指揮者の小澤征爾(1935 - 2024)さんが亡くなりました。NHKの追悼記事のリンクを貼っておきましたので、興味のある方は読んでみてください。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240209/k10014354011000.html
私はクラシック音楽をほとんど聞かないので、日本中で広がった追悼のニュース以上のことは言えませんが、一つ印象に残ったこと、そして思い出したことを書いておきます。
それは作家の村上春樹さんが朝日新聞に寄せた追悼文に関連することです。
https://www.asahi.com/articles/ASS2B5223S29ULZU00L.html
有料記事なので、ネット上では最初の方の文章しか読めませんが、新聞の追悼文の終わりの方で村上さんは次のように書いています。
「僕がいちばん好きな時刻は夜明け前の数時間だ」と征爾さんは言っていた。「みんながまだ寝静まっているときに、一人で譜面を読み込むんだ。集中して、他のどんなことにも気を逸せることなく、ずっと深いところまで」
そんなときの彼の頭には音楽だけが鳴り響いていたのだろう。おそらく無音のうちに。総譜を開けば、そこには純粋な音楽世界が展開した。それは哲学の理念と同じように、どこまでも純粋な、それ自体で完結したものだったかもしれない。それは夜明け前の暗闇を必要とするものだったのかもしれない。
(『朝日新聞 2024年2月11日2面 「小澤征爾さんを失って」村上春樹)
この文章の「総譜を開けば、そこには純粋な音楽世界が展開した」という一節が印象的です。クラシック音楽をやっている人なら、小澤さんがやっていることなど指揮者として当たり前のことなのかもしれません。譜面を開けば、頭の中で音楽が鳴るようでないと、指揮者として何もできません。しかし、小澤さんが夜明け前の暗闇の中で対峙していたのは、音楽のテクニカルな側面だけではなかったでしょう。それは音楽を通して聞こえてくる西欧世界そのものであったのかもしれません。
そう思ったのは、例えば先ほどのNHKの追悼記事の中で、小澤さんの弟子であった指揮者の佐渡裕さんが次のように言っていることなどを読んだからです。
「日本人としてのバックグラウンドを持ちながら、音楽を共通語として世界で通用することを示したことが、僕ら日本人の後輩にとってものすごく励みになりました。日本だけでなく韓国や中国からも優秀な人が出てきている、そういう時代につながったと思います」と小澤さんの功績の大きさをたたえました。
(『NHK 2024年2月10日』「小澤征爾追悼記事」より)
この他にも、私が見たテレビの追悼番組で、小澤さん自身が外国で指揮をするようになったときに、「日本人にバッハがわかるのか?」と批判されたことを語っていました。そこには人種差別的な意識も働いていたのでしょうが、そうでなくてもヨーロッパの伝統音楽を遠い東洋の島国の人間に理解できるのか、と本当に疑問に思った人もいたことでしょう。もちろん、小澤さんはそのような批判を彼の音楽によって封じ込めたのです。
それで思い出したのですが、私自身、若い頃に自分が油彩画を学ぶことにどういう意味があるのか、と本気で悩んだことがありました。
現在ではインターネットなどの発達で、そのようなローカル意識はだいぶ薄れていますが、私が若い頃にはそこまで世界は狭くなかったし、何よりも明治以降の日本の薄っぺらな絵画の歴史と、ヨーロッパの伝統的な絵画を見比べると、差は歴然としていました。それに比べて新興国であるアメリカの絵画は、ヨーロッパの絵画とは明らかに違っていましたが、絵画と向き合う時の思考の鍛え方は、やはり西洋という大きな括りで捉えることができるものだと感じたのです。
もちろん、日本にも西欧の絵画と匹敵するような美術作品がたくさんあります。例えば、長谷川 等伯(はせがわ とうはく、1539 - 1610)さんや俵屋 宗達(たわらや そうたつ、江戸時代初期の画家)さんは、私が最も尊敬する画家たちの一人です。しかし、今の私が彼らと同じ素材で、同じ文脈で創作活動ができるのか、と言えば、そうではないでしょう。ただし、彼らの芸術のエッセンスを吸収することは可能ですし、その吸収したものを表現に活かしたい、といつも思っています。しかし、そう思った時に、私は日本人である必要があるでしょうか?
