平らな深み、緩やかな時間

417.フェイク情報について、そしてクリプキの論理学から現代美術を考える

インターネット上を飛び交うフェイク情報をどう受け止めたらよいのでしょうか?

この問題に関しては、毎日のように何らかの形で報道がなされていますが、私が気になったのは、ある新聞記事(コラム)とテレビ番組の二つの報道です。

このことは、社会問題としては私のような個人の手に余る大問題ですが、いま考察している言葉の問題と多少、関わっているのかもしれません。少しだけ、この問題に触れておきます。

ということで、今回はその話から始めます。

現在のフェイク情報が飛び交う社会状況ですが、そもそもどうしてこのような状況になってしまったのでしょうか?

思想家の佐伯啓思さんは、これは近代社会が個人の自由と幸福を追求してきた結果だと言っています。そして何でも表現できる自由なメディアを称揚してきたリベラリズムが招いた混乱であり、その価値観の限界を示しているのだ、と警告しています。

 

(『異論のススメ スペシャル SNSが壊したもの』2024年12月25日 朝日新聞)

https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S16113662.html?iref=sp_rensai_long_561_article

 

佐伯さんのこのコラムには、いつも目を見開かれる思いがするのですが、今回のこの結論はどうでしょうか?

確かに、ここまでの経過は佐伯さんの指摘の通りであったとしても、現状では保守もリベラルも関係なく混乱しているのですから、リベラリズムの罪過を言い立ててもあまり意味がないような気がします。私たちが個人の自由と幸福を追求するのは当然のことですし、それがうまくいかないから封建社会に戻るのが良いのか、と言われれば、多くの方が否と言うのではないでしょうか?

佐伯さんも取り上げられているように、民主主義国家であるオーストラリアでは「16歳未満のSNS利用禁止案」が可決されましたが、実際に実施するにはいろいろな問題が起こるだろうと予想されます。しかし、このような試行錯誤はこれからも広がるのではないかと思います。

 

(『オーストラリア、16歳未満のSNS利用禁止案可決 世界初』2024年11月28日 日本経済新聞)

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM289250Y4A121C2000000/

 

一方で12月26日に放送されたNHKの『フェイク・バスターズ』という番組を見ると、アメリカでフェイク情報を監視しようしている人たちがいるのですが、その人たちを公権力を使って押しつぶそうとしているのが次の大統領とその周囲にいる保守的な人たちです。彼らはSNS上のフェイク情報の検閲を嫌う一方で、一部の文学作品を読ませないようにする運動もしていて、作家の平野啓一郎さんに言わせると、保守派の人たちの言っている「表現の自由」は「欺瞞」なのだそうです。

 

(デジタル時代の『情報との向き合い方』を考える)

https://www.nhk.jp/p/ts/XKNJM21974/episode/te/R8169JRNW9/

 

ですから、この件に関して言えば、リベラルとか保守とかいう立場にとらわれず、この状況を脱する方法を考えなくてはならないと思います。この番組の中で言われていたように、例えばSNSの閲覧数によって、その内容の如何にかかわらず課金されてしまう構造が問題なのだとしたら、それをまず改めなくてはなりません。しかし、それには時間がかかりそうですね。

番組の最後のところで、心理学者の久保(川合) 南海子さんが、ある情報と対峙する時には、それを俯瞰するような視点が必要だと言っていました。つまり、目前に迫ってくる情報を鵜吞みにするのではなく、情報を受け止めようとしている自分と、情報を発信したであろう誰かを視野に入れることで、客観的な判断ができるようになる、というのです。

これはメタ認知ですね。

蛇足ですが、私は先日、勤務校の研究授業で、そのメタ認知を生徒たちに知ってもらおうと思って次のような授業を実施しました。

 

(自分嫌いを授業で変える)

https://www.pen-kanagawa.ed.jp/y-kyokuryo-h/documents/1123asahi.jpg

 

この授業は、自分の作品のPRをするために、買い手の認知を考慮しながらキャッチコピーを考えようというものです。自分の作品を説明するだけでなく、どのようにしたら相手の心に残る言葉を綴れるのか、という難易度の高い内容でした。それにもかかわらず、優秀な若手の先生に助けてもらったこともあって、予想以上に生徒たちはこちらのねらいを受け止めてくれました。こうして考えてみると、意義深い授業をやりましたね。誰もそのことを褒めてくれないので、自分で褒めておきましょう。

 

