平らな深み、緩やかな時間

243.『疾風怒涛精神分析入門』片岡一竹からラカンを学ぶ

まるでアニメ本の表紙のような装丁ですが、これがあの難解で知られるフランスの精神分析家で思想家のジャック・ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901 - 1981)の解説書です。著者の片岡一竹さんは1994年生まれの研究者です。この本を書いたときは2017年ですから、まだ早稲田大学の大学院生だったのでしょうか?素晴らしいですね。

 

さて、そのジャック・ラカンですが、彼は私にとって、あるいは一般的な読者にとっては精神分析家というよりは思想家でした(『疾風怒涛精神分析入門』を読むと、そうでないことがわかりますが・・・)。彼はクロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908 - 2009)、ジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930 - 2004)、ミシェル・フーコー(Michel Foucault 、1926 - 1984)、ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)、ロラン・バルト(Roland Barthes、1915 - 1980)らと並び称されたポスト・モダン以降の思想界の巨人なのです。しかし、この中でもとりわけ難解だと言われているのが、ラカンです。

ラカンには『エクリ』という代表的な著書があり、私が学生の頃にはすでに日本語に翻訳されていました。しかし現代思想の翻訳書は当時どれも高価であり、アルバイト代から生活費の一部と画材代とレコード代を除くと、購入できる本を選ぶ必要がありました。今では、彼らの本の一部は文庫本でも手に入りますが、その代わり現在進行形の本はやはり入手し難い・・・、致し方ないことなのかもしれません。話を戻すと、ラカンのそんな難解な本を図書館で借りても読み切れるわけがなく、また内容的にも私の制作に直接関わると思えなかったので、結局いまだによくわからないまま、ということになってしまっています。それがようやく『疾風怒濤精神分析入門』によって、理解の端緒をつかんだというところです。

そういう私なりの理解と挫折の筋道があるので、それを前提に話を進めてしまいそうです。そうならないように、まずはラカンの思想のおおもとであるフロイトの話から始めましょう。片岡さんもフロイトが創始した精神分析の話から書き始めています。

 

精神分析は百年以上前にジークムント・フロイト(1856─1939)というオーストリア出身の医師によって作られた臨床実践です。もともと神経医をしていたフロイトは、一九世紀が終わろうとしている頃、「ヒステリー」と呼ばれる病気の治療のために、精神分析という治療を考案しました。  

フロイトというと、一般には治療者というよりは心理学者のように捉えられています。同じく、精神分析とは、人間の精神を説明するための学問であるとか、心理学の分野の一つであると考えられています。そのほかにも小説や映画などを批評するための理論であるとか、もしかしたら、夢占いの亜種のようなものだと捉えている人もいるかもしれません。  

しかし精神分析はただの理論ではありません。また、精神医療や心理臨床で用いられる療法の一つというわけでもありません。精神分析とは一つの独立した臨床実践なのです。したがって精神分析を考える際には、まずその臨床実践としての固有性を明らかにしなければなりません。

(『疾風怒濤精神分析入門』「第1章 それでも精神分析が必要な人のために」片岡一竹)

 

片岡さんはこのように精神分析について、わかりやすく説明するところから始めています。「精神分析」と似たような分野として「精神医療」や「臨床の心理学」がありますが、それらと「精神分析」の違いは何なのでしょうか?

「精神医療」は医療ですから、精神を病んだ(と思われる人)を治療するものです。ときに薬を処方して治療するわけですが、それは医療だからできることです。

もう一つの「臨床の心理学」は、もともとは人間の心理を研究する「心理学」という学問ですが、その「心理学」をクライエントを対象として実践するのが「臨床の心理学」です。そこで行われる行為は「治療」ではなくて、あくまでクライエントに対する「支援」となります。薬を処方することはありませんし、いわゆる面接による「カウンセリング」が臨床心理士の主な仕事です。

精神科医と臨床心理士は、資格としてもはっきり分かれていますので、一人の患者、もしくはクライエントに対して、治療を行う精神科医と、支援を行う臨床心理士が役割分担をして共同作業を行うこともあります。

 

ところが「精神分析」では、そもそも健康と病気の境目がなく、精神分析家は患者自身が悩みを解決するための援助を行うに過ぎません。その際に、本人だけでは気づけない「無意識」の領域を取り扱うことで、患者が主体的に「悩み」を解決していく手助けをするのです。だから精神分析は、精神医療の「療法」の一つではなく、「臨床実践としての固有性」を明らかにしなくてはならないのです。

よく分かりませんよね?

