年度末の慌ただしい中でしたが、個展を無事に終えることができました。
公私にわたって私自身が忙しくてほとんど在廊できず、お会いできなかった方々には本当に申し訳なく、また私自身が残念でなりません。
それでも、閉廊まぎわの短い時間でしたが、何人かの方とお話ができて、とりわけ若い作家の方と真摯に対話できたことがとても楽しかったです。ただ、短い時間でしたので、私の言葉不足のために中途半端なお話になってしまいました。ここであらためて、その補足をしたいと思います。
まず、パンフレットのテキストにも少し書いたことですが、今回は色彩について、意図的に表現の幅を広げてみようと考えました。私は絵画に対する考え方としては、後期印象派のセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)に大きな影響を受けていますが、絵の色彩についてはゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853 - 1890)やボナール(Pierre Bonnard, 1867 - 1947)が大好きです。とくにボナールは、私が使いこなせていない色彩を駆使していることから、その作品を見るたびに発見や学習があります。
今回の個展会場で、ある若い作家の方と、私の絵の色彩について話をしているうちに、ボナールの絵に話が及びました。そのときに十分にお話できなかったことについて書いておきます。
さて、もしもボナールの実物の作品をご覧になっていない方がいらしたら、あるいはご覧になっている方も、東京国立近代美術館がボナールの素晴らしい風景画を所蔵していますから、何かの折に見てください。
https://www.momat.go.jp/am/exhibition/pierrebonnard2022_2/
この美術館のページに、平倉圭さんが詳細なテキストを寄せています。とくに色彩に関する記述は注目すべきものです。
中央の木に飛び交うビリジアン。画面の臍へそをなす位置に唐突に塗られたカーマイン(これも幹だろうか?)。黄とオレンジも強い。生っぽい色は周囲になじまない代わりに――なじむことで絵画の中に描写的な奥行きを作らない代わりに――、かえって離れた場所にある色と響き合い、空間を作る。その響き合いの感覚は、画面の局所に位置づけられないという意味で非視覚的で、むしろ空間を満たす「音」に近い。
特集展示の説明文によると、ピカソはボナールの絵を「極度にオーケストラのような表面 an extremely orchestrated surface」と呼んだらしい2。空の青をふたたび見る。音楽の喩を用いたピカソの真意はわからないが、この空の描写は、私にとってたしかに耳に「くる」。実際には何も聞こえないのに、画面全体を満たす反響に鼓膜が圧おされているように感じられる。そこをくぐるように、ふたたび画面の中に入る。
左右で見切れる画面は、比較的小さいながらも環境 environmentであり、私を取り囲む。見る私はそこで、かすられ、延ばされる、絵具でできた世界の響きに着水する。
(「ボナール《プロヴァンス風景》(1932)を見始める(前編)」平倉圭)
目を画面右に向ける。遠近効果を無視して、同じような形・大きさの木が三つ縦に並んでいる[図1]。――ここでは木々の色は全く違う。手前は黄味の強い明るい緑。真ん中は灰色がかった青味の強い緑。その奥に、赤味がかった焦茶色のかすれて透ける木が描かれている。
三つの木の色は区別されている。例えば真ん中の木に用いた青緑を、手前や奥の木を塗る筆に混ぜていない。これは特別な抵抗を必要とする行為だと感じられる。同じ「木」という類である、同じ葉緑素を持つ似た形であるという、類同性の半ば自動的な認知から、描く手の動きを切り離しているということだ。
つい・・周りの木にも同じ色のタッチを混ぜてしまいそうだ。そうすることで生まれたはずの木々の結びつきを、ボナールは意図的に回避している。遠近法の欠如――三本の木が見かけ上収縮しないということ以上に、木々を共通の「類」に結びつけるはずの色のつながりの欠如が、描かれた世界の統一性を失わせている。
(「ボナール《プロヴァンス風景》(1932)を見始める(後編)」平倉圭)
このように、ときには遠近法を無視して構図を作り、ときには形が溶け出すような描写をするなど、ボナールの絵はいわゆる「上手な絵」とはほど遠い見え方をしています。しかし、平倉圭さんが書いているように、ボナールは画面全体が「オーケストラ」の音の響きのような印象を与えるために、さまざまな技法を駆使しています。一見すると、稚拙にも見えるボナールの絵は、その画面全体の響きのための仕掛けに満ちているのです。
その一方で、ボナールの絵はモノクロの画面で見てみると、意外と写実的な感じがします。例えば、次のリンクのページの、三枚目の『逆光の中の裸婦』という有名な作品を見てください。
