ドイツにフランクフルトという都市があります。
ドイツのほぼ真ん中あたりに位置していて、大きな空港があることでも知られています。工業、商業が盛んで、国際金融の中心地となっている都市だそうです。
その都市にはフランクフルト大学があって、そこに集う研究者たちを中心とした「フンクフルト学派( Frankfurter Schule)」と呼ばれる研究グループがあります。20世紀前半に新しい形のマルクス主義を模索した研究者たちです。1930年代にナチスが政権を取ると、メンバーの多くが亡命し、活動の中心がアメリカに移りました。その後、中心メンバーがドイツに戻って、フランクフルト大学で社会研究所を開設し、現在も世代交代しながら続いているそうです。
なんだか難しそうな研究グループですね。いろんな研究がありますが、なぜ私はここで彼らのことを取り上げる気持ちになったのでしょうか?
それは、このグループの中にヴァルター・ベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin、1892 - 1940)やテオドール・アドルノ(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund 、1903 - 1969)、マックス・ホルクハイマー(Max Horkheimer、1895 - 1973)といった興味深い学者、批評家が含まれているからです。
ことに、アドルノさんの「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という言葉は有名で、いままさにウクライナでは侵略戦争が行われていますし、世界中を見渡せば、「詩を書くことは野蛮である」と言ってしまいたいような出来事には事欠きません。しかし、だからといってこの言葉を鵜呑みにしてしまえば、芸術活動などは意味がないことになってしまいます。おそらく、アドルノさんの本心はそんなことにはないはずです。そんなことも気になります。
そこで、これから何回かに分けて、このフランクフルト学派に関することを調べて、書いてみたいと思います。今回は、その最初の一歩として、アドルノさんの『ヴァレリー プルースト 美術館』というエッセイを取り上げてみます。とにかく難しい著作を残した人たちなので、ゆっくりと取り組むことにしましょう。
この『ヴァレリー プルースト 美術館』は、アドルノさんの『プリズメン』という本の中に入っています。この『プリズメン』はアドルノさんの最初の自撰論集で、先ほどの「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という命題を含む『文化批判と社会』に始まり、シェーンベルク、ベンヤミン、カフカへなどを論じた12のエッセイが集められています。なかなか興味深いエッセイ集ですが、これらの文章に混じって『ヴァレリー プルースト 美術館』が入っているのです。
このエッセイは、美術館に関するちょっとネガティブな話から始まります。それは次のような書き出しです。
ドイツ語のmusial(ムゼアール/美術館的)という言葉には、少々非好意的な色合いがある。それは、観る人がもはや生き生きとした態度でのぞむことのない、そしてまたみずからも朽ちて死におもむきつつある、そんな対象物を形容するさいの言葉なのだ。これらのものは、現在必要であるからというより、むしろ歴史的な顧慮から保存される。美術館(ムゼーウム)と霊廟(マウゾレーウム)を結びつけているのは、その発音上の類似だけではない。あのいくつもある美術館というものは、代々の芸術作品の墓所のようなものだ。それらは文化が中和されたことを証しする。芸術の財宝はそれらのなかに死滅されている。
(『プリズメン』「9 ヴァレリー プルースト 美術館」アドルノ 渡辺祐邦・三原弟平訳)
美術館というのは「芸術作品の墓所のようなもの」と書かれていますが、私もときにそう思うことがあります。ちょっと前に東京国立近代美術館の大竹伸朗さんの展覧会を見に行きましたが、大竹さんの展示場と上階の常設展示場とは、明らかなトーンの違いがありました。常設展示の会場の雰囲気が、ここで言うところの「墓所のようなもの」に近い気がしたのです。その感想を読んでいただける方は、次のblogをどうぞ。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/aa91b363e2897d35e98adaa797880816
大竹さんは、おそらく自分の作品が「墓所のようなもの」に見えないように、意図的にむせ返るような、言葉は悪いけれども「猥雑」と言っていいような展示にしたのでしょう。それはそれで、一つの見識だと思います。
それでは、なぜ美術館は「墓所のように」見えるのでしょう?
