平らな深み、緩やかな時間

372.最近の出来事、『暗黙知の次元』M.ポランニーについて

まずは、最近の話題から・・・。

「建築界のノーベル賞」と呼ばれるプリツカー賞を、建築家・山本理顕さんが受賞しました。同賞における日本人受賞者は9人目であり、プリツカー賞受賞最多の国となったそうです。

https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/28589

記事の中の写真に、お馴染みの「横須賀美術館」がありますね。この写真のような視点で建物を俯瞰することは、まずありませんので、もう少し、建築に対して意識を高くして見なければいけないなあ、と反省する次第です。とはいえ、海側の道から見た美術館の姿が印象的であることを、私は知っています。

急いでいると、つい駐車場のエレベーターから美術館の入り口へ直行してしまいますが、それだと建物の全体像がつかめません。美術展を見るときに、展示物だけでなく、展示空間や建物全体も一緒に味わいたいものですが、それには時間的なゆとりが必要です。日頃忙しい生活を強いられている私たちですが、せめて美術展を見に行くときにはゆったりと時間をとりたいものです。

 

次に、ドイツの美術家、アンゼルム・キーファー(Anselm Kiefer、1945 - )さんのドキュメンタリー映画を、『PERFECT DAYS』で最近も話題になった名匠ヴィム・ヴェンダース (Wim Wenders, 1945 -)監督が作ったようです。

https://otocoto.jp/news/anselm0308/

この二人は、同い年なのですね、気が付きませんでした。キーファーさんは大阪万博でも大規模な展示を予定しているようです。近頃は、同じヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys、1921 - 1986)さんの門下生でもゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter, 1932 - )さんが話題になることが多いのですが、二人を比べるとキーファーさんの方がかなり若いですね。

キーファーさんは作品の主題が話題になることが多いのですが、私から見ると、彼の独特の物質感の方が魅力的です。以前に彼の巨大なアトリエの映像を見たことがありますが、大きなガラクタに囲まれたキーファーさんはとても幸福そうでした。ヴェンダース監督は、どのようなアプローチでキーファーさんに迫っているのでしょうか、興味が湧きます。

 

最後の話題として、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのベーシスト、アストン・“ファミリー・マン”・バレットさんが先月、逝去されました。

https://www.udiscovermusic.jp/news/aston-family-man-barrett-bob-marley-bassist-dies-77?amp=1

アストン・バレット(Aston Barrett, 1946 - 2024)さんは、ジャマイカ、キングストン市生まれのレゲエベース奏者です。と言っても、私は彼がボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのベーシストだったということ以外に、詳しいことは知りません。ちなみにドラムスのカールトン・バレットさんは彼の弟だそうです。

その後のレゲエのベーシストといえば、スライ&ロビー (Sly and Robbie) というリズム・セクションのロビー・シェイクスピア( Robbie Shakespeare、1953- 2021)さんが有名ですが、ロビーさんもバレットさんのコピーのような演奏からキャリアをスタートさせたそうです。

レゲエ(Reggae)は1960年代後半にジャマイカで発祥したポピュラー音楽ですが、4分の4拍子の第2・第4拍目をカッティング奏法で刻むギターと、各小節の3拍目にアクセントを置くドラムによる、いわゆる後乗りのリズムが特徴です。しかし、そこにうねるような、それでいてメロディアスなベースラインが加わったことで1970年代に全世界的な音楽になったのだと思います。ロック世代の私たちにとって、そのようなレゲエのサウンドがとても斬新なものに聞こえたのです。そのベース奏法を確立したのがバレットさんだそうです。それもかなり意識的に、そういう音楽を作ったようです。先にリンクを貼ったホームページに彼のインタビューが掲載されています。

「歌うのは好きだったけど、ヴォーカルに関してはプロになるために練習したことはなかった。ベースを弾くのは、歌うのに似ている。メロディラインを作曲して演奏していると、自分がバリトンを歌っているように思えるんだ。そして、音楽を深く聴こうと、さまざまなセクションや楽器の演奏に耳を傾けた時、ベースが屋台骨であり、ドラムが音楽の鼓動であることに気づいた。だから初期の頃は、弟のカールトンがドラムを担当し、私がベースを担当してまずより良い方法で演奏を組み立てようと思っていた。そしてまず最初に自分のベースを作ったんだ」

