はじめに、芸術の問題とは縁がないようなことを書きます。
私にとって、これらの日々の暮らしの中で目にすることと芸術活動とを切り離して考えることはできません。それらは人間の営みとして共通するものでありますし、また、どこかで繋がっているからです。
今、日々触れるニュースのなかで、どうしても目に入るのがウクライナの侵略戦争に関することです。これは知れば知るほど頭がカッカしてきますが、その暴力性と卑劣さの裏側で、世界がとても複雑にねじれているような気がしています。私は社会問題や政治のことには疎い人間ですが、その複雑さの一端に触れるために、あるいはカッカした頭を少しクールダウンするためにも、ちょっと変わった観点のニュースを読んでみます。
「ロシア批判」というブーメラン
白井聡・京都精華大学人文学部専任講師 2022年5月10日
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20220509/pol/00m/010/010000c
有料記事なので途中までしか読めませんが、いかがでしょうか。政府のプロパガンダで統制されたロシアにおいて、真実を知ることができないロシアの人たちのことを私たちは批判的な気持ちで見てしまうのですが、その資格が私たちにあるのか、という記事です。
ここでは「2012年の第2次安倍政権以降、日本のテレビ局が呈してきた権力への屈服、伴走、媚態(びたい)の姿勢」と書かれています。確かに安倍政権の時のテレビの対応は、とくにひどかったと思います。しかし私はそれよりも「戦争」という連想で言えば、前の世界大戦のときの私たちの国がしたことの方が気になります。これは以前にも書いたことですが、その時のことを私たちは客観的に反省できているのでしょうか?いまのロシアの人たちを冷ややかに見てしまう自分の気持ちを思うと、もしかしたら私たちも侵略された国の人たちから見れば、同じように見えるのではないか、と冷や汗が出ます。
けれども、このような反省が必要なのは日本だけではないと思います。例えばイラク戦争のときのことを思い出してみましょう。戦争の大儀であった大量破壊兵器は見つからず、アメリカのイラク侵攻を正当化するものはありませんでした。アメリカの人たちは、自分の国のあのときのことを顧みて、反省することはないのでしょうか?そう言えば、あの時はロシアがアメリカの侵攻に反対しました。プーチン、えらいぞ、と思いましたが、それなのになぜ彼はアメリカと同じような過ちを犯すのでしょうか?いろいろな報道がありますが、結局、納得できる説明はありません。
さらに事態を複雑に見せているのが、戦争や紛争の被害者が欧米人であるかどうかで、世界の反応に差があるのではないか、という分析です。人の命の重さに差がないはずなのに、アフリカやアジア、中東などの非西欧圏で頻繁に悲惨な事件が起こっていても、今回のウクライナほどには報道されていません。
ロシアのやっていることは許せませんが、私たち自身の根本的な差別意識や罪深い鈍感さをチェックしないと、こういう悲惨な事件はなくならないのではないか、と思います。
このように世界は複雑で、矛盾に満ちています。そんな中で、それぞれの国が難しい決断を迫られるわけですが、これは個人の生活においても似たようなことが日々起こっていると思います。生きていくことそのものが困難だと感じる時代ですから、どうにかしてスッキリと、単純化してものごとを考えたくなります。
しかしそういう中にあっても、複雑なものは複雑なままに、むしろそのことを見るための解像度を上げることが必要なのだ、というのが前回の話でした。芸術活動も世界の状況を反映していますから、同じような困難に直面しています。芸術を愛する人にとっては、生きていくことの意味そのものが芸術活動に凝縮されていますから、当然のことでもあります。
そこで前回に続き、今回も千葉雅也さんの評判の本を取り上げます。この本がベスト・セラーだから、というのではなくて、そんな私たちの行き先に光を照らすようなことがこの本の中に書かれているからです。私の文章がその内容に応えられるものなのかどうか自信がありませんが、とにかく前回同様に無謀な試みにチャレンジしてみましょう。
さて、前回は『現代思想入門』千葉雅也著の「はじめに」のところで終わってしまいました。今回はもう少し、本の中身に立ち入ることにしましょう。千葉さんはこの著作の中で、現代思想の中でもフランスの現代思想を取り上げていますが、今回はジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930 - 2004)ついて言及している部分に注目してみます。
デリダについて語る際に、千葉さんは「同一性」と「差異」という概念から始めているのですが、このことの意味することがわかりますか?「同一性」というのは、とくに西欧近代思想にとっては、私たちのアイデンティティを支える重要な概念だと考えられています。私が私であること、さまざまなことが疑われる中で、これだけは疑いえない事実なのだ、と言ったのは、西欧哲学の祖として位置づけられるルネ・デカルト( René Descartes、1596 - 1650)でした。デカルトの思想をあらわす「我思う、故に我在り」(われおもう、ゆえにわれあり、 Cogito ergo sum)は、日本でもカタカナ言葉の「コギト」として有名ですね。
