JR中央線三鷹駅から5分ほどのところにある「ぎゃらりー由芽」という、現代美術を展示している画廊で、10月2日(土)から17日(日)まで 『宮下圭介 展 「面位」』という展覧会が開かれています。時間は12:00から19:00までで、木曜休廊、最終日は17:00までです。ご覧になる方は、画廊のホームページで場所や時間を確認してお出かけください。
https://galleryyume.web.fc2.com/
私は初日にお伺いして、宮下さんから直接、お話を聞いてきました。今までの宮下さんとは少し作品が変わっていましたが、本質的なところは変わっていません。その充実した作品を、一人でも多くの方に見ていただきたい、あるいは知っていただきたいと思い、取り急ぎ文章を綴りました。
これから書くことは、宮下さんの作品を見てきた方にはわかりきったことかもしれませんが、今回はそうでない方にも、ぜひ画廊に出かけていただきたいと思って書いています。私も宮下さんについて、何度か文章を書いているので、重複する内容もありますがご容赦ください。
さて、今回の個展には、宮下さんの言葉が画廊のホームページに書かれていますので、ここに書き写しておきましょう。
「面位」について
10数年タイトルとして使ってきた「sign on sign」を一旦わきに置き、「面」と「位」をつなげて「面位」という熟語をつくった。
造語のつもりだったが、当初、「念のために検索してみるとこの語は広辞苑にはないが、カメラ、プリンター工業界で既に使われている」と書いたが、私の検索ミスで「面位」という熟語はどこにも使われていないことがわかり、訂正し、お詫びいたします。造語の「面位」を私は以下のような意味に使いたい。
面に対して垂直に位置を測ろうとする知覚、視野の中で視点を切り替えつつ統合を図ろうとする見る者の指向性、そのような場で揺らぐ透層の不安定な位相。
「sign on sign」は方法であり、「面位」はより具体性を帯びたと思っている。
真摯で誠実な宮下さんらしいコメントです。新しい作品群のタイトルとした「面位」という言葉が、すでに自分の思いとは違った意味で使われていたのではないか、と調べた結果、工業界で使われていた業界用語だと思ったものの、そうではなかった・・・、という顛末を訂正とお詫びという形で書かれています。
私のように、毎週blogで怪しげなことを書いている人間からすると、もっと真面目に言葉と向き合わなければならないと戒められている気がします。特にこのところ、『タルコフスキーとキーファー』、『ビル・エヴァンスとサイ・トゥオンブリー』と分野の違う芸術家たちを、あたかも関連があるかのように文章で綴っています。私の文章を読んだ友人からは「思わぬものが思わぬものに飛んでつながって行く様はゴダールのようで・・・」と書かれてしまいました。もちろん、フランスの映画監督でヌーベルヴァーグの旗手、ジャン=リュック・ゴダール (Jean-Luc Godard, 1930 - )のことですが、分不相応な比喩だと思いつつも、ゴダールほど支離滅裂ではないつもりです・・・。
とは言うものの、今回も日本の宮下さんと、スイスのパウル・クレー(Paul Klee, 1879 - 1940)からはじまって、アメリカのジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)、前回の映画の件で言及したドイツのゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter, 1932 - )らを比較、あるいは参考の対象として書いています。決して無茶なことを書いたつもりはないので、その成果を楽しみに読んでみてください。
そして今回のキーワードは絵画の「時間性」です。
宮下さんが今回、打ち出した概念「面位」も絵画の「時間性」の中で語ることができます。静止していて動きのない絵画と「時間性」とは、あまり馴染まないような気がしますが、その絵画の中に「時間性」を見出すことで、絵画を他の芸術分野や思想、哲学とリンクして語ることができるのです。いずれ宮下さんの作品も、そういうふうに語ってみたいものです。
それではまず、絵画における「時間性」とは何なのか、というところから始めましょう。
絵画は言うまでもなく、静止した芸術表現です。静止しているということは、時間の経過とは関わりなく、絵画がそのまま存在しているということです。ですから絵画は、「時間性」という言葉とは関わりのない表現形式のように思われます。しかし、絵画はその誕生の時から、例えばラスコーの洞窟画の動物たちが生き生きと動いているように描かれた頃から、画面の中に動きを、つまり時間を宿していたのです。たまたま、洞窟画には星の動きも表現されていた、というサイトを見つけてしまいましたが、それはまた別な話としておきましょう。まるで動いているように見える野牛は、絵画がその表現の中に「時間性」を宿している証拠なのです。
https://www.businessinsider.jp/post-181981
さらに一枚の絵の中に、物語のような時間を表現するということも、洋の東西を問わず、絵画の中で実現されてきました。例えば飛鳥時代の『玉虫厨子(法隆寺)』では、飢えた虎の親子に我が身を捧げたお釈迦様の姿が、投身する前、投身して落ちているところ、虎に食べられているところ、と一枚の絵の中に異なった時間の情景として描かれています。
https://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/05112bae3df3934e885124859bd2c69d
西欧の絵画でも、物語性を感じさせる絵画は同様の「時間性」を有していると言えるのです。レオナルド=ダ=ヴィンチ(Leonardo da Vinci、1452 - 1519)の『最後の晩餐』を見てください。これはキリストが「私を裏切る者がいる」と告げた瞬間を描いたものだと言われていますが、使徒の様子はさまざまで、驚いている人、何かひそひそと囁いている人、など明らかに時間的な経過が含まれているのです。それなのに、私たちは何の違和感もなく、この作品を一枚の絵として鑑賞しています。もしもレオナルドがフォトリアリズムのような静止した情景を描いていたら、今ほど評価されなかったかもしれません。
