このblogでは、何回か「芸術の終焉」論について批判的に取り上げてきました。前回のblogにおいても同様のことを少し書きました。私が批判の対象としたのは、安易に「芸術の終焉」論に便乗するようなタイプの批評家やマスコミです。
そうではなくて、「芸術の終焉」以後のことを真面目に見据えた議論もあります。そういう議論においては、「芸術の終焉」を唱えるのではなく、「芸術」とか「終焉」とかいう概念そのもの、そのようなものごとの捉え方そのものを乗り越えようとしているようです。それは言わば「『芸術の終焉』の終焉」論というふうに言えるのです。
その「『芸術の終焉』の終焉」論にはある程度の説得力があると私は考えます。また、彼らには同じ地平に立つ表現者たちと伴走しようとする姿勢も見られ、その点でも好感が持てます。しかし、その一方で彼らが「芸術の終焉」を自明の前提としている点において、私とは立場が異なる面があるのです。
考えてみると、そういう「『芸術の終焉』の終焉」論と、ちゃんと向き合ってこなかったという、私なりの反省があります。そこで今回は、「『芸術の終焉』の終焉」論について考察しながら、そのどこに共感できて、どこに私の考え方との相違があるのかを検討したいと思います。
ちょっと理屈っぽい話になりそうで恐縮ですが、いま絵を描いている若い方の中には、昔ながらの絵画形式で制作することに対して、これでいいのだろうか、と悩んでいる方もいらっしゃると思います。しかし、そんな気遣いは不要です。芸術表現において私たちはどこまでも自由ですから、やりたいようにやればよいのです。その上で理論的な支えも必要だと感じているのなら、よかったらこの文章を参考にしてみてください。
さて、今回取り上げるのは、室井 尚(むろい ひさし、1955 - 2023)さんという美学者の書いた『ポストアート論』(1988)という著作です。室井さんは今年の3月に亡くなっていたのですね、とても残念です。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/241218
なお、室井さんは文部科学省が2015年に「国立大学の教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院の縮小・改編をせよ」という、いわゆる「国立大学・文系不要論」を唱えた時に、『文系学部解体 (角川新書)』という本を発表して、その反対の論陣を張った方のようです。
http://web.tku.ac.jp/~juwat/blog/book_blog/2016/03/post_125.html
この「国立大学・文系不要論」が、その後の日本社会に、どのように影響したのかを知りたい方は、次の記事を読んでみてください。
https://biz-journal.jp/2021/05/post_225810.html
この記事の中で、文科省の悪政が現在の教員不足に拍車をかけている、という分析があって、とても興味深いです。為政者が自分たちのことを批判する人間を恐れるあまり、自分たちにとって都合の良い実務的な人間だけを育てようとした結果、教員が足りなくなってしまった・・・、そして今になって小手先の政策でなんとかしようとしているのですから、そんな政治に対して失望感しか持てません。この愚かさは滑稽ですらありますが、あまりにも私たちにとって実害のある滑稽さなので、笑ってすませるわけにはいかないのです。
教育行政の失敗は、その後の私たちの暮らしに長く影響します。私たちは、もっと敏感に反応すべきなのです。室井さんは、その悪政に抗おうとした骨のある人だった、ということを覚えておきましょう。
その室井さんが書いた『ポストアート論』ですが、かなり難解です。書店による本の紹介文を読んでみてください。
《前衛神話》の崩壊、パスティッシュの氾濫、ネットワーク・メディアの専制と《作品》の消滅。ニュー・ホラーとSFを、「つか以後」の演劇と田中泯を、今日の先端的なアートシーンを縦横に高速度に横断しつつ、情報化社会、物語なき《芸術》なきポストモダン時代の芸術を問う。
