平らな深み、緩やかな時間

373.『須賀敦子が歩いた道』から

前々回にも書きましたが、春は新しい旅立ちの季節です。

 

とくにこの春は、私の展覧会にもよく来ていただいた同僚が新しい職場へと旅立つ機会となりました。その方は、5年前に着任された時には、まだ少女のような面影を残していた方なのですが、先日の離任の挨拶では、自分は研究者を目指して勉強を続けていくつもりだ、とキッパリと言われていました。背筋の伸びた言葉が、何とも眩しくて、そしてたくましく感じました。

このような若い方の成長を見ると、自分はこの5年間、いったい何をやってきたのだろう、と自問してしまいます。実は、その方が私の展覧会を見てくれるようになって、その視線に恥じない作品にしなければ申し訳ない、という思いもあって、私なりに一生懸命に制作活動を続けてきました。働き盛りの若い方が、わざわざ時間を作ってたった一週間の期間の展覧会に来てくださることが、どんなにたいへんなことなのか、私なりに知っているつもりです。

しかし、どんなに私が努力をしても、若い方の成長には敵いません。そして、自分が若い頃はどうだったかな、と思い返すと、ちょっと斜に構えて世の中を見て、真面目な努力をしていなかったことを思い出します。もっとも成長できるときに、不甲斐ない自分をごまかすために、暇があれば酒を飲んで朦朧としていました。いくら反省しても、あの貴重な時間は戻ってきません。

 

そんなだらしない私なので、彼女の旅立ちに際してかける言葉を持ち合わせていません。年相応のもっともらしい言葉たちが、私の口から発するとすべて白々しくなってしまうのです。そこで、その方に一冊の本を贈ることにしました。『須賀敦子が歩いた道』という写真入りの冊子です。その方に須賀敦子さんのことをこれまでも紹介してきたのですが、この本は須賀さんの世界を視覚的にも味わえるので、頭が疲れた時に気の向いたページを開いて、文章を拾い読みしてもらえるといいなあ、と思ったのです。新しい職場で働く喜びは、気付かないうちに緊張による疲れを溜めてしまうことがあります。そんな時に、イタリアの美しい街並みや美術作品の写真とともに、須賀さんの足取りを実感していただけると嬉しいです。

 

さて、須賀敦子さんについて、この本を発行している新潮社のホームページの紹介を読んでみましょう。



須賀敦子(1929-1998)

1929年生まれ。聖心女子大学卒業。24歳で初めてイタリアを訪れ、29歳からの13年をイタリアで過ごす。1961年、ジュゼッペ・リッカと結婚、谷崎潤一郎をはじめとする日本文学の伊訳を多数出版。6年後に夫が急逝。1971年帰国。1972~1984年慶応義塾大学外国語学校で講師を務める。1973年上智大学国際部比較文化学科非常勤講師、同部大学院現代日本文学科兼任講師(後に比較文化学部教授)。56歳でイタリア体験をもとにした文筆活動を開始。1991年『ミラノ 霧の風景』(白水社)で女流文学賞、講談社エッセイ賞を受賞。1998年心不全で他界。主な著書に『コルシア書店の仲間たち』『ヴェネツィアの宿』(ともに文藝春秋)、『トリエステの坂道』『地図のない道』(ともに新潮文庫)ほか。主な訳書にナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』、アントニオ・タブッキ『インド夜想曲』(ともに白水社)ほかがある。

https://www.shinchosha.co.jp/writer/1815/

 

このように字面だけ読むと、外国語が堪能な優れた文章家が、翻訳に、エッセイに、そして大学での教育活動に活躍されたという事実だけがインプットされてしまいますが、『須賀敦子が歩いた道』の最初のページを開いていただくと、30歳の頃の須賀さんの、まるで当時の映画俳優のような溌剌とした海辺での写真を見ることができます。

須賀さんは、実は20代の中頃にフランスに留学していました。そして一度帰国し、NHKに嘱託として勤めたこともあったようですが、30歳を手前にしてイタリアに行くことになります。この写真はローマに留学していた頃のものだと思われます。

