平らな深み、緩やかな時間

251.フォーマリズム批評とフライ『セザンヌ論』

美術批評に「フォーマリズム」という言葉があります。このblogでも何度か出てきた言葉ですが、その正確な意味はどのようなものでしょうか?

インターネット上の「現代美術用語辞典 アートスケープ」によると、次のような説明があります。

 

フォーマリズム

Formalism

作品の形式的諸要素(線、形態、色彩など)を重視する美学的な方法のこと。美術作品独自の物質的な条件に関わり、その視覚的特性へと偏向することで、他ジャンルからの弁別と美術作品の史的展開の自律性・連続性がしばしば強調される。古くはK・フィードラーの純粋可視性の議論やH・ヴェルフリンらの美術様式論、ブルームズベリー・グループのC・ベルとR・フライの批評理論などがあり、ニューヨーク近代美術館の館長を務めたアルフレッド・バーJr.の自律的な抽象芸術の系統的・発展史的理解やC・グリーンバーグによるメディウムの純化と戦後アメリカ美術の擁護、M・フリードのメディウム・スペシフィックな議論などが登場し、美術史のみならず、現代美術の批評と実作の双方にも大きな影響力を及ぼした。

(「現代美術用語辞典 アートスケープ」より)

 

ちょっと難しい説明ですね。文章のはじめの部分の「形式的諸要素」という言葉が何となく実感の乏しい気がするのです。なぜでしょうか?

そこには「形式」という言葉が持つネガティブなイメージが引っかかるからだろう、と思うのです。そこで「形式」という、わかりきった言葉ですが、念のためにその意味を辞書で調べてみましょう。

 

けい‐しき【形式】 の解説

1 物事が存在するときに表に現れている形。外形。⇔実質。

2 物事を行うときの一定のやり方。事務上の手続き、儀礼的な交際などについていう。「―にのっとる」「―を踏む」

3 形だけで実質の伴わないこと。おざなり。「―だけのあいさつ」「―にとらわれる」

4 芸術作品で主題・思想を表すために、作品を構成する諸要素を配置・配合する一定の手法。

5 哲学で、事物や事象の成立・発現のしかたやその構造、またそれらの関係などを抽象したもの。⇔内容。

[用法]形式・[用法]様式―「文書の形式(様式)を統一する」などでは相通じて用いられる。◇「形式」は定まったやり方の意で、「形式にのっとって行う」などと用いる。また、形だけで内容を伴わないことを「形式に流れる」「形式的なあいさつ」などともいう。

(出典:デジタル大辞泉/小学館)

 

「形式」という言葉には、「表に現れている形」、「外形」などの意味があって、それが英語の「Form」の訳語として使われているのだろうと思います。ところが日本語の「形式」には「実質」(1を参照)や「内容」(5を参照)と対立する意味があって、その言葉の響きの中に「実質や内容をともなわない」という意図を感じてしまいます。辞書の説明の中にも「形だけで内容を伴わないこと」を、「形式に流れる」などということが書いてあります。

これが「形式主義」という言い方になると、まさに物事の上っ面だけを論じて、内実に踏み込まないような考え方のことを指す場合が多く、上の辞書の「4」のようにあえて作品の「様式」や「形式」を論じる場合を除けば、「形式主義」は否定的な意味を持つ言葉として認識されてしまうのです。だから美術批評では、「Fomalism」を「形式主義」というふうに翻訳せずに、そのまま「フォーマリズム」としてカタカナ表記をする場合が多いのだと思います。

 

それでは英語の「フォーマリズム」とはどのようなものでしょうか?

それは、はじめに引用した「現代美術用語辞典」にあるように、「作品の形式的諸要素(線、形態、色彩など)を重視する美学的な方法のこと」なのですが、これがなかなか難しいのです。私たちはこれを読む時に、先ほど確認したようにネガティブな日本語の意味を排除して、虚心坦懐に「形式的諸要素」=「線、形態、色彩など」(を見ること)であることを、確認しなくてはなりません。例えば一枚の絵を見たときに、画面上に描かれた線や形、色などを批評することが、「フォーマリズム」の方法論なのだと、ちゃんと理解する必要があるのです。

 

しかし、そう言われると逆に「絵を批評するのに画面上の形や色を論じるのは、当たり前じゃない?」という疑問が生じます。つまり、一枚の絵を前にしてそこに描かれた形や色を論じないで批評することなどできるものでしょうか?そういう素朴な疑問です。画面上の形や色を見て批評するのがフォーマリズムの方法ならば、あえて「フォーマリズム」などと言わなくてもよさそうなものです。