http://blog.meiga.shop-pro.jp/?eid=372
この絵の画像をモノクロ画面で見てみると、光の扱い方がとても写実的でびっくりします。女性の背景の壁の水色やソファーのピンク色などの明度(色の明るさの度合い)が正確なので、レースのカーテンからこぼれる光と影がそのまま描かれているように見えるのです。
ボナールの絵は、平倉さんが指摘したような遠近法を無視したデフォルメが施されているので、どの作品もこのように写実的に見えるとは言いませんが、色彩の明度に関してはどの作品も正確です。どんなに実物の色彩とは違った彩りに見えても、ボナールは空間全体の広がりを感じさせる明度の変化については、絶対にミスをしないのです。
ボナールという画家は、美術史上ではナヴィ派という、ちょっとマイナーな「派(主義)」にカテゴライズされていて、マティス(Henri Matisse, 1869 - 1954)のフォーヴィズム(野獣派)やピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)のキュビスム(立体派)に比べると、スケールの小さな画家として分類されているような気がします。それはモダニズムの絵画が、形象や色彩を単純化し、平面化する傾向へと進んでいったことと無縁ではないでしょう。モダニズムの絵画は、ボナールという可能性の豊かな表現者をあえて避けてしまい、マティスやピカソの表現を限定的に引き継いでしまったのです。これはモダニズムの考え方がそうさせてしまった面があると同時に、ボナールの高度な色彩表現を引き継げる画家がほとんどいなかった、という技術的な面もあるでしょう。
そこで、ちょっとおこがましいのですが、私がそれを試みてみよう、という気持ちもあって、今回の個展の色彩表現となりました。私がボナールの絵でとくに好きなのが、色彩豊かな入浴を描いた絵です。先ほどのリンクのページで見ると、一番最後の『浴槽の裸婦』がそのうちの一枚になります。例えば背景の壁の色を見てください。壁の中央あたりに窓から漏れた光が差しているのだと思いますが、黄色、オレンジ、紫、青などの色彩が交響楽のように鳴り響いています。これらの豊かな色彩は、私が無意識に描いたのではまったく画面に表れてきそうもない色彩です。そこで、それらの色のイメージを記憶した上で制作してみよう、と考えたのです。パンフレットにも書きましたが、これは絵の良し悪しとは別に、とても楽しい制作でした。
絵を描くという行為は、本来、楽しいものですし、若い画家の皆さんには、その楽しさを失わずに制作を続けていただきたいと思います。そのときに、色彩表現は絵を見るときの快楽にも繋がるものですから、頭でっかちの批評家の言葉に惑わされず、ぜひいろいろな冒険を試みていただきたいと思います。私も、そうしたいと考えています。
それから、最終日の搬出の間際で、ご自身は日本画の制作に携わりながら、現代美術家の荒川修作(1936 - 2010)さんに興味がある、という若い作家にお会いしました。荒川修作さんはだいぶ前に亡くなっているので、ご存じない方はこちらのリンクをご覧ください。
https://www.architectural-body.com/
私の理解するところでは、荒川修作さんはモダニズムの絵画の行き詰まりを感じて、一般的な「絵を眺める」という見方ではなくて、「絵を読む」という見方で表現活動を行った作家です。なんとなく絵を眺めていると、私たちは自然と遠近法的で、立体的なイリュージョンを前提とした絵の眺め方をしてしまいます。それに対して荒川さんは、画面を読むような絵の見方を提唱したのです。
このような絵の見方は、パウル・クレー(Paul Klee, 1879 - 1940)の作品を発展させたものだとも言えます。例えばクレーの『忘れっぽい天使』という有名なデッサンを見てください。
https://mall.aflo.com/atelier/framing.php?product_id=4126388
この絵を見るときに、この天使のフォルムを把握しようとすると、形のかたまりのところどころにほころびがあって、うまくいきません。そのことから、この絵を見る人は自然とクレーの描いた線を目で辿ることになります。他にもクレーの作品には、数字が書かれていてクレーの描いた線を順番に辿ることができるようになっている作品があります。あるいは矢印のような記号で視線を誘導するものもあります。クレーは画面全体を遠近法的に見るのではなくて、画面上を右往左往しながら見るように、私たちの視線を誘導しているのです。荒川修作さんの絵にも、記号、文字、矢印が頻繁に現れます。荒川さんは、クレーの絵の記号的な性格を取り出して、表現したのだとも言えるのです。
