるのです。ブリヂストン美術館にある『サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』(1904-06頃)は、まさにポンティの書いている実感にぴったりと当てはまる絵です。ポンティのセザンヌ解釈は、自分の哲学にセザンヌを引き寄せすぎている、とも言われますが、たとえそうだとしても、それはそれで構わない、と私は思います。こんな素晴らしい文章が、そのおかげで読めるわけですから・・・・。
しかし、ひとつ不満を言えば、ポンティの文章をいくら拾い読みしても、どのようにしてセザンヌが「世界の瞬間」を画布に描くことが出来たのか、そこのところがよくわからないのです。ポンティは哲学者であって、美術評論家ではありません。批評的な作品の掘り下げや解説には、それほど興味がなかったのかもしれません。それでは、セザンヌはどのようにして「世界の瞬間」を表現できたのでしょうか。

 ここで思い出されるのは、1983年6月から9月の『美術手帖』の誌上で松浦寿夫によって翻訳された、ローレンス・ガーウィング(Lawrence Gowing 1918 – 1991)の『組織化された感覚の論理(The Logic of Organized Sensations)』という論文です。これは1977年にニューヨーク近代美術館で開催された『セザンヌ 晩年の作品(Cezanne  The Late Work)』という展覧会のカタログに掲載された文章です。この論文のタイトル『組織化された感覚の論理』は、ガーウィング自身が引用しているセザンヌの言葉からとられたものです。

 絵画のふたつの側面は分かちがたく結びついていて、ともども同じくらい彼の心を引きつけていた。ベルナールが記録した「持論」の五番めで、セザンヌは「画家にとってふたつのものが存在します。つまり眼と脳髄であって、これらふたつのものは互いに助けあわねばならず、相互の展開に努めねばなりません。眼に対しては自然を見ることによって、脳髄に対しては表現手段を与えてくれる組織された感覚の論理によって」と告げている。
(『美術手帖』1983年7月号「組織化された感覚の論理」 p171)

 この「組織された感覚の論理」ですが、分かりにくい、単純に考えると矛盾した言葉の組み合わせです。私たちが「感覚」的に何かをした、というとき、それは「論理」的にものごとを考えないで何かをしてしまったことを意味します。この「感覚」と「論理」という一見、矛盾した言葉の組み合わせが、実はセザンヌの絵画にぴったりの表現なのです。若桑みどりが書いていたように、セザンヌは外の「自然」とつながりながら、「絵画の独自性」を追求した画家です。「眼」で見た「自然」をそのまま模写するのではなく、それを自律した絵画表現にまで結実させたわけですが、そのためには、眼が感受した「自然」を自分の中で秩序立てて、ある理(ことわり)のもとに表現しなければなりません。それを可能にした自己の内面的な仕組みについて、セザンヌは「組織された感覚の論理」という言葉で言い表したのです。
 それでは、その「組織された感覚の論理」による表現とは、具体的にどのようなものなのでしょうか。ガーウィングはそのセザンヌの手法を、丹念に追いかけて記述しています。

 (18)80年代末期の油彩による風景画の場合、色彩の変動は一見したところ無定形のような広い範囲にわたって自在になされ、表現の媒介物として立ち現れていた。関連した色彩の変換は、相互に対比しあうような傾向の一群の筆致に示されているが、識別しえるような対象を何ら指示することなく離散したタッチを形づくり始め、ときには色彩の変化による渦巻くような暴風状態(ブリザード)にまで達することがあり、それが手当たり次第のようにも見える色彩の差異化のむらのない一様な層を残すようになった。
(『組織化された感覚の論理』美術手帖1983年6月号 p215)

 次の十年間(1890年代)に展開された方法はよりいっそう、体系的であると同時に孤立したものであった。順序に従って互いに重なるようにおかれた絵具が面(プラン)の変化を暗示する力をそなえているという、自らの発想をセザンヌが追求したのは、油彩画よりむしろ水彩画においてであって、それは水彩画の持つ物質的な本質の含意のゆえである。色彩の連鎖はつねにスペクトルの順序に従い、それに沿って規則的な間隔のもとにおかれるのだが、絶頂点にむかってせり上がってゆく。その点を越えると、90年代の水彩画の場合のように、反対の順序で色彩の連鎖が反復されていたが、それは旋律の反響と表面の連続した湾曲の感覚を与えた。
(『美術手帖』1983年7月号「組織化された感覚の論理」 p166)