その理由の一つは、展示される作品に関連したことにあります。美術館で展示される作品と言えば、過去にある程度の価値が定まったものです。つまり、功をなし名を遂げた死者のようなもの・・・、だとも言えるのです。
さらにもう一つの理由は、美術館がどんな作品でも展示できるような、ニュートラルな空間であることです。まるでそれは、自己主張をしないようにひっそりと磨かれた共同墓地のようなものなのです。どこで生まれて、どこで死んでも、その死者が存在した場所の固有性を最小限に抑えて、効率よく並べられるように作られた空間なのです。
ここまでの話で、納得できない方もいらっしゃるでしょう。ちょっと美術館に対する見方が意地悪で、アドルノさんは美術館を嫌っているのではないか、と美術館通いが好きな方なら言いたくなります。しかし、ここはちょっと我慢して続きを読んでいきましょう。このような問題がらみの美術館について、アドルノさんは二人の文学者の異なる意見に耳を傾けようとします。次をお読みください。
しかしながら、そうした否定的状態の一般的見解のもとで安心してしまっていてはならないだろう。美術館をめぐってそのような精神的な訴訟は、特殊な論拠を引き合いにだしながら戦い抜かれねばならないだろう。そのための特別なドキュメントが、今二つある。ポール・ヴァレリーとマルセル・プルーストという一世代前のフランスにおけるふたりの真正な作家が、この美術館問題について、しかも正反対の意味での発言を行なっているのだ。
(『プリズメン』「9 ヴァレリー プルースト 美術館」アドルノ 渡辺祐邦・三原弟平訳)
なるほど、二人の大作家が美術館に対して、違う意見を述べているのだ、とアドルノさんは言います。それはどんな意見でしょうか?端的に聞いてみましょう。
ヴァレリーの抗弁は、物が眩暈(めまい)がするほどルーヴルに溢れかえっていることと明らかに係わっている。自分は美術館をそれほど好いていないとヴァレリーはいう。あんなにもたくさんの驚嘆に値るするものが美術館には保存されているのに、味わいあるものときたら、まことに寥々(りょうりょう)たる物だ。
(『プリズメン』「9 ヴァレリー プルースト 美術館」アドルノ 渡辺祐邦・三原弟平訳)
ヴァレリーさんは、美術館という場所について否定的な意見を持っているようです。「自分は美術館をそれほど好いていない」とはっきり書いています。
ヴァレリーさんについて、あるいはこの内容については、また後で確認するとして、もう一つの意見を聞いてみましょう。
美術館についてのプルーストの見解は、『失われた時を求めて』との関連のなかに、きわめて巧緻に織り込まれている。ただそこでのみ、まさにその位置価値というものをまといつつ、そうした見解は開示されるのだ。フローベール以前の、もっと古い小説の慣行に従いながらプルーストが小説中に使用しているあの省察は、彼にあっては、たんに描写されたものについての考察であるばかりか、地下で進行してゆく連想によって、描写されたものとの癒着を例外なくおこしており、かくして物語自身のように、大きな美的連続体、内的独白の連続体へと帰着してゆくのである。
(『プリズメン』「9 ヴァレリー プルースト 美術館」アドルノ 渡辺祐邦・三原弟平訳)
プルーストさんにとっての美術館は、「大きな美的連続体、内的独白の連続体へと帰着してゆく」ことのできる貴重な場所です。この文章だけで、プルーストさんの美術鑑賞の方法を理解することはできませんので、こちらもそのことを後で確認することにしましょう。
さて、ここに登場するのはポール・ヴァレリー(Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry, 1871 - 1945)とマルセル・プルースト(Valentin Louis Georges Eugène Marcel Proust, 1871 - 1922)という二人の人物です。二人は世界的に重要な詩人、小説家、文学者ですが、この二人を対比させて、美術館、もしくは美術そのものについて考察したのが、このエッセイなのです。
私はこの二人の人物を結びつけて考えたことがなかったのですが、なんと同じ年に生まれていたのですね。プルーストさんが若くして亡くなったので、時代的にはヴァレリーさんよりも少し前の人だと思っていました。
それでは、このエッセイの内容にからめて、二人について簡単な紹介をしておきましょう。
ポール・ヴァレリーさんは、フランスを代表する知性と言われた人です。また日本では、小林秀雄(1902 - 1983)さんが翻訳した『テスト氏』という作品で、早くから知られていました。私は伊藤亜紗さんの研究から、何回かヴァレリーさんに関することを書いています。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/207fa3fb341ace110f52a648a4dba187