ところが、デリダと、そして次回このblogでも取り上げる予定のジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)は、この「同一性」の対概念となる「差異」という言葉に注目しました。『現代思想入門』からその説明を見てみましょう。
「差異」は、「同一性」すなわち「アイデンティティ」と対立しています。同一性とは、物事を「これはこういうものである」とする固定的な定義です。逆に、差異の哲学とは、必ずしも定義に当てはまらないようなズレや変化を重視する思考です。とくにこれを強く打ち出したのは、次章で扱うドゥルーズです。ドゥルーズの主著は『差異と反復』(1968)というタイトルで、それはまさに差異の哲学の代表作と言えるものですが、一方でデリダもまた差異の哲学のもう一人の巨人です。
今、同一性と差異が二項対立をなすと言いましたが、その二項対立において差異の方を強調し、ひとつの定まった状態ではなく、ズレや変化が大事だと考えるのが現代思想の大方針なのです。
こうした考え方に対し、「物事の同一性を定義することを批判して、何か微妙なところばかりを言えばいいと思っているのか」、「同一性を崩せばいいのか」といった批判が出てくる可能性があります。「そんなこと言ったって、一定の安全性がなければ社会が成り立たないではないか」と。
それに対しては、これは僕の解釈という面が強いのですが、デリダはべつに脱構築によって全部を破壊しろと言っているわけではないと、まずは答えたい。あくまでも脱構築は「介入」であって、すべてが崩れるなんていうことは考えられていません。ですから、何か「仮固定的」な状態とその脱構築が繰り返されていくようなイメージでデリダの世界観を捉えてほしいのです。
むしろ、現代思想的な発想を徹底するならば、「同一性と差異の二項対立も脱構築する」ことが必要です。
(『現代思想入門』「第一章 デリダー概念の脱構築」千葉雅也)
何かとても抽象的なことを書いているようにも読めますが、この「二項対立」の問題を、私たちの日常生活の中で考えてみましょう。
例えば、私たちの生活を便利にしているさまざまなテクノロジーがあります。炊飯器や掃除機などの電化製品や自動車、電車などの移動手段、それにスマホやパソコンまで、それらはすべて人間の科学技術がもたらしたものです。そして、それらの技術を可能にしているのが「同一性」という概念でしょう。同じ種類の物質を使って同じ実験をすれば、安定して同じ結果が得られる・・・、というような「同一性」の概念から、すべてが発しています。だからその「同一性」を否定するようなことを言えば、先の千葉さんの文章に書かれていたような「そんなこと言ったって、一定の安全性がなければ社会が成り立たないではないか」という意見が予想されるのです。「同一性」と「差異」の「二項対立」ということを考え出すと、私たちの生活の基盤ともなっている「同一性」を否定するのかどうか、という選択を迫られることになるのです。
この「同一性」を軸にしてものごとを捉える考え方は、芸術の世界においてもさかんに行われました。例えば、同じ傾向の芸術家、同じ時代に活躍した美術家を「〇〇主義」とか「〇〇派」などと言って、一括りにしてしまう考え方が、その一例にあたります。この「同一性」によってものごとを捉える考え方は、芸術を語る上でもとても効率的であり、ある種の理解の手助けになってきた面があるのです。
例えば美術史の流れを大きくつかみたいときには、この「〇〇派」という言い方がとても効果的でした。後期印象派のセザンヌがキュビズム(立体派)のピカソやブラックに大きな影響を与えた、などと記述すると、なんとなく近代から現代への流れがわかったような気になるのです。
しかし、この考え方が危険なのは、こんなふうにセザンヌの絵画の発展形がキュビズムであった、というようなまとめ方をすると、逆にセザンヌの絵画がキュビズムの原型であるがゆえに価値がある、というような倒錯した理解をしてしまいがちなところです。前回も書いたように、セザンヌの絵画の価値は、そんなこととはまったく関係がありません。セザンヌの絵は、作品そのものが素晴らしく、また計り知れない可能性を秘めていて、仮にその影響力を比較してみたとしても、ピカソよりもセザンヌの方が影響力が大きいのではないか、と私は思うのです。セザンヌという画家は、「後期印象派」などという概念では捉えきれませんし、前回も書いたようにキュビズムはセザンヌの一面を誤解して発展したと言っても良いくらいだと思います。このようなセザンヌという画家の真価は、セザンヌを他の画家たちとの「同一性」において見るのではなく、その「差異」を見ていくことによってわかってくるのです。
それでは、「〇〇派」という考え方は、まったく意味がなく、廃棄されるべきものなのでしょうか?ここで千葉さんは、そうではない、と言っているところが面白いところです。彼はこう書いていました。「これは僕の解釈という面が強いのですが、デリダはべつに脱構築によって全部を破壊しろと言っているわけではないと、まずは答えたい。」この物言いは、学者らしからぬ不徹底な意見のようにも見えますが、私はこういうところがこの本の良いところだと思います。
例えばセザンヌの価値は、「同一性」という概念から外れたところで彼の絵を見たことで発見できたとします。それでは「同一性」などということはハナから問題にせずに、「差異」という概念だけで最初からセザンヌの作品を見れば良いじゃないか、というふうにも考えられるでしょう。しかし「同一性」という概念がないところで、「差異」という概念が機能するものでしょうか?
