はじめに展覧会のお知らせです。
美術家の髙橋圀夫さんの展覧会が、東京・新江古田のギャラリー「nohako」で開催されています。
髙橋圀夫さんは私が尊敬している画家ですが、今回は久しぶりの個展で、素晴らしい作品を発表しています。ただ作品が素晴らしいというだけでなく、新たな展開を遂げている点に注目していただきたいです。
この展覧会については、次のblogでちゃんとご紹介しますが、とにかく少しでも早くお知らせしたくてギャラリーのリンクを貼らせていただきました。
さらに会場では、貴重な作品集を1,000円で購入できます。書籍の入るバッグを持参して行かれると良いと思います。現代絵画の可能性を考える上で、たいへんに重要な資料です。これについても、次回触れることにしましょう。
ギャラリーは都心の画廊街からは離れていますが、絵画に興味がある方なら外せない展覧会です。ぜひご高覧ください。
次のお知らせです。
このblogでも触れたことのある心療内科医の海原純子さんが、ジャズ・ヴォーカルのアルバムを出したそうです。その新聞記事を、ある同僚の方から教えていただきました。ネット上では途中で途切れてしまいますが、次のリンクの新聞記事をお読みください。
https://mainichi.jp/articles/20231127/dde/018/200/012000c
この記事の後半には、18歳の頃にサラ・ヴォーン(Sarah Vaughan、1924 - 1990)さんの声に魅せられたことが、海原さんのジャズとの出会いだったと書かれています。
そのサラ・ヴォーンさんですが、亡くなってからもう30年以上が経ちますから、ジャズ・ファンでないとご存知ないかもしれません。サラ・ヴォーンさんの素晴らしい歌唱を挙げればキリがありませんが、例えばスタンダード曲の「Misty」の名唱はいかがでしょうか?次のリンクを聞いてみてください。
https://youtu.be/lJXLqAutql4?si=ZqCRRKiHyA7se3eq
記事の内容に戻ります。ここでは、さらに海原さんの最新作について、例えばピアニストの若井優也さんとの共作にいたった経緯などが綴られています。
その共作をオンライン上で聞くことが出来ます。
https://youtu.be/NSrZdA1MQVE?si=8lHcFdq-XJtSRaIz
https://youtu.be/H7UipUjCp0c?si=3RK64BDDkWHpSlP7
サラ・ヴォーンさんと聞き比べるのは少し酷なことかもしれませんが、それでもとても魅力的な演奏と歌唱だと思います。他の海原さんの歌唱も聞いてみましたが、素人批評で申し訳ないけれど、スタンダードの曲よりも創作曲のほうが魅力的ではないかと思います。海原さんのショップのリンクも載せておきますので、興味のある方は覗いてみてください。
さて、今回の主題はかねてから書きたかったレヴィ=ストロースさんのことです。
クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908 - 2009)さんは、フランスの社会人類学者、民族学者です。というよりも、現代思想の重要な潮流である「構造主義」の祖となった人、と言った方がわかりやすいでしょう。
レヴィ=ストロースさんの主著としては『親族の基本構造』、『悲しき南回帰線』、『構造人類学』、『野生の思考』、『神話論理』などがあるようです。このうちの『悲しき南回帰線』は、学術書であると同時に紀行文のようにも読めるので、私は就職して間もなく文庫版となっているものを購入して読みました。もうずいぶん昔のことになりますので、内容の一つ一つについて憶えていませんが、面白く読めたことだけは記憶しています。
しかしレヴィ=ストロースさんのそれ以外の主著については、内容が難しく、また人類学的なデータの積み重ねが、私のような素人からすると厭わしく、さらに金銭的に高価なこともあって、ずっと敬遠してきました。それに同時代のフランスの思想家たち、例えばロラン・バルト(Roland Barthes、1915 - 1980)さんや、ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)さん、ミシェル・フーコー(Michel Foucault 発音例、1926 - 1984)さんなどは、美術や芸術について直接言及した著作があるのですが、レヴィ=ストロースさんにはそういう本がないようです。私の目の届く範囲で、ということですが・・・。
そのようなわけで、本来ならば私のような者がレヴィ=ストロースさんに興味を抱くはずもないのですが、それがそうでもないのです。それはひとえに美術評論家の宮川 淳(みやかわ あつし、1933 - 1977)さんの影響によります。宮川さんの重要な著作である『紙片と眼差とのあいだに』(1974)、『引用の織物』(1975)のいずれにもレヴィ=ストロースさんのことが書かれていて、それがとても魅力的なのです。