この中の「ベースが屋台骨であり、ドラムが音楽の鼓動である」というのは、名言ですね。音楽の低音部というのは、意識的に聞かないと聞き逃してしまいます。私はかなり迂闊なリスナーなので、同じ曲を繰り返して聞かないとベースラインの良さに気が付かないことが多いのですが、皆さんはいかがでしょうか?しかしレゲエを聞くと、真っ先にベースラインが耳に飛び込んでくるので、音楽の構造がわかりやすい音楽なのだと言えると思います。それがバレットさんの意識的な改革によるものだとすると、本当に偉大な人ですね。今までよく知らなくて、申し訳ないような気になります。

ところで、私は彼の業績を、ピーター・バラカンさんのラジオ番組で知りました。その日の放送のプレイ・リストを知りたい方は次のページからどうぞ。

https://www.nhk.jp/p/sunshine/rs/ZYKKWY88Z9/blog/bl/prGL2NxxRv/bp/p70XBrg597/



さて、今回は、前回取り上げた経済学者のカール・ポランニー(Karl Polanyi、1886 - 1964)さんの弟、マイケル・ポランニー(Michael Polanyi , 1891 - 1976)さんの『暗黙知の次元』という本を取り上げます。お兄さんを取り上げたから弟さんも、というわけではないのですが、このマイケルさんはお兄さん以上に異端の学者のようです。『暗黙知の次元』の本のカバーには、マイケルさんについて次のような簡単な紹介があります。

 

1891年、ブダペスト生まれ。ブダペスト大学で医学博士号・化学博士号取得。1933年、ナチスの人種迫害を避けて英国に亡命。マンチェスター大学物理化学教授(のち社会科学に転ずる)、オックスフォード大学主任研究員等を歴任。76年、死去。次兄は経済人類学者カール・ポランニー。主著に、『人間について』、『創造的想像力』、『個人的知識』等。

(『暗黙知の次元』本のカバーより)

 

上の文章で、「マンチェスター大学物理化学教授(のち社会科学に転ずる)」と書かれていますが、この転向は「Wikipedia」によると「ノーベル賞の候補者と目されていた中の転向」ということだそうです。また、息子のジョン・チャールズ・ポラニー(John Charles Polanyi, 1929 - )さんは1986年にノーベル化学賞を受賞しているそうです。すごい血筋の一族ですね。

そして『暗黙知の次元』という本ですが、書店の紹介には次のように書かれています。

 

人間には、言語の背後にあって言語化されない知がある。「暗黙知」、それは人間の日常的な知覚・学習・行動を可能にするだけではない。暗黙知は生を更新し、知を更新する。それは創造性に溢れる科学的探求の源泉となり、新しい真実と倫理を探求するための原動力となる。隠された知のダイナミズム。潜在的可能性への投企。生きることがつねに新しい可能性に満ちているように、思考はつねに新しいポテンシャルに満ちている。暗黙知によって開かれる思考が、新しい社会と倫理を展望する。より高次の意味を志向する人間の隠された意志、そして社会への希望に貫かれた書。新訳

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480088161/

 

なんだかすごい本だな、ということは分かると思いますが、実はこの本は1980年代に日本で話題になったことがあります。この本の真の価値はどのようなものなのか、そして、今私たちはこの本をどのように読んだらよいのか、そんなことを考える上で、この時の状況について知っておくことは重要です。

そのための格好のガイドとして、この本の訳者の高橋勇夫さんが最後の「訳者解説」でこのことに触れています。その文章を拾い読みをしてみましょう。

 

もうずいぶん昔のことのように思えるが、前世紀末の、少し詳しく言うと1980年代後半以降の日本にも、「ポストモダニズム」と総称されていいようなムーヴメントがあった。その日本的ポストモダニズムが標榜したのは、詰まるところ「根拠主義」の否定である。現代思想の指南書やらその亜流書が町の本屋に平積みされ、あらん限りの意味と真理と価値について、その根拠の「恣意性」が我勝ちに洗い立てられていったものだ。

