『老子』を読んだことがありますか?
私はこの歳まで読んだことがありませんでした。というのも、中国に伝わる古い経典というと、孔子(紀元前紀元前551? - 紀元前479)の『論語』を思い出してしまうのですが(というよりも、それしか知りません)、その『論語』に書かれていることが、どうもお説教臭いように感じてしまうのです。
「四十にして惑わず」というのは、孔子の言葉だそうですが、私の40代は人生でもっとも惑った年代だったかもしれません。生き延びたのが奇跡のようなものです。何も問題を解消できず、その後も惑い続けて60代になってしまいました。いろいろなことを諦めて、いまは多少、ましな状態になったのかもしれません。そして「六十にして耳順う」という孔子の言葉もありますが、こちらはちょっと当たっているかもしれません。ただ、私の場合は「耳順う」というよりは、やっと人の言うことがわかってきた、というところです。「したがう」前の段階ですね。とにかく、中国の偉人は立派過ぎる、というのが私の印象でした。
ところが、『老子』は面白いらしい、という噂が耳に入ってきました。老子の教えは、偉ぶったところがなくて、とにかく柔軟で、民主的で、現代思想にも通じるところがある、という話まで聞こえてきました。それでは読んでみようかな、と思って現代語訳(『老子の教え』安富歩訳)を読みだしたら、これがものすごく面白いのです。
このような理由で、気がついたことをblogに書き留めておくことにしました。『老子』の初心者の方ならば、一緒に楽しんでいただけるかもしれません。『老子』を読み込んでいる方は、ぜひ深い読み方をご指南ください。
それでは、基本情報を押さえておきましょう。
思想家としての老子は中国の春秋時代の人だそうです。紀元前500年ぐらいの人物らしいのですが、先ほどの孔子と同じ時代を生きたという話もあれば、そもそも実在の人物ではない、という話もあるそうです。
その老子が書いたものを『老子』あるいは『道徳経』、もしくは『老子道徳経』というのだそうです。これは誰か一人の人物が書いたものなのか、それとも何人かの人たちによって書き継がれたものなのか、いろいろな説があるそうです。
そして『老子』がなぜ書き残されたのか、と言えば、次のような伝承があるそうです。
老子は周の国で道徳を修めていましたが、国の衰えを悟って周を去る決心をしました。老子が国境の関所に着くと、関所の役人であった尹喜という人が老子に教えを請いました。それに応じて、老子は『老子(道徳経)』を書いて渡し、その教えがいまに伝わるというわけです。その後の老子の行方は誰も知らない、という話ですが、黒澤明監督の時代劇の素浪人か、あるいはアメリカ西部劇の英雄のようで、かっこいいですね。
さて、具体的に『老子』を読んでいくと、現在の為政者と呼ばれる人たちに読んでほしいと思う文章に、たくさん行き当たります。とくに後半の記述は、国をおさめる人、リーダーシップを取る人に向けた文章が多くなります。
噂にあった『老子』と現代思想との関係で言うと、老子の言葉に関する記述がスイスの言語学者、ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857 - 1913)以降の言語学、記号論に酷似しているなあ、とピンときました。それに該当する『老子』の文章を抜書きしてみましょう。
例えば、こんな具合です。
もしかするとあなたは、
ものごとと、その名とのつながりが、
確かなものだ、と思いこんでいるかもしれない。
「イヌ」は「犬」を意味すると、
当たり前のように考えるかもしれない。
あなたの名が、あなた自身を意味すると、
当たり前のように考えるかもしれない。
しかし、
言葉の意味は、常に、ここに生まれ、あそこで消えるものである。
それは、いつもどうなるかわからない、開かれたものだ。
(『老子の教え』「1章 言葉にしばりつけられるな。言葉をしばりつけるな。」安富歩訳 )
これはソシュール言語学の「シニフィアン」と「シニフィエ」について言及しているように読めます。ソシュールは、言語(ラング)を記号(シーニュ)の体系であると考えました。そして言語は記号として指示するもの(シニフィアン、たとえば、日本語の「イ・ヌ」という音の連鎖など)と、指示されるもの、(シニフィエ、たとえば「イヌ」という音の表す言葉の概念)が表裏一体となって結びついたものだと考えたのです。そして重要なことは、この「シニフィアン」と「シニフィエ」の結びつきは、恣意的なものだということです。
