平らな深み、緩やかな時間

292.「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」

ドイツの思想家、テオドール・アドルノ(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund、1903 - 1969)の有名な言葉に「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という一節があります。前回も取り上げた『プリズメン』という論文集の『文化批判と社会』の最後のページに書かれた言葉です。今回はその言葉について考えます。

前回も書いたように、「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という一節だけを取り出して考えるなら、ヒトラーによるホロコーストの残虐な行為を象徴する「アウシュヴィッツ強制収容所」(1940 - 1945)を経験したあとでは、「詩を書く」という芸術的な営為にいそしむことはできない、そんなことは野蛮である、というふうに読めてしまいます。これはナチスへの徹底した告発であり、その残虐な行為への絶望以外のすべての営為を許すことができない、という戒めとして受け取られてしまうのです。
しかし、アドルノさんは思想家であると同時に音楽家、作曲家であり、音楽に関する重要な評論も多数書いているのです。そしてアドルノさんは、ドイツ系ユダヤ人のパウル・ツェラン(Paul Celan、1920 - 1970)の詩を高く評価していて、アドルノさんの遺稿の中にはツェランさんを論じた文章も残っていたそうです。ですから、アドルノさんが芸術を否定したくてこのような言葉を書いたのではないことは、明らかです。
それでは、アドルノさんは何を言いたかったのでしょうか?

さて、もしもあなたが私のように「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という言葉の真意を考察したければ、詩人で文学者の細見和之さんの書いた『フランクフルト学派』という新書がおススメです。前回も書いたように、この難しそうな学派について私は勉強したいのですが、この新書の全般を読みこなすには、もう少し時間がかかります。
ただ、『フランクフルト学派』という本は、「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という言葉への問題意識から書かれたようです。この言葉とアドルノさんの思想の解説のために、本の中の一章が割かれているくらいですので、そのためだけにでもこの本を読む価値があると思います。
例えば、『フランクフルト学派』の書き出しは次のようなものです。

「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」ーフランクフルト学派の戦後における代表、アドルノが語ったとても有名な言葉です。みなさんはこの言葉を聞いて、どのような印象をもたれるでしょうか。
1939年9月、ヒトラーに率いられたドイツ軍がポーランドに侵攻し、それに対してイギリスとフランスがドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦がはじまります。やがて、占領下のポーランドにヒトラーは、ユダヤ人や少数民族を殺戮する絶滅収容所をいくつも設置してゆきます。
<中略>
同時に「アウシュヴィッツ」はそのオフィシエンチムの絶滅収容所だけではなく、ナチス支配下のヨーロッパで生じたユダヤ人、少数民族に対する大量殺戮「ホロコースト」のシンボルとして用いられます。最終的にはヒトラーの支配下で、600万人近くのひとびとが殺戮されてしまいました。
アドルノが「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」と語った際の「アウシュヴィッツ」は、そのホロコーストという出来事全体を指しています。それに対して「詩を書くこと」は、たんに「詩」のみならず、ホロコーストとは本来対極にあるはずの文化的営みのシンボルとして用いられています。のちにアドルノは哲学的主著『否定弁証法』のなかでは、端的に「アウシュヴィッツ以降、文化はすべてごみ屑となった」とまで語っています。
ホロコーストのような出来事が起ったあとでは、詩を書くことに象徴される文化的営みは、その意味を根本から問いなおされざるをえないのではないか。とりあえず私はアドルノの言葉をそのように理解しています。アウシュヴィッツに象徴される出来事は、文化と野蛮の関係を根底から問いなおすことを私たちに迫っているのではないかーそれがアドルノの問いかけであったと思います。この視点からまた、アドルノが単純に「詩を書くこと」を否定しているのではないことも理解していただけると思います。実際アドルノは、パウル・ツェランという詩人を高く評価していました。ホロコーストのただなかで両親を奪われたツェランは、ホロコーストのあとだからこそ詩を書かざるをえなかった詩人そのものです。
(『フランクフルト学派』「はじめに」細見和之)

いかがでしょうか。詩は言葉による芸術表現ですから、アウシュヴィッツの残虐な行為を糾弾できるのも、詩ならではのことです。ツェランさんのように、ホロコーストを経験したからこそ、書かれた詩もあるのです。そのことについては、またあとで考えることにしましょう。
さて、そのアドルノさんという思想家は、どのような人だったのでしょうか。同じく細見さんの『フランクフルト学派』に簡略な紹介が書いてありますので、それを参照してみましょう。

