平らな深み、緩やかな時間

351.現実の捉え方ー谷川俊太郎、マグリット、大森荘蔵

私の勤務している高校では、この数ヶ月間、「認知行動療法」を取り入れた研究授業を実施しています。各教科(司書や養護の先生も含めて)の先生方がチームを組んで、それぞれが「認知行動療法」を取り入れた授業を実施していく、というものです。私も成り行き上、国語の先生とチームを組み、その先生のご協力と相談のもと、一つの授業を担当したので、ご興味のある方は次のリンクをご覧ください。

https://www.townnews.co.jp/0105/2023/11/09/705670.html

実はこの授業は、NHKの首都圏ネットワークで放映されたり、各種新聞に報道されたりしていますが、私の授業についてコンパクトにまとまった記事を書いてくださったのは、上記の地域ミニコミ誌です。

このことについて、ここで特に申し上げることはないのですが、私の若い同僚が「倫理」の授業の中で、ちょっと面白いことをやっていたので、そこから連想したことについて少し書いておきたいと思います。

その若い同僚は大変に優秀な方で、初任で本校に赴任した年がちょうどコロナ禍の一番ひどい時期だったのですが、修学旅行が中止となり、旅行に行けなかった生徒たちのために旅行先である福島の特色を取り入れた体験授業を一人で企画運営してくれたのでした。また、このような実務的な仕事ばかりでなく、哲学や思想への造詣も深く、雑談の中で私にもいろいろなことを教えてくれます。



さて、その授業ですが、二冊の絵本をモチーフとしています。

それはヨシタケシンスケさんという作家の『りんごかもしれない』と、『ころべばいいのに』という本です。

https://www.bronze.co.jp/books/post-76/

https://www.bronze.co.jp/books/post-179/

授業の終わりの方で、学校司書の先生が『ころべばいいのに』を読み聞かせする、というとても素敵な授業でした。

そして、この若い同僚のすごいところは、この『りんごかもしれない』という絵本から、ドイツの哲学者のイマヌエル・カント(Immanuel Kant 、1724 - 1804)さんの認識論に入っていったところです。私たちの認識している現実は、どこまで真実に迫っているのか・・・、その同僚は生徒たちにさまざまな「りんごかもしれない」を発想させて、生徒たち自身の思い込みを柔らかく解きほぐしていきました。カントさんも同じように悩んだかもしれない・・・、そしていかにその真実が曖昧なものに見えようとも、私たちはそこから共有できる真実を見極めて進んでいくしかない、という解説をわかりやすく、しかも短時間で講義したのでした。

 

その授業の全体像や評価をここで書くことはしませんが、この刺激的な前半部分から私が発想したことを書き留めておきます。

まずは「りんごかもしれない」という発想ですが、私はこのことから詩人の谷川 俊太郎(たにかわ しゅんたろう、1931 - )さんの『定義』という詩集を思い出しました。久しぶりに詩集を開いてみると、そこに『りんごへの固執』という詩がありました。随分前に読んだきりなので、すっかり忘れていました。

その詩の出だしはこうです。

 

紅いということはできない、色ではなくりんごなのだ。丸いということはできない、形ではなくりんごなのだ。酸っぱいということはできない、味ではなくりんごなのだ。高いということはできない、値段ではないりんごなのだ。・・・・

(『定義』「りんごへの固執」谷川俊太郎)

 

詩は言葉の芸術なので、絵本のように視覚に直接訴えることはできません。しかし、そのかわりにどんどん中心部に近づいていくような、そんな求心力を感じます。その集中力に、思わず息を飲むような気持ちで読んでしまいます。

私がこの詩集の中で好きな詩は、『コップへの不可能な接近』という詩です。これも出だしだけ引用してみます。

 

それは底面をもつけれど頂面を持たない一個の円筒状をしていることが多い。それは直立している凹みである。重力の中心へと閉じている限定された空間である。それは或る一定量の液体を拡散させることなく地球の引力圏内に保持し得る。その内部に空気のみが充満している時、我々はそれを空と呼ぶのだが、その場合でもその輪郭は光によって明瞭に示され、その質量の実存は計器によるまでもなく、冷静な一瞥によって確認し得る。