はからずも『老子』においても「イヌ」が例に取られていました。老子が言うように、「イヌ」という概念は、「ここに生まれ、あそこで消えるもの」であり、「いつもどうなるかわからない、開かれたもの」なのです。だから英語の"Dog"というシニフィアンと結びついても、フランス語の"Chien"というシニフィアンと結びついても、どちらでもよいということになります。
そのことについて、フランス語学者、哲学者の丸山 圭三郎(1933 - 1993)さんは、ソシュールの研究を進めて、次のようなソシュールの言葉を書き留めています。
第一原理もしくは基本的真理。言語記号は恣意的である。与えられた聴覚映像と特定の概念を結ぶ絆は、そしてこれに記号の価値を付与する絆は、根抵的に恣意的な絆である。記号は恣意的である。
(『ソシュールを読む』「第7講 講義Ⅲ ーラングの解明ー」)
ここで「聴覚映像」と呼ばれるものは、聴覚から聞こえてくるもの、つまり「イヌ」という言葉のことでしょう。「特定の概念」というのは、「イヌ」という言葉によって喚起される「犬」の概念、犬のイメージ、つまり心の中に思い浮かぶ犬の姿のようなものです。この両者を結ぶ絆は「恣意的」であるとソシュールは言っているのです。このように、言語を記号として研究することで、ソシュールは言語学に革命的な転換をもたらしたのですが、同時にさまざまな分野において、ものごとを記号的な構造として捉えるという革新をもたらしました。
ここでもう一度、先の『老子』の文章の「ものごとと、その名とのつながりが、確かなものだ、と思いこんでいるかもしれない」という問いかけを読み直してみましょう。これはソシュールと、ほぼ同じことを言っているように読めませんか?『老子』では、ただ単に「言葉」はあいまいなものだ、信用できない、と言っているのではないのです。明らかに、現代の記号論的な言葉の恣意性を指しているのであり、その先鋭的な考え方に私はびっくりしたのです。
さらに最後の一節に注目しましょう。「いつもどうなるかわからない、開かれたものだ」という一節です。言葉が移ろいやすいものだ、という感想から、だからこそ言葉は「開かれたものだ」という発想に驚いてしまいます。言葉の性質の移ろいやすさがわかったとして、それを肯定も否定もしない、ただそれは誰から見ても明らかで「開かれたものだ」という冷静さが素晴らしいのです。
そして2章には「『名』によって世界を切り分けるから、何事もうまくいかなくなる」という文章があるのですが、これはどうでしょうか。
「名」によって世界を切り分けるから、何事もうまくいかなくなる。
「名」の切り分けをやめて、ものごとのあり方に沿うべきだ。
かくて聖人は、何もしないで統治し、何も言わずに人々を導く。
(『老子の教え』「2章 言葉で世界を切り分けようとするな」安富歩訳)
『老子』は何を言っているのか、これも記号学的に考えてみましょう。ソシュールを研究した丸山圭三郎さんは、ソシュールの思想を推し進めて次のようなことを書いています。
人間は言葉をもつが故に本能図式がこわれており、動物の知らないカオスを生ぜしめ、これをまた言分け(ことわけ)て意味化せねば生きていけない。つまり人間以外の「可換的行動形態」(メルロ=ポンティ)に属する動物(=信号を用いる動物)においては完全であるはずの本能図式=行動様式が破綻しているために、生のエネルギーがもはや生物学的に分節しきれずカオスとなって登場し、これが私たちの欲動となっているのである。
(『言葉・狂気・エロス』「エロ・グロ・ナンセンス讃」丸山圭三郎)
丸山さんは、人間だけがなぜ言葉を操るのか、という根本的な問いを続け、その結果、人間は本能図式がこわれた動物であり、自分の内面にカオスが生じている存在なのだ、という結論に至ります。このカオスの存在は、人間の創造性のエネルギーの源であると同時に、狂気にも至る危険性があるのです。
『老子』の「『名』によって世界を切り分けるから、何事もうまくいかなくなる」という一節は、解釈の仕方によって人間の抱え込んだカオスの危険性について言及しているように読めます。言葉による分節化に捉われすぎると、世界は硬直化して息苦しくなります。そこで『老子』には、「『名』の切り分けをやめて、ものごとのあり方に沿うべきだ」という穏やかな処方箋が書かれているのです。
しかし、カオスが限界に達している現代では、同じ方法を取ることができません。そこで丸山さんは果敢にカオスの中身を分析して、その危険な領域との往還によって、人間は失われた人間性を取り戻すのだ、と結論づけたのです。