テオドーア・W・アドルノは1903年、フランクフルトのゆたかなワイン商人の父のもとに生れました。彼は、フランクフルト社会研究所に集ったメンバーのなかでは、若手に属していました。父親は形式的にはユダヤ教徒のままでしたが、キリスト教社会に溶け込んだ同化ユダヤ人であり、母親はカトリックでした。その母親、マリアはオペラ歌手、叔母のアガテが本格的なピアニストであったこともあって、アドルノは早くからクラシックの音楽的素養を身につけ、ピアノ演奏にくわえて作曲にも非凡な才能を発揮していました。1923年4月、当時19歳だったアドルノ作曲による弦楽四重奏曲がフランクフルトですでに公式に演奏されたという記録がありますから、その早熟の度合いが知られます。そして、アドルノは10代の終わりから音楽批評にも手を染め、生涯をつうじて膨大な数の音楽評論を書き継ぐことになります。
アドルノは1922年にフランクフルト大学でホルクハイマーと出会いますが、1924年にフッサール論で博士号を取得したあと、1925年にはアルバン・ベルクのもとで音楽理論と作曲を学ぶためにウィーンに移住したりもします。その当時のアドルノは、哲学を研究しつつも、音楽の理論と実践にどっぷり浸かっていました。とくに無調音楽から12音技法へと突き進んだシェーンベルクの音楽は、アドルノにとって生涯、規範的なものであり続けることになります。
(『フランクフルト学派』「第4章 『啓蒙の弁証法』の世界」細見和之)

このように、アドルノさんは芸術を否定するどころか、音楽の作曲、演奏、批評と、理論ばかりでなく芸術表現の実践に深く関わった研究者でした。
それでは次に、「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という一節を含むアドルノさんの『文化批判と社会』の結びの部分を引用してみます。前後関係も併せて読んで、その意味を考えてみてください。

唯物論的に透明な文化は、より唯物論的に誠実になったのではなく、単に低級になったにすぎない。この文化は、それ自身の特殊性を失うとともに、それがかつて他のさまざまな特殊性と対立していた際もっていた真理の塩を失った。この文化にその責任を問うたところで、否定されるだけで、単に文化的もったいぶりが確認されるにすぎない。しかし今日では、すべての伝統的文化が、中性化され、しつらえられた文化として、なきに等しいものになっている。ロシア人たちが自分たちはその遺産を相続したと殊勝げに喧伝しているその遺産も、取り返しのつかない過程を通じて、その大半がなくてもいいもの、不用なもの、屑となった。すると次に、文化をこういう屑として扱う大衆文化の荒稼ぎ屋たちが薄笑いしながらそれを指摘できることになる。社会がより全体的になれば、それに応じて精神もさらに物象化されてゆき、自力で物象化を振り切ろうとする精神の企てはますます逆説的になる。非業の宿命のもっとも鋭い意識でさえ、単なるお喋りに堕すおそれがある。文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を言い渡す認識をも侵食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽くそうとしている。批判的精神は、自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない。
(『プリズメン』「1 文化批判と社会」アドルノ 渡辺祐邦/三原弟平訳)

難しい文章ですが、この文章がナチスの蛮行を告発するだけの文章でないことは明らかです。アドルノさんの視点はもっと大きなところにあって、現代の文化の成り行き全体をながめた上で書かれたものです。
ここでは、アドルノさんが使っている「唯物論」という言葉の意味をどう読みとったら良いのかわかりませんが、おそらくはマルクス主義的な「理念や価値観、意味や感受性などの、精神的、文化現象が経済や科学技術など物質的な側面によって規定される」(Wikipedia)というようなことでしょう。「文化批判と社会」という文章全体が、文化が物象化の波に飲み込まれてしまうことの危機を訴えているのです。その波は文化の発展どころか、文化と野蛮が隣り合わせの危険な状態になっているというのです。「アウシュヴィッツ」は、その一つの典型例となっているのでしょう。
このような文脈で「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という言葉を読み直してみると、それはナチスを外側から、あるいはナチズムの被害者として告発しているのではなくて、現在の文化の波の中にいる私たち自身が告発されている、ということになります。アドルノさんも例外ではなく、アドルノさん自身が物象化する文化の中にいる存在であり、告発されるべき存在でもあるのです。アドルノさんは、ヒトラーやナチスの関係者だけが残虐な人たちであり、その人たちを告発し、処刑すればよいというのではなく、私たちの文化に秘められた残虐性や野蛮さを指摘しているのであり、それを乗り越えなくては「詩を書くこと」さえも「野蛮である」ことになる、と言っているのです。
ここで細見和之さんの、この結びの文章に関する解釈を読んでみましょう。