・・・・・・

(『定義』「コップへの不可能な接近」谷川俊太郎)

 

詩全体では、この数倍もコップについて語りながら「不可能な接近」という題名をつけているところが興味深いです。詩人は言葉の専門家であるだけに、言葉の表現の限界を知っているのです。どんなに上手く語っても、どんなに細かく説明しても、コップそのものを表現することはできません。それは画家が絵を描くときのもどかしさと共通します。どんなに写実的に描いても、それは絵でしかないのです。

 

そして画家にも、谷川俊太郎さんと同じようなことを試みた人がいます。

私が次に連想したのは、シュルレアリスムの画家として知られたルネ・マグリット (René François Ghislain Magritte, 1898 -1967)さんです。彼の「これはパイプではない」と呼ばれている作品をご覧ください。

https://www.artpedia.asia/magritte-the-treachery-of-images/

https://ima-inat.hatenadiary.org/entry/20090411/1239451835

マグリットさんは、この作品のいくつかのヴァリエーションを描いています。上の作品がそのシンプルなもの、下の作品はその複雑なものです。このシリーズについて、フランスの哲学者、ミシェル・フーコー(Michel Foucault 、1926 - 1984)さんは『これはパイプではない』という一冊の本を書いています。

その中で、これらの作品について次のように書いています。

 

最初の作品は、たしか1926年のものである。一本のパイプが丹念に描かれている、その下には(整って、几帳面で、もっともらしい書体、小学生の練習帳の上の方に、あるいは物の名を教える授業の後の黒板に、お手本として見出されるような寄宿女学校の書体で手書きされた)こういう説明がある。「これはパイプではない。」

また別の作品ーたぶんシリーズの最後のものだと思われるーは、『対蹠点では夜明け』の中に見出される。同じパイプ、同じ言葉、同じ書体。だが限定も特定化もされていない無差別な一空間の中に並列される代わりに、文と図像は額縁の内部に置かれている。この額縁は画架の上に載っており、そして、今度はこの画架も床のはっきり見える破目板の上に載っている。その上方には、画架の上の絵に描かれているのとまったくそっくりな、だがはるかに大きなパイプが。

最初の作品が人を惑わせるのは、その単純さによってのことにすぎない。もう一つの方は、意図された不確かさというものを目に見えて倍加させている。木釘に載せられ、画架に立てかけられた額縁は、そこにあるのが画家の描いた絵(タブロー)であることを示している。出来上がって陳列されており、たまたま観に来ることになる人のためにそれは注釈ないし解説する言葉の付いている作品、というわけだ。しかしながら正確には作品の表題でもなければその絵画的要素の一つでもないこの素朴な書体、画家の存在を示すような徴候が他に一切見当たらないこと、全体の無骨さ、幅の広い床板ーこうしたすべてが思わせるのは教室の黒板である。ひょっとしたらデッサンと文とは、今しも雑巾の一拭きで消されようとしているところなのかも知れない。

<中略>

だがそれとてもまだ不確かさの中で最も些細なものにすぎない。不確かさは他にも多々あるのだ。パイプは二つある。むしろこう言うべきではないだろうか、同じ一つのパイプの二つの画と?あるいは一つのパイプとその画、あるいはそれぞれ別個のパイプを表象している二つの画、あるいは一方はパイプを表象しているが他方はそうではない二つの画、あるいはどちらもパイプであるのでもパイプを表象しているのでもない二つの画、あるいは表象しているのはパイプではなくて、もう一つのそれ自体パイプを表象している画であるような画。というわけで私はこう自問しないではいられなくなる、絵=黒板に書かれている文は何ついてのものなのか?それはすぐ下に置かれているデッサンについて、なのだろうか?

(『これはパイプではない』「1 ここに二つのパイプがある」フーコー著 豊崎光一、清水正訳)

 

いかがですか?