それと同時に、荒川さんは人間の身体性の問題にもこだわった作家でした。絵を見るときの、人間の視線の動きを具体的に想定して制作するわけですから、荒川さんの興味が人間の身体性へと向かったのは自然な流れだと思います。さらにその流れから、彼は建築や環境芸術などの分野へと、活動の場を広げていったのでした。それは、視覚優先のモダニズムの思想を見直しているという点で、私の興味とも繋がるところがあります。
ただし、ここで表現者である画家として、少なくとも二つに道が分かれているような気がします。人間の身体性の問題に気付いたときに、それを表現する方法として絵画を選ぶのか、それとも絵画にこだわらずに建築や環境芸術などに場を移すのか、という選択です。私は、荒川修作という作家は、画家というよりはデザイナーに近い感性を持った人だったのではないか、と思います。自分の思考を表現する上で、絵画表現は彼の一部に過ぎません。彼にとって具体的な空間を表現することの方が彼の適性に合っていて、その才能を発揮できたのではないか、と思うのです。
私がお会いした若い作家は、日本画という伝統的な素材による表現に関わる方です。私は彼女の作品を数点見せていただいたに過ぎないのですが、彼女が高いレベルの技術を持っていると思いました。その一方で、その方が荒川修作の作品に共感を覚えているということは、彼女の中でモダニズムの行き詰まりから飛び立とうとする衝動が湧き上がってもいるのだと思います。
若い作家の中には、あらゆる可能性が開かれています。しかし、今の時代は何をやっても文句を言われない代わりに、そこから前に進むのも容易なことではありません。できれば、例えば荒川風の作品を作る、というような短絡に陥ることなく、自分の中の気持ちを正直に見つめて進んでいただきたいものです。もしも絵が好きなら絵を描くことを続ければ良いし、そうでないなら絵から離れて表現の場を広げることも良いでしょう。
ここで注意すべきことがあるとしたら、どんな人にアドヴァイスをもらっても、それはその助言者の立場を反映した言葉になってしまう、ということです。伝統的な日本画に関わる方に助言を求めれば、絵画から離れるなどとんでもない、ということになるでしょうし、現代美術の作家に助言を求めれば、日本画の素材などもう古いよ、と言われるかもしれません。しかし、素材そのものに古いも新しいもありません。油絵の具や日本画の絵の具が歴史的な背景を背負った素材であることは確かですが、それを使うのは現在の私たちですから、私たちの意識の持ちようによっていかようにもなるのです。
私の若い頃には、油絵の具はもう古い、とか、絵画はもう終わりだ、という意見が大勢を占めていました。そのことは、さんざんこのblogで書きましたが、油絵の具はもう古い、と言った人たちが、油絵の具から離れたからといって、新しい表現を獲得できたわけではありません。芸術表現は、そんな簡単なものではないのです。
私はここで、あえて日本画に関するややこしい問題について、さらに触れておきましょう。それは古い日本画の一つの様式である「山水画」の空間に関することです。現代画家であると同時に優れた理論家でもあった宇佐美 圭司(1940 - 2012)さんは、山水画の空間について、次のように書いています。
山水画の空間を語るために山水画の場と時間を検討してみよう。山水画における場のイメージは西欧の遠近法における位置へと還元されるものではない。
遠近法における位置とは、固定的な視点を持つ一人の人間から統一的に把握される。ある瞬間にその視点に対応する総てのものは、座標の網の目にのってその相互関係が客観的に決定される。我々の現在の視覚もこの遠近法的な対象把握を無言のうちにおこなっている。
これに対して山水画の場は、個人がものに対して持つ関係ではなく、先験的で形而上的なモデルとして存在する。それは中世ヨーロッパの場のあり方と、先験的であるという共通性を持つ。先見的なのは、山水画の場にあっては、中国の哲人が悟りをひらく理想郷であり、ヨーロッパ中世では、聖書および神であった。
山水画の場は画面の中に単一にあらわれるよりも複数の焦点によって形成されることが多い。それを仮に多焦点=場と呼んでおこう。多焦点=場は、必ずしも同一の時間軸によって律せられない。それぞれの場に対応する別個の時間軸を多時間軸と呼ぶことにする。
山水の形而上的モデルは、このような多焦点=場と、多時間軸によって表現される。それはある特定の時のある特定の場ではなく、様々に偏在する場のうつろいの中で現象すると言えよう。
(『絵画論』「山水画」の空間/宇佐見圭司)
山水画の中では、同じ修行僧が山の麓から峠道へ、そして頂上近くへと一枚の絵の中で移動する様が、同一画面で描かれていることがあります。これを「古い絵だから・・・」で済ましてしまってはいけません。そこには「先験的で形而上的なモデル」が存在するのです。こういう、古い日本画に特有の絵画空間について、大学の日本画の先生はちゃんと学生に教えているのでしょうか?