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/8d898332d3c2d97129e47cbe7961a50c
その伊藤さんの研究の特徴的なところを抜書きしておきましょう。
ヴァレリーにとって詩=作品は、読者を「行為」させ、身体的諸機能を開拓するという「大きな目的」を持った「装置」であった。このような装置を組み立てることをめざすヴァレリーにとって、詩を作る実践は、単なる「言葉をあやつる作業」ではなく、人間の身体の機能の仕方を探究することにつながっていく。ヴァレリーにとって、詩への関心と身体への関心は実践的にも密接につながっており、切り離すことができない。本書が作品論と身体論を接続させようとするのは、まさにヴァレリーの理論がそのような構造を持っているからである。
(『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』「Ⅰ作品 第一章 装置としての作品」伊藤亜紗)
ヴァレリーさんにとって詩=作品は、その「言葉」の世界の美しさを味わうためのものではありませんでした。詩を読むことによって、読者の中に何かを引き起こし、読者の「行為」を促すためのものだったのです。いま、生きて活動する人間こそがヴァレリーさんの興味の対象だったので、彼の詩の構造はその目的のための「装置」の役割を果たしていました。
そういう芸術家が美術作品を見ると、どうなるのでしょうか。ヴァレリーさんは印象派の画家で優れたデッサン家であったエドガー・ドガ(Edgar Degas 、1834 - 1917)さんのデッサンを次のように見ていました。
デッサンほど、知性に働くように深く誘いかける芸術を私は知らない。複雑な眺めから思いがけない見事な描線を抽出することであれ、ひとつの構造体を要約することであれ、手の言いなりにならないことであれ、ひとつのかたち(フォルム)を描く前にそれを読み取り心のなかで言ってみることであれーあるいはまた、創意工夫が瞬間を支配する場であれ、観念が意のままになり、明確なものとなり、画家の眼差しのもと、紙のうえで形となってゆくものによって豊かになってゆく場合であれ、この作業においては精神の能力のすべてが用法を見出すのであり、その人物にさまざまな性格が備わっているときには、その性格のすべてもまた同様に力強く姿を現すことになる。
(『ドガ ダンス デッサン』「余談」ヴァレリー著 塚本昌則訳)
画家の眼は、ただ単にモデルの形を描き写すためのカメラのようなものではありません。画家は積極的にモデルのポーズについて理解し、そこに画家の解釈を加えて、時には形を歪めて表現するのです。そのようなデッサンを味わう私たちにも、美しい女性のポーズを黙って鑑賞するのではなく、画家の意図を感覚的に読み取りながら鑑賞する、言わば能動的な態度が必要だろうと思われます。
もしもヴァレリーさんのような態度で絵を鑑賞するとなると、私たちは一枚一枚の絵に対して、しっかりと対峙することが必要となります。見栄えの良い絵をバランスよく大きな壁面に並べて、悦に入って眺めるだけ、というような態度ではいけません。一枚一枚の絵が私たちに投げかけてくる能動性を受け止めて、そこから鑑賞者である私たちも、感覚的な、あるいは知的な鑑賞「行為」をしなくてはならないのです。
一方のプルーストさんにとっての芸術との関わりはどのようなものでしょうか?プルーストさんの有名な『失われた時を求めて』の一節を思い出してみましょう。そこには何が書かれていたのでしょうか?
コンブレーについて、あの眠るときのできごとと時間以外、いっさいがぼくにとって存在しなくなってから、すでに何年も経っていた、ある冬の日のことだ。
家に帰ったぼくが寒そうなのを見て、母が、紅茶でも飲んだらどうと勧めたことがあった。いや、いらないよと答えたものの、気がかわって、やっぱりもらうことにした。母は女中に命じて、紅茶と、マドレーヌ菓子を用意させた。ほたて貝の貝殻のような模様の入った、ふっくらした菓子である。今日もかなしい一日だったが、明日もきっと同じだろうと、ぼくはふさいだ気分で、マドレーヌを紅茶に浸し、口に運んだ。その瞬間、ぼくは震えはじめた。何かとんでもないことが、ぼくの内側で起こっていた。恍惚とするようなよろこびが指の先までひろがっていくが、その気分はほかの何とも結びつかず、その原因がわからない。たちまち、人生の苦難などどうでもよくなり、どんな不幸なできごとも無害で、人生が短いなんてことも迷信に思えた。まるで恋をしているときみたいに、その気分は貴重な本質でぼくを満たした。いや、そうではない、その貴重な本質はぼくの内側にあるのではなくて、ぼくそのものだった。ぼくは今や自分を、退屈で平凡な、死に向かって生きている存在だとは思えなかった。この、力強いよろこびはどこからきているんだろう? 紅茶とマドレーヌに何か関係があるのにちがいないが、あまりにも軽々とこのふたつを超えるよろこびで、同列に並べられるようなものではない。
どこからきた?