宮川さんがレヴィ=ストロースさんの思想から取り入れたのは、主に「ブリコラージュ(bricolage)」という概念に関することでした。この「ブリコラージュ」という言葉ですが、辞書で引くと次のようになります。
あり合わせの道具や材料で物を作ること。日曜大工。器用仕事。転じて、持ち合わせているもので、現状を切り抜けること。
[補説]英語のdo-it-yourselfにあたる。
人類学用語。本来,片手間に行う雑多な手仕事を意味する言葉で,「器用仕事」などと訳されることもある。フランスの人類学者 C.レビ=ストロースが,著書『野性の思考』 (1962) のなかでいわゆる「未開」社会の思考様式の特徴を示すために用いた。彼によれば,「未開」社会の思考では,身近な具体的対象が状況に応じてさまざまな意味をもつ記号として用いられる。これを,ありあわせの物でやりくりするブリコラージュにたとえた。たとえば,トーテミズムにおいて,殺した動物の鮮肉を食べるタカと遺棄された腐肉を食べるカラスとの対比によって,貴族階層と平民階層の対比が表現される。レビ=ストロースは,このような記号による類似と対立に基づいた思考法が,近代西欧の概念的思考と比肩されるべきものであると主張して,それまでの「未開」対「文明」という認識に対し,発想の転換を呼起した。
(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
これだけ読んでも「ブリコラージュ」という概念のどこに魅力があるのかわかりませんね。「英語のdo-it-yourselfにあたる」と言われてしまうと、何だ、そんなことか、と思ってしまいますし、それに比べて「人類学用語」としての「ブリコラージュ」はとても難解な感じがしてしまいます。そこで、もう少し噛み砕いて考えてみましょう。
「ブリコラージュ」が「あり合わせの道具や材料で物を作ること」だとするならば、そうではない仕事とは、どのようなものでしょうか?それは専門的な方法で物を作ることです。例えば、ちゃんと設計図を引いて、その製作物に特有の専門的な道具や器具を使って計画的に物を作ることです。それは近代科学の技術に裏打ちされた、「エンジニア」の仕事だということができるでしょう。
さて、今回おもに参照するのが小田 亮(おだまこと、1954 - )さんという文化人類学者が書いた『レヴィ=ストロース入門』という本と、同じく文化人類学者で高名な思想家でもある中沢新一(なかざわしんいち、1950 - )さんが書いたテレビ番組「100分de名著」のテキスト『野生の思考 レヴィ=ストロース』です。
まずは、その小田亮さんの『レヴィ=ストロース入門』を見てみましょう。この本では、「ブリコラージュ」についてどのように書かれているのでしょうか。
次の一節をお読みください。
つまり、エンジニアが、全体的な計画としての設計図に即して考案された、機能や用途が一義的に決められている「部品」を用いるのに対して、ブリコルール(ブリコラージュする人)は、もとの計画から引き剥がされて一義的に決められた機能を失い、「まだなにかの役に立つ」という原則によって集められた「断片」を、そのときどきの状況的な目的に応じて用いる。
「断片」も「部品」も、全体のなかの部分であることに変わりがないが、部品は、たとえたまたま全体から離れていても、つねに帰属すべき場所をもち、その本来的な場所に組み込まれると、ジグソー・パズルのように、それを囲む境界は消えてほとんど透明になってしまう。それに対して、ブリコラージュに用いられる断片は、特定の機能によって決められる帰属すべき場所を失っており、明確な一定の用途に限定されることはなく、さまざまな潜在的用途を保持している。そして、それが本来的な用途とは異なるような用途に流用されて、たまたまある全体に組み込まれても、それを囲む境界線は、モザイクのように、消えることを拒んでいる。
(『レヴィ=ストロース入門』「2ブリコラージュと断片の思考」小田亮)
ここで小田さんは、その製作物のために「エンジニア」が用意した材料を「部品」という言葉で表現し、「ブリコルール(ブリコラージュする人)」が用いる材料を「断片」という言葉で表現しています。
「部品」はその製作物の中に位置づけられると、まったく違和感のない「透明」な存在になってしまいます。そもそも「部品」は、その製作物の中に当てはめられるために作られた物ですから当然のことでしょう。一方の「断片」は、あり合わせで当てはめられただけのものですから、その製作物の中にあってもその存在感を主張します。
これはごく当たり前のことを言っているだけのように思われます。そして近代的な価値観から考えると、もちろん「エンジニア」の製作した「部品」による製品の方が良いに決まっています。あり合わせの物で作られた製品など、もはや「製品」とも呼べないかもしれません。しかし、レヴィ=ストロースさんは、この一見ちぐはぐに見えるブリコラージュの「断片」に注目したのです。