片岡さんは「精神分析家」について「アンコール1」というコラムを本の中に設定していてます。それによると「国際精神分析協会」という団体が「精神分析家」という資格を設定しているそうですが、ラカンはこの団体を追い出されてしまったそうです。だからラカン派の精神分析家は、確たる資格を持っていないそうです。

そもそも精神分析というのは治療行為ではなくて、一人一人の人間の「特異性」を察知して、そのことを指摘することでその人の悩みの解消を促すというのが本来のあり方です。だから、実際に精神分析を行うのは悩みごとを抱えている本人である、ということになります。「精神分析家」と呼ばれる人は、その行為を支援し、促す人でしかないのです。このような、精神分析の独自の方法が「臨床実践としての固有性」ということになるのです。

日本では精神分析が普及していなくて、精神分析を誤解している人が多いと片岡さんは言っていますが、私もその一人です。それにしても、この精神分析の本来の姿を知ってしまうと、職業としての「精神分析家」は成り立ちそうもない、と思ってしまいますが、いかがですか?結局、精神分析家は患者と会話をするだけで、その話に共感するわけではなく、その言葉の端緒から無意識の中に抑圧されていた手がかりを指摘し、あとは患者本人がそれを理解して乗り越えていくのを支援するだけなのです。その会話による「指摘」に価値を感じる文化があれば良いのですが、「困っているんだから、早く治してよ!」という気持ちで相談に行けば、がっかりするだけでしょう。ラカンはこの精神分析の筋道を通そうとしたために、協会と軋轢を生み、日本でも理解し難い存在になってしまったのでしょう。

 

ところで美術の世界では、フロイトの精神分析がアンドレ・ブルトン(André Breton, 1896 - 1966)の「シュルレアリスム宣言」を生み出すきっかけとなり、その後の現代美術の展開に大きく影響した、と考えられています。

フロイトの提唱した夢の分析をイメージ化したり、無意識の世界を現出するために自動筆記などの方法を用いたりしたのです。しかしそこには、片岡さんが指摘している「人間の精神を説明するための学問」であるとか、「夢占いの亜種」であるとか、そういう精神分析に対する誤解が潜んでいるような気がするのですが、いかがでしょうか?

その顕著な例としては、とくに日本で人気の高いサルバドール・ダリ(Salvador Dalí、1904 - 1989)でしょう。ダリの絵は、夢の不思議なイメージや、無意識の中の不安や恐怖を分かりやすい物語にしてしまっているように思います。おまけにダリは、自分の作品が社会的な事件を予告していたようなことまで言っているようですので、これは「夢占いの亜種」と言えるのかも知れません。

ラカンは、そういう分かりやすい物語を廃して、精神分析本来の意味を取り戻そうとした人です。ですから、一見するとそれらの美術の話とはつながらなくなってしまいます。しかし、私はラカンの思想が美術本来の創造行為と密接に繋がっていることを、今回の勉強で理解しましたので、そのことを後で述べようと思っています。

 

そのラカンについて、片岡さんは『疾風怒濤精神分析入門』で次のように紹介しています。

 

ジャック・ラカンは一九〇一年、二〇世紀の始まりと共にパリで生まれました。初めは精神科医として活動していましたが、後に分析家に転向し、国際的に有名になりました。一九八一年に八〇歳でこの世を去るまでその活動の旺盛さは止むことを知らず、世界各国に彼の影響を受けた「ラカン派」(ラカニアン)が誕生しました。ラカニアンたちは現在も世界各国で盛んに活動を行っています。  

ラカンはよく哲学者だと言われます。しかしこれは間違いです。何をもって「哲学者」と言うかは難しいですが、少なくとも制度上、ラカンは哲学科の出身ではありません(わが国ではなぜか、ラカンが高等師範学校という大学教員養成学校の出身であるという誤報がまかり通っていましたが、彼はあくまで医学部の出身です。高等師範学校は、あくまで彼が一時期講義を行っていた場所に過ぎません)。  

