日本では、学校でも職場でも、3月が一つの区切りの時期になります。新たな出発を前にして、それまでの生活との別離をされる方も多いと思います。
私は毎年、この時期に「学年通信」などのプリントで生徒たちへのメッセージを求められるのですが、今回は2016年にノーベル文学賞を受賞したボブ・ディラン(Bob Dylan, 1941 - )さんの歌「ライク・ア・ローリング・ストーン」について触れました。このblogを読んでいただいている方には、あまりにもベタな歌なのかもしれませんが、今時の高校生では聞いたことがない生徒がほとんどでしょう。若い先生たちにおいても、知らない人の方が多いのかもしれません。ここでは最近発売された、ディランさんの初来日の公演の様子を収めた『コンプリート武道館』の中の「ライク・ア・ローリング・ストーン」(Like a Rolling Stone)のリンクを貼っておきます。
https://youtu.be/RG9Q1nPkD8I?si=Yzj00Vg48-dT1YKR
ディランさんは自分の曲であっても、発売当時の原曲とはかけ離れたアレンジでライブ演奏することが多いのですが、この時の演奏はどれも原曲に近く、ディランさんをこれから聞く人にとっておすすめのライブ盤だとピーター・バラカンさんがラジオで言ってました。取り上げている曲も、初期からその当時までの代表曲が広く選ばれています。
このディランさんの初来日の時、私は高校生でしたが、実は武道館に行ってました。この当時は『激しい雨』というライブ盤や、ヴァイオリンをアレンジに取り入れた『欲望』などのアルバムが大ヒットして、特に日本ではディランさんの人気が大きく盛り上がった時期だったのです。その中で1960年代の曲をどれくらい演奏してくれるのか、とあまり期待していなかったのですが、結果はバラカンさんの言った通り、ベスト盤のような選曲で、曲の雰囲気も期待を裏切らないものでした。もしかしたら、初めて公演する場所だということを考えて、ディランさんなりの配慮があったのかもしれません。
さて「ライク・ア・ローリング・ストーン」(Like a Rolling Stone)ですが、この曲はお金持ちや権力者、エリートを揶揄する若者のプロテスト・ソングの形をとっていますが、そのメッセージは「恵まれない人たちの気持ちを理解しなさい!」「つねに困った人たちの立場に立ちなさい!」という極めて倫理的な歌だと私は感じていました。そういうわけで、今回は高校生にとってハードルが高かったかもしれませんが、若い先生方も含めて聞いてほしい歌だと思って、その旨を「学年通信」に書きました。
私自身は、どんなに歳をとっても「転がる石のような」存在でいたいなあ、と思っています。幸いなことに、私はこの年齢になっても、お金も権力もなくて、人から羨ましがられる要素が何もない、つまり失うものが何もない人間ですので、特に意識しなくても「転がる石のように」生きています。これは、私の人生の中で数少ない喜ばしいことです。
そして、ディランさんのパワフルな歌を聞くと、今、戦争をしている為政者たち、武器を売って儲けようとしている政治家と死の商人たちを、爆弾が落ちる現場に立たせて「どんな気持ちだい?」と聞いてみたい衝動に駆られます。大切な人を失う悲しみ、体の一部を失う痛み、死の恐怖などを都合よく遮断する装置が彼らの頭の中にあるのでしょう。それはディランさんの歌の力をもってしても壊すことができないのでしょう。そうだとしたら、彼ら自身を戦争の現場に立たせるしかないではないですか・・・。そんな埒もないことを考えるのは、本当に悔しくて、悲しいことです。
さて、今回は前回も取り上げた『「雑」の思想 世界の複雑さを愛するために』(高橋源一郎、辻信一著)という本から派生する、気になることや人、本について考えます。
それにしても、なぜ「雑」という言葉、思想にこだわったのでしょうか?辻さんによる「はじめに」という文章の一部を読んでみましょう。