「これはパイプではない(だって、これは絵なんだから)」という単純な作品だと思っていたら、フーコーさんは想像力を巡らせて次々と話を複雑にしているように見えます。しかし、これは哲学者の気まぐれで書かれた本ではありません。マグリットさんは、シュルレアリスムの画家の中でも、とりわけ思索的な画家なのです。そしてフーコーさんに書簡を送るほど、哲学や思想に造詣が深かったのです。

これには、少し説明が必要です。

フーコーさんは1966年に『言葉と物』という一冊の本を出版しました。この本が出版されると、難しい思想書であるにもかかわらず、たいへんな評判になったそうです。

その思想書の解説は、次のリンクをご覧ください。

https://book.asahi.com/article/11581585

この書評の中で、社会学者の大澤真幸さんは次のように解説しています。

 

 ふつう学問史には、分野ごとに偉い学者が順次出てきて知識が蓄積され、真理に近づいてきたという物語が書かれる。しかしフーコーの書き方は違った。時代ごとに基本的な「認識枠組(エピステーメー)」がある。同時代の学問は同じ認識枠組を前提にしているので、分野が異なっても同じ構造をもつ。認識枠組は徐々にではなく、突然、不連続に変化する。

 まず中世の特徴は、記号とそれが表す事物とが同じ水準に属していること。世界そのものが一種の書物なのだ。このとき、何かがある事物の記号になりうるための条件は類似である。たとえば紐(ひも)が蛇を表す記号になるのは、蛇に似ているからだ。というわけで、中世の認識枠組の中心にあるのは「類似」。

(朝日新聞2018年2月18日掲載)

 

私は学生の頃に、何の予備知識もなく人から薦められてこの『言葉と物』を読みました。そして、ああ、中世の人って、今の私たちとは物の見方が全く違ったんだ!と実感しました。こんな単純な事実を、愚かな私はまったくわかっていなかったのです。高校時代にろくに勉強しなかった私の歴史の知識は小学生並みですが、そんな私でもなぜか「エピステーメー」の違いを感じることができました。これはフーコーさんの書物の力でしょうか・・・。

そしてマグリットさんは、この書物が出版された年にフーコーさんに次のような手紙を送っていたのです。

 

拝啓

御著『言葉と物』を読んだところから考えた、こんないくつかのこと、お目にとめていただければ嬉しいのですが・・・

<類似>および<相似>という言葉によって、あなたは世界とわれわれ自身との現前ーまったく異様は現前ーを力強く暗示することに成功しておられます。けれども、私はこの二つの言葉がほとんど違いをつけられていないと思いますし、辞書類もそれがどの点で区別されるのかということについてほとんど何も教えてくれません。

私に思えるところでは、例えばグリーンピースはお互いのあいだに相似の関係を持っており、その関係は眼に見えるもの(色、形、寸法)であると同時に眼に見えないもの(中身、味、重さ)でもあります。偽物と真物などについても事情は同様です。「物」はお互いのあいだに類似を持たず、相似を持つか持たぬかのどちらかなのです。

類似しているということは思考だけの持ち前です。思考はそれが見、聞き、あるいは識るところのものであることによって類似するのであり、世界がそれに差し出すところのものにそれはなるのです。

思考は快感や苦痛とまったく同じく眼に見えません。しかし絵画は一個の困難を介入させます。つまりものを見る思考、眼に見える形で叙述し得る思考というものがあるのです。『侍女たち』はベラスケスの眼に見えない思考の眼に見える像です。眼に見えないものはそれではときとして眼に見えるのか?それにはその思考がもっぱら眼に見える形象だけから成っていることが条件です。

(『これはパイプではない』「ルネ・マグリットの二通の手紙」)

 

ちなみに、文中に出てくる『侍女たち』という名画について、フーコーさんは『言葉と物』の中でくわしく書いています。

http://www.bijutukogei.co.jp/kont/prehard/kaiga_folder/kaiga/156.html

さて、このようにマグリットさんはフーコーさんが提示した「類似」、「相似」という概念について、画家の立場からの意見を書いているのです。これらの概念に対し、絵は、あるいは言葉は、どのような関係性を持っているのか、ということをマグリットさんは問いかけ、そのことに対するフーコーさんの答えが『これはパイプではない』という著書だった、と私は考えます。そして私の頭の中はすでにこんがらがっていて、「類似」と「相似」について、ここでもっともらしい解釈を書ける立場にはありません。興味のある方は『これはパイプではない』と『言葉と物』を読んでみてください。内容がよくわからなくても、哲学者と画家の素敵なやり取りを体験することができます。この知的なやりとりが本当にうらやましいです。