文化の営みがもっぱら文化財や商品として流通する物象化によって全面的に支配された社会は、「文化と野蛮の弁証法の最終段階」に到達している、という危機的な認識がここでは語られています。かつては、物象化を推進するためには「精神の進歩」が不可欠とされていたが、もうそんな進歩も必要とされない社会。それは、前章で確認したように、たんにナチスという過去だけでなく、合衆国に代表される先進的な民主主義国をも覆っている事態でした。そのことを明瞭に確認する命題として「アウシュヴィッツ」に関わる言葉が記されています。
そして、さらにその命題とともに、ここでアドルノがそもそも現在、詩を書くことは不可能になったということを前提としていることも重要です。この点は、のちに見る。戦後ドイツを代表する詩人エンツェンスベルガーとの応答において焦点化される問題でもあります。
(『フランクフルト学派』「第5章 アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」細見和之)

分かりやすい解説だと思いますが、いかがですか?
さらに細見さんはアドルノさんが「自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない」と文章を結んでいることに注目し、私たちが「自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている」ことをやめれば、「絶対的物象化」に対抗できる、とアドルノは言いたいのではないか、と解釈しています。この「自己満足的に世界を観照」する、というのはどういうことでしょうか?抽象的には、つねに世界に心を開いて、自分だけを満足させることに終始しない、ということだと思いますが、難しいですね。そういう気持で生きていくことが、まず必要だとは思いますが、具体的にはどういうことなのでしょうか?

たまたま今朝の朝日新聞に、経済学者の岩井克人さんのインタビューが掲載されていました。『目的は金もうけじゃなくていい 資本主義の修理法』という記事です。
https://www.asahi.com/articles/DA3S15534293.html
アドルノが危機感を抱いた「文化」の「物象化」と関連があるのかもしれない、と思ったので、この記事の内容をご紹介します。まずは、このインタビューに関する説明です。

株主のために利益を稼ぐ組織、それが株式会社だと広く考えられてきました。しかし、格差の拡大、鈍い成長、異常気象といった世界の危機は、株主中心の資本主義のあり方を見直すよう、私たちに迫っています。会社は本来、誰のため、何のためにあるのか。株式会社という存在について根源的な考察を重ねてきた経済学者の岩井克人さんに「資本主義の修理法」を語ってもらいました。
(朝日新聞『資本主義の修理法』2023.01.22 4面より)

岩井克人さんによれば、アメリカの経済学者ミルトン・フリードマン(Milton Friedman、1912 - 2006)が「会社資産は株主のもので、経営者が環境や雇用のために利益を犠牲にするのは、株主の財産の盗みに他ならない」と言ったそうで、それ以来、株式会社は利潤追求の組織になってしまった、ということです。それに対して岩井さんは、会社は「法人」だから法律上は「ヒト」と見なされる、だから、従業員などのさまざまな利害関係者にも配慮すべきだ、と言っています。
「事業を続けるためには利潤は必要だ。だが、それさえクリアすれば、利益の最大化は目指さなくてもいい。時代の変化の中で会社という仕組みが生き延びてきたのは、法人としてのヒトとモノの二面性を巧みに利用した2階建て構造によって、多様な目的や形態を持てるからなのだ。」
このように岩井さんは解説します。
岩井さんが言うように、株式会社が「法人」だとするならば、「ヒト(法人)」は自らの利潤追求ばかりを考えるのではなく、自分と関連する「環境」のこと、「従業員」のことを考えなくてはなりません。そうでなければ、会社が依存している資本主義社会そのものが行き詰ってしまいます。
本来、利潤追求のための組織だと思われていた株式会社ですが、いまはそうも言っていられないくらい状況は切羽詰まっているのです。これはアドルノが言うところの「自己満足的に世界を観照して自己のもとにとどまっている限り、この絶対的物象化に太刀打ちできない」という話につながらないでしょうか?
いまや大企業が自らの利潤のことばかり考えるのでなく、従業員の賃上げやその生活について考えなくては、だれもその会社の商品を買うもの(消費者)がいない、という時代です。為政者は福祉や保育や教育に力を入れなくては、自らを選んでくれた民を滅ぼすことになると、早く気がつかないものでしょうか?大企業と為政者が結託している権力が、私たちの社会の「野蛮さ」となって私たちを苦しめていると思うのですが、いかがでしょうか?「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という言葉の意味を、一昔前のナチスのことだと矮小化せずに、私たち自身のことだと考えなくてはならないのではないでしょうか?そのことに気づいてほしい人たちが、そこら中に存在します。