 セザンヌは晩年に近づくほど、セザンヌ特有の筆致の連続が顕著になってきます。この筆致の連続を、ガーウィングは精密な言葉に置き換えようとしています。この筆致の連続によって、セザンヌの絵画は奥行きをもちながらも平面的な、自律した独特の空間を形成していくのですから、ガーウィングの論考はセザンヌの表現の核心に迫るものだと言えるでしょう。少なくとも、私は学生時代にこの文章を読んでそう感じて、この論文を読むためにだけに4か月分の『美術手帖』を購入したのです。
この『組織化された感覚の論理』について、浅野春男も次のように評価しています。

 セザンヌの絵画に最初の精密な構図の分析を加えたのはロジャー・フライ(Roger Eliot Fry, 1866 - 1934)だとされるが、フライの論考にも形式主義の欠陥があらわれており、セザンヌの初期作品や暴力的な絵画が論じられることもなかった。フライはセザンヌの絵画の構築的な世界を指して「絵画的建築」と呼んだ。しかし、そこには形式主義へと硬化していく危険が潜んでいた。通俗的なセザンヌ理解は、20世紀の抽象芸術の隆盛とともに、こうした造形重視の方向に進んでいく。けれどもセザンヌが視覚の現象に即してどれほど精緻な創作を試みていたかは、たとえばローレンス・ガーウィングの『組織化された感覚の論理』によく示されている。
(『美術手帖』1999年10月号「造形から無意識へ-セザンヌ論の系譜」p91)

 浅野はロジャー・フライから始まる形式主義、造形重視の流れの中でガーウィングの論文を紹介しています。先にも見たように、浅野はこの流れについて否定的な見解を持っていますが、ガーウィングに関しては、そのこまやかな分析力のせいでしょうか、一目置いているように読めます。セザンヌが「視覚の現象に即して」行った、「精緻な創作」を丹念に読み取ることは、安易な形式主義とは一線を画した試みだということなのでしょう。『組織化された感覚の論理』は、このようにさまざまな評者から高く評価された論文ですが、その一方で気になることがあります。例えば「色彩の連鎖はつねにスペクトルの順序に従い、それに沿って規則的な間隔のもとにおかれる」という一節です。晩年のセザンヌの筆致からは、確かに規則的なパターンが読み取れますが、それは「スペクトルの順序」に従っている、というところまで几帳面で科学的なものなのでしょうか。
この点について、さらに詳細な分析を試みた論文があります。『ユリイカ』2012年4月号の「セザンヌにはどう視えているか」という特集に掲載された、平倉圭(1977- )の『多重周期構造 セザンヌのクラスター・ストローク』という論文です。そのなかでガーウィングの論文について、次のように書かれています。

絵画が世界から閉鎖されているとはつまり、絵画が自律的な構造をもつことを意味する。ローレンス・ガーウィングはその高名な論文、「組織化された感覚の論理」において、セザンヌの絵画を組織する自律的な「論理」を、周期的に変化する色彩のスペクトルに見出した。セザンヌの色彩は、事物の固有色と明確な関係をもたない。つまり世界から一度切断されている。しかし世界から独立したその色彩は、スペクトルの順序に従う周期的な「変調(モデュラシオン)」において、視覚に様々な投射角で与えられる事物の立体性を論理的に「翻訳」し、同時に「感覚」の内在的秩序を「実現」する。それが「感覚の論理」である。 ―中略― しかしこのガウィングが見出した「感覚の論理」は、セザンヌの絵画に完全には当てはまらないことが知られている。とくに油彩画に当てはまらない。なぜならそこで色彩は、必ずしも順序だったスペクトル構造を示さず、またその色彩は事物の固有色から完全に切れているわけでもないからだ。ガウィングは行きすぎたのか?つまりガウィングは、絵画を論理化しすぎたのだろうか?いくらかはそうだ。だがガウィングのこの論文は、現在でも啓発的であり続けている。私は次のように考える。ガウィングはむしろ、「感覚の論理」を十分に捉えきれていなかったのではないだろうか?
(『ユリイカ』2012年4月号「多重周期構造 セザンヌのクラスター・ストローク」p133)