つまり、こういうことです。
もしも宗達さんや等伯さんの芸術を今日に活かしたい、と思った芸術家がいたとして、その人が日本人である必要があるでしょうか、ということです。そして同じように、ヨーロッパの人だからといって、例えばセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)さんの芸術を日本人である私よりも、よりよく理解できるものでしょうか?私はそういうものでもないと思っています。
そんなふうに考えて、私は自分が日本で生まれて育ったことに対して、自分の中で限界を設けることをやめました。くよくよと考えずに、自分の表現に必要があると感じたら、油絵具だって日本画の絵具だって使えば良いのです。
もちろん、絵画について、音楽について深く学ぼうと思えば、それらが背負ってきた歴史、思想、背景を正しく理解することが必要です。ある特定の地域で生まれ育った人が、同郷の先人の思いを理解しやすい、ということは当然、あるでしょう。芸術評論などを書く場合は、そういう事実も大いに参考になります。しかし、それらは決定的な要因ではありません。
最終的には、表現者がどれほど努力し、どれほど深く学んだのか、ということが重要だと私は思います。そういう意味では、インターネットがどれほど普及しようとも、それぞれの文化の深い部分はそれほど簡単にはつながらないと思います。しかし、もしもあなたが遠い国の芸術家のことを理解しようと思えば、そのためのツールは格段に増えた、ということは言えると思います。
そんな私自身の思いを重ねて、夜明け前の暗闇で総譜と向き合う小澤征爾さんの姿を想像すると、その頭の中にどのような音が鳴っていて、その音に小澤さんがどのような意味を見出し、どのような美しさを感じていたのか、知りたくなります。
そして、最後に余計なことを一つ・・・。
こういう芸術家の姿に憧れてしまいますが、私自身の朝は、なんと慌ただしいことでしょうか。その日の仕事のことを考えて、支度ができると暗澹たる気持ちになって家を出る、という毎日を40年間続けているのです。それも、まだもう少し続きそうです。
さて、前回のblogの中で、少しだけ個展の搬入と展示の前の不安な気持ちについて書きました。いまだに忘れられないのは、初めて東京で個展を開催した時のことです。今回はその時のことと、今回の個展のキャプションを参照しながら、展示の構成について書いておきたいと思います。平日には画廊に居られないので、お会いできない方が多数いらっしゃると思いますので、参考にしていただけるとありがたいです。
それでは、最初に昔の個展の話です。この話はどこかで書いた覚えがありますが、それと重なっていたらごめんなさい。
私は愛知県立芸術大学を卒業しましたが、その後2年間をそのまま大学院で過ごしました。そのときに東京で展覧会を開催したので、愛知県の大学のアトリエからバンで作品を東京まで運び込むことになりました。
この時の搬入と展示の不安と、展覧会への期待が私の作品発表の原点です。
私は運転が苦手なので、得意な友人に運転を任せて、私自身は東名高速を過ぎて首都高に入ると地図と首っ引きになりました。それでもなんとか日本橋近辺にあった画廊に辿り着いた時には、もう展覧会が終わったような気分でした。今のようにカーナビなどない時代ですから、まずは無事に画廊に着くことが問題でした。ぐるぐると回る首都高の分かれ道を瞬時に判断することが大仕事でしたが、大きなビルの谷間をハイスピードで抜けていく爽快感は、東京での展覧会を期待させるものでもありました。
私が展示したのは「駒井画廊」という小さな地下の画廊でした。経営していたのは、他にも田村画廊、真木画廊などを開いていた山岸信郎(やまぎしのぶお、1929 - 2008)さんという画廊主でした。
https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28436.html