その考察がどのような結論に至ったのか、小田さんの『レヴィ=ストロース入門』を続けて読んでみましょう。
レヴィ=ストロースによれば、ブリコルールの用いる記号とエンジニアの用いる概念との違いの一つは、「概念が現実に対して全的に透明であろうとするのに対し、記号の方はこの現実の中に人間性のある厚味をもって入り込んでくることを容認し、さらにはそれを要求することさえあるという所にある」(『野生の思考』)。
つまり、エンジニアが用いる概念は、現実に対して透明であり、資材の集合そのものを更新することによって、事前の計画とでき上がりがつねに一致している。それに対して、ブリコラージュでは、「でき上がりはつねに、手段の集合の構造と計画の構造の妥協として成り立つ」ゆえに、「でき上がったとき、計画は当初の意図(もっとも単なるスケッチにすぎないが)とは不可避的にずれるのである。これはシュールレアリストたちがいみじくも『客観的偶然』と名づけた効果である。しかしそれだけではない。……計画をそのまま達成することはけっしてないが、ブリコルールはつねに自分自身のなにがしかを作品の中にのこすのである」(『野生の思考』)。
ソシュールは、言語記号を、シニフィアン(意味するもの、その記号を形づくっている音声イメージ)とシニフィエ(意味されるもの、その記号が指示する概念の内容)の恣意的な結合と定義したが、その用語を使っていいかえれば、概念においては、シニフィアンとシニフィエとが完全に一致しており、シニフィアンはそれ自身の外(現実)にある何かを指すだけで、資材としてのシニフィアンじたいの特質(出来事性)は消されているのに対し、記号は透明ではなく、シニフィアンじたいの特質や出来事性が前面にでている。
<中略>
しかし、ここで重要なことは、ブリコルールがそのちぐはぐな作品のなかに、自分自身の歴史性や自分の体験の出来事性を残すことができるのは、ブリコラージュが真正なレヴェルにおいてなされる場合にかぎられるということである。真正な社会でなければ、ブリコラージュによる作品のちぐはぐさや、それに使われている断片が示す独自の「顔」や来歴や出来事は、その作品とは無関係なものとして、その外部に排除されるだろう。
(『レヴィ=ストロース入門』「2ブリコラージュと断片の思考」小田亮)
話がだんだん「構造主義」っぽくなってきました。
ここに出てきたスイスの言語学者、記号学者、哲学者のソシュール(Ferdinand de Saussure、1857 - 1913)さんは、言葉の「構造」を音声イメージとそのイメージが指示する内容とが結びついた記号(シーニュ)の体系だと考えたのです。
具体的に説明すると、ソシュールさんは例えば日本語の「イ・ヌ」という音の連鎖を「シニフィアン(意味するもの)」とし、その音が指し示す犬の概念を「シニフィエ(意味されるもの)」として捉えました。これらが表裏一体となって結びついたものが言葉という記号なのです。ところが、この「シニフィアン」と「シニフィエ」の結びつきは、恣意的なもので、例えば「イヌ」という日本語の音声(シニフィアン)は英語なら"Dog"(英語)、フランス語なら"Chien"となりますが、いずれも犬という概念(シニフィエ)に結びついています。つまり「犬」が「イ・ヌ」として言い表される必然性はなかった、ということです。
私たちはすでに日本語の体系の中で暮らしていますから、「犬」を「イ・ヌ」と言わないわけにはいきません。ですから、その恣意性に気付かないし、気にもしないのです。ソシュールさんはその言語の仕組みに気がついて、その恣意的な特性を記号として捉えた、ということなのです。
そしてレヴィ=ストロースさんは、「ブリコラージュ」によって使用される「断片」は取り替え可能なものであり、言語のように「記号」的なものであると捉えたのです。「概念が現実に対して全的に透明であろうとするのに対し、記号の方はこの現実の中に人間性のある厚味をもって入り込んでくることを容認し、さらにはそれを要求することさえある」という文章のなかの「人間性のある厚味」という言葉が重く響きます。「ブリコラージュ」という概念は未開の社会がでたらめだから生まれたのではなく、「ブリコラージュ」が「ブリコラージュ」として捉えられるのは、むしろその社会が「真正なレヴェル」にあることを示しているのです。
レヴィ=ストロースさんは、当時のヨーロッパ世界で野蛮だと思われていた「未開社会」の中に「真正な社会」を見て、そこには「野生の思考」があるのだと訴えたのですが、「ブリコラージュ」という概念は、その一つの顕著な例だったのです。