科学・技術・経済最優先の道をひたすら走り続けてきたぼくたちの目の前に、断崖が待ち構えている。「ある問題を引き起こしたのと同じ思考方法(マインド・セット)のままで、その問題を解決することはできない」というアルベルト・アインシュタインの言葉にならっていえば、人々の心の危機も、社会の、そして自然環境の危機も、それを引き起こした「経済」というマインドセットから、そしてそれを支えてきた進歩主義、還元主義、機械的自然論、効率主義などの思考方法から抜け出すことによってしか解決できないのだろう。とすればそれらのマインドセットによって排除されてきた「雑」なるモノやコトにこそ、逆に、それらを超えるためのヒントが詰まっているといえるのではないか。
<中略>
「雑」という日本語には、さまざまな意味がある。①種々のものが入りまじること。混ざっている状態で、均一、純粋でないこと。②主要でないこと。③分類しにくいこと。定義がはっきりしないこと。④有用でないもの。余計なもの。⑤粗くて、念入りでないこと・・・。
「雑」というのは“雑然”とした言葉なのだ。しかし、よく見ると共通点がある。どれも負性と否定性を刻印されているのだ。とくに、効率や均質性を旨とする現代社会において、それらは“弱さ”の資質をあらわすだろう。「弱さ」というテーマから「雑」というテーマへの流れは、ぼくたちにとって必然的なものだと感じられた。そして否定性が反転して肯定性へ、さらに創造的なエネルギーへと転換する、という点でも「弱さ」と「雑」というテーマは重なる、とぼくたちは考えている。
(『「雑」の思想 』「はじめに」辻信一)
前回、この本と一緒に取り上げた『「複雑系」入門 』(金重明)という本は、理数系の「複雑系」という概念について解説した本でした。それに比べて『「雑」という思想』は、かなりいい加減に「雑」について語り合った本です。しかし、その根っこのところには、「進歩主義、還元主義、機械的自然論、効率主義などの思考方法から抜け出すことによってしか解決できない」という現代社会への危機意識があります。その点においては、このblogを読んでくださっている方々と共有できるのではないか、と思いますがいかがでしょうか?
そしてこの本では、話題が多岐にわたり、さまざまな思想や考え方、人、本が紹介されますが、その中で今回はカール・ポランニー(Karl Polanyi、1886 - 1964)さんという経済学者について触れてみます。高橋さんと辻さんがポランニーさんについて語った部分を読んでみましょう。
<辻>
ぼくはいま、担当している大学院の学生にカール・ポランニーを読んでもらっています。この学生は、現代日本社会における障害をテーマに修士論文を書こうとしているんですが、障害や差別について論じる上で、現代世界で支配的な、新自由主義的経済思想との関連で考えることが重要だと思うからです。ポランニーについては、前の「弱さ」の研究でも今回の「雑」の研究でも、たびたびふれてきました。彼は第一次、第二次世界大戦のただ中に生き、その中で非常に重要な仕事をした人ですが、この人も、研究の仕方が間専門的で、関心の領域がじつに多岐にわたっている。つまり仕事が一見、雑然としているんです。だから評価もその分低いんじゃないかなと思うんですよ。
<高橋>
「雑」だと評価が低いんだ(笑)。
<辻>
ある意味では評価は高いけれど、たとえば主流の経済学者のあいだでは、ほとんど無視されているみたいなんです。でも、その間専門的な仕事によって、経済史家や経済人類学の大家として知られてきた。彼の方法というのは、いろんな分野や領域を自由に横断しながら、経済学に巣食っている還元主義的な人間観を突き崩すというやり方です。彼の批判の矛先にあったのが、経済的自由主義でした。つまり市場は自己調整作用を持っていて、それに任せておけばすべてはうまくいく、だから邪魔しないようにするのが経済学の務めだ、というような考えですね。ファシズムの本質も、じつはここにあると彼は考えた。
でも、彼が生きた時代から半世紀以上たった現在、この世界を支配ているのは、まさにその経済的自由主義の考え方ですよね。つまり「新自由主義(ネオリベラリズム)」と呼ばれるものです。たとえばTPPのように多国間で自由貿易協定を結んで、これまで各国の経済的な自立を保つために役立ってきた、いろんな規制や法律関税を取っぱらい、多国籍化した大企業が世界中を自由に動きまわってその利益を最大化できるようなしくみを作る。これが新自由主義の考え方です。
ポランニーは、人間が自己利益を求めること、経済学でいうところの利得動機だけで経済が成り立っているなどと考えるのは、とんでもない単純化だと批判した。そして、それを証明するために古今東西の非資本主義社会、非市場主義社会の研究に没頭したんです。