上のリンクをご覧になればわかりますが、山岸さんは日本の現代美術を支えてきたと言っていいほどの実績のある方でした。しかし本人は名声にもお金にも興味がない方で、私はそんな山岸さんの画廊で展覧会をやってみたくて、駒井画廊での開催を決めたのです。
大学生の頃、名古屋での展覧会もすでにやっていましたが、どうしても友人関係など限られた人にしか見てもらえない、という思いがありました。東京に行けば、もっといろんな人に見てもらえる、という気持ちが当然、あったのです。
しかし、結果は惨憺たるものでした。東京には美術関係の友人も少なくて、結局、誰も見に来る人がいない展覧会になってしまったのです。それに、そのころはインスタレーションなどの立体作品が花盛りで、私のような平面作品が展示してあると、入り口のところで踵を返して帰ってしまう、という人も多かったのです。山岸さんが、「最近は作品の内容を見ないで、形式だけで判断する輩が多くてけしからん」というようなことを言って、慰めてくれたのを覚えています。
余談になりますが、その頃の山岸さんはすでに老境に入っているように見えたのですが、まだ55歳だったのですね。今の私よりも十歳近く若かったなんて!ちょっと信じられない気分です。
その当時の私は、60歳を過ぎて絵を描いている自分など想像できませんでしたし、もしもその頃に絵を描いているなら、多少は成功して、画廊の展示など人任せにできるようになっているだろう、と気楽なことを考えていました。まさかそんな老齢になっても、自分で車で作品を運び込み、一点一点釘を壁に打って吊り下げているなどとは思いもしませんでした。だから搬入と展示の不安なことは相変わらずです。その一方で、展覧会を開催することで自分の活動が大きく展開する、という期待はなくなりました。
それでも、そんなことよりももっと大切なこと、美術に興味を持っている人に作品を見てもらえることがいかに重要なことなのか、ということを長年の経験で知りました。だから、いつも不安でいっぱいの展覧会ですが、懲りずにここまで続けているのです。
さて、今回の展覧会ですが、昨日、展示を終えて、その展示のキャプションを作成しました。次のリンクからご覧ください。
http://ishimura.html.xdomain.jp/work/2024Gallery%20HINOKI/24.02%20石村実展.pdf
その制作年代を見ていただくとわかりますが、26点展示してあるうちの半分以上が過去に制作したものです。そのような構成にした理由は、あらためて今回の展覧会のプレスリリース、もしくはパンフレットを読んでいただくとわかります。
http://ishimura.html.xdomain.jp/work/2024Gallery%20HINOKI/202402個展パンフレット.pdf
私はこの数年間、絵画における触覚性について考え、「触覚性絵画」というテーマで制作してきました。しかし考えてみますと、私は作品を発表し始めた頃から絵画の触覚性を探究してきたのです。今回は、そんな自分の足跡を少しだけたどりつつ、あらためて絵画の触覚性について考察してみたいと思います。
併せて、私は絵画が本来持っている奥行表現と、絵画の触覚性との緊張関係についても、探究を深めていきたいと思っています。今回は具体的なモチーフをタイトルに掲げ、作品によっては二つのモチーフのイメージを重ね、それらのイメージが表出する複雑な奥行と絵画の触覚性について試行錯誤をしていきます。
(2024年 個展のプレスリリースより)
このような私の制作の足取りを見ていただくために、それが分かるような作品を選んで展示しました。
展示の構成としては、画廊に入っていただいて「e」の部屋の左側の壁から見ていただくと、概ね年代順に作品を見ていただけます。
はじめにパンフレットの最初に掲載した千代紙に彩色した作品に近いものを展示しました。「1」は布の作品ですが、ただの布ではなくてパターン模様の入ったプリント生地です。この作品はもっとも古くて1998年制作ですから、今から25、6年前の作品になります。その当時は白地に絵を描くのではなくて、パターン模様の上から彩色したり、ドローイングすることで新たな奥行きの絵画を模索していたのです。その手つきは、当然のことながら模様を意識したものになりますので、画面の表面を行ったり来たりするような手つきになります。今回は、そのことを見ていただきたくて作品を選びました。