(『ポストアート論』書店の紹介より)
いかがですか?わけのわからない言葉の羅列のように見えますね。
実はこの本は、九つのエッセイで編まれています。それらを短くまとめようとすると、上のような難解な紹介文になってしまうのだと思います。
今回は、その最初のエッセイ「ポストアート」だけを取り上げます。上の文章で言うと、「《作品》の消滅」あたりまでの内容になります。その後の部分に興味がある方は、原書に当たってみてください。ただし、この本は現在では入手が難しいようです、困ったものです。
それでは、この本の内容に沿って読んでいきましょう。まず、エッセイの書き出しの部分です。
ポストアートとは何か?ーこうした問いの形式そのものがひとつの秩序の輪郭を浮かび上がらせる。とりあえず、ここでぼくたちが問題にしたかったのは、この問いに答えることではなく、この問いが浮かび上がらせるこうした秩序そのものであるということを何よりも先に言っておきたい。
というのは、言うまでもなくこの問いはもうひとつの問いーすなわち「芸術とは何か」と言う、「芸術」をめぐるすべての問いを可能にする根源的な問いーと独特な形で結びついているからである。そして、このもうひとつの問いは、ぼくたちがその問いを口にしようがしまいが、ぼくたちの思考を自らの中心に繋ぎとめている。そんな種類の問いなのだ。口にしようがしまいがーそう、もちろんそれを口にしないで済まそうとすることもできるだろう。だが、たとえその問いに背を向けていても、文学や美術や演劇について思考を始めようとするときに、必ず背後でぼくたちの思考を支えているのは、ほかならぬこの問いなのである。
(『ポストアート』「ポストアート」室井尚)
「ポストアート」とは、翻訳すれば「芸術」の後に来るもの、と言うほどの意味になります。だから「ポストアート」とは何かと問うことは、そもそもその「アート=芸術」とは何かを問うことになってしまうのです。「芸術」の後に来るものを問うているはずが、いつの間にか「芸術」という概念がその背後に居座っていて、私たちの思考を「芸術」から離れられないようにしてしまう、ということを室井さんは指摘しています。
これは「芸術」の問題、というよりは「芸術」について語ることの問題、と言った方が良いのかもしれません。この議論の方向は、私ぐらいの世代になると、ちょっと懐かしいものです。「ポストモダン」論が盛んに語られていた時の議論の方向は、おおむねこんな感じでした。
ポストモダン思想の源流が、スイスの言語学者ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857 - 1913)の言語学、記号学にあるので、ポストモダン的な思考で考えるなら、何かの問いを立てると、そもそもその言葉の意味は何なのか、それを問うとはどういうことなのか、という議論に遡ってしまうのです。
この本が書かれたのが1988年ですから、このような議論になるのも無理はありません。室井さんより二つ年下の浅田彰さんが、まだ京都大学の助手だった頃に『構造と力』という本を発表して、ベストセラーになりました。それが1983年のことです。日本では、その後に現代思想ブームが起こり、「ポストモダン」論の流行が始まったのです。
そんな時代背景を少しだけ意識しつつ、この「語ることの問題」について、室井さんがさらに詳しく書いている部分を読んでみましょう。
ポストアート(芸術以後)について問うことは、このもうひとつの問いの磁場の境界線に立ち、別の仕方で語ることを目指している。それは、ただ単に対象(語られるもの)のレベルに限定されるものではない。むしろ、語られるもの(芸術)と語るもの(言説)とが分離する以前のプロセスこそがそこでは問題なのだ。言い換えれば、単なる芸術ではなくて、その言説性ー芸術が言説の問題として生成する言語空間ーが問われているのである。
(『ポストアート』「ポストアート」室井尚)
なんだか話がややこしくなってきましたか?