さて、このような現状を見ると、言葉を軽々しく使い、それを無責任に広めてしまう人たちがいる一方で、その言葉を鵜呑みにして、重大な行動を起こしてしまう人たちがいるという混乱した状況が、改めて浮き彫りになります。言葉の意味の行き違いは、ときに大きな被害を起こし、多くの人たちを苦しめてしまうのです。

そしてよく考えてみると、この問題は、このところ考えている「論理学」における「言葉」の問題と、少なからず関わっているような気がします。言葉の表現する「意味」や、その「意味」が作り出す「論理」を正しく受け止めることで、より客観的で、より適切な行動ができるようになると思うのです。

今回は、そのクリプキさんの論理を現代美術の状況にあてはめて考察してみたいと思います。

 

それでは、すこしおさらいです。

前回は、論理学者のクリプキ (Saul Aaron Kripke、1940 - 2022)さんの難解な著書、『ウィトゲンシュタインのパラドックス』を読んでみました。クリプキさんの言わんとすることは、次の文章にまとめられていると思います。

 

『探究』の第201節において、ウィトゲンシュタインは次のように言っている、『我々のパラドックスはこうであった。即ち、規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから。』この本のこの第二章において、私は私自身の仕方で、問題のこの「パラドックス」を展開してみようと思う。

(『ウィトゲンシュタインのパラドックス』「二 ウィトゲンシュタインのパラドックス」クリプキ 黒崎宏訳)

 

そしてクリプキさんは、「規則は行為の仕方を決定できない。なぜなら、いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得るから」ということを、「クワス」という計算の規則で示したのでした。

 

私が「クワス(quus)」と呼び、「⊕」によって記号的に表そうと思う関数を表すために用いていたかもしれないのである。その関数は、

もし x,y<57 ならば x⊕y=x+y

そうでなければ  x⊕y=5

によって定義される。誰が一体、これは私が以前に「+」によって意味していた関数ではない、と言うのだろうか。

 (『ウィトゲンシュタインのパラドックス』「二 ウィトゲンシュタインのパラドックス」クリプキ 黒崎宏訳)

 

この「クワス」の計算規則によれば、「68+56」が「124」であったとしても、「68+57」は「5」になる、ということでした。この前提としては「68+56」が「124」になることを、私たちは経験上知っていたが、「68+57」は未知の計算である、と仮定して、ということでした。

それゆえに「規則は行為の仕方を決定できない」のであり、「いかなる行為の仕方もその規則と一致させられ得る」ということになるのです。なぜなら、「68+56」が加法の規則によって「124」になることを私たちは知っていても、「68+57」が加法規則によって「125」になるとは限らないからです。未知の計算である以上、私たちはそのことを予測して決定することができないのです。そして「68+57」が「5」になる、という一見すると無茶な計算の行為も、「クワス」という計算規則を設定することで「規則と一致させられ得る」ということになるのです。

これだけ読んでもわかりませんよね?

そういう方は、申し訳ありませんが『ウィトゲンシュタインのパラドックス』をお読みになるか、前回の私のblogをお読みください。

このクリプキさんの主張は、哲学者の柄谷 行人(からたに こうじん、1941 - )の『内省と遡行』以降の「内部」と「外部」の議論とも大きく関わるものでした。クリプキさんの論理は言葉の「意味していること」の「内的確実性をうしなわせる」ものであり、それが言葉を自壊させて、言葉の「意味」の「内部」から「外部」を見ることにつながるのではないか、というのが柄谷さんの主張でした。

こちらも、これだけではわからない方は、前回の私のblogをお読みになるか、柄谷さんの著作『内省と遡行』、『探究』をお読みください。

 

さて、いずれにしても、このウィトゲンシュタインさんやクリプキさんの示している言葉の「パラドックス」は、なかなか難しい問題です。

そこで私たちは、この「ウィトゲンシュタインのパラドックス」を現代絵画に応用してみたいと思います。美術に関することで考えてみると、私たちにも、なんとなくわかることがあると思うのです。

なぜなら、現代絵画におけるある有名な言葉が、それが「理論」として、あるいは「規則」として作動し、私たちを長い間、苦しめ続けてきたからです。現代絵画について考えてみると、私たちは「わかる」、「理解する」というよりは、「こういうことだったのか(?)」とおぼろげに実感できるはずだ、と私は思うのです。

 

ここで取り上げてみたいのは、現代絵画に関わる者として、もっとも重要なクレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)さんの次の言葉です。

 