そしてこの『これはパイプではない』を読むと、マグリットさんが単に無意識の世界を追い求めるシュルレアリストではなく、人間の認識に対する根源的な探究心を持った画家であったことがわかります。その点において、マグリットさんは他のシュルレアリストたちとは一線を画していたのです。

 

さて、ここまで読んでいただくと、私たちは現実をあるがままに見ているつもりでも、そこには自分なりの理解や解釈が入っていることがお分かりいただけると思います。私の若い同僚は、こんな面倒な話をせずに、さらっとそのことを生徒たちに教えていたのですけれど・・・。

そして、私が最後に連想したのが、これも私が若い頃に読んだ大森 荘蔵(おおもり しょうぞう、1921 - 1997)さんという哲学者のことでした。私の拙い解釈では、大森さんはそのような現実への解釈を抜きにして、私たちが現実そのものと接するにはどのように世界を見たらよいのか、ということを探究した人でした。大森さんの主著である『新視覚新論』には次のような書店の解説がネット上に掲載されています。

 

「外なる世界と内なる心、という分別は誤りだと思う」

見たり聞いたりする知覚の風景が自分の「心の中」にある心象風景だと感じる人はまずいないだろう。しかし、痛みや気分、悲喜の感情、思い出や希望、空想や妄想、そして意志といわれるもの、これらはまぎれもなく自分の「心の中」のものだ、と人は感じている。

しかしそれは、人が抱く根本的な事実誤認ではないか? 

世界そのものが悲しく喜ばしく恐ろしく、回想や希望も現在も、常にひとしく四次元の全宇宙世界の立ち現われなのである。

このことを、光学虚像や幻覚・幻像、時間と空間、幾何学、芸術、自由と意志などさまざまな角度からていねいに論じる。陥りがちな誤解をほぐしながら、日常と科学を重ねながら、「世界の一項目としての私」を「世界のあり方としての私」に組み変える。

世界そのものが、悲しく喜ばしく恐ろしい。

こうして「私」は抹殺され、私が復元されたのである。

(『新視覚新論』大森荘蔵著 電子書籍販売の解説より)

 

なかなか難しいですね・・。

大森さんには、自らの思想をもう少しわかりやすく解説したエッセイ集があります。『流れとよどみ ー哲学的断章ー』という本ですが、この本から大森さんが私たちの現実の捉え方についてどのような問題を提起しているのか、主な部分を抜書きしてみましょう。ところどころ飛ばし読みをしていきますが、煩雑になるので「中略」の注を省いて文章をつなげてみます。

 

霊と肉、魂と体、心的現象と物理的現象、といった様々な形で表現されてきた心身関係は単なる哲学問題ではなく人間のあり方の基底にある問題である。それは人間の生活のあらゆる場所、あらゆる時間に、たとい「問題」として現れないとしても常住坐臥でんと居すわって立ち去ることはない。人間がまさに心であり体であるからである。それだからこそ一旦それが「問題」となるとき極めて把えにくい問題となる。人間の生き方の基底にある「時間」とか「自我」と同様に、最も基底的、したがって最も平凡自明な事がらだからこそ言語的定着に最も強く抵抗するのである。それらは言語そのものを可能にする地盤なるがゆえに、言語表現が困難なのである。それらはもともと体験的にまったく自明平凡なこととして、あらためて言葉で表現する必要がないことなのである。

一つの客観的世界と各人各様の主観的意識という「二元論的構図」は、哲学的見解である以前に日常の常識でありまた科学者の大部分の通念である。日常茶飯の経験がほとんど自明のこととしてこの構図を示唆するのである。この二元論の構図を示唆しそれに誘う経験はあまたあるが、ここではその主なものとして三つの種類をとりあげる。

第一に十人十色の経験がある。同じ一つの風景が人様々に見える。

そしてその「同一対象」が客観的世界に、各人のその時々の「印象」が主観的意識に配されて上述の二元論的構図に導かれるのもこれもまた当然のことであろう。

第二にわれわれのいわゆる心的現象といわれるものがある。感情、意志、思考、といった経験は誰にとっても物的現象とは思われない。それらが非物的現象であることは全く自明であるように思われる。