 

この本をめくっていくと、須賀さんの人生の歩んだ道のりに沿って、写真と文章が進行していきます。須賀さんの著作からの引用は少し大きな薄い文字で、この本の解説の文章は少し小さめの黒い文字で書かれています。須賀さんの生涯を先に知りたい場合は、解説の文字を先に、ざっと読んでいくと良いかもしれません。

須賀さんは1929年(昭和4年)生まれですので、私の母より少し年長で、私の父より少し年少です。つまり私の父母と同じ年頃ということになります。若い皆さんから見ると、祖父母の年齢、あるいはもう少し年上かもしれませんね。この年代の女性が大学を出て、フランスに留学し、さらに帰国後に再度ヨーロッパに渡ってイタリアに留学、そのままイタリアで生活し、結婚するというのは、相当な困難を伴う人生です。もちろん、須賀さんが家庭的に恵まれていた上に、超エリートといって良いほどに勉学に長けた方だった、というのは間違いないのですが、彼女のエッセイを読むと、父親との葛藤や、ヨーロッパでの貧しい暮らしなど、良家の子女などというイメージや、エリートコースを歩んだ恵まれた人、などというステレオタイプからかけ離れた人生であったことがわかります。

この本の解説は、コンパクトな文章の中で、須賀さんが生きていく上で出会ったさまざまな出来事を、比較的丁寧にたどっています。須賀さんのお父さんは奔放でわがままな人だったようですが、両親が別居して右往左往したことや、すでに日本にいた時にキリスト教の洗礼を受けるなど、宗教に深い関心を持っていたことなどが、ちゃんと書かれています。

そして、せっかくヨーロッパに留学したものの、フランスは彼女の思いにしっくりときませんでした。フランス留学は須賀さんにとって辛い経験だったようです。フランスの何が自分にとってしっくりとこなかったのか、自分は何を求めているのか、そういったことがよくわからないまま、若い須賀さんは悶々としていたのです。しかし、その間にも、イタリアへの旅行の経験などを積み、須賀さんのイタリアへの思いは密かに育っていたようです。

この20代の頃の悶々とした気持ちは、例えばこのblogを読んでくださっている若い方、あるいは私の同僚だった方なら、よくわかるのではないですか?私はこういう心の中の真摯な声を、いつも聞き逃してしまう人間なので、おそらくこの頃の須賀さんに会ったら、面倒くさい人だなあ、というふうに感じたと思います。明確に形にならないもの、言葉にできないものというのが、とくに若い頃には心のどこかにありますよね。そういうものにちゃんと向き合わないで、やり過ごしてしまうと、私のような無意味な時間を過ごすことになります。今の私には、そういう思いの大切さがわかりますし、自分の中の思いをある程度、形にして表現することができます。しかし、時すでに遅し!残された時間があまりにも少ない、と実感している次第です。だから、研究者を目指すとはっきりと言葉にできた、若い同僚が眩しく、うらやましくもあったのです。

 

イタリアでの須賀さんはカトリック左派と呼ばれるグループに近づきます。

「カトリック左派」とは、聞きなれない言葉だと思いますが、実は須賀さんの第二エッセイ集『コルシア書店の仲間たち』のコルシア書店は、そのグループの中心となる場所だったのです。ちょうど、そのことをわかりやすく書いた記事がありました。

 

「コルシア・デイ・セルヴィ書店」、略して「コルシア書店」は第二次大戦後の1946年に、ミラノの中心街にあるサン・カルロ教会の物置だったスペースを借りて出発した。書店というより一種の活動拠点。ダヴィデ・トゥロルド、カミッロ・デ・ピアツという2人の神父によって設立された。

 2人は戦時下には反ファシスト・レジスタンス活動に身を投じており、戦後、新しい信仰と教会のあり方を考える活動拠点としてスタートしたのがコルシア書店だ。

 須賀敦子の第2エッセー集「コルシア書店の仲間たち」に、この書店の成り立ち、当時置かれた状況、須賀にとっての存在意味などが、当時知り合ったミラノの人々を語るエピソードの合間に、ぽつりぽつりと語られている。

https://www.sankei.com/article/20161019-4EWIELTFLZLTNHRWESORCQE5U4/

 