ところが、必ずしも画面上の色や形を重視しない批評の方法が、実はいろいろとあるのです。例えば「美とは何か」を考えて、目の前の絵が自分の考えと一致するのかどうかを論じる(美学的な批評)方法とか、あるいはその絵が美術史上でどのような位置にあるのかを考える(美術史的な批評)方法とか、さらにはその絵に描かれたものがどのような意味を持つのかを考察する(図像学的な批評)方法とか、いろいろな批評のやり方があるのです。それらはそれぞれに学問的な意義のある批評の方法なのですが、しかし蛸壺的な環境でそんな批評の方法について勉強してしまうと、下手をすると目の前にある一枚の絵を見ても、下調べをしないと何も言えない、なんてことになってしまうのです。

「フォーマリズム」批評には、そういうふうに実際の作品から批評の言葉が離れていってしまうことへのアンチ・テーゼがあります。わかりやすく言えば「もっと、ちゃんと作品を見ようよ!」というメッセージです。はじめの「現代美術用語辞典」の解説の中に「他ジャンルからの弁別」という一節がありましたが、これはそういうことを言っているのだと思います。優れた哲学者や歴史学者、科学者が美術作品について語ることは良いことですが、だからと言って彼らのすべてが優れた美術批評家であるとは限りません。絵の良し悪し、絵を見ることの面白さを語るには、画家が絵を描くのと似たような経験や才能が必要でしょう。芸術が大好きで、浴びるほど作品に触れることが何よりも重要だと私は思います。偉い美術史家が「この作品は○○時代の××派の作品である」などと言っても、それは作品の良し悪しとは直接関係がありません。参考になるのなら、それを聞き止めておけば良いのです。

そのような事情から、フォーマリズムは「他ジャンルからの弁別」を強調するあまり、「美術作品独自の物質的な条件に関わり、その視覚的特性へと偏向すること」が必要だと考えたのです。だから「フォーマリズム」を「形式主義」だと捉えて、「外見」ばかりを重視して「内実」をともなわない批評だと解釈するのは間違いです。むしろ、画面上に描かれた「内実」に注目するために、色や形などの画面上の「外見」を大切にするのが「フォーマリズム」なのです。そしてフォーマリズムには、それ以外の情報をあえてシャットアウトする傾向があって、それは美術批評の純粋性を高めることになりました。しかし私の考えでは、そこに「フォーマリズム」批評の限界もあったと思うのですが、そのことについては、後で触れましょう。

 

そのような「フォーマリズム」批評を形成した批評家の一人として、私たちに馴染み深いのがポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)を論じたロジャー・フライ(Roger Eliot Fry, 1866 - 1934)です。フライさんの『セザンヌ論 その発展の研究』は日本でも版を改めて出版されているようですから、それなりに読まれているのでしょう。このblogでは「フォーマリズム」というと、その影響力からアメリカの大批評家クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)さんと日本の美術評論家、藤枝 晃雄(ふじえだ てるお、1936 -2018)さんにばかり言及してしまうのですが、今回はグリーンバーグさんよりも半世紀近く前の人であるフライさんの『セザンヌ論』を読み直してみることにしましょう。

 

さて、そのロジャー・フライとはどのような人だったのでしょうか?『セザンヌ論』(みすず書房)の著者紹介には、次のような説明があります。

 

イギリスの画家・美術評論家。ケンブリッジ大学ではじめ自然科学を専攻したが、やがて美術に関心を移し、芸術の世界に進んだ。パリやイタリアで研鑽を積み、見識を高める。 ブルームズベリ・グループの一員としても活躍。講演や制作・執筆のかたわら、1905-10年にはニューヨークのメトロポリタン美術館に勤めたり、1910年にはイギリスにおいて画期的な《マネと後期印象派展》を組織したりした。また装飾芸術を扱う《オメガ工房》を企てた。後年スレード美術学校教授に任ぜられたが、独自の理論を十全に展開する間もなく逝去した。

著作には、『セザンヌ論』(1927、邦訳みすず書房、1990)の他に『ジョヴァンニ・ベㇽリーニ』(1899)『アンリ・マティス』(1930)『フランス美術の特質』(1932)『イギリス絵画論』(1934)等がある。

(『セザンヌ論』著者紹介より)

 

フライさんは優れた画家でした。彼の作品は次のページから見ることができます。

https://artuk.org/discover/artists/fry-roger-eliot-18661934

セザンヌさんをはじめとした後期印象派の作品から影響を受けた、知的でまじめな画家という印象の作品ですね。美術史に残るような独創性はなかったかもしれませんが、見ていて好感の持てる作品です。画家としてはピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867 - 1947)さんとほぼ同世代ですが、フライさんはイギリスの人ですから、フランスにいてナヴィ派の仲間たちと新しい絵画に絶えず触れていたボナールさんとは、ずいぶんと環境が違っていたと思います。