むろん、当時でも、モダニズムの確立すら怪しい限りの日本で“ポスト”モダニズムを広言する言説の横行に鼻白んだり、所詮ポストモダニズムは高度消費社会をジャスティファイし謳歌するための体制イデオロギーにすぎないと憤慨する人々もいた。しかし折しもバブル経済の絶頂期を迎えた日本の巷では、そうしたムーヴメントを「実証」するように、既成の市場原理を逸脱する浮薄な商品(及びそのコピー)が舞狂っていたし、株や土地が実情をはるかに遊離する天井知らず(当時はほんとうにそう思えた)の値を更新し続けていたものだ。果ては、絶好調の経済に便乗して、もともと明示的な根拠を問う姿勢が薄弱な日本的風土を、あろうことか、世界をリードする、巧まざるポストモダニズムの顕現だと触れ回る手合いまで這い出していたのである。

(『暗黙知の次元』「訳者解説」高橋勇夫)

 

このblogで何度も言及している1980年代の状況ですが、コンパクトな文章の中で当時の思想、経済のことから一般的な世情まで、うまく書かれています。このような状況で、モダニズム思想の「根拠主義」が否定され、学問の世界でも浮薄な言葉が踊ったのです。そういう中で、ポランニーさんの『暗黙知の次元』はどのように読まれたのでしょうか?

 

本書の初訳(佐藤敬三訳 マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』紀伊國屋書店)が出たのは1980年のことだが、主として栗本慎一郎氏の「連呼」によってマイケル・ポランニーという名と「暗黙知」という“新語”が一般に流通し始めたのも、こうしたムーヴメントの渦中であったと思う。

ちなみにポストモダニズムを原理的に支えていたのは言語批判の哲学であった。言語批判の哲学といえば何か物々しい響きもあるが、要するに、「言葉」とその言葉が担う「意味」との固定的関係を絶対視しない、疑ってかかる、ということである。むろんこうした言語を相対化する視線は、ポストモダニズムの専売特許ではない。20世紀自体が、いわば、丸ごとそういう時代だったのである。20世紀初頭にジョイスやプルーストらの文学的モダニズムの自意識がかかずらったのは「言葉」に他ならなかったし、有名なウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」は言葉と意味の便宜的な関係を物語る格好の標語だったと言えなくもない。しかし世紀末のポストモダニズムはさらに一歩進んで、言葉と意味の遊離それ自体を謳歌しようとした。言葉は私たちが常識的に信じている意味(=根拠)を離れて、言葉同士の「差異」の連鎖で自律的に運動するのだと言い、彼らはそれを「テクスト」と称したものだ。言葉は意味からの自由を得て、同時に、意味の内実たる倫理や価値や真実といった重荷から解放されることになる。ここに至って、所もあろうに世紀末ニッポンで、究極のニヒリズム、奇妙に明るく浮薄なニヒリズムの時代が到来したのである。

本書の初訳本には原著にない「言語から非言語へ」という副題が付されていた。むろん、今述べた「問題としての言語」が意識されていたのである。暗黙知は言葉と意味との明示的な関係を越える隠れた知の存在を提起するものだったから、言葉を決まり切った意味の重荷から解き放つという点では、たしかにポストモダン思想の一翼を担うものとして喧伝される余地はあったということだ。

(『暗黙知の次元』「訳者解説」高橋勇夫)

 

先のこの本の紹介文にあったように、ポランニーさんの提起する「暗黙知」というのは「言語の背後にあって言語化されない知」のことです。この「言語化されない知」というところが、ちょうど1980年代のポストモダンの「言葉と意味の遊離それ自体を謳歌しようとした」時代の雰囲気と合致していたというのです。

もちろん、「言語」もしくは「言語化されるもの」への疑問は、20世紀初頭からありました。芸術について言えば「ジョイスやプルーストらの文学的モダニズム」もそうですし、思想について言えば「ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム』」もそうです。しかしポストモダニズムによって考えられた言葉は、「私たちが常識的に信じている意味(=根拠)を離れて、言葉同士の『差異』の連鎖で自律的に運動する」というもので、モダニズム思考の言語への疑問とは違ったものでした。

そして、高橋さんはポランニーさんの「暗黙知」も、ポストモダニズムの浮薄さとは違ったものだ、と言っています。

次の文章をお読みください。

 