こうして二元論の構図が不可避に思われるのである。

第三に、これら心的現象と物的世界の中間にある、あるいはその両方にまたがっているともいえる「知覚世界」では「幻覚」と呼ばれる現象がある。

見間違われたもの、聞き間違われたもの、思い違われたこと、誤報されたこと、これらはすべて幽霊と全く同様に物的世界には実在しない物事である。したがってそれらは幽霊と同様に意識世界に所属することになる。こうして「幻覚」や「間違い」の存在からもまた二元論の構図が誘導されてくるのである。

(『流れとよどみ』「心身問題、その一問一答」大森荘蔵)

 

このように、大森さんは私たちのものの見方が二つに分断されていると指摘します。そして「心」と「体」の分断は、「近代科学」の発達によって、より強化されていったのです。例えば、近代以前には私たちに親しかったはずの「幻覚」や「幽霊」は、近代科学によって存在しないものとして駆逐されてしまいました。この二元論、すなわち「心」と「体」の分断は、私たちの常識の範囲では疑う余地のないものとされています。

しかし、最新の哲学ではそれらを捉え直して、二元論を大きく包み込むような考え方も生まれています。私がこのblogで何回か取り上げているマルクス・ガブリエルさんの思想はそのよい例です。よかったら次のblogをお読みください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/f2a61fa9d7a2aba8c48afecce3fa03a7

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/971bcdc7a3fa119759b81461444d6e27

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/28606636b896541442b3705c47a7f645

それはともかく、大森さんは、「心」と「体」は緊密な関係にならなくてはならないのに、その分断は深まるばかりである、と危機感を抱いていました。そこで大森さんが考え出したのが「立ち現れ」という概念です。

それはどういうものでしょうか?

大森さんは、その概念を「幻覚」の問題から解き明かしていきます。

 

幻覚を幻覚とするものは何かといえば、それはもちろんそれが物理的実在でないからである。しかしそれと同時に、それが物理的実在とそっくりであるからである。視覚的幻覚ならば、それがまがうかたなき幻覚であるためには、それが物理的実在とまがうばかりに見えなければならない。言葉を換えていうならば、それは視覚的に実在するのである。こう言うとき、私は明らかに「実在」という言葉の弾力性あるいは可塑性を利用している。それと似た意図から、幻であれ現実であれ、はたまた想像や空想であれ、とにかく事実私に見え聞こえ、あるいは想像され、思われ考えられたすべてのものを一視同仁に「立ち現れ」と呼ぶことにする。つまり、知覚的にであれ、想起的にであれ、空想的にであれ、思考的にであれ、とにかく事実私に立ち現れるものの一切である。

この「立ち現れ」という言葉の徹底的な無差別性は、フッサールの「現象学的還元」と同一ではないにしても近縁なものである。現象学的還元において求められた、存在措定のカッコ入れ、判断中止(エポケー)の機能はまさに実在と仮象の身分差別の一時停止であったからである。しかし一方、「立ち現れ」の語に私が求めるのは存在措定のカッコ入れや判断中止ではない。実在は実在として「立ち現れ」、仮象は仮象として「立ち現れ」るのである。現象学的還元おいても、還元後の世界が還元前の「自然的態度」での世界と、フッサールが繰り返し述べるように何一つ変化がないものであるならば、存在措定をカッコ入れしたり判断中止したりしてはならないはずである。存在措定をカッコに入れた私の肉体とは一体どんなものなのか私にはわからないが、とにかく「自然な」肉体とは違ったものであるならば、世界は以前通りであるはずだからである。一方、実在と仮象との身分差別の停止を目的とするならば、事は全く簡単でただ差別をやめればよい。人種差別の停止で人間の皮膚の色が変わるのではないのと同様、それによって存在措定が変わるものではなく、また変わる必要もないのである。

(『流れとよどみ』「心身問題、その一問一答」大森荘蔵)

 