このような「1」から「3」と同じコンセプトの作品で少し大きめのものを、「F」の部屋の入り口から見て右の壁に展示しました。「16」の作品です。この作品ではパターン模様に必要以上に拘泥しないような大きなストロークが欲しくて、色々な描画道具を試してみました。結局、一番適切だったのは掃除用の箒の先でした。
同じような手法で、和紙に彩色したのが「17」の作品です。あらかじめ、薄く溶いた絵の具でぼんやりとした下地を作り、その上から滑るような大きな筆致で描いてみたものです。異なる絵画の層を重ねる、という点では「16」と同じコンセプトの作品となります。
その後の私の作品の展開は、パンフレットに書いた通りです。
実際の展示場では、「e」の部屋の左から正面、右へとぐるっと回りながら見てください。右の壁の後半では、現在の私が意識している「触角性絵画」を見ていただけます。今回は、かなりコンセプトが複雑になったので、小さな作品だとちょっと見づらいかもしれません。今後の課題も見えてきたところです。
そして「8」と「9」と同じモチーフの大きめの作品を、「F」の部屋の右壁の奥、「19」に展示しました。これを描いた当時は、それなりの達成感がありましたが、今見ると絵画としての完成度はあるものの、もう少し冒険してみても良かったのかな、と思います。それが現在の作品へと繋がっているのだ、と見てもらえるとうれしいです。一歩でも、あるいは半歩でも先に進もうとしていることが理解していただけると思います。
そして「F」の部屋ですが、今書いたように、入り口から右の壁に過去の作品が展示してあり、それ以外の作品はすべて昨年制作したものです。実際には今年になっても少し手を入れましたが、ほぼ昨年の年末あたりで仕上がっていました。「e」の部屋の小品よりも大きな作品の方が、現在の入り組んだコンセプトをしっくりと表現できているように感じています。
それから、「F」の部屋の右の壁の「18」の作品ですが、これは具体的なモチーフを描いていた時期に、試験的に非対象の作品をパステルで描いてみたものです。これはパステルで描くことの「触角性」を意識したものです。現在の作品に直接繋がる試みでしたが、もっと先鋭的な何かが欲しい、と思ったことも確かでした。
このように、今回はこの25年間ぐらいの私の歩みを「触角性」をテーマに大雑把に俯瞰してみる試みです。私の探究の足取りを見ていただくことも大切ですが、その年月に応じた作品の変化があり、見て楽しんでいただけるのではないか、と期待しています。
その一方で、これぐらいの幅広い試みを、現在でも日々継続していってもよいのではないか、と思っているところです。もっと気分の赴くままに制作するような自由度が必要だと、常に思っているところです。
一般的な現代美術の作品を見ると、コンセプトをはっきりと打ち出そうとするあまり、どうしても作品の手法や内容が似通ってしまって、同じ作品のヴァリエーションに見えてしまうことが多いのですが、それではあまり面白くない、と私は思っています。もっと一つ一つの作品に、新たな世界と出会った喜びが表現されていて欲しい、と思うことが多いのです。
私は絵画の「触角性」というテーマに関わって、もっといろんなアプローチを試してみたいと考えています。
今回の展覧会は、そんなことを確認するためのものでもありました。
さて、いろいろと書きすぎてしまったでしょうか?
もちろん、私の作品を自由に見ていただいて構わないのですが、展示内容を見て戸惑われるようなことがあれば、このblogとパンフレットを見ていただきたいと思います。そうすれば、だいたいのことがおわかりいただけると思います。
先ほども書いたように、会場でお会いできない方が多いと思いますので、鑑賞の参考になれば幸いです。
明日から一週間、よろしくお願いします。