カオスが人間の中に生じることは避けようがなく、そのことを認めて人間としての在りようを見直すべきだ、というのが丸山さんの結論です。そして実は先ほど引用した『老子』の一節は2章の前半部分で、その後半にはこういう一節があります。
「あなたは、切り分けられないあやうい世界に、漂うしかない。 『名』に縛られてしまえば、いくらもがいても、 自分を害することになるだけだ。」
この「切り分けられないあやうい世界」とは、まさにカオス状態のことを指しているのではないでしょうか?その世界では、言葉によって分節された理性的な思考では太刀打ちできないのだ、と言っているように読めます。
このように、言葉という具体的な事象から『老子』を読み解くと、現代思想の記号論と根本的に同じだな、と実感できるのです。一方で、もう少し漠然と世界との接し方とか人間の生き方などを見ていくと、今の私たちこそ『老子』を読むべきだ、と思われる点があちこちに見られます。しかし、あまりに漠然とした読みではとりとめがないので、もうひとつだけ具体的な現代思想とリンクしているところを取り上げてみましょう。
それは「世界をありのままに見る」という一節です。
世界を見る態度から、
余計な考えをすべて取り除き、
ただ虚心坦懐に受け入れる。
その態度を極限にまで徹底させた状態を、
「冷静さをどこまでも保つ」という。
世界の根源から、万物が盛んに並びおこり、さまざまに展開するが、
虚心坦懐に見るならそれは、根源へと帰る運動と見える。
実際、それらの物は、盛んに動き、
やがてそれぞれがその根源に復帰することになる。
このような世界の受け入れ方を、「冷静」というのである。
(『老子の教え』「16章 世界をありのままに見る。」安富歩訳 )
この『老子』の文章をただの精神論として受け止めてしまえば、「先入観のない、澄んだ眼でものごとを見なさい」というありきたりのお説教に聞こえてしまいます。しかし「余計な考えをすべて取り除き」とか、「その態度を極限にまで徹底させた状態」などというところに、たんなる精神論におさまらない何かを感じます。
そこで想起されるのが、オーストリアの哲学者、フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl 、1859 - 1938)の提唱した現象学です。この現象学が、その後の20世紀の哲学に、あるいは芸術に及ぼした多大な影響は計り知れません。フッサールの本は難解なため、私はちゃんと読めていないのですが、『老子』の「余計な考えをすべて取り除き」にあたるような文章を探してみました。それが次の部分です。
この新たな種類の研究領域に接近する方法ーその領域に到達することによってはじめてその学の研究課題が与えられることになるのだがーが、多くの歩みに区分されるということは、われわれに課せられる問題の特有な性質による。この歩みの一歩一歩は、新しい仕方での判断中止という性格を持っている。すなわちそれは、自然で素朴な、とにかくすでに遂行されつつある妥当性をさし控える、という性格をもっている。最初に必要な判断中止、すなわち最初の方法的な歩みは、いままでの予備的省察によってすでにわれわれの視野にはいってきている。しかしそれをはっきりと表明し、一般的なかたちで定式化しておく必要がある。全てに先んじて要請されるのは、明らかにあらゆる客観的科学に関する判断中止である。ということは、単に客観的科学を捨象するというだけの意味ではない。すなわち、あたかも何らの学もそこに生起していないかのように、現在の人間の生存を虚構的に考え直すという意味ではない。むしろそれは、いっさいの客観的科学の認識をともに遂行することを中止するという意味であり、客観的科学の真理とか虚偽とかに関心をもつような全ての批判的な態度決定の中止、しかも客観的世界認識というその指導理念に対してさえも態度決定を中止するという意味である。一言でいえば、われわれは客観的、理論的関心全体に関する判断中止、客観的科学の研究者としてだけでなく、単なる知識を求めるものとしてのわれわれにも特有な目的追求や、行為のすべてに関して判断中止を遂行するのである。
(『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』「第35節 超越論的判断中止の分析論。その最初のものは客観的科学に関する判断中止である。」E.フッサール著 細谷恒夫・木田元訳)
うーん、やっぱり難しいですね。無理を承知でちょっと解説してみましょう。