エトムント・フッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859 - 1938)さんは、言わずと知れた「現象学」の始祖で、その後の哲学に大きな影響を与えました。マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889 - 1976)さん、ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre 、1905 - 1980)さん、モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)さんなどがフッサールさんの思想の後継者と言われますが、いずれも大哲学者です。

現象学について簡略に知りたい方は、例えば次のサイトをご覧ください。

https://kotobank.jp/word/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E5%AD%A6-60674

「現象」という言葉は、もちろんフッサールさんの現象学以前にもありましたので、ここでの関連で言うと、「フッサール現象学」を参照されるとよいでしょう。

さて、フッサールさんはもちろんのこと、その後の後継者と言われる人たちも、私が意識的に哲学や思想について勉強しようと思った頃にはすでに亡くなっていました。そして大森さんが言うとおり、「判断中止(エポケー)」した後の世界はどうなるのか、私たちはどういうふうにこれから物事を捉えていったらよいのか、というのは大きな問題でした。しかし現象学者たちは亡くなってしまっているので、もうその問いに答えることができません。近年、マルクス・ガブリエルさんの思想が話題になったのは、そのことについて解決する一つの方法を彼が示したからだと思います。

そして大森さんの「立ち現れ」(大森さんは「立ち現われ」と表記しています)という概念は、現象学をも超えようとする大胆な考え方でした。しかし「幽霊」をも視覚的な実在として認めよう、という発想が私たちの常識とかけ離れていて、なかなかわかりにくいものであることも確かです。深く読み込んでいくと、難しい禅問答を仕掛けられているような気分になります。

私自身は、そのような根源的な存在論や認識論の問題に深入りする以前に、とりあえず視覚的に見えている世界と、絵画として表現する世界との関係性について悩み始めていました。そして、いまだにその問題の中でさまよっています。現在では、そのことに関して一つの答えを見出すことを目的とせず、さまよっている私自身の表現の過程を見せることができればよいのだと考えています。ただし、それだって大変なことなのです。私の絵を見ていただければわかりますが、他の人には成し得ないことを私は頑張ってやっています。

それはともかく、今回の若い同僚の講義から大森さんの哲学まで連想が及んだところで、もう一度、ものを捉えるということ、認識するということをラディカルに勉強してみるのもよいのかな、と思っています。若い頃には手を出さなかった、大森さんが影響を受けたと言われるアイルランドの哲学者、ジョージ・バークリー(George Berkeley、1685 - 1753)さんの本なども、この機会に読んでみたいですね。

 

さて、私の連想はこんなところですが、若い同僚はこれを読んでどう思うのでしょうか?バークリーを今さら勉強するんですか、などと言われてしまうかもしれません。生徒の立場になって、認識論のことなどをまたいろいろと教えていただきたいものです。

 

ところで、最後にもう少しだけ余計なことを書いておきます。

それは『ころべばいいのに』という絵本が提起する問題についてです。現代において、この絵本が提起する問題は、意外と裾野が広いと思います。

例えば、現在のイスラエルの人質の問題ですが、人質を奪還するためには一万人を超える人が亡くなってもいいのでしょうか?自分たちの受けた被害を解消するためには相手の損害をも厭わない、という人間の気持ちがさまざまなところで悲劇や惨状を生んでいるような気がします。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231125/k10014268571000.html

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231114/k10014256801000.html

確かに自分の家族が囚われてしまったら、相手にどんな不幸があっても取り戻したいと願うものなのでしょうが、それが相手の命を奪うことになるのなら、立ち止まって考えたいところです。イスラエルにも反戦を唱える人たちがいるようですが、それが大きなうねりにはなりにくい現状があるようです。もちろん、人質を捕らえている人たちも、無事にその人たちを送り返さなくてはならない事は言うまでもありません。

それにしても、子供たちに命の大切さを訴えるのなら、まず為政者がそれを実践しなくてはなりません。世界中の為政者に、私の同僚の授業を受講させ、司書の先生の読み聞かせを聞かせたいものです。そうすれば、少しは世界が平和になるのかもしれません。冗談のように聞こえるかもしれませんが、この小さな一歩がとても大事なのだと私は思っています。

そう考えて、私は表現活動を続けています。

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