しかし、フライさんの立派なところは、その環境に抗してイギリスの人たちのためにフランスの新しい美術を紹介しようと企てたところです。それが「1910年にはイギリスにおいて画期的な《マネと後期印象派展》を組織したりした」ということなのです。その状況について、『セザンヌ論』の「解説」の中で二見史郎先生が書かれた一節があります。

話が横道にそれますが、二見先生は私の大学の先生で、私も二見先生の哲学の授業を受けたことがあります。出来の良くない学生だったので、ほとんど内容を憶えていないという、不甲斐ない思い出だけが残っています。

その二見先生はこう書いています。

 

1909年に彼はモーリス・ドゥニの『セザンヌ論』を翻訳した。さらに彼はクライヴ・ベルらと共に後期印象派の展覧会を組織した。「マネとポスト・インプレッショニスト」と題したこの展覧会はグラフトン画廊で1910年11月から翌年1月まで開かれた。展示の主眼はセザンヌ、ゴーガン、ファン・ゴッホであるが、ヴラマンク、ドラン、ドゥニ、ルオー、ピカソなどを含む154点が並べられた。

続いて彼は同じグラフトン画廊で第二回目の「ポスト・インプレッショニズム展」を1912年10月から翌年1月まで開いた。彼の回想によれば、マティスやピカソ、あるいはキュビスムなどの新しい傾向がセザンヌの影響によるものであり、この動きが「本質的には自然主義的再現描写の熱烈な追求のなかでほとんど見失われてきた形体の構図という思想への回帰」であることをイギリスの観衆に示したかったのだという。

(『セザンヌ論』「解説」二見史郎)

 

このフライさんの実行力には感嘆しますが、それと同時に1910年頃には、フライさんが今とあまり変わらないセザンヌへの評価を持っていたことに少々驚きます。この本が書かれたのは1927年ですから、フライさんは自分の美術に関する見識を展覧会の企画を通して社会に問いながら、セザンヌへの考察を成熟させていったのでしょう。これらのことを予備知識として頭に入れて、フライさんの『セザンヌ論』を読んでいきます。

それから、ちょっとお断りをしておきますが、ここでセザンヌの作品の遍歴について詳しく触れることはありません。彼がが若い頃に捉えられていたロマン主義のことや、カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830 - 1903)の薫陶を得て印象派的な絵画へと開眼していったこと、それが抽象絵画を彷彿とさせるような晩年へと至ったことについて、説明し出すときりがありません。申し訳ありませんが、予備知識のない方は、次のページをざっと見ておいてください。

https://muterium.com/magazine/stories/cezanne-wordks/

https://www.paul-cezanne.org/the-complete-works.html?pageno=4

 

さて、最初の章でフライさんはセザンヌの芸術がどのようなものであるのか、自分自身の理解を語ろうとします。それが美術史の本にありがちな、「セザンヌは印象派の絵画と古典絵画とを統合しようとした」とか、「セザンヌは形体を単純化してキュビズムの絵画に影響を与えた」というおざなりの理解ではありません。フライさんはセザンヌの絵画を理解しようとすればするほど、それを語る言葉を失ってしまうという、セザンヌの芸術に特有の経験をしたのですが、それを何とか言葉にして語ろうとしています。

ちょっと長くなりますが、これがフライさんの『セザンヌ論』の結論にもなるので、その難解な意味がつかめるところまで引用します。

 

芸術表現の効果は、年々、明白なものになっている。「サロン・ドートンヌ」、あるいはそれに相当する英国の展覧会に出品された傑作について述べるに際しては、肯定表現の言葉を使わねばならないだろう。しかしセザンヌの場合は、聖なる実在を前にした中世の神秘家のように、私はネガティヴな言い方しかできないことを悟る。そこで先ずは、彼の芸術に当て嵌まらないことから始めねばならない。例えば、セザンヌは、非常に才能に恵まれた多くの現代画家とは相違して、装飾的ではない。彼は画家仲間で言うところの、「強烈な」画家ではないーもっともどれほどの画家が素晴らしい強烈な表現をものにしているか、本当は誰にも分からないのだが。彼は着想を直に把まえ、強調表現によってすぐさまそれを明からさまに示すといった才能を持ち合わせていない。否、それどころか、彼は仕上げのぎりぎり最後になるまで、自分の主題をほとんど掴み切っていないように見える。彼の絵にはつねに、未だ表現されずに残っているもの、ついに把握できなかった何ものかが潜在している。要するに、彼は完璧な画家ではない。しかし、この完全な表現こそ、多くの近代絵画の属性と見做されているものなのである。近代絵画の多くはそろって強烈な自信家であり、誰もがセザンヌより自分に確信を抱いていた。セザンヌの描き方は大抵きわめて用心深いので、もしその知疑逡巡ぶりがとらえにくいテーマに挑戦する彼の死に物狂い勇気を示すものでなかったなら、彼を小心者と呼んでもおかしくないだろう。

