私の参加した『小田原ビエンナーレ2021』と『Gallery HINOKI Art Fair ⅩⅩⅢ』が終わりました。新型コロナウイルスの感染状況が日々悪化する中で、特に小田原まで足を運んでいただいた方には、感謝の気持ちしかありません。また、『Gallery HINOKI Art Fair』では、久しぶりにパステルを使った作品を発表しましたが、気に入っていただけた方もいたようでホッとしました。
そして残念ながら、今回見ていただけなかった方には、次回もっと良い作品を見ていただけるように努力したいと思っています。冒頭のblogに書いたように、今回も私のホームページから、それぞれの作品の写真を見ていただけるようにしました。ご覧いただければ幸いです。
さて、私はこのところの作品に「触覚性」というテーマを掲げて制作していますが、小田原ビエンナーレでは天井の高い美しい空間を割り振っていただいて、自分の作品としっかり対峙することができました。その時に見えてきたのが、作品と私との距離の問題です。
私たちは絵を見るときに、適度な距離をとって鑑賞します。その時に私たちが感じているのは、作品と自分との間の物理的な距離だけではなく、絵の中に表現されている空間も含めた距離感です。いわゆるイリュージョンによって成立する絵画空間が、物理的な絵の表面のさらに先へと私たちの視線を誘うのです。私が絵画の「触覚性」というときに表象される絵画空間は、イリュージョンの中にあっても確たる抵抗感を持って触ることのできる空間です。それがうまく表現できていれば、私の絵を見る方にもその感触を味わうことができるはずです。
これは私の反省になりますが、今回、制作した作品の中には、それがうまくいったものといかなかったものがあって、まだまだムラがありました。もう少し作品の質を揃えて、私の意図をわかりやすく表現して、見ていて楽しくなるような作品にしたいと思います。これからはもっと「見る」ことの醍醐味を感じるような作品を制作します。どうぞ、ご期待ください。
さて、そんなふうに作品を鑑賞するときの距離感について考えているときに、とても気になる展覧会のチラシをみました。それは神奈川県立近代美術館で開催されている『若林奮 新収蔵作品』展のチラシでした。そのチラシの写真に使われているのが、『自分の方へ向かう犬 Ⅱ』という作品です。まずは、その作品をはじめとした、展覧会の主な作品を画像で確認してください。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/exhibition/2021-wakabayashi-isamu
そして、この『自分の方へ向かう犬 Ⅱ』の解説として引用されている若林奮(1936 - 2003)の言葉を見てみましょう。
「自分の家で飼っていた犬を観察しながら、その犬に見せる彫刻をつくることを計画し、最終的には彫刻が自分と犬との間にあり、それぞれに向いた半面が、自分と犬に所属していると考えるようになった。そのとき、犬と自分は近づいたように思えたが、ほかの動物は逆に遠ざかっていった。犬と自分の間の距離をはかり、それぞれの位置がわかるように思えたのである」
(『Kawai Cllection Isamu Wakabayashi』)
この『自分の方へ向かう犬 Ⅱ』で表現されている木彫の犬の頭部は、まるで水面から顔を出しているようにも見えますが、そのことが犬と私たちの間に横たわる、充満した空気を感じさせます。若林にとっては、彫刻を作るということは単にモチーフとなる形を表現することではなくて、自分と対象との距離や関係性を表すことなのです。
この自分の飼っている犬との関連から、『犬は旋回する』というインスタレーション作品や『自分自身が目前の空間を測る為の模型 Ⅲ』のほか、ドローイング作品など多数の作品が生まれています。『自分自身が目前の空間を測る為の模型 Ⅲ』については、前述のホームページから写真を見ることができます。このような、醜い針金状の突起が林立する彫刻を、若林はなぜ作らなくてはならなかったのでしょうか。次の若林の言葉を読んでみてください。
「例えば、向こうの塀の前に一本の樹がある。眺められる樹の私の方に向けた面はたしかに固定したものではなく自分に向かって前進したり、逆に後退して見えるのである。自分と樹の間の充満した空間は、この時になって、はっきりと私と樹の両方を含んだもの、しかも両方をへだてる距離を持つ空間としての存在に気付くのである。私が触覚として把握出来るのはこの空間であるように思われる。空間の向こうにあるのは見る対象である物なのである。両面に、というより、自分と向こう側の面に見える樹のこちらに向けた表面を含んだ、この所有に関係のある空間」。
