平らな深み、緩やかな時間

324.ヨーゼフ・ボイスについて

前回と同様のお知らせです。いよいよ会期末となります。

2023年6月3日(土)ー7月9日(日)の期間に開催されている、三浦市の諸磯青少年センターの『HAKOBUNE』という展覧会に作品を三点だけ出品しています。この展覧会のパンフレットのpdfファイルが私のHPからご覧いただけます。ぜひ、ご一読ください。

http://ishimura.html.xdomain.jp/news.html

遠方で、ちょっと不便なところですが、神奈川県の南の方にいらした折には、ぜひ覗いてみて下さい。天気が良ければ、海を見ながら潮風に吹かれるのも気持ちの良いものです。

 

さて、私は週末に若い友人たちと『HAKOBUNE』を見に行って、帰り道で「カスヤの森美術館」に寄ってみようかと計画しています。「カスヤの森美術館」と言えば、現代美術の巨人ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys、1921 - 1986)さん関連の貴重な常設展示があります。

http://www.museum-haus-kasuya.com/joseph%e3%80%80beuys/

公共の美術館ではないので、スペースの広さは限られていますが、日本においてボイスさんの展示が常設されている、というのは奇跡的なことだと思います。そこで私の友人を含めた若い人に向けて、ボイスさんに関する基本的な情報を押さえておきたいと思います。

 

まずは『美術手帖』の解説をお読みください。

https://bijutsutecho.com/artists/693

末尾のところに1984年に来日し、86年に死去と書いてあります。私が学生の頃に西武美術館の招きで来日したのですが、その時にナム・ジュン・パイク(Nam June Paik、白南準、1932 - 2006)さんと怪しげなパフォーマンスを演じたのが、もう40年ほど前になるのですね。その2年後にボイスさんは亡くなったのですが、まだ60代半ばです。私もその年齢に近づいてきましたが、当時のボイスさんは、かなりの老人に見えたので、ちょっと不思議な感じです。

今の若い方からすると、ボイス?パイク?西武美術館?とピンと来ないことだらけだと思うので、ちょっと当時の状況というか、雰囲気について書いておきましょう。

まずは西武美術館ですが、それは池袋の西武デパートの中にありました。私は小学生の頃に東武東上線沿線に、そして中学から高校にかけて西武池袋線沿線に住んでいたので、池袋は子供の頃から親しみのある場所でした。その池袋が1975年に西武美術館ができ、その横に美術書専門店「アール・ヴィヴァン」が併設された頃から、グッと雰囲気が変わりました。時代の先端を進む街になったのです。うる覚えですが、糸井重里さんの「おいしい生活」というキャッチ・コピー、ウッディ・アレンさんの映画、デヴィッド・ホックニーさんのイラストなどが、西武デパートのイメージを形作っていたと思います。いずれもウィットの効いた当時の最先端のカルチャー、もしくはサブ・カルチャーを象徴していました。

ちょうどその頃にポスト・モダニズムと呼ばれるフランスの現代思想がクローズアップされ、日本の若い学者がニュー・アカデミズムと呼ばれて話題になり、前回までこのblogで取り上げた柄谷行人さんらの優れた著作も矢継ぎ早に出版されたのでした。今にして思えば、フランスの思想家たちをポスト・モダニズムとして括るのは乱暴だし、柄谷さんの著書は一時の流行とは別の意味を持っていたと思いますが、玉石混淆の状態でそれらが泡沫的な流行と一緒に話題になっていたのです。

美術で言えば、落書きアートなどと呼ばれた作品が売れるようになり、ジャン=ミシェル・バスキア(Jean-Michel Basquiat、1960 - 1988)さんやキース・ヘリング(Keith Haring、1958 - 1990)さんが大スターになったのもこの時期でした。これは現代美術がコンセプチュアル・アートにまで至って、難解でかつビジュアルとしてつまらない、ということの反動という面もあったと思います。この時期に話題となって、今でも鑑賞に耐えうるのはサイ・トゥオンブリ(Cy Twombly、1928 - 2011)さんぐらいかな、と思いますが、年齢を見れば分かる通り、トゥオンブリさんの場合は優れたドローイング・アーティストであった彼の仕事が、たまたま落書きアートが話題になった時期にクローズアップされたと言ったほうが良いでしょう。

