作曲家でピアニストでもあった一柳 慧(いちやなぎ とし、1933 - 2022)さんが亡くなりました。
ニュースをご覧になればわかる通り、偉大な経歴の方でした。私は若い頃に何回か現代音楽のコンサートに行って、主にピアニストとしての一柳さんの演奏を聴きました。彼自身が日本で紹介したというジョン・ケージ(John Milton Cage Jr.、1912 - 1992)さんの曲を演奏していたと記憶しています。ピアノの弦に消しゴムやら何やらを詰め込んで、まるで打楽器のような演奏でした。しかし一柳さんは、いつものスーツ姿の上着を脱いで、白いワイシャツとフォーマルなベストというクラシック音楽演奏の出立ちで、そのギャップが印象的でした。徐々に演奏が激しくなって、肘を激しく鍵盤に打ち付けたりしていましたが、一柳さんはオールバックの髪型と黒縁メガネのままで、表情は全く冷静でした。YouTubeで探すと、ジャズの山下洋輔さんと共演した面白い映像が見つかりました。
ダイジェスト版のようで、聴きやすいのでよかったら試聴してください。途中から「ラプソティー・イン・ブルー」も聞こえてきます。一柳さんの演奏の時の表情やスタイルは、まさにこの映像のようでした。
一柳さんは1960年代の現代美術とも交流がありました。昔の文化人はそれなりの自負があって、いろんな分野の人たちが盛んに交流していましたね。映画音楽も結構手がけていたようです。1970年ごろにはミニマル・ミュージックも取り入れていたようで、YouTubeで聞くことの出来る曲では、同じフレーズの反復が目立つようです。
私は難しい音楽が苦手で、現代音楽といえば武満 徹(たけみつ とおる、1930 - 1996)さんと、ケージさんぐらいを聞いておけば十分、というだらしない人間なので、一柳さんの音楽は演奏会で聴く以上には聴きませんでした。ちょっと反省して、彼の音楽や著作などをこれを機会に振り返ってみることにします。何か発見があればご報告します。
さて今回は、はじめに映画の話題です。友人に勧められて『緑の光線』という映画を見ました。
監督はフランスの映画運動、ヌーヴェルヴァーグの一人に数えられるエリック・ロメール(Éric Rohmer、1920 - 2010)さんです。1986年の作品ですが、私は封切り当初の記憶がまったくありません。ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を取っていますね。私はむしろ、その三年前の『海辺のポーリーヌ』の方が、話題になったことを覚えています。1986年と言えば私が就職した翌年ですから、映画鑑賞から離れていた頃でした。
それにヌーヴェルヴァーグとその周辺の映画監督といえば、先日亡くなったゴダール (Jean-Luc Godard, 1930 - 2022)や、フランソワ・トリュフォー(François Roland Truffaut、1932 - 1984)が何といっても著名でしたし、アラン・レネ(Alain Resnais, 1922 - 2014)やルイ・マル(Louis Malle, 1932 - 1995)まで含めると、私は彼らの代表作を舐める程度にしか見ていないことに気が付きます。エリック・ロメールさんの作品は、映画評であらすじを読むと、ぜひ見なきゃ、とは思えなかったのだと思います。それほど多くの映画を見てきたわけではないので、彼の作品まで手が回らなかったのです。
何だか言い訳ばかりを書いていますが、それというのも『緑の光線』を今さらながらに見てとても良かったので、自分の迂闊さをちょっと恥ずかしく思っているところです。
その『緑の光線』のストーリーは、とても単純です。