そこまで確認できたところで、次は「ブリコラージュ」と現代美術との関わりについて考察していきましょう。中沢新一さんは、テキスト『野生の思考』の中で「ブリコラージュ」と現代美術の関わりについて、次のように解説しています。
フランスには、拾ってきた石だけで幻想的なお城をつくってしまった郵便配達員のジュヴァルや、アンリ・ルソーを代表とする日曜画家の「アール・ナイーフ」(素朴派)、精神障害者や子供の作品を含む「アール・ブリュット」(生の芸術)など、いわゆる「芸術家」というのとはちょっとちがう、途方もない作品をつくる人たちがたくさん輩出しました。彼らの作品の特徴は「概念的」なアカデミーの芸術家とちがって、「記号的」に素材を組み合わせる自由さにありました。彼らは文字通り「ブリコラージュする人=日曜画家」だったのですが、そのことに注目したのがシュルレアリストの人たちです。シュルレアリストたちは、画家マックス・エルンスト(この人はレヴィ=ストロースの友人で、先住民アートの収集家でもありました)の発案になる「コラージュ」の手法で、対立する要素を並存させて貼り合わせ、ロートレアモンいうところの「解剖台の上でのミシンとコウモリ傘の出会い」を実現させようとしました。するとそこにはアンドレ・ブルトンが「客観的偶然」と呼んだ、思いがけない夢のような世界が現出するのです。この夢のような世界は、既製品ではつくることはできません。既製品だと、何か全体に動きが止まってしまった感じがします。ところが、ブリコラージュ的才能を持った人々の手になる構築物は、まるで生命を持っているかのように動くのです。なぜかと言えば、それがレヴィ=ストロースの言う「概念」ではない「記号」に拠っているからです。芸術とくに現代アートの世界はブリコラージュでみちています。
(『野生の思考(100分de名著)』「2 野生の知財とブリコラージュ」中沢新一)
いろいろな人の名前が出てきました。少しだけ解説しておきましょう。
シュヴァル(Joseph Ferdinand Cheval, 1836 - 1924年)さんはフランスの郵便配達人ですが、33年の歳月をかけて不思議な理想宮 を自力で建設した人です。そのことが映画にもなっていますね。
次にアンリ・ルソー(Henri Julien Félix Rousseau、1844 - 1910)さんですが、パリの税関の職員だったことで有名な人です。
https://note.com/kawasaki504/n/nea59c88b035c
そしてマックス・エルンスト(Max Ernst, 1891 - 1976)さんですが、この人が「レヴィ=ストロースの友人で、先住民アートの収集家でもありました」とは知りませんでした。そして文中に出てくる「コラージュ(collage)」という手法ですが、これはフランス語の「糊付け」を意味する言葉だそうです。ただし、エルンストさんがこの技法を使い始めてからは、中沢さんが書いているように「対立する要素を並存」させて貼り合わせる技法として認識されるようになりました。現在ではそれほどの意識もなく、気軽にものを貼り合わせる技法として用いられますが、私はコラージュの持つ「対立する要素を並存」させることを再び意識してみようと考えて、この手法をよく使っています。ただし、エルンストさんをはじめとしたシュルレアリストたちがもくろんだ物語的なイメージの並存とは異なりますが、この話は次回のblogに繋げていくことにしましょう。ちなみにエルンストさんのコラージュの作例は次のリンクを見てください。
https://www.artpedia.asia/la-femme-100-t%C3%AAtes/
さて、「ブリコラージュ」を「コラージュ」という手法によって広がっていったと考えるなら、「現代アートの世界はブリコラージュでみちています」と言って間違いありません。現代アートと言うよりも、もっと意味を広げてデザイン的な分野でも、すでに日常的な手法となっているからです。
しかしここで再び小田さんの『レヴィ=ストロース入門』に戻ってみましょう。小田さんは「ブリコラージュ」という概念がさまざまな分野(芸術、歴史、文学、政治など)に影響していることを指摘した後で、次のように書いています。
このように、レヴィ=ストロースのブリコラージュという比喩は、カルチュラル・スタディーズや「新しい歴史学」やポストコロニアル論にとっても、キータームになっているが、重要なのは、それを、レヴィ=ストロースのいう記号と概念の区別や真正さの水準という観点と切り離さないことである。そうでないと、資本主義による商品化における異種混淆との混同を避けることができないだろう。
(『レヴィ=ストロース入門』「2ブリコラージュと断片の思考」小田亮)
先ほども書いたように、美術の分野においても何かのパーツを貼り合わせるだけの手仕事的なコラージュならば、商業的なデザインの手法として馴染みのものになっています。しかし、ここでレヴィ=ストロースさんの提起した概念の意味を学び直すなら、「ブリコラージュ」の記号的な意味を見失わないこと、資本主義に飲み込まれない「真正」なものであることを再確認しなくてはなりません。