これに限らず、ラカンが哲学者として語られがちな背景には、日本のラカン受容が大きく影響しています。というのもラカンは主にフランス現代思想の論客として研究されており、臨床家としてのラカンが長らく顧みられていなかったからです。  確かに精神科医などの臨床家もラカンを読んできましたが、患者の病理を理解するためにラカン理論を参照する、といった見方が大半を占め、ラカンはもっぱら理論的にしか研究されませんでした。そうした事情から、我が国でラカン的精神分析を実践しようと考える人はほとんど現れませんでした。  

しかしラカンの祖国フランスでは、ラカン派の精神分析がきちんと一つの運動として根付いており、ラカン的精神分析を受けている人も大勢います。日本におけるラカン派分析家の数はおそらく両手で数えて余る程度ですが、フランスの場合は比べ物になりません。  

ラカンは生涯に亘って臨床を捨てず、亡くなる直前まで精力的に臨床を行っていました。ラカンの精神分析理論もそうした実践の中から生まれてきたものですから、紛れもなく臨床に寄り添った理論だと言えます。

(『疾風怒濤精神分析入門』「第1章 それでも精神分析が必要な人のために」片岡一竹)

 

このようにラカンを語るということは、精神分析について考察することに他なりません。その精神分析が、私たちの創作活動とどのように関連していくのか、その点に注意しながら、この本を読み進めていきましょう。

そのためには、まず精神分析が見出した人間の無意識について考えてみなくてはなりません。「無意識」というのは、私たちの意識の埒外にあるものですから、普通の状態では私たちはそれを意識することができません。だから、例えばその無意識の中にある精神的な抑圧が、その人の生きにくさや悩みの原因になっているとしても、本人はそのことに気づくことができません。それを指摘して、本人が悩みの解消へと向かうように支援するのが精神分析の仕事です。

その無意識の中の抑圧ですが、それは本当に意外なところから見えてくるようです。例えば言葉遊びのような「人夫」=「妊婦」というような、まったく具体的なもののイメージとはかけ離れた話の端々から気づくことのようです。ですから、推理小説のような謎解きや、ミステリー映画に出てくるようなドラマを想像してしまうのは間違いです。

 

さて、次に精神分析の理解の入り口として、「自我」と「主体」について考えてみましょう。私たちがふだん使う言葉の意味としては「自我」も「主体」も同じようなものですが、精神分析ではこの二つを違った意味として解釈します。

「自我」というのは、普段私たちが考えている「自分」の像のことです。「客体化(オブジェクト=対象化)された自分」というふうに片岡さんは言っています。ラカン以前の精神分析では、強い自我を持つことで無意識を支配(コントロール)できると考えていたようですが、これは近代的な理性主義を信じ過ぎている、と片岡さんは解説しています。また、このような自我のもとでは創造的な発想もしにくいようです。

一方の「主体」ですが、ラカンは「自我の抑圧をはみ出すような無意識の主体」ということを考えたようです。ここでいう「主体(サブジェクト)」というのは、「主体性を持つ」という言葉で言い表すような意識的なものではなく、無意識を含んだもっと受動的な広がりを持つものです。

なかなかわかりにくいですね。この「主体」に関する片岡さんの詳しい説明を読んでみましょう。

 

それからもう一つ重要なのは、主体には実体がないということです。つまりどこかに主体なるものが、目に見えるような形で存在しているわけではないのです。

そもそも目に見えるような形で存在している時点で、それは対象(オブジェクト)になっているわけですから、言葉の上でも主体(サブジェクト)とは言えません。客体化された自分というのは、先述の通りむしろ自我のほうです。

だから、主体の存在を立証するために数字などのデータに頼っても、意味がありません。同様に「私の主体はこういうものだ」と語ることもできません。語ることも対象化(オブジェクト)の一つですから。

(『疾風怒濤精神分析入門』「第二章 自分を救えるのは自分しかない」片岡一竹)

 

いかがですか?