どういう意味だ?
どこでそれをとらえるんだ?
ぼくは紅茶を飲む。最初に感じたほどのよろこびはない。もう一度飲む。また、よろこびは目減りする。もうやめたほうがいい。紅茶にはもう効力はない。真実は、紅茶に、ではなく、ぼくの内にある。紅茶はその真実を呼び覚ましたが、正体は知らず、だんだん力を弱めながら、いつまでも同じ証言をくり返すだけで、ぼくにはどう解釈していいかわからないままだ。
(『失われた時を求めて』プルースト 角田光代・芳川泰久 編訳)
この小説の主人公はプルーストさんと同様にブルジョワ階級に生まれた、恵まれた地位にいた青年です。その青年がマドレーヌ菓子を紅茶にひたして口に含むと、「恍惚とするようなよろこび」が湧き起こってくるのです。
これほど大袈裟ではないにしても、私たちの中にもそういう体験をすることがあるのではないでしょうか?例えばこの主人公のように、昔食べていた食べ物を久しぶりに食べて、その匂いや味で当時の記憶がうわーっとよみがえってくるとか、季節の変わり目の風の匂いで記憶の中のある情景が頭をよぎる、とかいう体験です。
プルーストさんの『失われた時を求めて』は、記憶に関する小説です。この小説の中では、芸術の鑑賞でさえ主人公の記憶と深く結びついて語られています。アドルノさんが「プルーストが小説中に使用しているあの省察は、彼にあっては、たんに描写されたものについての考察であるばかりか、地下で進行してゆく連想によって、描写されたものとの癒着を例外なくおこしており、かくして物語自身のように、大きな美的連続体、内的独白の連続体へと帰着してゆく」と書いていたことを思い出してみましょう。それにあたるようなプルーストさんの文章は次のようなものです。
焼けつくような夏の日にバルベックで描かれた絵(タブロー)では、海の引っ込んだ部分がバラ色の御影石の岩壁に閉じ込められて、海ではないように見え、海はもっと先の方で始まっているように思われる。大洋とつながっていることは、カモメによって暗示されているにすぎず、そのカモメは、見る者には石と思われるものの上を旋回しながらも、実は彼の湿りを吸収している。さらにこの画布からはまた別な法則が浮かびあがり、たとえば巨大な断崖の足許の、青い鏡の上にただよう白い帆が、まるでガリヴァーの小人国リリパットに見られるような美しさをたたえて、眠りこんだ蝶たちのように見えたり、影の部分の奥深さと光の部分の生は青白さがある種の対照をなしていたりするのであった。
(『抄訳版 失われた時を求めてⅠ』「第二篇 花咲く乙女たちのかげに」プルースト 鈴木道彦編訳)
これはエルスチールという、印象派のモネ(Claude Monet, 1840 - 1926)をモデルにしたと思われる画家の絵について、延々と描写しているところの、そのごく一部分です。主人公の連想に継ぐ連想、あるいは記憶に継ぐ記憶が、ついには『ガリヴァー旅行記』の小人国の海に達してしまいました。小説の筋書きとしては、一枚の絵の描写から一歩も進んでいないので、このようなプルーストさんの寄り道(?)が楽しめないと、『失われた時を求めて』を読むことは苦痛でしかありません。私は若い頃にはさっぱりプルーストさんの小説がわかりませんでした。でも今は、その良さが少しはわかります。
さて、説明が長くなってしまいましたが、このような芸術鑑賞の態度を持ったヴァレリーさんやプルーストさんが、美術館で作品を鑑賞するとどういうことになるのでしょうか?先ほどの伊藤亜紗さんの解釈でも確認したように、ヴァレリーさんは作品に対する能動的とも言える鑑賞こそが、美術作品を生き生きとしたものにするのだ、と考えています。そのヴァレリーさんが美術館で作品を見ていると、どうなるのでしょうか?