こういう現象を全体的に見れば、カルチャーとサブ・カルチャーが渦巻きながら、「文化」ってそんなに難しく考えなくてもいいんだ、軽くていいんだよ!というメッセージを発していた時代だったと思います。

そんな中で、現代美術の超難解な作家、ボイスさんが西武美術館に招かれて来日したのですから、かなりの話題になりました。そもそもボイスさんは、商業主義、資本主義とはソリが合わないはずではないか、それがデパートの美術館に招かれるなんて、ボイスもとうとう変節したのか、などと批判もされていたと思います。今から振り返ると、そういうさまざまな批判があったとしても、現代美術が根付かない日本のような国にボイスさんのような大物が来日した、ということはそれなりの意義があったと思います。ふだん美術に興味のない人、ボイスさんのことなど聞いたこともない人たちもボイスさんの来日に興味を持ちましたし、今でもインターネットで検索すればその時のことがわかるのですから、その効果は確かにあったのです。

 

さて、それではボイスさんがどういう人なのか、あらためて見ていきましょう。

先ほどの『美術手帖』の紹介を、解説を加えながら読んでいきたいと思います。

 

 ヨーゼフ・ボイスは1921年ドイツ・クレーフェルト生まれ。脂肪やフェルトを素材とした彫刻作品の制作、アクション、対話集会のほか、政治や環境問題にも介入し、その活動は多岐にわたった。幼少期より自然や動物に関心を寄せ、彫刻家ヴィルヘルム・レームブルックの作品集に感銘を受ける。40年、通信兵として第二次世界大戦に従軍。冬のクリミナ半島に墜落し生死をさまようも、居合わせた遊牧民のタタール人がボイスの傷を脂肪で手当てし、フェルトで暖を取って救助したとしている。この経験は後の彫刻作品の根幹となり、ゆえに素材には従来の石や木ではなく、熱を保持する脂肪やフェルトを用いている。

(『美術手帖』より)

 

まず、ヴィルヘルム・レームブルック(Wilhelm Lehmbruck、1881 - 1919)という彫刻家ですが、ボイスさんが敬愛していた、ということもあって日本でも回顧展が開かれています。

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/storage/jp/museum/exhibitions/2004/wilhelm040401/event01.html

「現代彫刻」といえば、形を単純化したり、抽象化したり、さまざまな素材を取り上げたり、というふうに進んでいきました。レームブルックさんの彫刻にもそういう面がありましたが、ボイスさんはそのような造形的な彫刻の見方とは別に、レームブルックさんのモチーフの扱い方、人間的な感情をストレートに表現した点に注目をしたようです。ボイスさんはレームブルックさんから、人間の存在そのものが彫刻作品となりうるということを学び、それが「すべては彫刻だ」というボイスさんの芸術の理念へと繋がっていったのです。

 

それと同時に、ボイスさんといえば従軍時の特異な体験を忘れるわけにはいきません。ボイスさんの作品のトレードマークのようになっているラード(脂肪)とフェルト布は、彼の実際の体験から得られた素材なのです。それを知らずに、なぜラードなのか?なぜフェルトなのか?と悩んでしまうと、ボイスさんの作品をさらに難解なものにしてしまいます。

脂肪を用いた作品は、次のリンクで見ることができます。

https://www.pinterest.jp/pin/630363279086470592/

次のリンクからは、フェルトの作品、脂肪の巨大な作品、パフォーマンスの写真などを見ることができます。

http://www.newsdigest.de/newsde/features/11978-joseph-beuys/

 

それでは、ボイスさんの解説の続きを読んでみましょう。

 

戦後、23歳のときにデュッセルドルフ芸術アカデミーに入学。彫刻家ヨーゼフ・エンゼリンク、エーヴァルト・マタレーに学ぶ。53年、コレクターのファン・デア・グリンテン宅で初個展を開催。61年にデュッセルドルフ芸術アカデミーの教授に就任し、同じ頃ナムジュン・パイクと知り合う。63年に「フルクサス・フェスティバル」に参加し、最初のアクションを実践する。ドクメンタ3(1964)に参加し、翌年のシュメーラ画廊(デュッセルドルフ)での個展で《死んだウサギに絵を説明する方法》を発表。頭に金箔やはちみつをつけたボイスが、ウサギの死体を腕に抱いて絵にふれさせるアクションを行った。74年のアクション《私はアメリカが好き、アメリカも私が好き》は、ボイスがアメリカ着の空港から救急車でコヨーテのいるギャラリーに運ばれ、1週間暮らした後に、再度ドイツへ出発するというもので、コヨーテとの行動のみを強調することで、先住民に対するアメリカ社会の抑圧を批判した。