意識では支配できない「主体」というイメージがわかっていただけたと思います。ところが、このようなものとして「主体」を理解すると、例えば私たちが無意識の端緒を掴み、これが私の「主体」なのではないか、とわかった途端に、「主体」はどこかへ逃げてしまいます。なぜなら、これが私の「主体」だとわかった時点で、その「主体」は客体化されてしまうからです。

ここはとても興味深いところなので、片岡さんの文章を読んでみましょう。

 

主体は(潜在的にしか)存在せず、一瞬<生じる>ものでしかありません。だから主体を白日の下に曝け出して、そのありようを語ろうとしても無駄です。そうしようとした時には、主体はもはやどこにもないのですから。

主体とはつねに<もっと他のもの>でしかありません。主体はつねに「それではないもの」「これまでの考えでは説明できないもの」として現れます。「自分が言おうとしたこととは別のことを言っている<自分>がいる」というように、主体とは二重性そのものだとも言えるでしょう。

従ってできることは、自分の中にある二重性を見て取ること、<もっと他のもの>に気づかされることです。経験した出来事のうちに主体の発現の痕跡を見出すこともありますし、あるいは分析中に言い間違いなどをしてしまい、その場で主体が現れることもあります。

(『疾風怒濤精神分析入門』「第二章 自分を救えるのは自分しかない」片岡一竹)

 

いかがですか?「主体性がある」とか、「主体は存在する」と言った時点で間違いで、例えばあなたが誰かに「主体」について説明するなら、実体として存在しないものについて語らなくてはなりません。まるで禅問答のようですね。

ところで上の文章で言うと、主体はなぜ「一瞬<生じる>もの」でしかないのでしょうか?なぜ主体は「二重性そのもの」ということになるのでしょうか?

それは人間という存在が、一人一人「特異」な存在であり、自我として表に現れる自分というものは、つねに自分の「特異性」を隠したもの、あるいは日常生活で生きていくための「一般性」と、自分の「特異性」との折り合いをつけたものでしかないからです。そこに「主体」があらわれるということは、自分の「特異性」を表にさらしてしまうということです。それは一般的な社会では耐えきれないことなので、「主体」はあらわれるとしても「一瞬」でしかあり得ないし、その上ふだんの自分とは矛盾する「二重性」のものとなってしまうのです。

これは普通に暮らしていても感じることですが、とくに創作活動をしている人ならば、ヒシヒシと実感することではないでしょうか?もしもあなたが絵を描いていて、そこにあなたなりの意義を見出すとしたら、それはあなたの「特異性」をさらけ出すような表現ができた時です。しかし、これがなかなか難しいことで、制作過程のどこかで「特異性」は身を潜めてしまいます。おそらくは「自我」が働いて、「一般性」との調整をしてしまうのです。

そしてもしもあなたの「特異性」をさらけ出した表現ができたとしても、その表現

はつねに変わっていかなくてはなりません。なぜなら、「これが私の特異性だ」などと意識した瞬間に、それは逃げて行ってしまうからです。その人の独自の表現というものは、その人の「主体」と同じように「(潜在的にしか)存在せず、一瞬<生じる>もの」でしかないのです。

片岡さんは、そのような「主体」の発現によって、「自分や世界を新たな目で見ることが可能になるのかもしれません」と書いています。まさにその通りだと思いますが、彼はそれに付け加えて、次のように書いています。

「しかし保証はありません。それを行えるかどうかは、分析主体自身に委ねられているのです。」

これも、まさにその通りだと思います。芸術の制作に、そのまま当てはまる認識だと思います。

 

さて、ちょっとゆっくりと進み過ぎました。ここから先は、少し端折りながら進みましょう。

はじめにラカンが精神分析の実践者でありながら、現代思想の大家として認識されていた、と書きましたが、それはなぜでしょうか?

それはたぶん、彼が精神分析の立場から言語の構造の問題に立ち入り、そこに独創的な解釈を成し得たからだと思います。

それだけではありません。さらにラカンは、人間の自己認識についても、精神分析の経験から「鏡」を持ち込んで興味深い論理を展開しました。

さらにもう一つ、ラカンは人間が生きていく上での動機について、「欲望」と「欲動」という概念を整理して、その根源的な考察にまで言及しました。

これらの彼の業績が、同時代の思想家たちの成し遂げたことと共通するのです。例えばレヴィ=ストロースが文化人類学を通じて、フーコーが思想史を通じて、ロラン・バルトが記号論を通じて考察したことと、彼が精神分析を通じて成し遂げたこととが共通した面を持っていたのです。

これらのことについて、簡単に触れておくことにしましょう。

 