(『今日の作家 若林奮』東京国立近代美術館)
これは、この作品に関する言葉ではありませんが、若林の空間への問題意識がよくわかります。「私が触覚として把握出来るのはこの空間である」ということの表現が、彫刻の空間の中に林立する針金状の突起だというのは、考えてみると短絡的な表現だとも言えます。しかし、表現というのはストレートである方が、より実感が強くなる、ということがあります。若林が鑑賞者と共有したかったのは、空間、あるいはそこに充満する大気のようなとりとめのないものですから、とてもわかりにくいものだと思います。それを視覚的に表そうとすると、こうなるのでしょう。
それからこの言葉の中で「私の方に向けた面はたしかに固定したものではなく自分に向かって前進したり・・・」という部分がありますが、私たちは彫刻作品との距離を感受するときに、いったい彫刻のどの面を見ているのでしょうか。立体作品ですから、彫刻の表面は一様ではありません。だから「私の方に向けた面はたしかに固定したものではなく自分に向かって前進したり、逆に後退して見えるのである」ということになるのです。
この、彫刻作品の表面について考えるときに、とりわけ興味深い作品が『燃える飛行機の煙の軌跡(10×10 Ⅶ)』という作品です。この作品もホームページから確認できますので、見てみてください。「煙」の形を彫刻で表すと、まさにこのようなふっくらとしたフォルムになるのかもしれません。ここには、さらにその形状を計測するような穴の空いた板が作品化されています。しかし、私たちは実際の「煙」がこのように計測できるわけではないことを、知っています。「煙」がこのような立体として現れるのは、彫刻というイリュージョンの中だけです。「イリュージョン」という言葉は、平面である絵画において使われることの多い言葉ですが、具体的な物質で表現する彫刻にも、「イリュージョン」はあるのです。硬い金属が柔らかく見えたり、木の表面に刻まれた形が動物の毛並みに見えたりするときに、私たちは彫刻作品の中に「イリュージョン」を感じ取っているわけです。それならば、この「煙」の形はどうでしょうか。これも大気中の煙を木で表現した「イリュージョン」に過ぎません。ただ、私たちはそれを不思議なことだとも思わずに、あ、これは煙だな、などと了解してしまうのです。そして、実際には存在しない煙の表面の形を自然なものとして受け入れてしまうのです。若林の作品は、それを逆手にとって、これって何だかおかしくないですか?と言っているのかもしれません。実際のものの表面は、そんなふうに単純に見ることはできません。だから、時にそれは「私の方に向けた面はたしかに固定したものではなく自分に向かって前進したり、逆に後退して見えるのである」ということになるのです。
何だか面倒くさいことを言っているように、聞こえますか?しかし、こういうことを考えてしまうと、このような問題意識のない彫刻作品は、すべて装飾品に、つまり単なる置物に見えてしまいます。今回の近代美術館に展示されていた作品の中で、若林と同様にスリリングであったのは、例えばアルベルト・ジャコメッティジャコメッティ(Alberto Giacometti、1901 - 1966)の『裸婦小立像』です。ジャコメッティは、まさに作品との距離や、フォルムの表面の問題に徹底的に取り組んだ人です。そのことを理解しないでジャコメッティの作品を見ても、あまり楽しくないでしょう。ジャコメッティの針金のような彫像も、若林の針山のような作品も、装飾品としては最低です。それらは飾り棚に収まらずに、独立した場所で対峙することを求めてしまうからです。
そしてホームページには掲載されていませんが、若林の『振動尺』と呼ばれる作品のシリーズが何点か展示されていました。若林は自分と対象となるものとの「距離」を問題としていたことは見てきた通りですが、やがて彼はそれを大気の「振動」のようなものとして捉えるようになります。彫刻作品をとりまく空間や、自分と対象との間にある距離などを感受できるのは、そこに大気の震えがあるからだ、ということなのでしょうか。そして若林は、その「振動」を測る計器のようなものを創作します。それは「メートル原器」のような何かの基準となる単純な棒のようなものから、巨大な体温計のような凝ったものまで、さまざまな「振動尺」が作られています。