彼は人類学や歴史学の膨大な資料を渉猟して、市場や交換なんてものは、じつは人間の経済動機のほんの一部にすぎないということを明らかにしたわけです。では経済の全体像はと言えば、だいたい三つの基本的な型の組み合わせとして考えられる。すなわち「互酬性」「再配分」「市場交換」です。この三つの組み合わせとして経済を考えることで、歴史上存在してきた無数の経済のバラエティに人々の目を向けさせた。これが彼が切り拓いた、比較経済史という方法でした。
その意味で言えば、市場交換にすべてを押し込めてしまうような世界はあまりにも殺伐としていて、あまりにも虚しい。でも世界はどんどんそっちの方向に向かっていると、ポランニーはずっと憂えていたのだと思います。
(『「雑」の思想 』「還元主義に抵抗する『雑』」高橋源一郎・辻信一)
私はまったくの素人なので、幼稚な感想しか書けませんが、世界経済が「市場経済」のスピードアップによって肥大化し、より高度な発展を遂げようとしているときに、「市場や交換なんてものは、じつは人間の経済動機のほんの一部にすぎないということを明らかにした」などということをしている学者は、変わり者としか思われないでしょう。
このような「市場経済」がもたらす危機の話が、私たちの興味の対象である芸術の世界とどう関わるのでしょうか?例えば、次のような世界観を持つ芸術家が力を持ち、本を出版して影響力を持つことに、皆さんは危機感を抱きませんか?
その「今」、芸術の世界は大きな変革期を迎えている。
まず、芸術家を取り巻く社会が変わった。中世までの芸術家は、王侯貴族のお抱え画家として、腕によりをかけてクライアントが満足のゆくまで、肖像画を描いていました。宗教建築の空間デザイナーとなって壮大なスケールを贅を尽くした素材で埋めていく。新しいクライアントとして医療ギルドや政治結社、そして商人の力が付きはじめたら、彼らの向上心を満たすための前衛的な作品を作る。
彼ら社会の実権者たちの虚栄心を満足させるための道具、インテリアを作る。戦争に出合えば、戦争にプロテストする芸術を作る。かと思えば、勝利した国では国威高揚のためのムーブメントを盛り上げる作品を作る。芸術家は「今」を生きる糧を得るために、クライアントのニーズに応え続ける。もちろんそれだけではない。その隙を突いて、自身の思い込んでいる未来への妄想、心の正義、執着を刻み込んできたわけです。
さらに、資本主義が成熟してくると、芸術は独立独歩を求めて歩きはじめます。いや、独立独歩であるかのような歩みを演出されている「前衛」を売りにして資本の頂点、そしてメディアの頂点目指して、スキャンダルを創造しはじめる。絵画や彫刻や空間演出等で、五感だけでなく第六感にまで訴える、ショック! ビックリさせる手法・思考に磨きをかけてあの手この手で作る。
芸術は拡散し、富めるものだけへの嗜好品から大衆のエンターテインメントにまで広がった。この三〇年、世界中に美術館が建造され、夥しい数の芸術作品がその空間を埋めるために購入され、展示されてきたのです。
(『芸術闘争論』「はじめに」村上隆)
この分析が間違っているというのではありません。むしろ、「市場経済」という観点のみを取り出して、それだけで芸術を分析してしまう、という思い切りの良さにおいて、小気味良いものさえ感じます。しかしそれが、たとえば辻さんがいうように「市場交換にすべてを押し込めてしまうような世界はあまりにも殺伐としていて、あまりにも虚しい」という認識を際立たせるためのアイロニーとして分析しているならば、素晴らしいと思います。しかし、この世界的な画家は、ポランニーさんが憂えていた経済観をまっすぐに突き進んでいるのではないでしょうか?彼は、この文章の最後の方でこう書いています。
闘いもしないで、闘うぼくのことを嘲っていたい人は嘲っていれば良い。
この本を書く、ぼくの野望、それは世界のアートシーンへ日本人アーティストを一気に二〇〇人輩出させること。そうすれば世界は変わる。アートのルールは変えることができます。我ら日本芸術界の欺瞞の歴史と、その安楽な生き方と、闘わねば! そして、苦難の門を開け放ち、辛く苦しい鉱脈発掘への冒険へと突入させたい!