しかしながら、絵画芸術がモダニズムの下で自らを批判し限定づけていく過程で、最も基本的なものとして残ったのは、支持体に不可避の平面性を強調することであった。平面性だけが、その芸術にとって独自のものであり独占的なものだったのである。支持体を囲む形体は、演劇という芸術と分かち合う制限的条件もしくは規範であった。また色彩は、演劇と同じくらいに、彫刻とも分かち持っている規範もしくは手段であった。平面性、二次元性は、絵画が他の芸術と分かち合っていない唯一の条件だったので、それゆえモダニズムの絵画は、他には何もしなかったと言えるほど平面性へと向かったのである。

(『グリーンバーグ批評選集』「1 モダニズムの絵画」グリーンバーグ 藤枝晃雄編訳)

 

私は、たびたびこの「モダニズムの絵画」という批評を取り上げていますが、一応、簡単な解説をしておきましょう。

グリーンバーグさんは、ジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)さんに代表されるアメリカの抽象表現主義の画家たちと並走し、その美術的な意義を言葉で表現した偉大な美術評論家でした。

そして、この「モダニズムの絵画」という批評は、グリーンバーグさんによる新進のアメリカ美術の勝利宣言のようなものとして読まれることがあります。新しいアメリカの画家たちはイマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724 - 1804)さん以来のモダニズム思想を正当に継承する芸術家たちであり、その革新性はたんに新奇なものではなく、美術史上に位置づけられるべき価値あるものなのだ、とグリーンバーグさんは書いています。

 

それでは、今回の考察にかかわる部分に焦点をあててみましょう。

私が考えるところでは、ここに書かれている「平面性、二次元性は、絵画が他の芸術と分かち合っていない唯一の条件」という言葉が、20世紀後半の現代絵画の「規則」にあたるものとなったのだと思います。

グリーンバーグさん自身は、この批評文のなかで、この点について次のような留保をつけています。

 

モダニズムの芸術の原理を大筋で示すにあたって、単純化したり誇張したりしなければならなかったことを理解されたい。モダニズムの絵画が自己の立場を見定めた平面性とは、決して全くの平面になることではあり得ない。

(『グリーンバーグ批評選集』「1 モダニズムの絵画」グリーンバーグ 藤枝晃雄編訳)

 

モダニズムの芸術が理論的な論証を提起するものではないことを、私は繰り返し述べたい。

(『グリーンバーグ批評選集』「1 モダニズムの絵画」グリーンバーグ 藤枝晃雄編訳)

 

しかし、このようなグリーンバーグさんの留保にもかかわらず、抽象表現主義以降の現代絵画は「平面性、二次元性は、絵画が他の芸術と分かち合っていない唯一の条件」という言葉を現代絵画の重要な「規則」として突き進みました。そしてグリーンバーグさんが「決して全くの平面になることではあり得ない」と言ったにもかかわらず、例えばミニマル・アートの絵画として「全くの平面」を実現したのです。

これが、主にアメリカにおける現代美術の状況でした。

時系列で整理しておきましょう。

グリーンバーグさんがポロックさんと並走したのが、1940年代後半から1950年代のはじめにかけてだと思います。その後、例えばドナルド・ジャッド(Donald Clarence Judd 1928 - 1994)さんがミニマル・アートの作品を制作して活躍したのが1960年代中ごろからということになります。ここまでがグリーンバーグさんの理論、つまり「規則」にあてはまると考えられるでしょう。

その後、グリーンバーグさんの教え子の世代が美術評論家として活躍するようになり、モダニズムの時代の後のポストモダニズムと呼ばれる動向が現れました。新進の美術評論家であった彼らの中には、現代美術の現状とそぐわなくなったグリーンバーグさんを批判する動きもありました。その代表格であるロザリンド・E・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1940 - )さんも、もう80歳を越えています。

そして、現在ではそれよりも若い世代の批評家が活躍しているはずですが、その動向について私には皆目わからないことも、隠さずに書いておきましょう。

 

さて、少し話を身近なところに移しましょう。

私が現代美術に意識的に取り組むようになったのは1980年代以降です。

そのころにはグリーンバーグさんの理論はアメリカで批判の対象にもなっていたはずですが、もちろん、そんなことを日本の地方大学の学生であった私に分かるわけがありません。それに、そもそも私は美術評論などをまじめに読む学生ではありませんでした。

私自身のそのような不勉強を棚に上げてこんなことを書くのは図々しいのですが、おそらく日本の1970年代以降の現代美術は、グリーンバーグさんのモダニズムの理論もろくに知らない人たちによって担われてきた、というのが大方の状況だったのではないでしょうか。そのせいでしょうか、絵を描くのは時代遅れだとばかりに「もの」を扱う作品が幅を利かせ、「インスタレーション」こそが新しい美術表現なのだ、といった風潮が、画廊や美術館に満ち溢れていました。