でも、実はそうでもありません。こういう時には、私たちの身近なことで、あるいは私たちにとって「ふつう」の感覚で考えていくことにしましょう。
私たちは「芸術以後」と言葉を発した時に、「芸術」というものについて、ある程度、お互いの理解があることを前提として話をします。「芸術」がわかっていないのに、「芸術以後」について話ができるわけがない、というふうに「ふつう」は考えるからです。このように、何かについて話すときに、それが何であるのか、それの由来や今後の見通しなどについて、私たちはできるだけ把握しようと努力します。これは自然なことのようですが、実はこのように、常に全体を見通して考えたり、話したりしたくなるのは、私たちの中に近代的な思考方法が気づかないうちに身についているからなのです。
これを「モダニズム的な思考方法」というふうに呼ぶことにしましょう。「モダニズム的な思考方法」は、つねに全体を見通すことを前提としています。例えば「芸術以後」のことを考えるのに、いつの間にか「芸術」を見通すことがその思考の中に入ってくるのです。
浅田彰さんは『構造と力』の中で、こういう「モダニズム的な思考方法」に対して異を唱えました。もっと無責任に、見通しを持たないで行動する「ポストモダニズム的な思考方法」を提唱したのです。「モダニズム」は行き詰まっている、それを超えるには「ポストモダニズム的な思考方法」しかない!というわけです。
こんなふうに、浅田さんの複雑な思想を勝手に単純化してはいけないのですが、室井さんもこの本の中で似たようなことをやっています。その部分を読んでみましょう。
たとえば、すべてを自己のパースペクティヴの中におさめ、すべてに自分なりの決着をつけ、世界を自分の視点の支配下におきたいという「近代(モダン)」な欲望に対して、ポストモダンの思考は、ポップで軽やかな感性を標榜し、無責任な虚構の中で戯れる。この無責任な感性は、どこかで必ず責任をとろうとする近代的感性を「神経症」的と決めつけ、自らの分裂症的な滑走を、あらゆる神経症的「錘」との絆を断ち切った新しい感性として位置づけるのである(むろん、そうした位置づけ自体も、そのような感性にふさわしい無根拠な記号の戯れの中に溶解されてしまうわけだが)。
だが、問題はー少なくともぼくにとっての問題はーこうした二つのモードの二者択一ではない。その二つをつなぐこと、あるいはそれらの間に立つこと、言い換えれば、それらの間に相互干渉の空間を開いていくことなのだ。だが、そのことはいままであまり意識されてこなかったように思われる。
(『ポストアート』「ポストアート」室井尚)
1980年代当時は、このようにモダンとポストモダンとの葛藤があって、モダンの感性を「神経症的」と決めつけたのが、若き日の浅田彰さんでした。そんな浅田さんもいずれ「近代の重力圏に再び引き戻されることになる」と批判したのが、『表層批評宣言』などの画期的な文芸批評や映画評論で、すでに活躍されていた蓮實重彦さんでした。
そんな事情も『ポストアート』の本の中には書かれていますが、肝心なことは室井さんが「モダン」と「ポストモダン」の二者択一ではなくて、「それらの間に相互干渉の空間を開いていくこと」を目指していた、ということです。室井さんの言葉を読んでみましょう。
「ポストアート」という言葉で、ぼくが問題にしたいのは、したがって、けっして「来たるべき芸術」の始まりでもなければ、「芸術の終焉」でもない。そうではなく、そうした言説を可能にしてきた理論と芸術の文化装置とは訣別することが問題なのだ。別の言い方をするならば、それはヘーゲル以降長い間繰り返し語られてきた芸術と精神との相互関係において、芸術の終わりを宣言したり、あるいはその不滅の活動性をたたえたりする言説から、可能な限り遠ざかることなのである。「芸術の終焉」という理論的モチーフはヘーゲル以来の理論的言説を背後から脅かしてきた。だが、いまはそうした言説の秩序全体に別れを告げる時なのだ。ポストアートとは、新しい芸術のことでもなければ、芸術の他の領域への解消や、その消滅を意味しているのではない。それはむしろそうしたことを語ることを可能にしてきた、カント、シラーからヘーゲル、ハイデガーを経てドゥルーズやリオタールに至る言説装置の全体から距離をとることなのである。
(『ポストアート』「ポストアート」室井尚)
なるほど、そうか・・・、でも、待てよ・・・、私はそもそもカント(Immanuel Kant 、1724 - 1804)も、シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller、1759 - 1805)も、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770 - 1831)も、よく知らないぞ、ということは、彼らの「言説装置」から「距離をとる」ことがすでに出来ているのではないか、と思いたくなります。しかし、そのような都合の良いものではありません。
「芸術」というものに対してある程度の概念を持ち、それが終わるということはどういうことなのか、そのことについてある程度の想像がつく方は、とりあえずカントからヘーゲルあたりの芸術観を身につけていることになります。また、現代の前衛的な芸術に関心をお持ちの方は、その後の「ハイデガーを経てドゥルーズやリオタールに至る言説装置」さえも、よく知っているということになるでしょう。そのイメージの延長で「芸術後の芸術」を想像してはいけない、と室井さんは言っているのです。それこそが「芸術」にまつわる「言説装置」にほかならないからです。
それでは、どうしたらよいのでしょうか?