現象学というのは、(私の理解では)これまでのさまざまな学問や思想によって、私たちが本来のあるがままの世界と出会うことができなくなってしまっている、という認識から始まっています。それはまるで、高性能のメガネをかけてしまったために、裸眼で見える世界を見失ってしまった、というところでしょうか。そこであるがままの世界を取り戻すためにメガネを取ってしまおう、というのが現象学の考え方だと思います。それがフッサールの文中にある「判断中止」という意味なのだろうと思います。
こんなふうに書くと簡単なことのように思われますが、実はとても大変なことです。私たちのかけている高性能のメガネは、かけるだけの必然性があってかけているわけですから、簡単に外すわけにはいきません。そもそも、メガネを外す必要があるのか、という疑問も湧いてきます。そこでフッサールは、裸眼で世界を見ることがいかに必要なのか、というところから話を始めなくてはなりません。
それに、今さら裸眼で世界を見るなどということは可能なのか、という疑問もあります。仮にメガネを外しても、私たちの頭の中にはメガネを通して見た世界が記憶として残っているはずで、それなのにメガネを外す意味があるのか、という疑問も生じてきます。そういうことにいちいち答えるために、フッサールは難渋な文章を書かなければならなかったのだと思います。
それに比べると、『老子』の言葉はいかにも簡略です。
それにも関わらず「虚心坦懐に見るならそれは、根源へと帰る運動と見える」という一節の中の、「根源へと帰る運動」という言葉が、とても含蓄のあるものに感じられます。ちなみに、フッサールの提唱した「判断中止」は、哲学用語で「エポケー」というのだそうですが、さらに「判断中止」をして、あるがままに世界を見ようとする態度のことを「現象学的還元」というのだそうです。この現象学的な「還元」とは、まさに『老子』が言うところの「根源へと帰る運動」ではないでしょうか?
このように見ていくと、言葉遣いのひとつひとつまで、『老子』と現象学は一致しているように読むことができます。
さて、もっと勉強して『老子』を読み直せば、その都度新たな発見がありそうですが、今回は現代思想との絡みで二つほどご報告したところでよしとしましょう。
そして最後に、『老子の教え』の著者・翻訳者の安富歩さんが、「解説」でさらに面白いことを書いていますので、ご紹介します。それは『老子』のテキスト解釈に関する話です。
『老子』には、いろいろなテキストがあるそうです。石碑に彫られたものもあれば、絹布に書かれたものもあります。絹布に書かれたものは、古いお墓から発掘されたものが何種類かあって、それらの内容が微妙に変わっているというのです。
『老子』の中には、「大器晩成」という言葉で知られている一節があるのですが、これが「大器免成」というふうに書かれたテキストもあるのだそうです。安富歩さんはあえて「大器免成」というテキストを選んで訳しています。この二つの言葉は、どこが違っているのでしょうか?
「晩成」だと「ゆっくり」という意味ですから、成長(出世)が遅い人に対するなぐさめの言葉のような意味になります。一方、「免成」だと「完成を免れる」、つまり「完成しない」という否定の意味になります。したがって「大器免成」の意味は、次のようになります。
本当に偉大な人物は、死ぬまで成長し続けるので、完成することがない。
(『老子の教え』「解説」安富歩訳 )
「大器晩成」は日本語の漢字熟語として定着していますから、それが本来、このような言葉だったとしたら、びっくりしますね。そして私は、こちらの「死ぬまで成長し続けるので、完成することがない」の方が、絶対にいいと思います。
老齢に近づくと、いったい自分はどこまで現在の状態が維持できるのか、という不安に陥ります。しかし、そんなことを考えていては、本当に成長が止まってしまいます。それが「大器免成」の言葉のように、死ぬまで勉強して、死ぬまで成長し続ける、と思うと歳をとるのが楽しくなります。
それにしても、どうしてこんなに意味の違う言葉がテキストに書かれたのでしょうか。ただの書き間違いだったのか、それともテキストが書かれた年代によって、解釈が違ってきたのでしょうか。『老子』そのものが、書き継がれる段階で成長したのかもしれません。いずれにしろ、興味深い話です。
今回は以上ですが、まだまだ読み込み不足なので、いずれまた取り上げることにしましょう。次の機会には、芸術表現に関わりがありそうな言葉を拾ってみることにします。
何か興味深い読み込みがありましたら、教えてください。「免成」の言葉通りに、さらに勉強してみます。