そんな中では、グリーンバーグさんのモダニズムの理論を勉強された美術評論家の藤枝 晃雄(ふじえだ てるお、1936 -2018)さんが、もしかしたら日本で唯一人、グリーンバーグさんのフォーマリズム理論を正面から論じようとした美術評論家だったのかもしれません。私が現代絵画の理論を学ぼうとすると、当然のように行き当たったのが藤枝さんの批評だったのです。現代美術の評論家はほとんど現代絵画に興味がなく、絵画に関することを勉強しようと思うと、藤枝さんにたどり着くのです。

しかし、藤枝さんのように正当にグリーンバーグさんのモダニズムの理論を引き継ごうとすると、いったいどんな絵画が評価されるのでしょうか?

私は藤枝さんの評論を通じて、おぼろげにグリーンバーグさんのモダニズムの理論を読み取って、その正当な歩み方を模索しようとしたのですが、おそらく日本でまじめに現代絵画に取り組もうと思った人たちは、似たような状況だったのだろうと思います。

今振り返ってみると、グリーンバーグさんが『モダニズムの絵画』の中で書いた「平面性、二次元性は、絵画が他の芸術と分かち合っていない唯一の条件」という言葉が、現代絵画の「規則」として作動し、今でもその影を落としているのだと思います。そして、先ほども見たように「平面性」を「唯一の条件」として取り組むと、それは平滑な平面に行き着くのです。しかし、それではすべての絵画作品がミニマル・アートの平滑な色面絵画になってしまうのかと言えば、さすがにそれはないだろう、と多くの画家が思ったのだと思います。そこでグリーンバーグさんが書いた先ほどの保留事項「平面性とは、決して全くの平面になることではあり得ない」という言葉が、さらに規則として加わったのです。

 

しかし、これは困難な禅問答のようなものではありませんか?

絵画は「平面性、二次元性」が「唯一の条件」であるが、それと同時に「全くの平面になることではあり得ない」というのです。

この難しい「規則」の中で、一部の画家は優れた作品を作り続けています。画面全体としては「平面性」と言えるようなフラットな絵画空間でありながら、よく見るとそこには表面からわずかな「揺れ」のような奥行きが見られ、それが物質としての「平面性」にまでは至らずに、かろうじてイリュージョンとしての絵画性を保っているのです。私はそういう絵画を実現している画家たちを尊敬しますが、しかし私自身が画家として歩むとしたら、この方向性は何か違うな、という気がしてきたのです。

なぜなら、絵を描くということは、基本的に楽しいことであるはずですよね?

ポジティブに表現したい!という欲求を妨げて、狭い領域に表現者を追いこむような「規則」は、はたして必要でしょうか?

これはまったく論理的ではなく、私の絵描きとしての実感で考えたことなのですが、そのような私の実感から考察すると、グリーンバーグさんの理論から敷衍した禅問答のような「問いかけ」は何か違っている、と思うのです。

私は、私のこの考えを検証すべく、このblogでも多くの文章を書いてきました。

絵描きとしての私は、私の実感に基づいて制作している、と言えば十分なのでしょうが、それを批評的な観点に立てばそういうわけにもいきません。本当は、誰か頭の良い方が、私の実感を文章化し、理論化していただけると良いのですが、残念ながらそういう方は存在しません。

これは私自身のことだけでなく、私の周囲の優れた表現者の作品についても、適切に批評し、言語化し、理論化するような評論家はほぼ皆無で、私の知るところでは、そういうことをちゃんとやっている方は平井亮一さんぐらいではないでしょうか。

そんなわけで、頭の良くない私は日々勉強して、私の実感を言語化し、理論化できるような手がかりを探しています。そして少しずつですが、それが見つかっている、という実感が私にはあります。

そして今回のクリプキさんの理論ですが、これは私たちの周囲で了解されている現代絵画の理論に対し、その対峙の仕方を指し示すものではないか、と思うのです。

 

それを少しずつ整理してみましょう。

まず、「平面性、二次元性は、絵画が他の芸術と分かち合っていない唯一の条件だったので、それゆえモダニズムの絵画は、他には何もしなかったと言えるほど平面性へと向かったのである」というグリーンバーグさんの文章があります。