(『芸術闘争論』「はじめに」村上隆)
これを読むと、まさに私は「闘うぼくのことを嘲っていたい人」のようにみなされてしまいます。しかし、私は彼のことを嘲ってなどいません。むしろ彼がこれほどアグレッシブであり続けることに、いつも感銘を覚えているのです。
しかしその一方で、彼の言うように「世界のアートシーンへ日本人アーティストを一気に二〇〇人輩出させること」で「世界は変わる」とも、「アートのルール」が変わるとも、私には思えません。外国の方々の名前の一部が日本の画家の名前に変わるだけで、世界は何も変わらないでしょう。なぜなら、その架空の彼らは「アートのルール」の中にいるからです。ただし、「日本芸術界の欺瞞の歴史と、その安楽な生き方」ならば、変えることができるのかもしれません。(世界がグローバル化していく中で、そのような村社会が変わることにどれほどの意味があるのでしょうか?)
村上さんのようなパワフルで優れた芸術家には、できれば「市場経済」そのものを突き崩すような、あるいは相対化するような、そんな活動をぜひしていただきたいです。そして、美術が「大衆のエンターテインメント」化することが良いことなのか、他の在り方はないのか、とか、「世界中に美術館が建造され、夥しい数の芸術作品がその空間を埋めるために購入され、展示されてきた」という芸術のあり方が良いことなのか、などという根本的なところに切り込んでいただきたいです。
さて、話がポランニーさんから外れてしまいました。私はいま、ポランニーさんについて勉強中ですが、例えばポランニーさんについて書かれた『カール・ポランニーの経済学入門』という本の一節には、次のようなものがあります。
ポランニーは、近現代社会の特徴を、市場経済を基盤とした市場社会であると捉えた。そこでは、社会の可能性は市場がもたらす経済的な可能性によって制約されると考えられていて、日常生活では生きるための諸条件を、市場での売買を通じてそれぞれが獲得することになっている。日々の暮らしは市場を通じて組織されているので、各人が自らの責任で市場の要請に適応し、必要なものを買えるだけの報酬を得て飢えを避けなければならない。個人だけでなく、家族も企業もそして自治体や政府も市場の要請に適応することが求められ、経済的なことが、人間的な事柄、社会的な事柄、政治や文化の領域や人びとの行為の動機を支配している。あるいはまた、市場経済の利害や要請に従いそれに適合することは、人が生きていくうえで唯一可能な選択肢であるばかりか、唯一可能な自由でもある、とも繰り返し主張される。ポランニーが挑戦したのは、こうした、市場が人間の運命を握っているかのように思考する「経済決定論」の呪縛を解き、経済と社会とのさまざまな関係への回路を拓くことであった。
「人間の自由は市場経済と解きがたく結びついている」という経済的自由主義の公理に対して生涯にわたって挑戦した経済学者ポランニーは、「社会主義者」であり、かつキリスト教の信仰者であった。ポランニーの思想の対抗軸となっているのは経済的自由主義であり、経済的自由主義に対抗する自らの思想的核心には、彼独自のキリスト教理解と社会主義の定義があった。
(『カール・ポランニーの経済学入門』「第一章 カール・ポランニーの生涯と思想」若森みどり)
ポランニーさんは、農村経済、狩猟採集社会の経済、贈与交換といった人間の経済活動を広く研究したので、「経済人類学」にも大きな影響を残した、と言われています。これはどういうことを意味しているのでしょうか?