私が肯定的な言葉を使うとしても、それは限界の性質に関するものである。ーセザンヌは傲慢たることを懼れて、つとめて慎重、きっぱりと断言する危険をめったに冒さなかった。きわめて謙虚である。彼は習得した知識をあえて信用しない。筆さばきにこもる確信は一筆ごとに、そのつど自然から獲得されねばならない。凝視の末に生じた確信の命ずる以外のことを、彼は何ひとつしないであろう。

その作品から判断するかぎり、セザンヌにとって抗争の最終的な総合が一瞬のうちに閃くと言うことは全くなかった。それどころか、彼は底知れぬ慎重さでもって最終的な総合に、いわばいろいろ観点を変えつつじっくり忍び寄ったのである。仕上げを早まると、作品から全体的な複合性が失われてしまうのではないかと、彼は常に懼れていた。彼にとって総合とは、絶えず接近しようと努めても完全に到達することが不可能な漸近線であり、完全な実現が望みえない一つのリアリティであった。

(『セザンヌ論』「1」ロジャー・フライ著 辻井忠男訳)

 

セザンヌの絵画を見て、未だにその全体像を語ることは誰にもできません。しかし、それにも関わらず、誰もが自分こそはセザンヌの芸術を十全に理解した、と思いたいのです。

それなのにフライさんは、セザンヌを一般的な意味での完璧な画家ではない、彼は現代の表現者に必要な装飾性を持っていないし、何かを大声で表現しようとするタイプではない、と否定的な物言いしかできないことを告白しています。セザンヌが表現したのは、「最終的な総合」に接近しようとしても到達できない、そういうリアリティなのだ、というのがフライさんの結論です。わかったような、わからないような結論ですが、そのことをフライさん自身が自覚しています。

私たちはフライさんの評論の後で、セザンヌについてさまざまな本が出版されたことを知っていますし、その数冊については今でも入手して読むことができます。そのなかで強烈な印象だったのは、モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)さんによる現象学的なアプローチです。ポンティさんのセザンヌ解釈によって、私たちは永遠に完成しないセザンヌの絵画について認識することができました。ポンティさんによれば、セザンヌの絵は見るたびにその新鮮な姿を更新するように見えるのです。私にとっては、そのポンティさんの解釈は画期的なものでしたが、その遥か以前にフライさんが、同様の経験を言葉にし得ていたことに驚きます。

しかし、結論は似ていてもフライさんのセザンヌへのアプローチはポンティさんのそれとはまったく違います。ポンティさんが視覚という私たちの感覚について論じた後に、その自分の感覚論が一人の画家によって既に実現されていた、としてセザンヌを語ったのに対して、フライさんはあくまで実直にセザンヌの絵について語り続けました。それも初期のロマン主義的な絵画について、本の1/3ぐらいまで丹念に追いかけているのです。正直に言って、それを真面目に読んでいると少々飽きます。ですから、その一々をここで取り上げるのはやめておきますが、その代わりセザンヌの晩年の風景画について、フライさんが書いた部分を引用してみます。

 

これら最晩年の風景画において、とりわけ顕著なのはこの高度の凝縮性である。全てが、ただ一つのモティーフに還元されている。時には、それは尾根の連なりでピラミッドを形づくるサント・ヴィクトワール山であり、そこで全てのものが非常に細かな色の調節と微かな動勢によって震動している。また或る場合には、それは錯綜した針葉樹と低木の林を通して望見されるシャトー・ノワールのオレンジ色の立方体であり、ここでもあらゆる部分が画面くまなく同じリズムで流動している。そして、時に怒ったように烈しかったり、時には神秘的な灰色調でほぼ一様に見えたりする色彩は、全般的な色彩構想の統一、色彩調節の驚くべき複雑微妙さによって主題を支えている。その生涯にわたる実践において、セザンヌは二、三の基本的原理の命ずるところに慣らされたものの、最終的には自分の感受性の本能的な活動に全幅の信頼を置いたことが分かる。いま論じたこれらの絵の特徴は、一枚の水彩画(図41)から、或る程度推測されよう。というのもこの時期には、セザンヌの油絵と水彩画はきわめて似通ってきているからである。この水彩は、彼の興奮に近い動勢の自在さと一貫性がどういうものかを教えてくれる。