(『美術手帖』より)

 

先ほどの来日の時の話にも出てきたパイクさんですが、ちょうどボイスさんの来日の前に、パイクさんも日本で大きな回顧展をやっていました。パイクさんといえばビデオ作品で有名ですが、彼の場合は難解というよりもエンターテインメントとしての見栄えも備えた作品で、一般的にも人気がありました。たとえばこんな感じです。

https://www.si.edu/object/electronic-superhighway-continental-us-alaska-hawaii%3Asaam_2002.23

韓国には「ナムジュン・パイク・アートセンター」という施設があるようですね。

https://njp.ggcf.kr/

二人は一時的にフルクサス(Fluxus)の運動にも参加したようです。このフルクサスは、1960年代から1970代にかけて発生した、芸術家、作曲家、デザイナー、詩人らによる前衛芸術運動のことです。グループ名の語源がラテン語で「流れる、変化する」という意味を持っていたそうで、いろいろな人がその活動に出入りしています。日本人では前衛芸術家のオノ・ヨーコさんや現代音楽家の武満徹さん 、一柳慧さんらも参加しています。

ボイスさんの作品は、説明の文章でも分かる通り、何かの造形物を作るということにこだわってはいませんでした。すべての人が芸術家であり、すべての活動が芸術になりうるわけですから、アトリエにこもって芸術作品らしいものを作る必要はないのです。ボイスさんの作品は、彼が実践したパフォーマンスやレクチャーの痕跡がそのまま作品化されたり、彼の活動を彷彿とさせるラードやフェルトといった素材をオブジェやインスタレーションとして展示場に設置する、という作品になっていきます。

そして、ボイスさんは社会活動家としての活躍が目立つようになっていきます。さらに『美術手帖』の続きを読みましょう。

 

 ドクメンタ7(1982)で開催地のカッセル市に7000本の樫の木を植えるアクションを展開。始めに、無機物で死を象徴する玄武石を敷き、その横に生を示す樫の木を植えて、双方が存在することで世界が成り立つことを表現した。このプロジェクトに賛同した人々のように、自ら意思を持って社会に参与し、未来を造形することを「社会彫刻」と呼び、それこそが芸術であると提唱する。

 社会活動家としては、67年にデュッセルドルフ芸術アカデミーで「ドイツ学生党」を結成し、学生運動を支援。アカデミーの入学許可制限をめぐって解雇されたが、裁判ではボイス側の勝訴に終わる。79年「緑の党」に立候補。84年に来日し、西武美術館で個展を開催した。86年没。

(『美術手帖』より)

 

ここに書かれている「樫の木を植えるアクション」や「学生運動を支援」などということに関しては、映像の記録を見ていただく方がイメージしやすいでしょう。『ヨーゼフ・ボイスは挑発する』というドキュメンタリー映画の予告編を見てみてください。

https://youtu.be/oA7rtV9VYnM

また、ボイスさんの教室で学んだゲルハルト・リヒターさんをモデルにしたと言われる映画『ある画家の数奇な運命』では、ボイスさんらしき大学教授が大活躍します。教授はリヒターさんらしき若者に的確なアドヴァイスを与え、彼のデビューのきっかけを作ります。

https://youtu.be/7yeC8Oq8WbA

実際にボイスさんは教師としても有能だったようで、彼に学んだ学生としてリヒターさんをはじめとして、アンゼルム・キーファーさん、ジグマー・ポルケさん、イミ・クネーベルさん、ブリンキー・パレルモさんなどの現代美術を代表する芸術家たちがいます。ただしキーファーさんはすぐに袂を分かったようですが・・・。

 