私たちはふだん「各人が自らの責任で市場の要請に適応し、必要なものを買えるだけの報酬を得て飢えを避けなければならない」、つまり自分の食い扶持は自分で稼がなければならない、と当たり前のように考えています。しかし、それは本当に当たり前のことなのでしょうか?
例えば現在、福祉や保育、それに医療、教育などその過酷な労働に見合わない賃金しか支払われないような職種において必要な労働力が不足しています。このような賃金の低い労働に従事し、生活に必要な報酬が得られないことが個人の責任にされてしまうからです。これは福祉や保育などの労働が社会的に必要とされていることと矛盾しています。経済自由主義による「市場経済の利害や要請に従う」という考え方が、常に社会的に正しいわけではないのです。このような矛盾を解消するには、「市場が人間の運命を握っているかのように思考する」ことから見直さなければなりません。そこでポランニーさんは「経済と社会とのさまざまな関係への回路を拓くこと」に挑戦したのです。そして人間の経済活動を「市場経済」に限定せずに、広く研究したのです。
そのポランニーさんは、現在、どのように評価されているのでしょうか?
今日の拡大する世界経済危機のなかで、カール・ポランニーへの世界的な関心が復活している。2012年の世界経済フォーラム(ダボス会議)でも、市場経済の拡大とその破壊的帰結に関するポランニーの洞察が話題にのぼり、グローバル企業エリートたちの集う会場に「ポランニーの亡霊が出没した」と報じられた。またローマ教皇のフランシスコは2013年11月26日に発表した最初の『使徒的勧告』のなかで、「市場と金融投棄の絶対的自律性を守ろう」とする現在の経済システムは多数の人びとを繁栄から排除する不平等な経済だと糾弾し、金融危機の根源には人間と社会に対する貨幣の支配をわれわれが受け入れていることが問題としてある、と指摘している。このフランシスコの市場原理主義批判は多くの人に注目され、それがマルクス的か、それともポランニー的か、議論を呼んでいる。
(『カール・ポランニーの経済学入門』「はじめに」若森みどり)
若森みどりさんのこの本が書かれたのが2015年、『「雑」の思想』が発売されたのが2018年ですので、ポランニーさんは10年ほど前から継続的に話題になっているということでしょうか。このような偏りのある経済は、いずれなんとかしないと貧困で苦しむ人たちがますます増えてしまいます。
このように、「雑」という思想からポランニーさんという経済学者に話が及んできましたが、私にとって興味深いのは、高橋さんと辻さんがこれらの問題を「雑」という思想の問題として捉えていることです。それは、これらの経済的な問題も、私たちの思考方法(マインドセット)から考え直すことができる、ということです。ですから経済の問題も、他の人間生活に関わるあらゆる問題も、根っこのところには人間の思考方法の問題として繋がっており、例えばそのどこかの分野で新たな思考方法の実践がなされれば、それは他の分野に影響を与えることができる、ということなのだと思います。
何を言っているのか、わかりますか?「雑」の思考による芸術的な実践が、経済的な問題に対して示唆を与えることができる、ということなのです。私にとっては、それこそが「芸術闘争」に他なりません。私は村上さんに比べれば無力でお話にならない人間ですが、それでも彼のバイタリティーに負けないように、自分なりの「芸術闘争」を続けたいと思います。その思考方法として、「雑」という思想が一つの鍵となるのです。