彼(ヴァレリー)にとっては、何物によってもかき乱されない瞑想の対象としての純粋な芸術作品が重要なのであるが、あんまり長いことじっと見つめているうちに、それがそのような純粋な瞑想の対象としては死に絶え、美術工芸的な装飾にまで退化していること、ヴァレリー自身にとってと同様その作品にとってもその存在理由(レゾン・デートル)であったあの品位が奪い去られてしまっていること、そのことを見抜くにいたるのだ。純粋な作品を物象化と無関心が脅かしている。この経験で圧倒されるところ、それが彼にとって美術館なのだ。
(『プリズメン』「9 ヴァレリー プルースト 美術館」アドルノ 渡辺祐邦・三原弟平訳)
ヴァレリーさんのような作品鑑賞の方法でいくと、例えば彼が懇意にしていたドガさんのアトリエに行って、画家と話しながら少しずつ作品を見せてもらう、というぐらいの感じがちょうど良いのでしょう。あわよくば、画家がモデルをデッサンするところに立ち会えるかもしれません。そうすれば、画家の描く行為を、鑑賞者の私も共有できることになります。ヴァレリーさんにとっては、美術館のように既に名画として仕上がってしまった作品が林立していると、それらの作品との生き生きとした交感が不可能となるばかりでなく、かつては生き生きとしていたはずの作品でさえ「物象化と無関心」が避けられない状況になるのだというのです。
一方のプルーストさんの美術鑑賞は、ヴァレリーさんが作品を「純粋な瞑想の対象としては死に絶え」てしまったと考えていた、その後から始まるのだ、とアドルノさんは解釈します。プルーストさんは「記憶の作家」ですから、ヴァレリーさんの求める作品の「行為性」が果てた後に、プルーストさんの記憶が動き始めるのです。アドルノさんはこう書いています。
「後世といわれるものは、作品の後の生のことである」(プルーストの言葉)と。人工物が持つところの風化してゆくという能力のうちに、プルーストは自然の持つ第二の生の観相学として心得ている。プルーストにあっては、すでに記憶によって伝えられているもの以外、なにも永続しないので、彼の愛は、第一の生よりも、すでに過ぎ去ってしまった第二の生のほうにむしろ固着するのだ。
(『プリズメン』「9 ヴァレリー プルースト 美術館」アドルノ 渡辺祐邦・三原弟平訳)
アドルノさんによれば、プルーストは現在演奏されて耳に入ってくるベートーベンの第一楽章よりも、聞き手の記憶に残っている流行歌の方が「はるかに心に染み入るかたちで(聞き手の中に)保持」されているのだ、と言っていたのだそうです。だからヴァレリーさんにとっての「美術館のなかでの作品の死は、プルーストにとっては作品を生へと目覚めさせるものなのだ」という逆転現象が起こるのです。
同時代の偉大な作家、文学者が美術鑑賞について、あるいは美術館についてこれほど違ったことを言っているのですから、なかなか興味深いです。
私たち自身、美術館に行って感動的な体験をすることもありますし、辟易して疲れ果てて帰宅することもあります。だから、二人の文学者の意見のどちらかだけを選ぶことはできません。しかしいずれにしろ、ヴァレリーさんとプルーストさんが自分の芸術の見方について深く追究し、それをアドルノさんが少しでも明確に分析しようとしていたことについては感心せざるをえません。こうでなければ、人を説得できるだけの作品や学説を作りあげることはできないのかもしれません。
さて、この『ヴァレリー プルースト 美術館』のエッセイの冒頭で、美術館を「墓所」と比喩したのはアドルノさんでした。そして美術館では、作品の「物象化と無関心」が避けられない、と言ったヴァレリーさんでした。
彼らは本当に美術館を嫌っていたのでしょうか?