さて、最後に彼の作品について、もう少し考えてみましょう。先ほども書いたように、彼がレクチャーをすれば、その黒板がそのまま作品として残されます。パフォーマンスや社会運動においても同様です。とにかく何であれ、すべて芸術になってしまうのです。「カスヤの森美術館」にも、そのような展示物があり、それらは過去の出来事の痕跡なのではなくて、それ自体が芸術である、というのがボイスさんの考え方なのです。

このことに関して、古い『美術手帖』(1992年4月号)をめくっていたら、「拡張された芸術概念」(ゲオルク・ヤッペ/中山純訳)というボイスさんに関する興味深い記事がありました。彼が作品の展示についてどう考えていたのか、具体的にわかる文章があったので、抜書きしてみます。

 

ある日常のシーンを紹介する。学生が開いたフランクフルトの芸術協会での展覧会で、学生たちが芸術作品のみを展示しようとしたことに落胆したボイスは「君たちが僕にしていることを思うと、ヨハネス・ラウのしたことなど物の数ではない」と言った。こうした失望の後で「ハニー・ポンプ」という規模の大きな実験が行われ、毎日ゼミと論争が繰り広げられた。こうしたある日、すてばちになってボイスは叫んだ。「社会彫刻だってー笑わせるんじゃない。考えることを拒否するやつは叩き出すぞ!」クラウス・シュテークがボイスにカードを手渡しながら、「それ、書いてよ」と言った。ボイスはしかし気をとり直していて、二つ目の文しか書かなかった。これがまた伝達手段であるポスト・カードになった。ボイス曰く「こういったもの、つまり媒体を所有している人たちとの間には、まさに親戚関係が結ばれている。これはアンテナのようなもので、どこかに立っていて連絡を保っているのだ」。希望を抱く人ボイスである。

(『美術手帖/1992年4月号』「拡張された芸術概念」ゲオルク・ヤッペ/中山純訳)

 

ちなみに文中のヨハネス・ラウという人はドイツのある州の知事になった人で、1972年にボイスさんをデュッセルドルフ芸術アカデミー教授職から解雇する音頭をとった人だそうです。クラウス・シュテークという人はドイツの法律家で美術家、デザイナーとなった人のようです。

さて、こんなふうにして、「考えることを拒否するやつは叩き出すぞ」というメッセージの書かれたポスト・カードがボイスさんのレクチャーの痕跡として残された場合、これらの事情を知っていれば、生き生きとした学生とのやりとりを記録したものとして、私たちはその活動ぶりを想起することでしょう。しかし、そういったことを知らずに、ただポスト・カードを見させられたら、それも現代美術の巨人、ボイスの書き残したものだとしたら、私たちはそこに深淵な意味を読み取ろうとするでしょう。それはそれで、芸術活動として意義深いことではありますが、あまりに考えすぎると「ボイスは難解だ!」と言って放り出してしまうことになるでしょう。芸術作品は予備知識や予断を持たずに見ることが大切だと言われますが、私たちはボイスさんが生きて活動した時代から、あまりに遠く離れてしまいました。ですから、ボイスさんの芸術活動に触れる前には、多少の学習が必要だと思います。私はそう思ってこの文章を綴っている次第です。

ボイスさん自身は、作品のコンセプトと表現との関係について、次のように学生に教えていたそうです。ちょっと難解な文章ですが、読んでみてください。

 

「私の教室では、すべてがコンセプトのみであるとか、政治的であると人によく言われる。私はしかし広い認知論的土台に基づいて、知覚ではっきりとつかめるものがつくられることに最大の価値を置いている。たとえば今日、ひとりの学生に次のようなことを言った。君がここで説明していることは、すべて観念的だー君が上手に説明してくれているイメージを私はひっくり返すことができる。そして実際にひっくり返して見せて彼に教えた。君が概念をいじくり回す方に力を注いで、表現を疎かにすれば、君の絵は単なる言い訳、釈明になってしまい、君の素晴らしい考えは絵の上に現れてこない。思考と言語は彫刻とみるべきだ。彫刻家が彫刻をみるのとまったく同じだ。私の最大の関心はその際、思考と行動の関係と同様に、言葉から始めて物質化をその後にすることである。沈黙から抜け出すためには、理論を振り回すだけでは足りない。私はその次に考えが腕に、つまり肉体に伝わっていかなければならないと思っている。それはまた、材料の中に私の意思を混入することになり、やがてその材料を使ってモデルを机の上で形づくりたくなるのだ。それは完全なものである必要はない。私にとって重要なことは、人が自分の作品を通して、全体の関連性の中で影響を及ぼし、単なる品物をつくり出すのではなくて、社会的有機体全体の中で彫刻家や建築家になるモデルを体験することだ。未来の社会秩序は芸術の規則に則ってつくられる。ひとつのレリーフが解体し、呼吸し始めるように社会組織もそのようになるだろう。私の言う組織という概念は芸術的な概念である。その理由はその組織を支配する規則は生物器官の規則であり、有機的に造形されていなければならないからである。そして具象彫刻はそれを実行している。従来の彫刻はもっと抽象的、幾何学的、意図的に造形している。具象彫刻は根源的に有機的に行われる。動物が成長していくように、血液が血管の中を流れるように、川の中で水が動いていくようにだ。」