まずは言語の構造についてです。

精神分析は、言葉で語り合うことによって実践されます。そこで言葉とはどのようなものなのか、ということが問題になります。

人間の操る言葉は、たんなる記号ではありません。たんなる記号であれば、一つの言葉に一つのもの(指示対象物)が対応しますが、人間の言葉はそんな単純なものではありません。それを精神分析の用語では「シニフィアン」と呼ぶそうです。シニフィアンが何かの意味を持つためには、他のシニフィアンと連接されることが必要です。そして、人間は言葉を通じて世界を認識する動物だということもわかってきました。

そうすると、人間は言葉の構造によって理解できる領域しかわかっていない、ということになります。そのように、言語で理解できる領域のことを精神分析では「象徴界」と言うのだそうです。そして、言葉では理解できないイメージによる領域のことを「想像界」と言います。さらに、言葉で言い表すことができない物理的な現実世界のことを「現実界」と言います。

片岡さんによれば、ラカンは自分の理解に応じて、これらの領域に関する考え方を変えていったのだそうです。例えば、彼の思想の後半になるほど言葉にできない領域への興味が増していったのだそうです。

ここまで読んでくると、そのような変化も当然だと思います。ラカンは精神分析の実践者だったので、自分の考え方の変化について柔軟に対応できたのだと思います。

 

さて、次の話題は「自我」に関することです。

「自我」というのは、自分自身を意識することだと前に書きましたが、その「自我」はどのように確立していったのでしょうか。ラカンは、赤ちゃんが鏡に映った自分の姿を見ることによって、「自我」を確立し始めたのだと言います。鏡に映っているのは自分の姿に他ならず、その姿によって自分自身を意識するようになるのです。しかしそれは(当たり前のことですが)自分自身ではありません。次第にそれは自分とは違うもの、つまり他者だとわかってきます。

そして「自我」というものは、「他者」があってこそ存在するものです。ちなみにこの「自我」と「他者」との区別は、他の動物にはありません。人間に特有のものです。そして、先ほどの言葉による認識も同様に、人間に特有のものです。どうやら人間という動物は「本能の壊れた動物」で、それが「自我」を生んだり、「言葉」を操ったりする原因になっているのです。さらに「無意識」というものも、他の動物には存在しないもので、「無意識」の存在は言語的なものなのだと片岡さんは言います。

 

ここからは、さらに端折ります。

「他者」、「言葉」、「無意識」などが絡み合い、フロイトの精神分析で有名な「エディプス・コンプレックス」という人間特有の悩みが生じます。このことに触れていくと、かなり複雑な精神分析的な課題に立ち入ることになるので、ここでは触れません。この後の結論が分かりにくかったら、ぜひこの本を買って、読んでみてください。

ここでは、私たちの創作活動とも関連性の高い、「欲望」と「欲動」について触れておきたいと思います。次の片岡さんの「欲動」に関する説明を読んでみてください。

 

ここでまた新しい用語に加わってもらいたいと思います。それは「欲動」です。これは前章で議論した「欲望」と似ていますが、欲望の原語は《desir》で、欲動の原語は《pulsion》なので、全く別の語です。

両者はどう異なるのでしょうか。先述の通り、欲望とは欲求と要請の間のギャップから生じるものです。このギャップは(物理世界としての)現実界と象徴界の間のギャップとも言えますから、欲望は人間が言語の世界に入るからこそ生まれるということになるでしょう。したがって欲望はシニフィアン的に構造化されており、象徴界の<法>に従っています。

これに対して欲動とは、むしろ言語の<法>をはみ出すような過剰なものです。よってそれは象徴界のものというより、現実界のものだと言えます。

(『疾風怒濤精神分析入門』「第六章 不可能なものに賭ければ良いと思ったら大間違いである」片岡一竹)

 

この「欲動」の満足こそが人間の根源的な欲求であって、「欲動」は「欲望」と違って言葉でうまく説明できないものなのです。フロイトは、人間には「死の欲動」があるといい、時に危険な行為にスリルや快感を感じるのも、死への「欲動」によるものだと説明します。

この「欲動」が達成されることによって得られるのが「享楽」であり、これはふつうの「快」とは異なるものだと言います。ふつうの「快」は、例えば痒いところに手が届いて痒みがおさまった時に感じるような感覚で、緊張感や不快感が解消されることによって得られるものです。ところが「享楽」は緊張感が高まった時に「快」を超えた気持ちよさを感じるようなものだと言うのです。