 この問いかけの後で、平倉は1875年から1880年代前半のセザンヌの絵画に見られる「煉瓦状の(筆致の)ストローク」を「構築的ストローク」とする一方で、1895年以降の「複数の小ストロークが、まとまりをなすクラスター(房、群れ)へと組織されている」筆致を「クラスター・ストローク」として区別しています。そのうえで先に触れたブリヂストン美術館の『サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール』(1904年)を、ガーウィングの手法にそって分析してみせます。すると「『クラスター・ストローク』は重なり合う複数の周期構造を構成している」ことがわかり、それを次のようにまとめています。

 ガウィングの「組織化された感覚の論理」の問題はおそらく、色彩スペクトルの反復という単一の周期構造しか見なかったことにある。後期セザンヌの絵画には、少なくとも五つの周期構造が重ねられており、しかもその振幅と分布は同じではない。私の視線はそこで、複数の周波数のずれと干渉に巻き込まれる。それは空間的かつ時間的な断層の経験だ。
(『ユリイカ』2012年4月号「多重周期構造 セザンヌのクラスター・ストローク」p137)

 平倉の詳細な分析に、こちらの理解がなかなかついていきませんが、つまるところ、セザンヌの絵画は複雑で、かつ自律した構造をもっている、という私たちも確認してきた結論に至ります。しかし自律した構造を持っている、ということは外界の「自然」と、セザンヌの絵画の世界は切り離されていることを示しているわけで、ということは、セザンヌの絵画は抽象的な絵画と同じ方向を示しながら、そこまで至らなかった失敗になるのか、という疑いが再び浮上してきます。平倉はそれを次のように解釈します。

 後期セザンヌの風景画は、世界の記録ではない。絵画は世界に対して閉鎖されている。にもかかわらずセザンヌが、これこそが「感覚」なのだ、ここに「感覚」が「実現」されているのだと言う時、そこでは次のことが意味されていると考えることができる。デコードされる(decode=暗号化されたデータをもどすこと)べきは描かれた諸々の対象の形姿や運動ではない。デコードされなければならないのは、むしろ私たちのこの身体である。私たちの身体は、自然史において、進化的に特定の仕方でエンコードされている(encode=データを圧縮・暗号化すること)。ガウィングが見ようとしたのは、この特定の仕方でエンコードされた「感覚」の秩序である。
(『ユリイカ』2012年4月号「多重周期構造 セザンヌのクラスター・ストローク」p139)

 なかなか難しい解釈です。平たく言ってしまえば、セザンヌの絵画は抽象的な絵画ではありませんが、かといって自然を記録したり、再現したりしているのでもない、ということです。そういう意味では、一般的な具象絵画とは、まったく異なる構造をもっていると言えるでしょう。セザンヌの絵画は、自律した構造をもっているにもかかわらず、そこに自然を見た時の「感覚」が「実現」されているのです。その「実現」を可能にしているのが、セザンヌ独特の連続した筆致です。筆致にはさまざまな連続パターンがあり、それらを組み合わせることでセザンヌは自然と接したときと同じような視覚の振幅を、私たちの中に引き起こすのです。セザンヌの絵画を見る体験は、そこに自然の再現を見るのではなくて、自然が私たちにもたらす「感覚」を、私たちの中に呼び醒ますのです。平倉はその「感覚」の体験を記述することで論文を結んでいます。

 世界から閉鎖されたはずの絵画が、その始まりも終わりもない震動の永遠性において、世界の永遠性に平行する。画面に目を走らせるたびに組み替えられ、更新される永遠が、私の他なる身体を貫いて震動する。私は絵画の中で左を向く。すなわち新しき永遠だ・・・!絵画の中で右を向く。すなわち新しき永遠だ・・・。
(『ユリイカ』2012年4月号「多重周期構造 セザンヌのクラスター・ストローク」p140)