室井さんがここで取った方法は、「芸術」を「芸術」たらしめている「モノ」=「メディア」、つまり「芸術」を芸術として成立させている「芸術作品」という「モノ」=「メディア」=「媒体」に注目したのです。人間は、あるものを美しいと感じても、その感性そのものが「芸術」となるわけではありません。それは「芸術」の源泉のようなものですが、「芸術」ではないのです。その美しいと感じた感性を何かで表現したときに、「芸術」が作品としてこの世に生まれるのです。室井さんはそう考えて、「芸術」を成立させる「メディア」=「媒体」について考察したのです。そのように、考察の視点を変えることによって、それまでの「言説装置」とは違う地平に立とうとしたのです。室井さんの説明を読んでみましょう。
芸術はふつう芸術作品として考えられている。作品とは言うまでもなく規定されたひとつの対象であり、モノである。無論、このモノがそのまま芸術作品であるわけではない。たとえば、印刷された活字や、素材そのものが作品というわけではない。「理念の感性的顕現」とか「志向対象」とか言われるように、この対象は鑑賞者の意識とモノとが向かい合うことによって初めて作り出される何かである。だが、ここで問題としたいのは、この対象がどのような対象であるかということよりも、それがとにかくモノを媒体にして実現されるということなのだ。
(『ポストアート』「ポストアート」室井尚)
このように考えた室井さんは、先程も私が書いたように、芸術に関わるような原初的な体験、例えばたまたま誰かの美しい声が聞こえてきた、とか、地面に殴り描きされた絵を面白く感じた、とか、そういうモノとして残らない媒体を「メディアⅠ」というふうに定義しました。そして、それが楽曲になり、キャンバスに描かれた絵画となり、というふうに「作品」として残る媒体を「メディアⅡ」と定義したのです。
①メディアⅠ=出来事の一回性、表現主体との近さ、全身体的知覚。
②メディアⅡ=モノの唯一性、表現主体からの分離。視覚の特権性。
(『ポストアート』「ポストアート」室井尚)
このように整理してみると、「芸術」が「メディアⅡ」として成立した時から、付随していろいろな問題点が発生します。いくつか例を室井さんの本文から抜粋してみましょう。
モノの持つ唯一性は、それを特定の場所、いわば秘密の場所に安置することを求める。
(『ポストアート』「ポストアート」室井尚)
つまりそれらの「作品」は公共の空間に展示され、収蔵されるようになり、それがのちに美術館や博物館という強固な「制度」を生むのです。
その唯一性は『本物』という概念を作り出した。
(『ポストアート』「ポストアート」室井尚)
「作品」という概念が生まれたときに、その唯一性も同時に生まれて、いわゆるオリジナル/コピーという二項対立の複雑なシステムが出来上がったのです。つまり、その「作品」が本物(オリジナル)か、贋作(コピー)か、ということが厳しく問われるようになったのです。
そして、もっとも気になる室井さんの指摘はつぎの内容です。
だが、このメディアⅡにおいて、もっとも重要なのは、それが視覚の優位性において主体ー客体の二元論的構図を定着させ、すべてをその支配下に置くということではないだろうか。そこでの表現は主体から遠ざけられ、対象化されることによって、独立した領域を形づくることになる。そして、それはルネッサンスにおいて、均質な空間や時間の意識を生み出すことになるのだ。すなわち、そこでは自然が主体の全体的な身体感覚によるものではなく、外化され対象化された自然として(すなわち、メディアⅡとなった表現として)受容されるようになったのである。
(『ポストアート』「ポストアート」室井尚)
このように書かれてみると、「メディアⅡ」に見られる「芸術」表現の問題点は、「モダン」の問題点そのものであることがわかります。「視覚の優位性」、「主体ー客体の二元論的構図」、「表現と主体との縮まらない距離」、「均質な空間や時間の意識」、「自然の外化、あるいは対象化」などは、モダニズムが抱える深刻な問題であるということを、私はこのblogで何回も取り上げてきました。
ですから、いろいろと言いたいことはあるのですが、ここは室井さんの議論を先に進めて、「メディアⅢ」、「メディアⅣ」についても続けて見ていくことにしましょう。