うーん、これはなかなか深いですね。しかし、わかるような気がします。私はよく、人の気持ちを和ませるような作品を作りたい、という作家の方に出会いますが、そのことを否定しないまでも、自分はあまりそう考えないなあ、と思ってしまいます。というのは、私は大好きなセザンヌの絵を見ても、まったく和んだ気持ちになりませんし、ボナールやマチスの作品でさえ、好きな作品の前ではリラックスすることはありません。むしろそこには、他の作品には味わえない緊張感があると感じます。セザンヌの作品は、抜き差しならない対峙を私に求めますが、それが不快であるどころか、その絵の前から一歩も動けないような気持ちの高まりを感じます。そして、私自身がそういう作品が制作できたら、死んでもいいなあ、と思ってしまいます。

この「欲動」や「享楽」について、この本では残りの数十ページを費やして説明していきますが、私には説明不要です。ただし、次のような参考になることも書かれていますので参照してみましょう。

 

ただしここで注意すべきなのは、享楽は両義的であって、人生を破滅しもするということです。つまり、あまりに過大な<気持ちよさ>を得ると、死に至ってしまうのです。

享楽が破壊的になりすぎないためには、つねに<余裕>がなければなりません。それは「最高の<気持ちよさ>には至っていない」という余地のことです。そうした空白部分があるからこそ、私たちは<他のもの>を求め、いろいろな新しいことに挑戦(チャレンジ)できるのです。

(『疾風怒濤精神分析入門』「第六章 不可能なものに賭ければ良いと思ったら大間違いである」片岡一竹)

 

これが20代前半の著者によって書かれたことが、驚きです。学問はこんなにも人間を賢くするものでしょうか?

片岡さんは、単なる「快」を超えた「享楽」があるといい、その「享楽」を求めるあまりに「余裕」を失ってはいけない、つねに新たなチャレンジをする空白部分を残しておかなくてはならない、というのです。肝に銘じておきましょう。

そしてこの本の最後のまとめとして、人にはそれぞれ「特異性」があるのだから、他の人の幸福と自分の幸福を比べてはいけない、なぜなら「特異的な幸福」は一般的な意味での幸せとは異なるのだから、と諭しています。

私たちは他人のことなど気にしていない、と思っている時でも自分の内なる<他者>に気を遣いながら生きているのだと片岡さんは言います。

そして「他者」から自由になるには時間がかかるけれども、それは仕方のないことだ、と書いた上で、この本はこう結ばれています。

 

すべてがうまくいくことはありません。それは仕方ありません。私たちの人生は、完全に理想的にはならないのです。すべてうまくいかなくても、それでも、新しい日々に踏み出したい人のために精神分析はあります。

私たちの長い旅もここで終わります。

しかし、すべてが始まるのはここからです。

(『疾風怒濤精神分析入門』「終章 すべてうまくいかなくても」片岡一竹)

 

私は芸術表現も学問も、それをやる人の動機がとても大切だと思っています。技術があっても、感覚が良くても、作品を制作する動機に説得力がなければ、そんな作品は見るに値しません。

実は先日、東京近代美術館の常設展示を見て、大量にそういう作品を見てしまいました。わかりやすい例でいえば、藤田嗣治の戦争画です。この戦争画を「藤田の描写技術とモチーフとがマッチしていて、作品として評価できる」と誰かが言っていました。えっ、この絵のどこが?と思わず声に出してしまいそうです。この時には何枚かの戦争画が展示してありましたが、藤田の絵に限らず画面がスカスカで、兵隊を劇画のように描写することにしか興味がない、どうしようもない作品でした。邪な動機がいかに作品をダメにするのか、という見本にしたいような絵ばかりでした。

先ほど、片岡さんの著書に対して、学問はこれほど人を賢くするものか、と思わず書いてしまいましたが、この最後の結びの文に、その問いかけの答えが書いてあります。

人が生きるために、切実な動機で学ばれた学問は、それ相応の実を結ぶものなのでしょう。そしてその言葉は、門外漢でトンチンカンの私の中でも、しっかりとした示唆を与えてくれました。

ラカンの思想がすごいのか、それとも片岡一竹さんの解釈が素晴らしいのか、おそらくはその両方でしょう。本の装丁に惑わされず、ぜひ硬質な内容を読んでみてください。

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