この大気や空間を「振動」として形象化していく発想が、いかにも彫刻家らしいと私は思います。そのイメージは立体的であり、なおかつ触覚的です。その後の若林の創作活動を見ると、自然を見るにしろ、環境について考えるにしろ、それらを取り巻く大気の「振動」のようなものが常に背後に存在しているようです。若林のドローイングの中に現れる細かな筆触のような形は、その空間の「振動」を確かめているようにも見えます。若林はそのことを次のようにいっています。
「私は彫刻に『振動』という言葉を考えます。・・・彫刻は全体像を明確に獲得するのではなくて、振動を持った曖昧な空間を所有する、と私には考えられます。自分と振動を持った空間との関係が生じて、その関係によって認められ、その接点、接するところが見極められていくと思えるのです。」
(『Kawai Cllection Isamu Wakabayashi』)
この考え方が若林の彫刻作品を貫いている基本的なものであり、それが若林の存在をユニークなものにしています。
そのことは、たまたま今回、同時に開催されている『空間の中のフォルム―アルベルト・ジャコメッティから桑山忠明まで』展で展示されている彫刻の作品群と若林の作品を比較してみるとすぐにわかります。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/exhibition/2021-forms-in-space
先ほども触れたように、若林と似た作品といえば、わずかにジャコメッティの小品作品とドローイング、あとはほんのわずかな作品例に過ぎないことがわかります。若林とジャコメッティが、彫刻やドローイングを通して自分の生きている「空間」や「世界」について探究したのに対して、他の多くの彫刻家たちは彫刻という表現について考えたに過ぎません。とても真面目に、彫刻を発展させようとした人たちですが、彼らは自分の前提としている「空間」や「世界」に対して疑問を持つことがなく、その生き方は楽観的なものに見えます。それが私にはつまらないのです。
そして、私は多くの若い彫刻家に、若林の今回の展覧会を見てもらいたいと思います。私も何度か若林の大掛かりな展覧会を見ていますが、今回の展示は若林のパーソナルな探求についてとてもわかりやすく、手頃な量で見ることができます。彼の等身大の内面が透けて見えるような気がするのです。このような理解のもとに、彼のインスタレーションの大作を見ると、より理解が深まるのではないか、と思います。
それから、私のせまい「現代美術」の理解の範囲でいうと、ミニマル・アートや日本の「もの派」以降、優れた立体作品というと、ものを生のままに扱った作品をどうしてもイメージしてしまいます。それ以外の造形的な彫刻作品というと、メランコリーな表情を前面に出した人物像とか、動物の形をちょっとユーモラスに扱ったものとか、そういう個人的な趣向を強調したものが目立つような気がします。今の若い彫刻家が、真面目に彫刻に取り組もうとすると、そのいずれかの道しか見えてこないようでは困ります。若林はそのような時流の表現とは距離をおいた作家です。それだけに理解しにくい面もありますが、こういうアプローチもあるのだということを、ぜひ若い方にはわかっていただきたいと思います。その上で、自分の歩む道を選べば良いのです。
絵画についても、似たようなことがあります。モダニズムの影響があまりに強くて、頑なにその枠の中で思考すべきなのか、そこから外れてイラストまがいの作品を描くのか、というのでは、あまりにも貧し過ぎます。私自身は、そうではない道を辿っているつもりですが、そこで課題となるのが「距離」や「触覚性」のことです。若林の作品の中には、それらについて考える手がかりが無数にあるのです。
こんな話がちょっと硬いと思われる方は、若林が自分の飼っている犬のことから「距離」について考え始めたことを思い出してください。もしもあなたが犬や猫を飼っているなら、愛する彼らとの「距離」のことや、かけがえのない彼らの「存在」感について考えてみましょう。そしてその考えが、自分の表現活動に結びつかないものかどうか、頭を捻ってみてください。もしもそれが出来れば、そこには嘘のない、あなただけの表現がきっとあるはずです。そこまで出来たら、その表現が作品を見てくれる人を説得するだけの普遍性を持っているのかどうか、実際に見てくれた人と話してみましょう。その試行錯誤の過程が、すでに素晴らしい表現になっているのではないでしょうか。
一見、わかりにくい若林奮の作品群から、私はそんなことを考えました。
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