(『美術手帖/1992年4月号』「拡張された芸術概念」ゲオルク・ヤッペ/中山純訳)

 

難しいことが書かれていますが、この日にボイスさんの指導を受けた学生は、さぞかし頭を抱えて帰ったことでしょう。どんな指導が具体的に行われたのかわかりませんが、自分の作品のコンセプトをひっくり返すようなことを言われ、もっと肉体に伝わるように、言葉が物質化していくように表現しなさい、と言われたのですから、大いに悩むことでしょう。しかしボイスさんはこうも言っています。「君の素晴らしい考えは絵の上に現れてこない」、ボイスさんにこんなふうに言われて、自分のコンセプトをなんとか肉体化、物質化したい、と思わない学生はいないでしょう。こんな先生に習ってみたかったですね・・。

ところで実際に、ボイスさんの描いた作品を見ると、これが意外に(と書いたら怒られそうですけど)良いのです。ボイスさんといえば「社会彫刻」、あるいはコンセプトの人、と思われがちですが、私はボイスさんのデッサンや版画、あるいは平面作品がとりわけ好きです。やっぱり才能がある人だったんだなあ、とため息が出ます。

次のリンクを見てください。

https://artbook-eureka.com/?pid=76470625

https://curio-jpn.com/?p=67314

大胆で、軽やかで、それでいて細部まで表現できていてみごとです。「社会彫刻」だなんて言ってないで、もっとたくさん絵を描いて欲しかったなあ、などと思ってしまいます。こういう才能がある人に限って、「なんでも芸術になる」なんて言うので、困ってしまいます。努力しても芸術にならない人の気持ちなんて、こういう人にはわからないだろうなあ、とぼやいてしまいますね。

 

今回は、大切な友人に読んでもらいたくて、にわかにボイスについて綴ってみましたが、先日までの柄谷行人さんの考え方と、ボイスさんの「社会彫刻」はちょっと似たところがありますね。資本主義経済も、国家という集団も、ボイスさんが亡くなって40年になりますが、ますます病んでしまっているので、今こそ彼の活動を見直すべきなのかもしれません。私の作品も、ささやかですけど、その制作の理念がこれからの社会を切り開くきっかけになれば、と願って描いています。そして、私の周囲にはそういう仲間が多いのです。

それからボイスさんの言葉の引用した最後の部分「動物が成長していくように、血液が血管の中を流れるように、川の中で水が動いていくように」というところですが、これは抽象的であれ、具象的であれ、作品には生きていくことに対するリアリティが必要なのだ、とボイスさんが言っているように、私には聞こえます。ボイスさんを、ただの観念的な理論家と分け隔てるのは、こういう認識を持っていたところではないか、と私は思います。ボイスさんは、人間という存在の全体を決して見失わなかった芸術家だと思いますし、表現することの難しさと素晴らしさをよく知っていた人だと思います。

ボイスさんのような大物になると、きっときれいごとでは済まないような、さまざまな現実的な問題があったでしょう。しかし彼は最後までアクティブであったし、亡くなる前に日本にまで来てくれました。私はそのことに対して、一筋の「希望」のようなものを見る気がします。これからの社会を生きていく若い方たちと同様に、私もまだまだ世界に対して希望を捨てないで生きていくことにしましょう。

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