<中略>

先に引用した諸作品はセザンヌ最晩年の手法を示す極端な作例である。しかし図42の風景画は、この時期のもっと標準的な作風を示している。そしてここでは、強烈な色彩、純粋な緑色や菫色やコバルトを背景にしたオレンジ色や赤の煌めきを味読できなければ、その特徴の真価をほとんど識別することができない。ただ目につくのは、さらに強度を強めた止むことなき動勢と主要な面の正面性を少なくしていることだけである。

(『セザンヌ論』「16」ロジャー・フライ著 辻井忠男訳)

 

残念ながら図41の水彩画の画像が見当たりませんが、図42の風景画は次の作品です。

http://meiga.shop-pro.jp/?pid=139853303

「モンジュルーの曲がり角」

フライさんはここで、セザンヌの晩年の絵画の色、形、それらが織りなす動勢、色彩の調和と煌めきについて、存分に語っています。この文章からも「フォーマリズム」が作品の外見だけを表面的に批評するものではなくて、その内実を明らかにしようと集中的に画面を見る批評であることがわかります。

しかしそれでいながら、フライさんはこの本のはじめに、セザンヌの芸術の素晴らしさを自分は解き明かし得なかった、と書いているのです。そしてさらに最後の文章においても、はじめの文章よりももっと謙虚に、自分の方法論の限界についてフライさんは書いているのです。これは、画面を集中的に見るという自分の「フォーマリズム」的な方法論を持ってしても、セザンヌについては語りえなかった、という告白のように読めるのですが、いかがでしょうか?それは次の文章です。

 

私はこの試論において、セザンヌの典型的作品に対する分析をできる限り推し進めようと試みた。しかしこのような分析も、芸術作品のもつ究極の具体的リアリティを前にしては停止せざるをえないこと、また恐らく作品の偉大さに比例して、分析の手の及ばない部分を多く残さざるをえないこと、これはつねに銘記されねばならない。セザンヌに対しては、この、とても歯が立たないという思いはとりわけ目立って大きい。そして結局、われわれは、彼の手になる最小の作品がなぜ最高に重要な啓示であるという印象を喚起するのか、あるいはまた、その作品に厳粛なる威光を付与しているのが正確には何であるのか、その理由を全く明らかにできないのである。

(『セザンヌ論』「18」ロジャー・フライ著 辻井忠男訳)

 

素晴らしい潔さですね。しかしフライさんがどんなに謙虚に語ったとしても、彼の『セザンヌ論』が果たした役割の大きさは否定しようがありませんし、私たちは彼の試みを基礎資料として、セザンヌを論じることができるのです。それは「フォーマリズム」の理論が果たした役割についても、同じことが言えるのかもしれません。セザンヌの芸術を語るには、その画面を凝視するしかありませんが、それだけでは十分ではないのです。おそらくセザンヌという画家が絵画から学んだ知見や思想に近づかなければ、彼の創造の秘密を語ることなどできないと思います。

その一方で、セザンヌという人を精神分析的に裸にしよう、という試みもあるようですが、そんなことには興味が持てません。セザンヌという人が、実際には誰からも尊敬されるような人格者ではなかったことは既にわかっています。エロティックな誘惑に弱い人でもあったようですが、そのことと彼の芸術が達した高みとは、関係があったとしても限定的なものでしょう。

フライさんがぎりぎりまで追究して、それでもなおかつ「全く明らかにできない」というセザンヌの芸術について、私たちはどこまで迫ることができるのでしょうか。それはフライさんが残した大きな宿題です。フライさんは、自分自身の「フォーマリズム」的な手法を乗り超えて、私たちがセザンヌに近づくことを期待していたのではないでしょうか?彼の後から生まれてきた私たちは、その点において大きな義務を背負っている、と私は感じています。

 

さて、そのフライさんですが、セザンヌ論に限らず、彼自身が実に興味深い芸術家でした。とりわけ彼が関係した 「ブルームズベリ・グループ」という集団のことが気になりませんか?フライさんと共同して展覧会を企画したクライヴ・ベルという人も、「ブルームズベリー・グループ」の一員なのです。

別の機会に、この芸術的な知識人集団についても、掘り下げてみることにしましょう。それには、ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf, 1882 - 1941)について予習しておかなければなりません。皆さんは、この魅力的な文学者の本を読んだことがありますか?この機会にぜひ彼女の本を読んでみてください。

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