しかし暗黙知はポストモダニズムの諸理論とは明らかに異質なものである。なぜなら、概ね言葉の意味を否定しっ放しのポストモダニズムとは異なり、暗黙知は絶えず「新しい意味」を志向し、それを形成しようとするものだからだ。暗黙知が目の前の言葉の意味をいったん否定するかに見えるのは、意味の更新を志向するからなのに他ならない。言葉と意味の関係は静的なものではない。生きることがつねに新しい可能性に満ちているように、言葉はつねに新しい意味のポテンシャルに満ちているのだ。個人は暗示されるポテンシャルを信じて、言い換えるならそれに賭けて、より高次の、新しい意味を発見しようと努力する。その信念と努力はほとんど個人の選択を超えたものですらあるのだろう。なぜならポランニーはそこに進化の動因と同じものを想像しているからだ。彼に言わせると、私たち一人ひとりの「個人」には、たぶん宇宙的な原理として、より高次の位相に向かうベクトルが貫かれているのである。

(『暗黙知の次元』「訳者解説」高橋勇夫)

 

この解説によれば、「暗黙知」は「意味の更新を志向する」もので、それも「より高次の、新しい意味を発見しよう」とするものなのです。

これはポストモダニズムのような「言葉」がその意味の「差異」の中で戯れる、というイメージとは決定的に違っています。ポストモダニズムにおいては「より高次の位相に向かう」などという方向性は否定されていたのです。

そういう点では、「暗黙知」はモダニズムの世界観に近いような気もしますが、しかしポランニーさんはモダニズムの「根拠主義」を否定していたのですから、モダニズムであるとも言えません。

それでは、「暗黙知」とはどのようなもので、どのように位置づけられるのでしょうか?こうなると、ポランニーさんが「暗黙知」をどのように語っているのか、それを読んだ上で私たち自身で判断するしかありません。ポランニーさんの説明を読んでみましょう。

 

私は人間の知を再考するにあたって、次なる事実から始めることにする。すなわち、私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる。分かり切ったことを言っているようだが、その意味するところを厳密に言うのは容易ではない。例をあげよう。ある人の顔を知っているとき、私たちはその顔を千人、いや百万人の中からでも見分けることができる。しかし、通常、私たちは、どのようにして自分が知っている顔を見分けるのか分からない。だからこうした認知の多くは言葉に置き換えられないのだ。

(『暗黙知の次元』「第Ⅰ章 暗黙知」M.ポランニー 高橋勇夫訳)

 

「暗黙知」を説明するにあたって、「人の顔を見分ける」というきわめて卑近な例からポランニーさんは語り始めています。私たちは知人の顔を見分けながら、日々生活しているのですが、どうやって見分けているのか、その方法を言語化することは不可能です。つまり、「人の顔を見分ける」という日常的な営為すら、私たちは言葉で説明し尽くすことができないのです。これは、モダニズムの「根拠主義」での説明に限界があることを示しています。そして、この「根拠主義」の積み上げが近代科学なのだとしたら、「人の顔を見分ける」ことについて科学的に究明することにも限界がある、ということになります。

 

さらにもう少し考察を進めたところで、ポランニーさんは科学の分野そのものについても言及しています。科学者であったポランニーさん自身の経験から、新たな科学的な発見について考察しているのです。

ある科学者が独創的で新しい発見をしたとしましょう。そのときに、その研究そのものを科学者はどのようにして思いついたのでしょうか?実験結果が出た後ならば、その結果に至る根拠を示すことができるでしょう。しかしその発見結果が独創的であればあるほど、研究を始める段階でその根拠を示すことは困難です。

この事実をどのように考えたら良いのでしょうか。ポランニーさんは次にように書いています。

 

言うまでもなく、すべての研究は問題から始められねばならない。研究が成功するのは、問題が妥当な場合に限られるのだ。そして問題が独創的である場合に限って、研究もまた独創的でありうる。しかし妥当で独創的な問題は言わずもがな、いかなる問題であれ、そもそも問題とはいかなる具合に考察がなされうるものなのだろう?なぜこんなことを言うのかといえば、問題を考察するとは、隠れた何かを考察することだからだ。それは、まだ包括されていない個々の諸要素に一貫性が存在することを、暗に認識することなのだ。この暗示が真実であるとき、問題もまた妥当なものになる。

(『暗黙知の次元』「第Ⅰ章 暗黙知」M.ポランニー 高橋勇夫訳)

 

このことについて、ポランニーさんは次のようにも言っています。

 