私が考えるところでは、セザンヌの価値はその周辺の芸術家たちとの「同一性」と「差異」の双方を見ることで、つまりそれらが渦巻きながら互いに影響するところでより良く理解できるものなのです。それに、もしもキュビズムが私が言ったようにセザンヌを誤解したところで生まれた芸術運動だったとしても、だからといってそれが価値がないものだとは言えません。美術史というのは、言ってみれば誤解や勝手な解釈が積み重なってできたものですが、その中で生まれた作品のひとつひとつには、それにもかかわらず大きな意味や価値があるのです。私はピカソやブラックが、セザンヌを参照しながら成し遂げたこと、とくに「分析的キュビズム」の作品に興味がありますし、それ以降の作品にもそれぞれの画家の個性が見られて、愛すべき絵が多々あります。
このことに関連して(?)、デリダは(あるいは千葉さんは)興味深いことを言っています。
さて、ここでグッと抽象度が高い話になるのですが、デリダにおいては、「話し言葉」(または「声」)と「書かれたもの」という二項対立がすべての二項対立の根本に置かれます。「話し言葉」はフランス語で「パロール」、「書かれたもの」は「エクリチュール」と言います。パロール/エクリチュールという対立です。
古代から、書かれたものよりも実際に聞いた話の方が真理の基準である、とする考え方があります。たとえばツイッターのやりとりは誤解を生みやすい。短くしか書けないし、人によって言葉のどこかに注目するかが違うので、悪いように解釈されたりする。そんなとき、実際に対面してしゃべると意外に誤解が解けたりする。目の前で語られることに真理性があるというのは昔からある考え方なんです。
それに対し、書かれたものは解釈がさまざまに可能で、別の文脈のなかに持っていけば価値が変わってしまう。エクリチュールは、ひとつの同じ場所に留まっておらず、いろんなところに流れ出して、解釈というか誤解を生み出していくのです。
そのようなエクリチュールの性質をデリダは悪いものと捉えず、そもそもコミュニケーションでは、そういう誤解、あるいは間違って配達される「誤配」の可能性をなしにすることはできないし、その前提で人と付き合う必要がある、ということを考えました。実際、目の前でしゃべっていたって、本当にひとつの真理を言っているとは限りません。しゃべっていることだってエクリチュール性があるのです。
(『現代思想入門』「第一章 デリダー概念の脱構築」千葉雅也)
フランスの現代思想に詳しい方なら、軽々とこのような文章を読みこなしてしまうのでしょうが、私のようにデリダの本をまともに読んだことがない人間にとっては、少々ハードルが高いと感じます。
まず、突然に「パロール」=「話し言葉」、エクリチュール=「書かれたもの」と言われても、なんでそのような用語がでてきたのか、よくわかりません。実はフランスの現代思想はスイスの言語学者で哲学者でもあるソシュール(Ferdinand de Saussure、1857 - 1913)の言語学の影響から発しています。例えばソシュールは、言語をラング(語彙)とパロール(発話)という2つの要素に分析して、その成り立ちについて考察しました。ソシュールの、言語を構造的に考察する手法が、のちに構造主義の思想の根幹となりました。そのようなことから、言語に関することを敷衍して考えていくやり方が、フランスの現代思想にとってきわめて身近な方法なのだと思います。
デリダの場合には、パロールとエクリチュール、つまり話し言葉と書き言葉という二項に分けて考えたところに特徴があります。そしてもちろん、これはたんに言語の話ではなくて一般的なものごとの考え方に敷衍していくのです。これまでの西欧の思想だと、自然なもの、純粋なもの、生なものが真理に近いとされ、それは直接、話者から発話されたパロールに象徴されたのです。ところが書き言葉のエクリチュールの方は、伝達方法が間接的になりがちだし、誤解を生む余地が生まれてしまいます。したがってパロールよりも真理から遠いものだと考えられてしまうのです。
しかし、デリダはあえてパロールとエクリチュールという二項を設定しながら「そのようなエクリチュールの性質をデリダは悪いものと捉えず、そもそもコミュニケーションでは、そういう誤解、あるいは間違って配達される『誤配』の可能性をなしにすることはできないし、その前提で人と付き合う必要がある、ということを考えました」というのです。この点について、みなさんはどう思われますか?