 セザンヌの絵画がもたらす「感覚」を文章化しようとすると、「・・・!」というような表記を使いたくなる・・・!、その気持ちは、私にもよくわかります。これはポンティが「彼のサント・ヴィクトワールの嶺は、世界のどこにでも現れ、繰り返し現れて来よう」と熱く書いたことと共通する感情でしょう。

ところで、このように詳細に分析されたセザンヌの筆致がもたらす「感覚」ですが、私はそれが純粋に視覚的な、つまり筆致の形状や色彩、そのパターンの組み合わせだけで成立しているものではない、と考えています。どういう事かと言えば、例えばセザンヌの筆致が私たちに想起させるストロークの「行為」性や、その「行為」が喚起する「時間」性など、さらにさまざまな要素があるのだろう、と考えているのです。私のように絵を描いている立場から見ると、セザンヌの絵からその「行為」性を感じ取ることはごく自然なことです。私自身、若い頃にそのように感じて、1995年に『絵画表現における重層性について』という論文を書いています。この文章で私は、晩年のセザンヌの筆致ばかりではなく、初期の作品の絵具の重なりにおいてもセザンヌの「行為」性、その「行為」にともなう「時間」性が表現としてあらわれている、という分析から論を進めています。興味のある方は、次のホームページから閲覧できますので、ご覧いただければ幸いです。
http://ishimura.html.xdomain.jp/text/text.html
意外なことに、セザンヌの絵画の「行為」性や「時間」性について書かれた興味深い文章に出会うことは、あまり多くありません。その中で松浦寿夫の書いた『感覚のパニック状態』(『美術手帖』1999年10月号)で書かれている次の文章は、とても面白いです。

 この分析の細部で、グリーンバーグは、画面の統一性を欠くとして、セザンヌの1870年代、80年代の作品群を不完全なものとみなし、これらの作品では、個々の部分には感情があるが、「瞬間的な全体として自らを投げ出すような感情がほとんどない」と書いている。いわば瞬間的に提示される画面の全体的な統一性の形成に、ひとつひとつの部分が、あるいはひとつひとつの感覚が貢献していないと語っているかのようだ。だが、それは、グリーンバーグがア・プリオリに射影幕としての画面の平面性を無条件に前提としているからにすぎないからではないだろうか。むしろ、「この断片は継続的に出現する全体性であり」、そこではひとつひとつの筆触は「ひとつの即時的な全体を構成する」と、「絵画におけるアクションの概念」のローゼンバーグとともにかたるべきではないだろうか。なぜならば、「小さな感覚」に対応するひとつの筆触が、セザンヌにおいては、つねにすでに、ひとつの全体であり、平面であり、したがって、一枚のタブローとは自然の持続性に対応するかのように、持続性という幅のなかに多層化された複数の全体であり、複数の平面であるからだ。そして、このような多層性の広がりこそが、まさに、深さと呼ばれるものではなかっただろうか。
(『美術手帖』1999年10月号「感覚のパニック状態」p88)

 この短い論文の結論において、松浦寿夫はモダニズムの絵画を平面性へと導いたグリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)のフォーマリズムに対し、ローゼンバーグ(Harold Rosenberg, 1906 – 1978)の「絵画におけるアクションの概念」を提示しているところが、とても興味深いと思います。ローゼンバーグはポロックやデ・クーニング(Willem de Kooning, 1904 - 1997)らの絵画から、「アクション・ペインティング」という概念を提唱した批評家として有名ですが、日本ではほとんど忘れられているような気がします。実は私も、ローゼンバーグの本を読んだことがないので大きなことは言えません。それはともかくとして、ここで示されている筆触の多層性、深さといった概念がとても重要です。フォーマリズムの考え方では理解しにくい、セザンヌの絵画の余白に関する問題や、一見未完成に見える作品の美しさについて、新たな光を当ててくれる概念だと考えられるからです。
この点については、後日さらに探究してみたいと思います。