もし何かを探し求めているのか分かっているなら、問題は存在しないのだし、逆に、もし何かを探し求めているのか分かっているのなら、何かを発見することなど期待できない

 

もしすべての認識が明示的なものだとすれば、すなわち明確に記述することが可能なものだとすれば、私たちは問題を認識することも、その答えを探し求めることもできない

 

これらのポランニーさんの言葉は、何を言っているのでしょうか?それはこういうことだと思います。

もしも「根拠主義」によって妥当性が明らかな研究ならば、それは独創的な研究ではないし、その結果は「発見」というよりは「検証」と言った方が良いでしょう。一方、本当に独創的な研究ならば、その初めの段階では誰にもその妥当性がわからないはずです。しかし、ある研究者から見れば、その研究には「妥当性」があることがある程度わかっていたのです。

もしも特定の研究者だけが分かっていた「妥当性」があるとするなら、私たちはそのことについてどのように考えたらよいのでしょうか?日常的な言葉で言えば、それは才能がある人だけが持ち得る「勘」のようなものだ、ということになるのでしょう。その「勘」のようなものをポランニーさんは「暗黙知」と言ったのではないでしょうか?

仮に、そのような「勘」のようなものが「暗黙知」であるとしましょう。(本当は、それでは不正確なのですが、それは後でわかります。)そうするとポランニーさんは、私たちが見過ごしてしまいがちな「勘」という概念について、「暗黙知」という言葉に置き換えて深く考えた、ということになります。そしてポランニーさんは「暗黙知」のような言語化できない「知」の存在を前提にしなければ、私たちは既成の知識や経験から一歩も出ることができない、ということに気づいたのです。「暗黙知」がなければ、人間は結果の分かり切った研究ばかりに没頭することになるからです。

このときに、ポランニーさんは大きな問題にぶつかりました。私たちは近代科学によって社会を発展させてきたのですが、その近代科学が理想とするものは、徹底した客観性です。つまりモダニズムの「根拠主義」によって妥当性のある事実を積み上げ、そのことによって個人的な「恣意性」を排除し、万人に妥当する「客観性」に到達するのが近代科学のあるべき姿なのです。しかし、その近代科学の発展が、ある特定の人たちの「暗黙知」という個人的な知によって発展してきたとしたら、近代科学の客観性はどうなってしまうのでしょうか?

そのことについて、ポランニーさんは次のように書いています。

 

かくして、私たちはきわめて重大な問題のとば口に立つことになる。世に謳われた近代科学の目的は、私的なものを完全に排し、客観的な認識を得ることである。たとえこの理想にもとることがあっても、それは単なる一時的な不完全性にすぎないのだから、私たちはそれを取り除くよう頑張らねばならないということだ。しかし、もしも暗黙的思考が知全体の中でも不可欠の構成要素であるとするなら、個人的な知識要素をすべて駆除しようという近代科学の理想は、結局のところ、すべての知識の破壊を目指すことになるだろう。厳密科学が信奉する理想は、根本的に誤解を招きかねないものであり、たぶん無惨な結末をもたらす誤謬の原因だということが、明らかになるだろう。

暗黙的認識をことごとく排除して、すべての知識を形式化しようとしても、そんな試みは自滅するしかないことを、私は証明できると思う。

(『暗黙知の次元』「第Ⅰ章 暗黙知」M.ポランニー 高橋勇夫訳)

 

さて、このように読むと、ポランニーさんが単に個人の「恣意性」を尊重した思想家であったように誤解してしまうかもしれません。それでは、「暗黙知」などという、たいそうな言葉を使わずに、私たちの日常語の「勘」と言っても良いことになってしまいます。

しかしポランニーさんの「暗黙知」は、単なる「勘」ではありません。ポランニーさんは、そもそも生命というものは、このような計り知れない「暗黙知」によって高次の方向へと向かうようにできているのだ、というふうに考えます。高橋さんは解説で次のように書いていました。再び読んでみましょう。

 

生きることがつねに新しい可能性に満ちているように、言葉はつねに新しい意味のポテンシャルに満ちているのだ。個人は暗示されるポテンシャルを信じて、言い換えるならそれに賭けて、より高次の、新しい意味を発見しようと努力する。

 