須賀さんは、その不思議な書店の人間模様を描いていますが、宗教や思想に関わる難しい話にほとんど触れていません。書店に出入りする愛すべき人たちの話を読みながら、私たちはイタリアの素朴で、かつインテリジェンスのある人たちが懸命に生きる様を肌で感じるのです。須賀さんは、その実務面を支えていた、教養豊かなベッピーノさんと結婚します。そして彼のアドヴァイスを受けながら、日本文学のイタリア語訳などの翻訳の仕事をしていくのです。

 

その須賀さんの翻訳の仕事について、私はヤマザキマリさんがNHKの「100分DE名著」で『砂の女』をとりあげた時に、blogで詳しく書いています。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/04414e280abcd229058202856b823e11

ヤマザキさんは、イタリアにいた時にイタリアの人から、須賀さんがイタリア語に翻訳した安部公房さんの『砂の女』をすすめられて読んだのでした。それだけ須賀さんの翻訳がイタリアの文学好きな人たちの間に浸透していた、ということです。

この『須賀敦子が歩いた道』という本では、最後の方の数ページにアレッサンドロ・ジェレヴィーニさんという作家、翻訳家が須賀さんの翻訳について、その語学力について文章を寄せています。イタリアの青年が日本文学に興味を持った時、知らないうちに須賀さんの翻訳に出会っていたのです。これは私たちが日本文学を英語に翻訳し、その文章の微妙なニュアンスや魅力まで伝えることを考えると、途方もないことだとわかります。須賀さんの文学者としてのキャリアは、イタリア語の本を日本語に訳すということではなくて、日本語の本をイタリア語に翻訳する、という語学の上では最もハードルの高いところから始まっているのです。ジェレヴィーニさんは、須賀さんのイタリア語の素晴らしさに感嘆しています。ぜひ、この本の最後までお読みください。

 

この『須賀敦子が歩いた道』では、須賀さんのゆかりの地を、美しい写真を見ながら追うことができます。ミラノはもちろん、その前にはシエナ、ペルージャ、ローマ、その後にはフィレンツェ、ヴェネツィア、トリエステ、そして最後のヨーロッパ旅行のパリです。美術作品や建築に焦点を当てているのがこの本の特徴で、それは後半の松山巖さんの文章に引き継がれています。

その前に、須賀さんのエッセイについて少しだけ触れておきましょう。これまでも折に触れて須賀さんのエッセイの素晴らしさについて書いてきましたが、そのblogを初めて読む方には、その一端に触れていただこうと思います。例えば1993年に発表された『ヴェネツィアの宿』の一節です。これはヴェネツィアに文学賞選考の会議に出た須賀さんが、その晩餐会の会場からホテルまでの道に迷い、思いがけずでくわした広場での情景を語った文章です。

 

 目のまえに、スポットライトで立体的に照らし出されたフェニーチェ劇場の建物が、暗い夜の色を背に、ぽっかりと浮かんでいた。そして、建物を照らしている光のなかに、一見して旅行者とわかる、それでいて、てんでばらばらな男女の群れが、まるで英雄の帰還を待ちあぐむ舞台の上の群衆のように、広場ともいえない狭い空間のあちこち、劇場のまえのゆるい傾斜の石段や、反対側の、これも道から一段高くなった屋根つきの通路に、うねりひびく音の波をそれぞれが胸に抱えこむようにして地面に腰をおろしていた。あっと思ったつぎの瞬間、オーケストラの音を縫うようにして、澄んだ力づよいソプラノが空に舞った。何度も聴いたことのある旋律なのだけれど、オペラに不案内な私には、どの作品のどのアリアなのかは、わからない。劇場に入れなかった人たちのために、広場のどこかにしつらえられたスピーカーから、舞台の音が中継されているのだとはっきり理解するまで、たぶん何秒か過ぎたと思う。それほどすべてが意表をついていて、ふしぎな幻の世界にひき込まれたようだった。  