時代は変わり、ベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin、1892 - 1940)が指摘したように、複製技術が「芸術」の概念を変えました。オリジナル/コピーという二項対立は意味をなさなくなり、「現実の断片化された痕跡を加工する」ということに、表現の中心が移動したのです。これが「メディアⅢ」に当たります。
しかし、それだけではそれまでの「言説装置」を変革するには不十分でした。しかしさらにここにきて、現在の「ネットワーク・メディア」の時代になり、はじめて芸術メディアの新しい地平が開かれたのです。これが「メディアⅣ」になります。
この複製メディアの発達と、ネットワークの高速化のことを整理すると、次のようになります。
③メディアⅢ=シミュレーションの複数性、反復可能性。表現内容の脱コンテクスト化。遠隔制御的ー求心的。
④メディアⅣ=ネットワークの高速性、偏在性。表現行為の脱コンテクスト化。遠隔制御的ー遠心的。
(『ポストアート』「ポストアート」室井尚)
この新たなメディアの変革について、室井さんの説明を読んでみましょう。
もはや芸術はモノではない。モノである芸術ももはや情報の均一な平面の上でしか機能しないのだ。クロード・モネの本物の絵を美術館で見た人は、複製の写真を基準にしてしかそれを見ることはできない。そこで「本物より写真の方がいい」と言うか、それとも「やっぱり本物は素晴らしい」と言うか、どちらにしても大して違いはないのだ。問題なのは「本物」ももはやひとつの虚構にすぎないということなのである。「本物志向」それ自体がネットワーキング・メディアが可能にしたものなのだ。たとえば、パフォーマンスを見て、やはりナマの体験は何物にも代えがたいと思っている人は、自分が情報ネットワークに導かれてわざわざそこに足を運んだことを忘れている。
つまり、「本物」や「自然」そのものがひとつの差異を生み出す商品なのであり、本物を求めるひとはその宣伝コピーに乗せられたのでしかないのだ。もはや「自然な」生活をすることと新車のカタログを取り寄せることに質的な違いなど存在しないのである。
それと同時に、メディアⅡを媒体にしていた、内面と世界との結びつきも失われている。ここでは直接世界と向かい合う自己など存在しない。無意識すら心の奥底ではなく表面に露出してしまっているのだ。すべては世界を覆い尽くす情報のネットワークに絡め取られている。もっとも内密な欲望ですら、こうした媒介によって作られたものにほかならない。もはや行動を引き起こすのは内面的な欲望や衝動ではない。趣味、志向、感情、判断、感動、快感、嫌悪、動機などに関して、もはやいかなる直接性も存在しない。すべてが媒介されているのだ。
(『ポストアート』「ポストアート」室井尚)
うーん、一気に議論が加速しました。
モダニズムに対して、あれほど疑い深く慎重であった人が、どうして「ポストモダン」的な思考に乗っかって、このような軽はずみな加速をしてしまったのか、理解に苦しみます。最後のところの、人間の内面でさえ「すべては世界を覆い尽くす情報のネットワークに絡め取られている」というくだりなどは、この文章そのものが情報入力に偏りのあるAIが書いたものではないか、と思ってしまうほどです。
なぜ、こうなってしまったのでしょうか?
それはおそらく、室井さんが自ら切り開こうとしていた地平を多くの人に理解してもらうために、過去を性急に否定したからでしょう。私はこの室井さんの文章にほとんど同意できませんが、彼が「ポストアート」の名のもとに見ようとした地平については、ある程度理解できます。
次の室井さんの文章を読んでみてください。
芸術や美術の制度は、いまや自分たちを特権化するいかなる理念も存在していないということを自覚すべきなのだ。もはや、そこには過去の引用やマイナーなモデル・チェンジしか現れないことは、そうした制度を産み出してきた資本主義の変化や商品の流通の変化を見れば明白である。そして、重要なのは、もはや作品として収蔵され体系づけられ固有名詞を介して社会と接合されるようなことのない新しい表現の可能性であることも明らかなのだ。それは「芸術」でも「思想」でも「批評」でも「行動」でも「政治」でも「科学」でもない。それらの領域を横断する「干渉」の実践そのものがポストアートとなるのだ。
(『ポストアート』「ポストアート」室井尚)
この文章もどこか恨みがましい、よほど年寄りの批評家や商業主義のジャーナリズムにひどい目にあったのかな、と思われる部分がありますし、その気持ちもよくわかります。しかし、もっと肯定的な気持ちでこの文章を読んでみましょう。