なぜならポランニーはそこに進化の動因と同じものを想像しているからだ。彼に言わせると、私たち一人ひとりの「個人」には、たぶん宇宙的な原理として、より高次の位相に向かうベクトルが貫かれているのである。

 

ここで、ポランニーさん自身の言葉を引用してみましょう。

 

そうした知を保持するのは、発見されるべき何かが存在するという信念に、心底打ち込むということだ。それは、その認識を保持する人間の個性を巻き込んでいるという意味合いにおいて、また、おしなべて孤独な営みであるという意味合いにおいて、個人的な行為である。さりとて、そこには、自己に淫するような痕跡など、微塵も見られない。発見者は、是が非でも隠れた真理を追究せずにはいられぬ責任感に満たされているのだ。その責任感が、真理のヴェールを剥ぎ取れと、彼の献身を要求する。彼は、自らの認識行為として、個人的な判断を下し、徴候を外界の実在に関係づける。そしてその外界の実在の一側面こそは、彼が把捉しようと目論んでいるものに他ならない。

(『暗黙知の次元』「第Ⅰ章 暗黙知」M.ポランニー 高橋勇夫訳)

 

このように読んでくると、ポランニーさんには一つの信念があることがわかります。

「暗黙知」は「自己に淫する」ような知ではありません。それは「隠れた真理を追究せずにはいられぬ責任感に満たされている」ものなのです。そして「暗黙知」は人間の責任感に働きかけ、その人の「献身を要求する」というものなのです。

そして、さらにそれは個人的な献身にとどまらず、そもそも生命の進化の仕組みにも関わる概念なのです。生命の誕生や進化は、実は「暗黙知」的な働きによって生じてきた、あるいは動いてきたものなのだ、とポランニーさんは考えます。高橋さんが解説で書いていたように、ポランニーさんは「暗黙知」について「進化の動因と同じものを想像している」のです。そして私たち一人一人は、「たぶん宇宙的な原理として、より高次の位相に向かうベクトルが貫かれている」ということになるのです。つまり、生命の誕生から始まって、生命が進化して人間となり、さらにその人間が近代科学によって発展してきた、という流れの全てに「暗黙知」的な力が働いており、それはより良い方向へと、より高みへと私たちを導いていく、ということなのです。

なかなか壮大ですね。それに、このように読んでくると、ちょっと考え方が理想的に過ぎませんか、とポランニーさんに聞きたくなります。そんなふうに、うまく物事は運ばないですよ、とポランニーさんに言いたくなります。

ここで、ポランニーさんの生きた時代が気になります。そうすると、ポランニーさんの生きた時代だって第二次世界大戦があり、また共産主義による改革に挫折が見えた時代だったということがわかります。決して楽天的に人間を捉えられる時代ではなかったはずです。それでは、なぜポランニーさんは「暗黙知」をこのような理想的なものとして考えたのでしょうか?

そのことについて、高橋さんは次のように書いています。

 

またポランニーが暗黙知の哲学を練り上げていた40、50年代は、実存主義が隆盛した時代でもあった。実存主義も20世紀の「荒地」に対処しようとするものだった。ポランニーは共産主義のみならず、この実存主義にも脅威を感じていた。なぜならポランニーの目に、実存主義は人間の明示的な自己決定を絶対化するもののように映ったからである。懐疑主義によって解体し尽くされた世界を一身に背負った人間は、ささやかな寄る辺すらもなく、ただ自己を絶対化して世界の不条理に向かって投企していくしかなかったのである。

現実の共産主義社会の人間破壊と実存主義者の絶望を目の当たりにするとき、ポランニーは、これらのいずれの道も誤っていると考えざるを得なかった。なまじりを決した共産主義も苦悶に顔を歪ませる実存主義も、ともに絶対的な完全主義に自閉してしまっている。しかし完全主義は例外なく破壊的なのである。人間を破壊する知が、金輪際、真実や善であるはずはなかったのだ。

<中略>

だから完全なる社会と完全なる道徳、この両者をともに克服しなければならない。ポランニーはそう考えたのだろう。

ポランニーの考えでは、暗黙知がその処方箋であった。彼は暗黙知の階層性と社会性が極端な完全主義を退けると考えた。暗黙知がある限り、人間はつねにより上位の「隠れた実在」を志向して、自らの知を更新し続けねばならない。つまり現行の知はいつまでたっても不完全なままなのである。