オフィスで秘書をしている若い女性、デルフィーヌは、ギリシア行きのヴァカンスを約束していた女ともだちから、急にキャンセルされて困ってしまいます。フランス人にとって、夏のヴァカンスをどう過ごすのか、というのは私たちには想像できないくらい重要なことのようです。デルフィーヌは、心配してくれる女ともだちと話していても、感情的になって泣き出す始末です。結局、そのうちの一人が一緒にヴァカンスに誘ってくれたので、同行します。ヴァカンス地では、休暇中の人たちが集っていて、こういう楽しみ方も日本ではあまりないですね。デルフィーヌもその輪に入ってみるのですが、それもしっくりと来なくて早々に帰ってしまいます。その後も一人で山に行ったり、海に行ったりしますが、孤独感が深まるばかりで、見ていて気の毒なような、じれったいような、という感じです。デルフィーヌは美人だし、言い寄ってくる男はたくさんいるのですが、どうもそういう軽いノリが合わないようです。でもヴァカンス中のナンパしたり、されたりという状況ですから、デルフィーヌのためらいは、ないものねだりのワガママのようにも見えます。そんな中で彼女はある時、老人たちがジュール・ヴェルヌの『緑の光線 』の話をしているのを耳にします。太陽が沈む瞬間に、光が屈折して緑色に見える時があって、それは幸運の印だということですが、それが映画のタイトルになっているのです。そして、何度目かの旅行先から一人でパリに戻ることにしたデルフィーヌは、駅で実直そうな青年と知り合い、自分から青年の小旅行に付き合うことを申し出ます。しかし夕刻になって、海辺で青年とベンチに座って夕日を見ていると、また涙が出てきてしまいます。驚いた青年に慰められていると太陽がちょうど沈み始めて、そのほんの一瞬だけ緑色の光が見えます。映画では、緑色の小さな断片が瞬間的に映るだけで、うっかりすると見逃してしまいそうです。それを見たデルフィーヌが声を上げたところで、映画が終わります。
これだけの話です。とくに映画らしい、ドラマティックな展開はなくて、最後の太陽が緑色に見えるところだけが、ハッとするようなクライマックスになります。
それにもかかわらず、映画的な楽しみがたくさんある映画です。
まず映像的なことから言うと、カメラ・アングルが自然で、それがとてもいいのです。ヌーヴェルヴァーグの映画だから、当たり前といえばそれまでですが、とにかく作り込んだ映画のような不自然さがなくて、それが心地よく感じられます。映画のはじめの方で、博物館のような古い建物の前で女ともだちと会うシーンから、映画のコンセプトがジンジンと伝わってきます。スナップ写真のような自然さですが、それが決して平凡ではありません。
それから、女性たちの他愛のないおしゃべりもいいです。セリフとも言えないようなおしゃべりが続きますが、平気で他の人の話に重ねるようにして話す人がいて、どこまで脚本があるのでしょうか?例えば日常会話でも、思いがけず言い過ぎてしまったり、あるいは場違いなことを言ってしまったり、ということでドキドキすることがありますが、それに近い感じがするのです。フランス語のわかる人なら、もっと楽しめそうですね。こういう映画を見ると外国語を勉強したくなりますが、映画を楽しめるくらい上達するには、私だと20年ぐらいあっても足りなさそうで、もう手遅れでしょうか・・・。
インターネット上のロメール評を読むと、ドキュメンタリーのような生々しさを出すために相当にこだわった監督のようです。自然光で映画を撮るので、天気がすごく気になった、とかそんなことが書いてあります。
その結果、彼の映画にはどのような効果があったのでしょうか?
私は映画通ではありませんので、ここからは私なりの感想になります。ロメールさんがこのようなことを考えて作ったとは思えませんが、まあ、勘弁してもらいましょう。
この主人公のデルフィーヌですが、いったい何を求めていたのでしょうか?