仮にこれを正しいとしましょう。

しかし、これはグリーンバーグさんがこの文章を書かれたころまでの絵画についての分析であって、クリプキさんの論理によれば、そこから先の絵画も同じように「平面性へと向かう」べきであるとは言えない、ということになると思います。

なぜなら、「規則は行為の仕方を決定できない」からです。ここまでの現代絵画が平面性を追求したからと言って、これからの絵画がそうすべきだとは言えない、もしもあなたがモダニズムの絵画の発展を継承しようと思っていたとしても、「規則は行為の仕方を決定できない」というクリプキさんの論理は有効なのだと思います。

こんなことを書くと、何もクリプキさんの論理を参照するまでもなく、自由に絵を描けば良いではないか、という声が聴こえてきそうです。

しかし、私たちの世代には、そう言えない苦い経験があります。

 

少し話が長くなりますが、こんなことは私でないと書かないと思うので、あえて書いておきます。

それは1980年代にポストモダニズムと称する具象的な表現の絵画が世界的に流行し、それが日本にも入ってきたときのことです。

日本ではやっとミニマル・アートの絵画が最先端の表現として定着し始めた頃でしたから、その表現の差異に美術関係者は戸惑いました。私の見る限りでは、日本でのミニマル・アートの受容は、その「平面性」よりも、絵画は平滑な色面でなければならないという「禁欲性」に焦点が当たっていたように思います。ポストモダニズムの「ヘタウマ」(この言葉もその頃から流布したと思います)イラストのような表現が、まさにミニマルな「禁欲性」と対照的な表現として受け入れられたのです。

このときに様々な悲喜劇が生まれました。

当然のことながらポストモダニズムと称する絵画を苦々しく思う人たちがいて、一方で「本当はこれがやりたかった」とばかりに、突然、画面上に唐草模様を描き始めたミニマルな画家や、素材である丸太の先端に蛇の形を刻んだり、鳥の羽の形を作品に取り付けた「もの派」風の立体作家などがいました。評論家もこの流行に乗るべきか、批判すべきかの選択を迫られ、藤枝さんは当然のことながら、これらの新奇な作品を痛烈に批判する立場に立っていました。

この現代美術の状況は、私のような幼稚な考え方しかできない者からすると、モダニズムを堅持する人と、それを裏切ってポストモダニズムと称する表現に移行する人と、大きく二つに分かれたように見えたのです。私自身、学生時代に木や草花の形を含んだ絵画を発表したところ、モダニズム(?)を信奉する年配の作家から「お前なんか画廊で発表するのは十年早い!」と叱られたものでした。確かに、私の当時の絵画は思慮の足りない中途半端なものでしたが、彼の批判はそういうことではなくて、若者が流行に乗って軽々しく作品を発表することに対する嫌悪の情からの批判だったのです。今ならば、彼自身の幼稚な考えを指摘することもできるのですが、当時の私にはそんなメタ認知もありませんでした。

ちょっと話がそれますが、この喧騒を今の若い方だとどのようにお感じになるのでしょうか?

画廊で展示していて、知り合いでもない年配の作家からいきなり怒鳴られたり、叱られたりするような状況は、今ならありえないですね。その良し悪しはともかくとして、そんな熱い時代が少し懐かしくもあります。「ふてほど」が流行語大賞になった気分と似た気持ちかもしれません。

 

このような1980年代の私の経験も踏まえて、考察を進めましょう。

今となっては、モダニズムかポストモダニズムか、とかモダニズムか反モダニズムか、という問いそのものが「ふてきせつ」であったと思います。

仮にある作家がモダニズム芸術の発展を評価し、その成果をより良い形で継承しようと考えたときに、その表現が「平面性」を「唯一の条件」とするものでなくてもよいでしょう。

それに、そもそも「平面性、二次元性は、絵画が他の芸術と分かち合っていない唯一の条件だったので、それゆえモダニズムの絵画は、他には何もしなかったと言えるほど平面性へと向かったのである」というグリーンバーグさんの文章の意味も、絵画全般に対してまるごと認める必要もないでしょう。

グリーンバーグさんのこの条件に当てはまるのは、主にピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)さんらの分析的キュビズムとモンドリアン(Piet Mondrian、1872 - 1944)らの「新造形主義」あたりだと思います。あるいはアンリ・マティス(Henri Matisse, 1869 - 1954)さんの芸術もはずせないところです。