彼らの美術館への批判は、その愛着の裏返しのようにも思えるのですが、このようなものの言い方が、次回以降の「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という言葉の真意を探る上でも、参考になるのかもしれません。ですから最後に、このエッセイをアドルノさんがどのように結んでいるのか、確認しておきましょう。
美術館は封鎖されえない。そんなことは望むことでもあるまい。精神の博物標本室は、芸術作品をまさに本質的に歴史の象形文字本に変え、芸術作品の有していた古い内実がしぼんでいく一方で、それに新しい内実を与える。それに抗しようとして、過去から借受けられたが同時に過去には似つかわしくない、あの純粋芸術という概念を総動員してみてもむだである。おそらくヴァレリーにもましてこのことを知っていたものはいなかったろう。だからこそ彼は自分の省察を突然中断したのである。だがおそらく美術館は、すでに個々の芸術作品がそもそも求めているものを、つよく求めるだろう。すなわち、いくばくかの見物客たちを。プルーストがその影と化してしまった遊歩者は、もうとっくにいなくなり、ここそこで恍惚のときを見つけるべく美術館内をぶらつくことができるものはだれもいない。カタストローフへと方向づけられた現実のなかで、いまなおふさわしい唯一の芸術にたいする態度は、世の成り行きが血のにじむほどのっぴきならないものになってしまったように、そのように芸術作品を血がにじむほとののっぴきならないものとして受け取る態度であろう。ステッキと傘といっしょにみずからのナイーブさの残りも外にあずけてしまい、自分が何を望んでいるかをよく心得、二枚か三枚の絵を自分のために選び出し、それが本当の偶像でもあるかのような集中ぶりでその前にたたずみ続ける、そうした人だけが、ヴァレリーが診断をくだしたあの弊害から身を守れるのである。そんな人の意にそう美術館がいくつかある。そうした美術館は空気と光とともに、ヴァレリーがわが流派のものとして宣言し、かつ美術館にはそれがないとして悲しんだあの選択という原則をも、自分のものとしている。いまサン=ラザール駅の絵がかかっているジュー・ド・ポーム美術館のなかには、プルーストのエルスチールとヴァレリーのドガが、平和のうちに間近に、だが、つつしみ深くたがいに離れて、収まっている。
(『プリズメン』「9 ヴァレリー プルースト 美術館」アドルノ 渡辺祐邦・三原弟平訳)
ちなみに文中の「ジュー・ド・ポーム美術館」ですが、パリにある国立美術館です。
「ジュー・ド・ポーム」とはテニスの原型のスポーツのことで、この美術館の建物はその屋内競技場だったそうです。20世紀になってまもなく、そこで展覧会が行われるようになりましたが、第二次世界大戦でナチスが占領した時に、ユダヤ人から没収した作品を格納する場所となりました。戦後、「ジュー・ド・ポーム美術館」として印象派の作品を展示する美術館となりましたが、オルセー美術館ができたので印象派の作品はオルセーへと移管しました。現在の「ジュー・ド・ポーム美術館」はコンテンポラリー・アートの国立美術館として、映像作品の紹介などにも力を入れているそうです。アドルノさんの文章は、もちろん印象派の作品が展示されているという認識で書かれたものでしょう。
https://www.parisnavi.com/miru/77/
さて、引用したアドルノさんの結びの文章ですが、そのはじめの部分で美術館への否定の意志は訂正されています。そして全体として見れば、ヴァレリーさんのような作品の見方であっても、作品を選んで集中して鑑賞すれば、美術館での鑑賞が弊害となることはない、とも書かれています。
それで安心しましたが、前半の部分で気になるところがあります。「カタストローフへと方向づけられた現実のなかで、いまなおふさわしい唯一の芸術にたいする態度は、世の成り行きが血のにじむほどのっぴきならないものになってしまったように、そのように芸術作品を血がにじむほとののっぴきならないものとして受け取る態度であろう」という一文です。私たちは芸術の鑑賞において分岐へとさしかかっており、その選択肢も「血のにじむほどのっぴきならない」態度で作品と向き合う方向しかない、とアドルノさんは言っているように読みとれます。これはどういうことでしょうか?
私には、ここで俄かに明確な答えをいうことは出来ませんが、おそらくこの認識には第二次世界大戦という苦い体験が影を落としているのでしょう。それは「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」というアドルノさんの認識と一致しているのかもしれません。アウシュヴィッツ以降、プルーストさんのように記憶に思いを馳せて美術鑑賞することは不可能だと、アドルノさんは言いたいのではないでしょうか?私は、自分自身が芸術作品と対峙する時には、それなりの覚悟が必要だ、という気持ちで接していますので、アドルノさんのいうことが、自分なりに理解できます。しかし、彼の本当の真意はどういうことなのか、アウシュヴィッツの後で生まれてきた私にそれが理解できるのか、まだよくわかりません。この世界は複雑で、私にはまだまだ学ばなければならないことが多過ぎます。
最後の最後に、こんなことしかわからなかったのか、と怒られそうですが、一言で今日の考察をまとめておきましょう。
「美術館は封鎖されえない、しかし過去の遺物を飾っておけば良いというものでもない。」以上、肝に銘じておきましょう。
アドルノさんをはじめ、フランクフルト学派について、引き続きもう少し勉強します。