 その夜、フェニーチェ劇場創立二〇〇年記念のガラ・コンサートがあることは、夕方、ホテルに来たときに見たポスターで知ってはいた。でも、それ以上は読まないで通りすぎたのだった。そういえば、晩餐のレストランに向う途中で、ずいぶんきらきらしたドレスを着こんだ女たちが、タキシードの男たちにエスコートされて石橋を渡ってくるのに出くわした。ミラノやローマのオペラ劇場なら、有名人めあての見物人が群がる車寄せに運転手つきの自動車で優雅に乗りつける種類の人たちが、車がないこの街では、どんなに身分が高くても大金持でも、遊び帰りの子供たちやジーンズ姿の若者たちをよけながら、ただ街中を歩いて劇場に入らなければならない。その光景がめずらしく、どこか滑稽で、出会ったそのときは目をみはったのだったが、晩餐会の喧噪にまぎれて、すっかり忘れていた。あの空色の星のネオンの路地を出る瞬間まで、オペラも劇場の二〇〇年祭も私のあたまにはなかったし、たとえ覚えていたにしても、音楽会の中身が劇場前の広場にスピーカーで通行人にまで分配されるなど、考えてもみなかった。

(『ヴェネツィアの宿』須賀敦子)

 

道に迷ってたまたま出た広場で、オペラの記念行事がやっていた、というそれだけの話ですが、体調不良から早めに晩餐会を抜けて街に出た心細さが伏線になって、私たちはいつの間にかヴェネツィアの街をさまよう須賀さんの視線に同化して、そして記念行事の光景がまるで幻想的な出来事のように感じられるのです。

須賀さんのエッセイには、創作が施されている、という話をよく聞きます。例えば、『コルシア書店の仲間たち』では、須賀さんに思いを寄せる人物がいたらしいのですが、そんなことには全く触れず、それでいて須賀さんはその人を魅力的な人物として語っています。もっと昔の、幼い日の記憶には、記憶の曖昧さもあってか、さらに創作にあたるような記述があるようです。これは、須賀さんのエッセイが、単なる体験記や感想文ではないことを表しています。そのために須賀さんは、イタリアから帰国して、エッセイを書くまでに20年を要した、ということを指摘する人もいます。この本に興味を持ったなら、ぜひ須賀さんのエッセイを読んでみてください。

 

さて、この『須賀敦子が歩いた道』という本の素晴らしいところは、後半の松山巖さんの文章を掲載しているところにあります。松山さんは東京芸大の建築家を卒業しながら、建築の仕事からは早々と手を引いて、評論や小説などで数々の文学賞を受賞している人です。須賀さんとは、新聞の書評委員などを一緒に務められた時期があり、生前から親交が深かったのです。そして今回のこの本では、松山さんが須賀さんに関わるイタリア美術をめぐって、その感想を須賀さんへの手紙形式で綴る、というものなのです。

この文章は、もしかしたら、若い方にはやや厄介な文章かもしれません。それは須賀さんの美術への興味が、イタリアの盛期ルネサンスの名画などにはまったく触れていないからです。バロック期のカラヴァッジオ(Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571 - 1610)、もしくは14世紀から15世紀に描かれた教会の壁画に、その興味が集中します。これはいかにもイタリアで生活した人の視線だと思います。私はイタリアに行ったことがありませんが、もし行けたらこれらの作品の本物を見てみたいです。日本にいて、図版や画像だけで作品を見ると、どうしても遠近法や油性絵の具などの技法が確立する前の絵は、どこかに違和を感じてしまいますが、実際の作品の色彩や質感などを見れば、そんなものは吹っ飛んでしまうという予感があります。この文章でも、松山さんは須賀さんが愛したシモーネ・マルティーニ(Simone Martini、1284 - 1344)の空の青さについて言及しています。

https://artsandculture.google.com/asset/guidoriccio-da-fogliano/KwGsAiYoIN09ww?hl=ja&ms=%7B%22x%22%3A0.5%2C%22y%22%3A0.5%2C%22z%22%3A9.485164041647115%2C%22size%22%3A%7B%22width%22%3A0.8870575221238943%2C%22height%22%3A1.3255923830252019%7D%7D