せっかくのヴァカンスを楽しみたい、というのが彼女の気持ちですが、かんたんにそうさせない何かが、彼女の中にあるのです。自分でもその気持ちを持て余して、ただ嘆くことしかできないのですが、それはどうしてでしょうか?彼女自身が映画の中で言っていることですが、男は私の体だけを求めていて、そんな男と一夜をともにしても虚しいだけだ、と言います。行きずりで連れ合いになった北欧の女性は、そのどこがいけないの?とばかりにナンパしてくる男との会話を楽しみますが、いたたまれなくなったデルフィーヌは思わず席を立ってしまいます。
デルフィーヌのようなタイプの人は、一般的には「恋に恋してる」女性として片づけられてしまうでしょう。しかし映画を見ていると、彼女が求めているのは、本物の人との触れ合いのように思えてきます。ああ、面倒臭い女性だなあ、と思いながらはじめは見ているのですが、だんだん彼女の失敗が私たちにとっても深刻なことのように思えてくるのです。私たちはふだん、いろいろなことに妥協して生きていますが、彼女は決して妥協しない人なのです。それがたかだか「ヴァカンスの楽しみ」なのですが、それがロメールさんの徹底した日常的映像と相まって、デルフィーヌが私たちのすぐそばにいる面倒臭い人、でも何だか気になる人のように思えてくるのです。
そして私は、私の中のデルフィーヌ的な側面について、ちょっと考えました。私は日常生活ではテキトーに生きている人間なので、仕事でも私生活でも周囲の人たちにいろいろなことでお世話になっています。ところが私は絵を描くことになると、テキトーに描くわけにはいかなくて、若い頃はそんな自分を持て余していました。どういうことかと言えば、現代絵画は絵画のイリュージョンを否定して、リアリティのある表現を模索してきました。しかし、絵画とはもともと平面上に架空の空間を描くというイリュージョンの芸術表現です。かくして絵画は、イリュージョンの表現なのにイリュージョンではだめ、という矛盾に陥ってしまったのです。このblogでさんざん話題にしてきたミニマル・アートの袋小路です。しかし今日は、絵画の話に限定せずに、一般的な話として進めていきましょう。
映画の中のデルフィーヌは、ヴァカンスでの行きずりの出会いなのに、本物の人との出会いを求めて悶々とします。そもそもの状況と要求が見合っていないじゃないか、と映画を見る人たちはもどかしく思います。
でも、ちょっと設定を変えて、私たちが本物の現実に出会いたいなあ、と思ったとします。例えば、映画で見たパリやシェルブールではなくて、本物のパリを見てみたい、とかシェルブールでヴァカンスを過ごしてみたい、というわけです。じゃあ、実際に旅行に行けばいいじゃないか、ということになるのですが、旅先でパリの街に立ったあなたは、これはデルフィーヌが生活していたパリじゃない、ただのツアー客として出会ったパリに過ぎない、と物足りなくなります。本物のパリで、本物のパリの人たちと出会いたい、と思ったら、あなたはパリに移住するしかありません。しかしパリに移住してみても、根っからのパリっ子とは見ている街並みの感じ方が違っているかもしれません。また、シェルブールに旅行に行ったとしても、パリっ子が長いヴァカンスでシェルブールに滞在するのと、日本から数日シェルブールに行っただけでは、やはり何かが違っているでしょう。
そういうふうに、本物の現実と出会いたいと思っても、人間は自分の置かれた立場や状況から自由になることができないのです。どうしても、「自分」というフィルターを通して現実を見ることになります。もっと突き詰めて言えば、私たちは成長過程でさまざまな教育を受けてきていて、何かものを見るときにそれが既成概念となって立ちはだかります。身近な例で言えば、私たちは信号の色を赤、黄、青というふうに言葉で表現します。外国の人ならば、青信号はグリーンでしょう。同じ色を見ていても、使用する言語によって色の分類が違っている場合があります。私たちの感覚は、その言葉の影響から自由ではありません。
映画の話から、どんどん話が面倒臭くなってすみません。実は最近、仲正昌樹さんという哲学者の書いた『現代哲学の最前線』という本を読みました。私が学生時代に少しだけ齧った現代思想は既に古典的な書物になってしまいました。前回、老子と現代思想との関わりを書いたときに、ああ、自分の知っている知識は相当古いなあ、と実感したのです。それで遅まきながら、少しでもそれを更新しようと思って、このような入門書を読んでみました。