しかし、例えば印象派の提起した光と色彩の問題はどうでしょうか。また、同じ色彩に関することでも、後期印象派のゴッホ (Vincent Willem van Gogh 、1853 - 1890)さんから、それ以降の表現主義の画家たちへと発展した感情と色彩表現の問題もあります。これは抽象表現主義の画家へと部分的に引き継がれましたが、それで十分でしょうか。

マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887 - 1968)さんの芸術やシュルレアリスムの自動筆記(オートマティズム)以外の問題もグリーンバーグさんの理論から抜け落ちているようで、そのことがクラウスさんらの批判の対象にもなっているのだと思います。

そして私の大好きなセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)さんやボナール(Pierre Bonnard, 1867 - 1947)さんの芸術を、モダニズム以降にどのように継承すべきなのか、これこそ大問題だと思うのですが、誰も取り組んでいないようです。ですから、私が自分でやるしかない、と思っているところです。

こんなふうに、絵画の「平面性」を「唯一の条件」という「規則」から逸脱した問題に取り組むことは、グリーンバーグさんの理論をないがしろにすることになるのでしょうか?

私はまったくそう思わずに絵を描き、文章を書いてきたのですが、これはクリプキさんの論理で言えば、私はグリーンバーグさんの理論に含まれなかった「68+57」の領域に関することを試行錯誤していることになるのだと思います。言わば、グリーンバーグさんが手がけられなかった多くの課題を、私がその一部を拾っているということだと思うのです。このことは、グリーンバーグさんの理論を尊重することとまったく離反しない、むしろグリーンバーグさんの理論を学んだからこそやるべきことなのです。

 

こんなことにこだわって、つらつらと書いていると、若い人から見ると何のことやら、と思われるかもしれません。しかし、クリプキさんの論理を知ることでグリーンバーグさんの理論を俯瞰し、いわばメタ認知を得ることで、モダニズムを継承するにしろ、乗り越えるにしろ、より的確な判断ができるのではないかと思うのです。

これは1980年代のモダニズムか、ポストモダニズムか、といずれにしても、あまり論理的な根拠のないところで言い争っていたことを考えると隔世の感があります。

今回のはじめの話とも関連しますが、私たちはつねに、より広い場所、見晴らしの良い場所に立つことを心がけなくてはならないと思います。若い頃には、とりあえず目の前の手がかりに飛びついて、がむしゃらに掘り進むということも必要ですが、できればそのあとで自分のことを俯瞰できる場所に立てるとよいと思います。私には、そのような助言をしていただける方がいませんでしたが、現在の情報化社会のなかでは、若い方にはとくにその必要性があるのだと思います。

その俯瞰できるような場所、柄谷さんの言葉で言えば「内部」に対する「外部」にあたる場所ですが、これを見出すことは数十年前よりも困難なことなのかもしれません。すべての情報がフラットに拡散されていく時代で、すべてが「内部」ですべてが「外部」だと言える時代です。その一方で、「外部」に触れていると思っていた情報が、ことどとくSNSの企業に操作されたものであった、という現象が社会を複雑にしています。

そんな喫緊の課題を抱えた現代において、グリーンバーグさんにしろ、クリプキさんにしろ、すでに遠い過去に故人となってしまった人たちの本を読んで、今さら目を開かれている思いがしている私は、そうとうおめでたい人間なのかもしれません。しかし、自分の器の小ささを嘆いていても仕方ありません。私にとっての「内部」を掘り下げ、その深奥に「外部」へとつながる道を探して、これからも勉強していくことにしましょう。

 

ちなみに昨日、国立西洋美術館に『モネ 睡蓮のとき』を見に行きましたが、さまざまな発見がありました。モネ(Claude Monet, 1840 - 1926)さんは印象派の画家で、もう見るべきところがない、と思っている人は、このblogを読んでいる方にはほとんどいないと思います。ですので言うまでもありませんが、ぜひこの展覧会を見てください。

最後に晩年の作品が並んでいる部屋があるのですが、多くの方がその部屋にたどり着くまでに疲れてしまっていて、他の部屋に比べると少し空いています。私は真ん中の椅子に座って、立って絵を見ている人の隙間から、そのときどきで見られる絵を気ままに眺めていました。未完成のような絵もたくさんありましたが、どれもモネさんの息遣いが聴こえてくるようでとても楽しかったです。

モネさんのような画家だと、それこそクリプキさんの論理で言うところの「68+57」の領域にあたる不確定な要素が山のようにあります。未知のモネさんを、みなさんもどうか自分の目で発見してください。

そして未知の規則を見つけ出したら、みんなで分かち合いましょう。

 

それでは、また新しい発見があったらここに書きます。

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