そこで小田さんが宮川淳さんについて言及している部分を読んでみましょう。はじめの方に書いた通り、宮川さんはレヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」を本格的な美術批評に取り込んだ人です。そして日本において、これはとても稀有なことだったのです。
宮川淳は、ブリコラージュで用いられる記号において、シニフィアンとシニフィエのあいだに不整合があり、この不整合は、レヴィ=ストロースの構造という視点にとって本質的なものだと述べている。
レヴィ=ストロースがこの[ブリコラージュの]比喩で強調しているのは、なによりもブリコラージュを形づくるちぐはぐな総体ーいわばシニフィアンとシニフィエとの間の不整合な関係(この不整合はレヴィ=ストロースにとって構造の概念に本質的なものであり、それのみが構造の変換を可能にする)であり、それがある計画によって規定されるのではないこと、したがって全体化(分析と総合)とは別の原理の存在である。
(宮川淳『引用の織物』)
レヴィ=ストロースは、「イメージ[シニフィアン]は記号の中に観念[シニフィエ]と同居することができるし、またもし観念がまだそこに来ていなければ、将来それが来るべき場所をあけておき、陰画的にその輪郭をうき出させる。・・・記号は、まだ内包をもつに至らないことがありうる。つまり、概念とは違って、同型の他の存在との間に同時的でかつ理論上無限の関係を作り出していないけれども、すでに置換可能である、すなわち、数は有限だが、他の存在との継起的関係の代理を務め得るのだ」(『野生の思考』)といっているが、ここで述べられているのは、レヴィ=ストロースが『マルセル・モース論文集』の序文で提示した「ゼロ記号」(レヴィ=ストロース自身は、ゼロ記号という語は使わず、「ゼロ象徴価値の記号」という言い方をしている)のことである。
(『レヴィ=ストロース入門』「2ブリコラージュと断片の思考」小田亮)
ちょっと難しいですね。少しずつ読み進めていきましょう。
宮川淳さんは「シニフィアンとシニフィエのあいだに不整合があり、この不整合は、レヴィ=ストロースの構造という視点にとって本質的なものだ」と言っているのです。これは何を意味しているのでしょうか?
そもそも、ソシュールさんが考えた「シニフィアン」と「シニフィエ」との関係は、言葉の発音と言葉の意味と、表裏一体の関係であったはずです。実はソシュールさんの研究家でもあった丸山圭三郎(まるやま けいざぶろう、1933 - 1993)さんによれば、そのソシュールさんの考え方にも、その思想の深化によって変化があったようです。しかし、それはともかくとして、レヴィ=ストロースさんはレヴィ=ストロースさんの考え方として、「ブリコラージュ」には「シニフィアン」と「シニフィエ」の関係に不整合があり、それが本質的なものであるというのです。
これはどういうことなのか・・・、小田さんは、さらに次のように書いています。
レヴィ=ストロースは、人間の「認識」という行為について、「自己完結的な全体のただなかで、裁断しなおし、再群化を行ない、属性を決め、新たな可能性を発見することにおいてのみ進行する」と述べているが、これは、構造を組み立てて世界を理解するという、人間の基本的な営みにあてはまることであり、それらの営みが、与えられたものをなんとか現在の目的に合わせて、ちぐはぐな総体を裁断しなおす、ブリコラージュによっていることを示している。そして、ブリコラージュとしての野生の思考が人間の基本的な条件からきたものであることを考えれば、それが普遍的であるのは当然といえよう。そして、近代の知は、あたかも人間が神の眼をもち、不整合を排除し、自己完結的な体系を固定しようとする思考なのである(しかし、それはそもそも不可能なのだが)。
(『レヴィ=ストロース入門』「2ブリコラージュと断片の思考」小田亮)
人間がものごとを認識する営みには、本質的に「シニフィアン」と「シニフィエ」の不整合にあたるようなズレがある、と小田さんは書いています。それを「裁断しなおし、再群化を行ない、属性を決め、新たな可能性を発見する」ということが、不断に必要なのです。「野生の思考」としての「ブリコラージュ」は、その人間にとって普遍的な認識の営みを象徴してもいるのです。
このように考察していくと、「ブリコラージュ」の手法を正当に用いることは、近代的な知を超えて、人間として普遍的な認識の仕方を再確認することにもなるはずです。そして、これはもちろん、お気軽なコラージュによるデザイン広告のようなものであるはずがありません。それでは、そのような「ブリコラージュ」を実践すると、どういうことになるのでしょうか?