この本では、正義論、承認論、自然主義、心の哲学、新しい実存論という5つのテーマが取り上げられています。本の中で出てくる学説、学者が目新しくて、とても難しい半面、期待通りに私の知見を更新してくれそうな内容でした。有名なところでは「白熱教室」のマイケル・サンデル( Michael Joseph Sandel 、1953 - )教授の名前が、正義論のところで出てきます。サンデルさんの授業を聞いていると、学生を煽ってばかりいて、結論が結局わからないなあ、と思っていたのですが、この本を読むと、サンデルさんがどういう立場の学者なのか、ということがわかって腑に落ちます。ちょっと横道にそれますが、そのサンデルさんのことを書いておきましょう。
サンデルさんの考えでは、近代的な自由主義を唱える人たちが前提にしているのはすべての人たちが「自律した個人」として一人立ちしているということですが、サンデルさんはそれを信じていません。自由主義の人たちは、その上で中立的な立場の人たちが中立的な答えを見出すことができる、と考えていますが、そもそもその前提に無理があるのではないか、とサンデルさんは言うのです。多くの人たちが本当は「無知のヴェール」の下にいて、瞬間的に自分のアイデンティティを喪失する存在なのだ、とサンデルさんは考えます。そうすると彼らは何かを決定するときに、「何を目的として、何を実現するために正義の構想を選ぶというのだろう?」という疑問が残ってしまいます。そのような状況では、自由主義の人たちが信じるような中立的な正義というものは存在しない、そのことを自由主義の人たちは認めるべきだ、というのがサンデルさんの思想的な立場です。だから彼の授業では、学生たちが発言するたびに「君は〇〇という立場で〇〇という意見を言うのだね?」としつこいぐらいに確認し、それが客観的な意見ではなくて、一つの立場から言われたものだということを強調するのです。サンデルさんにとって大切なことは、中立的な答えを見出すことではなくて、それぞれの人たちが自分の立場を認識した上で議論を成立させる、ということなのです。彼の授業を聞いていると、何となく分かり合えると思っていた人たちが、却って意見の相違が鮮明になってしまったような気がするのですが、もともとそこにサンデルさんのねらいがあったのです。
さて、話を戻します。
デルフィーヌが本物の人との出会いを求めたように、多くの思想家が本物の現実と出会うことを模索します。なぜ、そんな面倒なことを考えるのか?今のままでも別に困らないじゃないか?と考える人は、ここからの話がよくわからないかもしれません。でも、『緑の光線』を見て、少しでもデルフィーヌの気持ちがわかった人は、多分、ここからの話がよくわかると思います。私たちは、デルフィーヌが本物の人との出会いを求めたように、本物の現実との出会いを求めるものなのです。
あるいは『緑の光線』を見ていなくても、映画『マトリックス』を見た人ならば、たくさんいるでしょう。私たちはAIに管理された水槽の中で生ぬるい夢を見ていた方が良いのか、それとも厳しいけれども本物の現実の中で生きた方が良いのか、これからの話は前者を選ぶ人にとっては何の意味もなく、後者を選ぶ人には極めて重要なことなのだと思います。
そういう話が集中して書かれているのが、『現代哲学の最前線』の最終章の「新しい実存論」です。その章のはじめにこう書かれています。
構造主義/ポスト構造主義の影響を受けた1960年代後半以降のフランス系の現代思想では、科学的・啓蒙主義的思考を支えてきた(対象やそれが存在する世界の)「実在性」は、「実在性」を把握して合理的に行動する「主体」とともに、徹底的に根拠を剥奪された。いかなるものにも頼ることのできない流動性に耐えることが、ポストモダン思想の特徴であった。冷戦構造終焉後の政治的二項対立構造の崩壊に伴う対立構図の多元化、ラディカルな宗教運動の台頭や、ジェンダー・セクシュアリティをめぐる問題の表面化もある意味、ポストモダン的な見方を強めることになったー必ずしもフーコーやデリダの思想を受け容れる人が増えたという意味ではない。
しかし21世紀のゼロ年代の後半から、スピノザ、ニーチェ、ハイデガー、デリダなどの影響を受けた哲学者の間で、「実在」について本格的に哲学的に考えようという運動が生まれてきた。「何でもあり」という態度を取り続けると、まともな哲学的論議はできないし、政治や宗教に関わる非合理主義的な主張を、客観的な論拠によって批判することが困難になるからだ。
(『現代哲学の最前線』「新しい実存主義」仲正昌樹)
ちょっと難しいので、私なりに解説を試みます。
1960年代以降、主にフランスの哲学者たちによって、これまでの哲学で「実在」とか「主体」とか言われていた揺るぎようのない確固たるものが、一気に相対化されます。例えば、言葉が記号として分析されると、それが現実と接点を持つのは単なる記号としての指示作用でしかないということがわかってきます。そうすると、私たちが言葉の積み上げによって築いてきた文化というものが、砂上の楼閣のように思えてきます。ちょうどその頃に未開民族の社会を探究した文化人類学者が、未開の人たちの社会にも私たちが知り得なかった文化的な構造があって、近代社会だけが優れた社会ではなかったこともわかってきました。そんなふうに一元的な価値観で築かれた社会が相対化していったのですが、それは哲学や思想の問題だけではありませんでした。例えばジェンダーの問題のように、さまざまな価値観の人たちの存在が見直されてきたことによって、社会的な基盤を考え直さなければならなくなった、ということもあるのです。