それから、ピエロ・デラ・フランチェスカ(Piero della Francesca, 1412 - 1492)についても語られています。彼の作品は、壁画作品であれば日本で見ることができませんので、その分、日本での人気はいま一つなのかな、と思います。残念ですが、仕方ありません。

そして松山さんは、日本でもやっと名前が知られるようになったジョルジョ・モランディ(Giorgio Morandi, 1890 - 1964)さんについて触れています。実はモランディさんについては、須賀さんはそれほど語っていません。それにも関わらず、須賀さんの全集が発行されたときにモランディさんの静物画のモチーフを撮影した写真が使われました。絵ではなくて写真だった、というところが一捻りあったわけですが、それにしてもなぜモランディさんだったのでしょうか?その理由がこの文章の中で語られています。

この文章では、須賀さんが創作活動、つまり小説を書こうとしていたことが語られています。「今までの仕事はゴミみたいなものだから」と松山さんに語っていたようです。ちょっとびっくりしますね。松山さんも「愛読者は、泣きますよ」と書いています。しかし、これは須賀さんらしい、最後まで自分の足に合う靴を探していた、ということだと思います。どういうことなのか、は後で説明します。

須賀さんは志半ばで、69歳で亡くなったのですが、私もあと5年でその歳になります。もちろん、30代でイタリア語で日本文学を紹介した須賀さんとは比較になりませんが、この年齢になって新たに表現分野を広げるということが、いかに大変なことなのか、よくわかります。その生き様だけは手本にしたいものです。

 

最後になりますが、須賀さんの文章はどれも美しいのですが、私の心の支えになっている文章を紹介します。はじめに書いたように、これから旅立つ若い方には、私のような者が贈る言葉は何もないのですが、よかったらこの文章を捧げたいと思います。

 

 きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。  

 下駄がいけなかったのだろうか。子供のころ、通り雨に濡れたり、水たまりの泥がはねたりすると、足にハの字形の赤い模様がついてしまった、また、石ころにつっかけては鼻緒を切ったり歯が欠けたりした小さな塗り下駄のせいで、じぶんの足は、完璧な靴に包まれる資格をうしなってしまったのだろうか。  

 あまり私がよくころぶので、おとなたちは、初物のソラマメみたいな、右と左がはっきりしない、浅くてぺたんこのゴム靴を買ってくれたこともあった。これならもう、子ネコに狙われた毛糸の玉みたいに、やたらころころところばなくなるだろう。  

 だが、おとなたちの思惑は外れた。水色のゴム靴には木綿の裏地がついているのだが、それが歩いているうちにすこしずつ剝がれて、足の下でくるくると巻いてしまったから、彼らが後ろから歩いてくる子供のことをふと思い出してふりかえると、私はとうのむかしに脱いでしまった靴を、片方ずつ両手にぶらさげて歩いていた。靴底がごろごろするくらいなら、はだしのほうがよかった。

(『ユルスナールの靴』須賀敦子)

 

この最初の一文「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ」という信念が、妥協を許さずに人生を歩んだ須賀さんの生き方を象徴しているようです。自分の生きる場所を探してヨーロッパに旅立ち、フランスでうまく行かなくてもあきらめずにイタリアまで辿り着いたこと、さらに翻訳、評論、文学研究、そしてエッセイ、小説と表現領域においても、つねに自分の「足に合った靴」を探していたこと、いずれもこの文章通りに生きた人だと思います。

一つの仕事や職業、表現などにこだわって、それを極めることも、あるいは自分の領域を広げたり、移動したりすることも、いずれにしても「足に合った靴」が見つかればOKです。でも、そうはいかないのに、不満ばかりで生きていくのはとても残念なことです。

ということで、この言葉を若い方、そして旅立つ同僚に贈ります。

 

きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ

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