ここで宮川淳さんが自分自身の文章を「ブリコラージュ」した文章を見ておきましょう。宮川さんは「引用」と「ブリコラージュ」の問題を考えていったときに、それまでの文章を切り貼り、寄せ集めることで著作を出そうと考えました。それが1974年に刊行された『紙片と眼差とのあいだに』という本です。
その中で、宮川さんはレヴィ=ストロースさんについて書いていますので、その一部を見てみましょう。
レヴィ=ストロースによってこのように記述されるとき、ブリコラージュの比喩はなによりも本の観念と対比されるだろう。ブリコラージュをする人と技師の対比はそのように読むことができる。そしてそのとき、ブリコラージュはほとんど《本》のパロディとしてあらわれないだろうか。
ー本の観念、それは意味するもの(シニフィアン)の、有限であれ無限であれ、全体性の観念である。このシニフィアンの全体性がそのようなもの、つまり全体性でありうるのは、ただ意味されるもの(シニフィエ)の構成された全体性がそれに先在し、みずからの記銘と記号を見張り、その理念性においてそれらから独立していてこそである。
本という観念によって示される関係がシニフィエの(シニフィアンに対する)先在性ないし超越性であり、ついでそのような超越的なシニフィエに対するシニフィアンの整合性であるとすれば、レヴィ=ストロースがブリコラージュの比喩で強調しようとしているのは、まさしくシニフィエとシニフィアンとの不整合なのである。この不整合はレヴィ=ストロースにあって、《構造》の概念に本質的なものであり、それのみが構造の変換、いいかえればシニフィアンのたわむれを可能にする。
(『紙片と眼差とのあいだに』「レヴィ=ストロースの余白に」宮川淳)
宮川淳さんにとって、書物は表現の場でした。そしてこの文章を読むと、いかに彼が「本」を愛していたのかがわかります。これらは改行部分の余白にまで何かの意味を感じさせる文章であり、若い頃に私はよくわからずに、あたかも散文詩を読むようにして愛読しました。この、文字通りに身を切るようにして切り貼りされた文章は、商業主義的に消費されるだけのコラージュ作品といかに違っていることでしょうか。そして宮川さんの文章は、シュルレアリスムのコラージュとも違った表現の可能性を示唆しています。なぜなら、宮川さんの文章は難解であり、謎めいてはいますが、まったく「シュール」ではないからです。無意識の世界や偶然性に依存しない、もっと覚醒した意味の空白があると私は思うのです。
おそらく宮川さんは、この「ブリコラージュ」によって生まれた行の余白が、新たな意味を生むのだと考えたのだと思います。そして私たちは、この思想書における実践を見て、美術表現における「ブリコラージュ」の可能性について探究しなければなりません。お気軽なコラージュとも、シュルレアリスムの表現とも違った、新たな可能性を示唆する「ブリコラージュ」が必ずあるはずです。
そこで次回は、冒頭に書いた髙橋さんの作品から「ブリコラージュ」の現在地点での可能性について考えてみます。そして、それは意外なことに日本の『古今和歌集』の手法とも結びついているような気がするのです。私の思いつきですが、ちょっと面白そうでしょう?ということで、次は髙橋圀夫、ブリコラージュ、古今和歌集について考察します。
ご期待ください。