これは、先ほどの私の美術史の考え方と似ています。たとえ美術史が「誤配」の連続で成り立っているとしても、その中で生まれた作品の価値は変わりません。考えてみれば、過去の美術作品から影響を受けるということは、エクリチュールによる伝達に他なりません。だからこそ、美術史は興味深いのです。
たぶん、重要なことは自分の解釈が唯一の真実であり、それ以外は価値がない、というふうな二項対立的な考え方をやめる、ということだと思います。「誤配」によって生まれたものの中にも素晴らしい可能性が秘められていますし、そもそもそういうふうに考えたほうが理に適っていると思います。
しかしそれは、なんでも肯定的にとらえて、どんなものでも構わずに飲み込んでしまう、ということではありません。人間は体が一つしかありませんから、その都度何かを選び、何かを捨てなくてはなりません。そのときにまったく後悔のない選択というものはないのです。そのことについて千葉さんは、この「第一章 デリダー概念の脱構築」という章の結論的な部分で次のように書いています。
確かに人は、物事を先に進めるために、他の可能性を切り捨ててひとつのことを選び取らなければなりません。しかしそのとき、何かを切り捨ててしまった、考慮から排除してしまったということへの忸怩たる思いが残るはずです。そしてまた、そのとき切り捨てたものを別の機会に回復しようとすることもある。
ここでまた仮固定と差異の話を思い出していただきたいのですが、すべての決断はそれでもう何の未練もなく完了だということではなく、つねに未練を伴っているのであって、そうした未練こそが、まさに他者性への配慮なのです。我々は決断を繰り返しながら、未練の泡立ちに別の機会にどう応えるかということを考え続ける必要があるのです。
脱構築的に物事を見ることで、偏った決断をしなくて済むようになるのではなく、我々は偏った決断をつねにせざるをえないのだけれど、そこにヴァーチャルなオーラのように他者性への未練が伴っているのだということに意識を向けよう、ということになる。それがデリダ的な脱構築であり、まさにそうした意識を持つ人には優しさがあるということなのだと思います。
(『現代思想入門』「第一章 デリダー概念の脱構築」千葉雅也)
ここまで読んでいただけたなら、いかにも平明に書かれた千葉さんの言葉が、思想的にいかに画期的なものであるのか、予想がつくと思います。だって「脱構築的に物事を見ることで、偏った決断をしなくて済むようになるのではなく、我々は偏った決断をつねにせざるをえないのだけれど、そこにヴァーチャルなオーラのように他者性への未練が伴っているのだということに意識を向けよう」なんて書かれた思想書が、今まであったでしょうか?
私たちは、思想書や哲学書を読んで賢くなればなるほど「偏った決断をしなく」なるのだとばかり思っていました。しかしどうやらそうではなくて、私たちは賢くなればなるほど「偏った決断をつねにせざるをえない」存在だということに気がつくのです。それが現実を見る目の「解像度」をあげるということなのかもしれません。
さて、どうやら賢くなるということは、決して楽なことではないようです。千葉さんは「他者性への未練が伴っているのだということに意識を向けよう」と書いていますが、これは言ってみれば決断しそこねたことへの後悔を忘れないようにする、ということです。繰り返しになりますが、人は先に進むためには、何かを捨てなければなりません。そのことが、ときに切なく、また不安であったりしますが、その思いは決して無駄なものではありません。むしろそれは大切なことで、自分の弱さだなんて誤解してはいけません。「まさにそうした意識を持つ人には優しさがあるということ」という、千葉さんの言葉が身にしみます。
この話が、冒頭の現在のニュースへの想いともリンクすることが、皆さんにはご理解いただけたものと思います。自分たちのことを、絶対的な正義だなどと勘違いしてはいけません。しかしその一方で、例えばウクライナの人たちに寄り添うために何ができるのか、という決断をしなければなりません。これには「仮固定」という言い方がぴったりなのかもしれません。そして同じく、芸術活動にも敷衍して考えることができます。私たちは「誤配」によって何かを「仮固定」し、そのことを「同一性」によって硬直させるのではなく、「差異」に注目することで世界を見る「解像度」をあげていくのです。そのようにしてつねに「後悔」を伴いながら表現の場を広げ、あるいは深めていくのです。
前回に引き続き、『現代思想入門』から素人なりに学んでみましたが、いかがだったでしょうか?
ところで「差異」という概念に注目したのは、デリダだけではなく、ドゥルーズもそうでした。そのように千葉さんも書いています。それではドゥルーズの「差異」の概念はどのようなものであり、それは芸術活動に参照できるものなのでしょうか。次回は、そのことについて考えたいと思います。