現在の芸術において、私たちが知らないうちに取り込まれているさまざまな制度があります。美術館や博物館が芸術の権威主義を象徴し、資本主義が作品を商品として序列化し、各分野での専門家がそれぞれ蛸壺に入って議論を戦わせている現実を、室井さんが勇気を持って指摘していることをまずは読み取りましょう。その上で、彼は「それらの領域を横断する」ことが重要なのだ、と書いているのです。それらの「領域」が、互いに「干渉」する行為そのものが「ポストアート」なのだと室井さんは言っているのです。
室井さんの議論に勇気を与えたのが、当時発展途上にあったネットワーク・システムだったのでしょう。現在の世界は、おそらく当時の人たちが予想したよりも、広く、そして深くネットワークが浸透していますが、それが「芸術」に関わること、あるいは「ポストアート」に関わることについて、良い方向でばかり働いていないことは否定できないと思います。
しかし「ポストアート」の可能性に室井さんがかけた情熱を、私は支持します。そして室井さんが実践した試みについて、もっと具体的に知りたい、という気持ちになります。
それはそれとして、最後に室井さんの議論に対して私が同意できないことについて、できるだけ整理して書いておきたいと思います。
真っ先に気になるのが、「クロード・モネの本物の絵を美術館で見た人は、複製の写真を基準にしてしかそれを見ることはできない」と室井さんが書いているところです。室井さんは、本物のモネ(Claude Monet, 1840 - 1926)さんの作品を見たことがあるのでしょうか?と疑ってしまうような文章です。
確かに、情報過多の現代においては、本物を見た時にはすでに既視感があるような作品がたくさんあります。あるいは、本物を見て、かえってがっかりしてしまう作品もあります。そしてモネさんも、日本人が大好きな画家ですから、モネさんの展覧会というと大騒ぎして集まる人たちを見ると、単なるブームではないか、とうんざりすることもあります。
しかし、そんな感想はモネさんの作品を見ると、すべて吹っ飛んでしまうのです。モネさんは、いくら作品を見ても、見るたびに新しい発見のある数少ない画家です。そのモネさんを、ここで複製の問題の事例としてあげること自体、室井さんがどれほど真剣に絵を見たことがあるのか、と疑わざるを得ないのです。
また、「パフォーマンスを見て、やはりナマの体験は何物にも代えがたいと思っている人は、自分が情報ネットワークに導かれてわざわざそこに足を運んだことを忘れている」というのも、よくわからない話です。これも、情報ネットワークに翻弄されて、パフォーマンスや演奏会に群れてしまう人たちを見ると、先ほどのモネさんの例と同様に、私も辟易してしまうのですが、しかし動機はともあれ、その目の前で繰り広げられるパフォーマンスや演奏が素晴らしいものであるなら、「やはり本物を見て(聞いて)よかった」と思うのが当然ではないでしょうか。例えばジャズのアドリブ演奏などは、その演奏が創造される場に立ち会うことと、録音や録画されたものを味わうこととは根本的に違います。
どうやら室井さんは、情報過多によって踊らされる群衆の現象と、本物や実物を見る体験とを無理やり結びつけているようです。
それと同じことが、「そこには過去の引用やマイナーなモデル・チェンジしか現れないことは、そうした制度を産み出してきた資本主義の変化や商品の流通の変化を見れば明白である」という一節にも表れています。これは私も注意しなければなりません。芸術作品の変貌を、すべて「資本主義」の「商品流通」のためのものであるかのように解釈してしまうのです。確かに、商業主義によって誘導された美術作品の流行の変化には、嫌気がさしてしまいます。しかし、芸術の変化のすべてをそのせいにすることはできません。
どうも室井さんには、自説を強調するあまりに、意に染まないものを無理に断罪してしまう傾向があるようです。そして最も根本的な室井さんの勘違いは次の点にあります。
芸術作品がモノとなった時の分析を書いた次の一節です。
このメディアⅡにおいて、もっとも重要なのは、それが視覚の優位性において主体ー客体の二元論的構図を定着させ、すべてをその支配下に置くということではないだろうか。
(『ポストアート』「ポストアート」室井尚)
おおむね「メディアⅡ」と定義づけられた作品には、このような傾向があることは確かです。そのことを、私もずーっと問題にしてきました。しかし、すべてがそのような作品だと言えるでしょうか?