(『暗黙知の次元』「訳者解説」高橋勇夫)

 

なるほど、このようなことがわかると、ますますポランニーさんに興味がわきます。人間不信がはびこる時代において、ポランニーさんはあえて「暗黙知」を、人間が良い方向へと向かうベクトルのようなものとして考えたのです。それに、そのベクトルはつねに上位を志向するために、いつまで経っても「不完全なまま」である、というのも好ましいところです。上昇志向の人は、完全性を追求しがちですが、「暗黙知」は完全性を求めるものではないのです。

そして高橋さんの解説によると、ポランニーさんはこの人間社会を「割りとナイーブに信頼している」ということです。そういう社会では、優れた科学者の発見も公正に評価されるでしょうし、世界は良い方向へと向かうのでしょう。

ところが、私たちはおそらく、そして残念ながら、そのように楽観できる世界には生きていないと思います。だから「暗黙知」というものが存在するのなら、それがどのような方向へ向かうのか、注視しなければなりません。

その一方で、ここまで読んで下さった方なら、もうお分かりだと思うのですが、この「暗黙知」という概念は芸術を創造するうえでたいへん参考になるものです。というか、一人一人の芸術家が毎日、作品を創造する際につねに「暗黙知」に導かれているのだ、と言ってもよいのだと思います。

例えば私のように、自分で絵を描き、批評活動も志している者にとっては、その両者の間に言葉では埋めきれない何かがあることをひしひしと感じます。私は、その溝を完全に、言葉によって埋めたいとは思いません。ただ、そこに何かがあることを、私の文章を読んだ人に感じてほしいと思っています。「暗黙知」は、その何かに一つの手がかりを与える概念なのです。少なくとも、私はそう思います。

 

最後に、ポランニーさんがこの本をどのような言葉で結んでいるのかを読んでみましょう。ポランニーさんの思いは、次第に宗教へと向かっていったようです。

 

これまで私は、私たちの想像的企図は、私たち人間の起源たる生物進化に由来するものだと述べてきた。この宇宙的な意味の発生が進化を推進する力になるのだ。しかしその主たる産物は、つかの間の生存で満足できる植物や動物であった。人間は永遠に関わる目的を必要とする。真理は永遠に関わる。私たちの理想も永遠に関わる。ならばそれで十分なのかもしれない。もし、万が一、私たちが、自らの明白な道徳的欠点に満足し、そうした欠点のためにその運営に致命的な支障を持つ社会に満足できるとするならば。

ひょっとしたらこの問題は、世俗的地平のみでは、解決不能なのかもしれない。しかし、宗教的信念が不条理な世界観の圧迫から解放されたなら、この問題の宗教的解決は今よりも現実味を帯びてくるだろう。そして不条理な世界に代わって、宗教へと共鳴していく可能性を持つ有意味な世界が出現するだろう。

(『暗黙知の次元』「第Ⅲ章 探求者たちの社会」M.ポランニー 高橋勇夫訳)

 

うーん、難しいですね。この最後の部分を正確に理解するには、ポランニーさんがどのような宗教観の中で生きていたのかを知る必要がありそうです。ただ、ポランニーさんが科学者としての経験から発想した「暗黙知」が、やがて哲学や思想の問題となり、ついには宗教にまで話が及んでいることに注目しましょう。科学という一つの分野での経験を深く掘り下げることで、その概念は学際的な、あるいは全世界的な問題へと広がり、深まっていったのです。

ここで、このポランニーさんの結びとともに、高橋さんの解説を添えておきましょう。そこにははっきりと、こう書かれています。

 

科学者としてのポランニーは、変化や進化の方法としての暗黙知を科学的に位置づけようとしているだけなのだ。しかし哲学者としてのポランニーは、暗黙知によって、人間と宇宙を貫く倫理の構築を夢想していたのだと思う。

(『暗黙知の次元』「訳者解説」高橋勇夫)

 

ポランニーさんは、最初から何かでかいことを考えてやろう、などとは思っていなかったのです。むしろ真摯な一人の科学者であったといっていいでしょう。それが分野を横断して、「人間と宇宙を貫く倫理の構築」にまで至ったのです。

ものごとを深く考える、ということはこういうことではないでしょうか?

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