ちょっと話が横道にそれました。細見和之さんの『フランクフルト学派』が示唆する話にもどします。
さて、細見さんが「戦後ドイツを代表する詩人エンツェンスベルガーとの応答において焦点化される問題でもあります」と書いていたことを思い出しましょう。そのハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー(Hans Magnus Enzensberger、 1929 - 2022)さんは、ドイツの作家、詩人、批評家、翻訳家で、ブレヒト以後の重要な社会派詩人と言われているそうです。
エンツェンスベルガーさんはアドルノさんの「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」という言葉に対し、ドイツの批評紙のなかで「われわれが生き延びようと望むなら、この命題は反駁されねばならない」と書いたそうです。そしてネリー・ザックス(Nelly Sachs, 1891 - 1970)というドイツのノーベル文学賞を受賞した詩人を引き合いに出して、「彼女は語ることによって、われわれがいまにも失おうとしているもの、すなわち言葉を、一文ごとにわれわれ自身に与え返してくれる」と書いたのです。
ザックスさんについて、細見さんは次のように解説しています。

彼女は1940年5月に、ナチスの手を逃れて、年老いていた母とふたりスウェーデンのストックホルムに渡り、以後そこに暮らし続けていました。彼女は直接的または間接的に、「アウシュヴィッツ」にいたる同胞の運命を神話的な形象世界のなかに描き続けました。彼女はアウシュヴィッツのあとで詩を書くことが不可能どころか、アウシュヴィッツのあとだからこそ詩を書かねばならなかった。そういう詩人のひとりです。エンツェンスベルガーにとって、彼女の作品は、アドルノの命題に反論するかけがえのない具体例であって、またドイツ語圏ではさほど知られていなかった彼女の詩を、若い世代の彼は積極的に紹介したのです。
(『フランクフルト学派』「第5章 アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」細見和之)

このようなエンツェンスベルガーさんの反応に対し、アドルノさんも「我が意を得たり」という返答をしたようです。「アウシュヴィッツ」の残虐な行為に対して反応するのは芸術家にとって自然な行為ですし、また世界がその反応を必要としています。彼らはアドルノさんの言葉を正しく受けとめ、「アウシュヴィッツ」に対して覚悟を決めて詩を書いたのだろうと思います。その詩の内容が空疎なものであれば、それは「野蛮」な営為に堕してしまうからです。
このアドルノさんとエンツェンスベルガーさんの応酬は、素晴らしいものだと思いますが、日本でもこういうことはあったのでしょうか?先の戦争を経験した日本においても、省みるべき点がたくさんあったと思いますが、何となくそれは語りにくいものになっているような気がします。日本にも、このような切実な応酬があったのなら、どなたか教えてください。

さて、最後になりますが、アドルノさんが評価した詩人のツェランさんについて書いておきましょう。私は以前、美術家のキーファーさんとの関わりの中で、関口裕昭さんの書いた『翼ある夜 ツェランとキーファー』という本を読んだのですが、その時点ではツェランさんへの興味が薄かったので、読み込みが足りませんでした。ツェランさんについては、これから勉強しますが、とりあえず細見さんの解説を読んでみましょう。