私はこのような思い込みに抗うために、「触覚性絵画」という試みを続けているのです。芸術作品としての絵画は、視覚性優位だと言われてきましたが、そこに触覚性を見出す試みが、(私だけではなく)さまざまな方面で存在することを、私はこのblogでも機会があるごとに書いてきました。
また、「主体ー客体の二元論的構図」ですが、これは例えば先ほどから話題になっているモネさんのオランジュリー美術館の壁画作品を見れば、その「主体ー客体」の「二元論的構図」を乗り越える試みがすでにあったことがわかるはずです。
また、モネさんの同僚のセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)さんの晩年の作品を見れば、絵画の「視覚性優位」、「主体ー客体の二元論的構図」のいずれもが、すでに乗り越えられていることに気がつくはずです。それがわからないようであれば、現象学者のモーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)さんの著作を、もう一度勉強し直すべきです。
先ほども書いたように、室井さんがモダニズムの「芸術」の概念について、これほど正確に問題点を指摘しているのに対し、その時代の作品の豊かな可能性について、まったく気がついていないということが不思議です。さらに言えば、「ポストアート」の可能性を「メディアⅣ=ネットワークの高速性、偏在性」に安易に見出していることにも、疑問が残ります。私はそこに可能性がないというつもりはないのですが、どの時代であっても面白いものを作るのには困難が付きまといます。それがメディアの種別と直結していて、このメディアなら容易にそれが実現できて、他のメディアでは不可能だと結論づけることに納得いかないのです。
今回は理屈っぽい話ばかりで申し訳ないのですが、もう一つだけ、気になっているところを指摘しておきます。
ここで仮に、室井さんが定義した「メディアⅠ〜Ⅳ」の種別に則って話を進めると、人間の美しいものに対する心の動きの原型が「メディアⅠ」になるのだろうと思います。そしてそれを作品化した途端に、あるいは「芸術」として概念化してしまった途端に、さまざまな問題が生じてきました。
しかし、その作品化にあたる「メディアⅡ」ですが、これは「メディアⅠ」と限りなく近い関係にあると私は思います。絵を描くこと、歌を楽曲にすること、体の動きをダンスとして楽しむこと、それらは人間にとって根本的なことであり、普遍的なことでもあります。私は絵を描いているときに、「メディアⅠ」の中に定義されているような「表現主体との近さ、全身体的知覚」をつねに意識しています。そしてそのことは、私の作品において実現されつつあると自負しています。
そして「メディアⅢ」や「メディアⅣ」として認識できるものが発展したとしても、絵を描いたり、歌を歌ったりという楽しみがなくなるわけではありません。時代の推移とともに、人としての感動を表現する領域が広がっていくことはあるのでしょうが、それがこれまでの表現を否定した上に成り立つものではないでしょう。
新しいものを定義するために過去を否定する、という室井さんの方法が、実はモダニズム的な言説に囚われたものになってはいないでしょうか?確かに、テクノロジーの発達やネットワークの広がりによって社会が変化し、人間の表現の形が変わってくるということは、当然、起こってくるでしょう。しかし、室井さんが定義した「メディアⅠ」、つまり人間の知覚と心の動きが表現活動の根本にあるのであれば、それへ向かってアプローチする方法は古いメディアであれ、新しいメデイアであれ、どこかに存在するはずです。
むしろ、ポジティヴにこう言いたいと思います。
「表現主体との距離を縮め、全身体的知覚を使って心を動かす」という目的は、室井さんとも私とも共通しています。ですから、「メディアⅡ」から「メディアⅣ」までのあらゆる媒体を使って、共通の目的のための表現活動を展開しましょう、と呼びかけたいのです。
そして心の目を開いて、「芸術」、「思想」、「批評」、「行動」、「政治」、「科学」などの領域を横断する実践に、私たちの目を向けましょう。なんの変哲もない、一枚の絵画に見えたものが、実は「ポストアート」との共通の目的にかなうものだった、ということだってあり得るのです。逆に、ネットワーク上の仮想のものだと思っていたものが、私たちの心を芯から揺さぶる豊かな表現であることもあり得るでしょう。
人間はそれほどに、何ごとにもとらわれない、自由な存在なのだと思います。近々、その「自由」について考察してみたいと思います。