このように、それまでの一元的な世界が一気に相対化されると、自分の立っていた地面が揺らいでしまって不安になる人たちが出てきます。あるいは、「ああ、何でもありだよね」というニヒリズムに陥る人たちも出てきます。「実在」とか「主体」とか、あるいは先ほどからの私たちの言い方で言えば「本物の世界との出会い」などどこにもなくて、すべてがあやふやでニセモノだ、と思いたくなってしまうのです。
しかしそれだからこそ、「実在」するものについて、もう一度考え方を立て直そう、という動きが出てきました。仲正さんによると、それは「まともな哲学的論議はできないし、政治や宗教に関わる非合理主義的な主張を、客観的な論拠によって批判することが困難になるから」だ、ということですが、私にはもっと切実な動機があります。私は「本物の世界との出会い」がないと窒息してしまいそうだから、というそんな思いがあるのです。私は絵を描いている人間なので、私の描いている世界が本物なのか、それとも生ぬるい擬似現実の世界なのか、ということは大問題なのです。だから、デルフィーヌがまるでワガママなほどに「本物の人との出会い」を求める気持ちがわかるのです。
それでは、もう少し先に進みましょう。それまでの哲学の実在論は、この世界のありようを説明するのに、神のような絶対的な存在や、確たる自己という存在をベースに考えなくてはなりませんでした。しかし神はもういませんし、自己という存在も相対化されて揺らいでいます。それでも「実在」について語るとしたら、どのように語れば良いのでしょうか。実はそういう動きがいくつかあって、例えば「思弁的実在論」と呼ばれる人たちと、それと関連する「新実在論」を提唱する人たちがその動きにあたるのだそうです。仲正さんの説明を読んでみましょう。
「思弁的実在論」や「新実在論」の目指すところは何か。ひと言で言えば、主体による認識によって左右されることのない、否定しがたい「実在」があることを、哲学的な「思弁」を通じて明らかにしようとする試みということになろう。前近代の実在論は、「神」や「イデア」のような「究極の実在」あるいは「実在の根源」に関係付けられる形で、諸事物の「実在」を証明しようとした。万物の根源であるXの意志、あるいは創造の法則を想定し、それに適合するものは実在する、と考えたのである。現代の「実在」は、そうした形而上学的な世界観を前提にすることなく、主体の意識を超える「実在」について思考し、ある属性を備えた対象が「実在」するか否かを判断することが可能であることを示そうとする。それにとどまらず、現代思想における相対主義的な世界観や価値観を打破して、「実在論」を哲学的思考の基軸として復権しようとする。
(『現代哲学の最前線』「新しい実存主義」仲正昌樹)
これが21世紀以降の新しい「実在論」なのですが、その内容をざっくりと説明することは無理なようです。仲正さんも「全体をまとめることは無理」だと言って、この後はそれぞれの「実在論」について個別にコメントしていきます。
私は以前にマルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )さんの著作について、何回かこのblogで書きましたので、よかったら参照してみてください。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/f2a61fa9d7a2aba8c48afecce3fa03a7
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/28606636b896541442b3705c47a7f645
このように個別の著作を読むことに加えて、このような入門書からガブリエルさんが現代思想の中でどのような位置にいるのか、考察してみるのも良いと思います。
ということで、今回はここまでとしますが、いずれ近いうちに新しい「実在論」の全般的なことについて、まとまった文章を書いてみたいと思います。他の参考書にも当たってみて、何とか私なりに理解して、わかりやすい文章が書ければ良いなあ、と思っています。
映画『緑の光線』から、とんでもない展開になってしまいました。別に難しい映画ではありません。ロメールさんも、さりげなく映画を見てほしいと思っていることでしょう。どうか先入観を持たずに、映画を楽しんでください。