アドルノと詩人との関わりでは、やはりパウル・ツェランとの関係を抜きにはできません。ツェランは1920年、当時はルーマニア領下のチェルノヴィッツ(現在はウクライナに属するチェルニウツィ―)という町にユダヤ人の両親のもとに生れました。ドイツ語で育ったツェランは生涯ドイツ語で詩を書き続け、1970年の自死から45年近く経た現在、間違いなく戦後のヨーロッパを代表する詩人と見なされています。彼はナチス支配下で両親を奪われ、故郷を破壊され、戦後はパリで暮らし続けました。ツェランはネリ・ザックスと同様に、いやザックスにもまして、アウシュヴィッツのあとだからこそ詩を書かねばならない詩人でした。なかでも、ホロコーストを明確な背景としたツェランの「死のフーガ」は、20世紀を代表する詩人として、今後とも永く記憶されてゆくでしょう。その詩はつぎのようにはじまります。私が学生時代から親しんできた飯吉光夫訳で引きます。

夜明けの黒いミルクぼくらはそれを晩に飲む
ぼくらはそれを昼にのむ朝にのむぼくらはそれを夜にのむ
ぼくらはのむそしてのむ
ぼくらは宙に墓をほるそこなら寝るのにせまくない
ひとりの男が家にすむその男は蛇どもとたわむれるその男は書く
その男は書く暗くなるとドイツにあててきみの金色の髪マルガレーテ
かれはそう書くそして家のまえに出るすると星がきらめいているかれは口笛を吹き犬をよびよせる
かれは口笛を吹きユダヤ人たちをそとへよびだす地面に墓をほらせる
かれはぼくらに命じる奏でろさあダンスの曲だ
(ツェラン『罌粟(けし)の記憶』)

まさしく音楽のフーガのような、たたみかけるようなリズムで、強制収容所ないしは絶滅収容所の現実を、この詩は深い暗喩とともに描きだしています(原文には句読点がいっさい用いられていず、その点もこの翻訳はみごとに忠実に再現しています)。

(『フランクフルト学派』「第5章 アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」細見和之)

細見さんはこの後の文章で、ていねいに詩の解説を書いていますが、読んでみたい方はこの新書を手に取ってみてください。すこしだけそのことを書いておくと、「ぼく」は当然、収容所にいるユダヤ人で、「ぼく」が生き延びるということは、他のユダヤ人が死ぬということです。その死んで行く人の象徴が「黒いミルク」なのです。そして「かれ」は収容所に勤務しているドイツ人ですが、「かれ」は愛する女性の象徴である「マルガレーテ」に手紙を書きます。そして、その同じ手でユダヤ人を呼び寄せ、墓穴をほらせ、音楽を演奏させ、ダンスを踊らせた上で殺戮するのです。
細見さんによると、アドルノさんはツェランさんに関する論考を書きながら、それがまとまった批評となる前に亡くなってしまいました。一方のツェランさんは、実現しなかったアドルノさんとの出会いを想像した散文作品を書いているのだそうです。
アドルノさんがツェランさんの詩について書いた断片には、次のような言葉があるそうです。
「その抒情詩は、経験に対する芸術の恥じらいとともに、その手を擦り抜ける苦悩を昇華させてしまうことへの芸術の恥じらいによって、すみずみまで浸透されている。」
この文章には「恥じらい」という言葉がくり返し出てきますが、言ってはいけないことをあえて言葉として表現するのが詩の役割なのだろうと思います。しかもその言葉は、詩として美しく昇華してしまうのです。そこには人間として許されない残虐さを言葉として表現する覚悟がなくてはなりません。それが「恥じらい」なのだろうと思います。それは、「野蛮だ!」と糾弾されてもなお、語らずにはいられない感情なのです。
私は、このような覚悟を、ツェランさんのようにアウシュヴィッツについて語るとき以外にも、すべての芸術表現において必要なのだと思います。先ほどの岩井克人さんの資本主義社会の例のように、世界はあらゆるところで目詰まりし、それでも私たちはそれをところどころで修復しながら生きていくしかありません。こんなときに腑抜けた表現をしていては、芸術として認められません。社会の悪循環の中で心地よく消費されていくだけの表現は、社会貢献しない利潤追求型の株式会社と変わりありません。それは芸術の役割を果たしていないのです。いまどき、芸術なんかにかかずらわっている「恥じらい」を乗り越える覚悟があるのか、とアドルノさんに問われているような気がします。

それにしても、「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」というだけの言葉ですが、それがこれほどの力を持っていることに驚きます。
皆さんはどのようにお感じになりましたか?

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