だいぶ話が長くなってしまったので、最後に簡単に、セザンヌに関する解釈で興味深い本に触れておきたいと思います。
例えばセザンヌの絵画の「時間」性について、ジョナサン・クレーリー(Jonathan Crary)というアメリカの美術史家が、『知覚の宙吊り』という本の中で、おもしろいことを書いています。セザンヌの生きた年代が映画の黎明期にも重なることに注目し、カメラの自由な視点の動きとセザンヌの絵画における視点の移動とを比べて、セザンヌの視点移動はそれほど特別なことではない、と言うのです。私のこのblogでも2012年12月31日の日付でこの『知覚の宙吊り』について書いているので、よかったらご覧ください。
http://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/8.html
 それから、ここで紹介した本や私の文章が理屈っぽくて退屈だと感じた方には、音楽評論家として有名な吉田秀和(1913 - 2012)の書いた『セザンヌ物語』、あるいは、もう古書でしか手に入らないようですが『セザンヌは何を描いたか』が、お薦めです。文章が美しく、読んでいて楽しい本です。吉田は丹念にセザンヌの絵を読み解きますが、そこから抽象的な議論へと飛躍しすぎることはありません。つねにセザンヌの絵画に寄り添うように文章を紡いでいます。美術批評として読むならば、そこに限界があるのかもしれませんが、美術評論家の書いた頭の痛くなるような文章を読むと、吉田秀和の文章を読みたくなります。
 そしてほんとうの最後に、昨年末になくなった中西夏之(1935 - 2016年)の書いたとびきり美しい文章を引用しておきたいと思います。この文章は『大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』という本の、『空白からのドラマ』というエッセイの抜粋です。中西は1983年の『コートルド・コレクション』展のカタログの、絵の素材に関する説明を読んで感想を書き留めています。

 この材料とその使用の順序の分析、記載に大変なドラマを感じた。どうしてこのように薄い鉛筆から予備的に始め、濃い鉛筆に換えてゆくのだろうか。ゴッホの葦ペンによるドローイングなどは、即興的に一気に描かれたように見えるが、「硬い鉛筆と軟らかい鉛筆による広範囲にわたる予備の素描」があると記されている。その上、定規を使った線もあると云う。この記載に共通している予備的素描とは、注意深く、石橋をたたくようにして、強い表現に向かう下準備、と考えられやすいが、一寸違うのではないだろうか。あくまでも画面の新鮮さの発見、新鮮な驚きを経験し、それを維持するために各種材料の積層がある。各層各層に於ける新鮮さの発見。それは描く以前に戻る行為に思える。もとの何も描かれない素地に還元してゆくように思える。
 私達は開始から始める。ある時は開始が終わりである時もある。しかし開始を始めるとは、ふたたびそれを乗り越えることだ。
 又セザンヌが、最初に体験する画布(又は紙)の空白は、私達が体験するものと同じである。開始の空白はすべての画家にとって平等である。そこに神秘はない。
(『大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』「空白からのドラマ」p129)

 この中西の短い文章の中に、セザンヌの筆致、余白、描く行為や時間などの意味が、凝縮されているように思います。「各層各層に於ける新鮮さの発見」があるがゆえに、一見未完成に見えるセザンヌの絵画は美しく見えるのでしょうし、余白と見える空白も、その重要な一つの「層」になっているのだと思います。画家の描く行為のひとつひとつ、筆致の重なりのひとつひとつが「新鮮さの発見」のためにある・・・、それをわかりやすく言えば、描く以前の真っ白な画布に向かったときの、ドキドキする気持ちをつねに持ち続ける、ということではないでしょうか。考えてみると、中西夏之という画家の作品もこの「新鮮さの発見」を実践していました。「ならば私はどうするか。セザンヌの方法は採らない。」と中西は別なところ(『大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』「尾形光琳」p85)で書いています。中西の個性的な絵画が、現代絵画といわれるものの中でもとくに普遍的に見えるのは、このように絵画の根源的なところをつねに見ていたからではないでしょうか。

そして私は、もう少しセザンヌの方法について知りたいと思っています。それは一人の画家について探究することばかりではなくて、絵画そのものについて探究することでもあるからです。なぜ、セザンヌについてこれほど多くのことが語られているのか、それはセザンヌの絵画が、絵画の構造をもっともあらわにしているからだと私は思います。
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