ちなみに、私が先ほどから説明しているボナールの色彩のこと、クレーの絵画空間のことなど、大学では一切教わっていません。日本画、油彩画に関わらず、大学の先生が絵画空間の変遷についてちゃんと教えるということはあるのでしょうか?大学で教鞭をとっておられる方の絵を見ると、その方自身が自分の表現している絵画空間についてどれほど自覚的なのか怪しいものだ、と思ってしまうことが多いのです。もちろん、そんなことでは困るのですが・・・。
話を戻します。このように、山水画には山水画独自の絵画空間が存在するのですが、そのことの現代的な意味はどのようなものでしょうか。宇佐美圭司さんは、そのことについて次のように辛口の批評を書いています。
現在、山水画が注目されるのは、それが近代化への道を歩まなかったその事においてである。近代的に開かれた表現が、開かれているその事によって閉塞状況を呈している現在、近代とは異なった表現のさまざまな「閉じた世界」が刺激的に見えだしている。
しかし、形而上的なモデルによって閉ざした世界からは、近代を乗り越える表現方法を見出すすべはないだろう。なぜならもはやそのようなモデルは私たちの共通な規範として生きてはいず、形而上的なモデルは個人性としてしか再生しようがないからである。そして総ての個人性は、その特異性によって、近代的な空間の中に吸収されるだろう。表現を個人的な修練の場と考えることは、私たちが今なぜ「閉じた世界」に注目するのかという理由を、それこそ等伯の霧の中に消しさってしまうことになるのである。
(『絵画論』「山水画」の空間/宇佐見圭司)
この辛口の批評は、宇佐見さんがこの文章を書いた当時、山水画の特別展がもてはやされ、それがあたかも近代の閉塞を乗り越えるもののように錯覚されていたので、そのことについて宇佐見さんはしっかりとした自分の見立てを書かなくては、という事情があったようです。
しかし、ここには宇佐見さんの見方にも、宇佐見さんの立場からの錯覚があるように思います。それは宇佐見さんが近代の空間を開放系と位置付けた上で、その空間が閉塞状態に陥っていることを指摘し、さらに宇佐見さんや荒川修作さん、あるいは当時の最先端の画家であったジャスパー・ジョーンズ(Jasper Johns, 1930 - )さんの絵画が、その近代の閉塞状態を乗り越える表現をしている、という評価をしていることです。今となってみれば、山水画の空間を「閉じた世界」として位置付け、現代画家が独自に設定した空間を「新しい世界」と位置付けて、その差異を決定的なものだと見なすことには、いささか無理があるような気がします。
私自身はそのように「閉じた世界」に対して、「開放された世界」あるいは「新しい世界」を配置して、その「開放系」を目指すことが絵画の究極の目標であるような絵画観こそ転倒されるべきだと考えています。そのような意識の転換を行うことが、スピノザ的な「もう一つの近代」を模索することなのです。
それにしても、現在ではこのように「絵画空間」について正面から論じることが少なくなっているような気がします。私はモダニズムの思想が、目新しい「主義(イズム)」を際限なく求めることに疑問を感じていますが、かといって自分がどのような絵画を描いているのかを自覚せずに、感覚的に絵を描いていては、いずれ限界が見えてきます。若い人たちのそういう絵が一時的にもてはやされ、消費されていくのが残念です。
私が出会った若い作家たちは、自分の表現を問い直し、過去の作品に学ぼうとする姿勢が見られます。そういう営みが、やがて豊かな表現へとつながるのだと思います。
私自身も、もちろん、これからも自分の表現を絶えず問い直しながら、活動を続けるつもりです。私の年齢では、若い方に比べるとその可能性は限られたものですが、できるところまで進むことにしましょう。