https://media.thisisgallery.com/20213820
こういう絵画における「時間性」は、現代の抽象絵画には関係ないのか、と言えばそうではありません。抽象絵画の生みの親とも言われるワシリー・カンディンスキー(Vassily Kandinsky、1866 - 1944)は、さまざまな線や形によって画面上に生じる動勢について、自分の著書の中で解説しています。具象的なモチーフであれ、抽象的な形象であれ、画面構成によってそこに動勢が生じれば、そこには「時間性」が存在するのです。
ここまでが、一般的な絵画の「時間性」の話です。詳しく語りだすときりがありませんが、今回の宮下さんの作品の「時間性」とは少し内容が異なるので、これくらいにしておきましょう。
ここまで語った絵画の動勢による「時間性」とは異なり、絵画を描く画家の行為をそのまま画面上に反映したような「時間性」があります。カンディンスキーの同僚だったパウル・クレー(Paul Klee, 1879 - 1940)の作品に、例えば次のようなものがあります。
https://www.artizon.museum/collection/category/detail/292
この絵の中のたどたどしい線を眺めるとき、私たちはその線を描いた画家の行為を思い起こし、無意識にその線を目でなぞってしまいます。線の周囲には鈍い色の点による緩やかな変化があって、線をなぞる視線を遮るでもなく、急がせるでもなく、何となく散歩する野原の風景の彩りが変わっていくような、そんな雰囲気があります。つまりこの一見しまりのない絵は、絵の内部に入って緩やかに視線を動かすことによって魅力を発揮する作品なのです。
この画家の「行為」という、絵画の新たな方向性をより明確な形にしたのが、アメリカのジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)でした。ポロックの絵を描く様子を動画で見てください。
https://youtu.be/GMgz-p0jjBI
ポロックの表現をアメリカの評論家のハロルド・ローゼンバーグ(Harold Rosenberg、1906 - 1978)は、アクション・ペインティングと呼びました。行為そのものが絵画である、という意味でしょう。
しかし、ポロックのように行為すれば誰でも絵が描ける、というほど話は単純ではありません。ポロックがこのように、画面を床に置いてさまざまな方向から制作することによって達成した画面の内容は、ポロックならではのものです。それを「オール・オーヴァー」な絵画、つまり中心がなく、画面全体にわたって均質な強さがある絵画として絶賛したのが、評論家のクレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)でした。ポロックはこのような絵画を達成した1940年代の末から1950年代のはじめにかけて、前人未到の絵画へと一気に上り詰めたのです。
しかし、それと同時に彼は大変な困難を背負うことになりました。従来の絵画のような明確な構成がなく、それでいて充実した絵画を即興的に制作するということは、彼のような天才であっても、かなりの重圧があったと思います。彼は44歳の時に、自動車事故で亡くなったのですが、それはアルコールによる破滅だったとも言えるのです。
宮下さんの絵からだいぶ離れてしまったように思われるかもしれませんが、ここからが大事なところです。宮下さんの作品までもうすぐですので、いまひとつ辛抱してください。
ポロックの抱えた即興絵画の困難とは、どのようなものだったのでしょうか。
そこにはさまざまな要素があるので簡単には言えませんが、私はその中でも彼がアクション・ペインティングによって獲得した新たな絵画の「時間性」が大きな問題であったと思います。ポロックのように、行為が露わな作品を描くときに最も困難なのは、その行為の痕跡をいかに絵画表現として昇華させるのか、ということです。それが出来なければ、その絵画はただの落書きの跡になってしまうからです。
例えば、はじめにグレーで線を描き、その上から藍色で絵の具を叩きつけ、さらに紫色の線で仕上げる、という描き方をしたとします。そうすると結果的に、紫、藍色、グレーという画家の行為とは逆の順に、最後に置いた色から鑑賞者の目の中に飛び込んでくることになります。それは当たり前の話ですが、もしもそれだけで終わってしまえば、鑑賞者は画家の筆の痕跡を目で追っていただけのことになってしまいます。しかし、もしもはじめに描いたグレーが、最後の紫色と対等の強さを主張し始めたとしたらどうでしょうか。そのときに、その絵は絵画特有の「時間性」を持ったものとして、私たちの前に立ち現れるのです。現実に行った画家の行為をひっくり返すような表現を獲得したときに、その行為は表現として昇華され、その画面は絵画特有の「時間性」を獲得したと言えるのです。
こういうふうに言葉で言うことは容易いのですが、実際にそのような作品を作り続けることは大変なことです。ポロックの作品も、本当に素晴らしかったのは先ほどの数年間の間に制作したものだけで、その緊張感が途切れてしまった後のポロックの作品は、大仰な行為が目立ったり、旧套的な構成に見えたりするものが多くなりました。少し絵が描けるようになるとわかることですが、大袈裟でドラマチックな表現も、見た目に心地よい構成も、描き方のパターンを覚えてしまえば、さほどの苦労もなく描けるようになるものです。とくに現在の美術の状況のように、描画の技術を問わずに感覚的に絵を見るような雰囲気の中では、専門的な美術雑誌といえども、そんなふうに人目を引く、わかりやすい作品ばかりが並んでいてうんざりします。
そのポロックが命がけで格闘した絵画特有の「時間性」を、何とか誰でもできるような方法として表象するやり方はないものでしょうか。例えば描く「行為」の時間を、システマティックに一元化する事ができれば、常に画面に均質な強さを与えられるようになるはずです。その方法を見出したのが、ドイツの巨匠、ゲルハルト・リヒターです。リヒターの抽象絵画は、あらかじめさまざまな色の層による下絵を画面に施しておいて、その上から一気に大きな板で絵の具をこする、という方法で制作されています。
https://youtu.be/mCE2BWIq1aY
この方法によって、画面上の画家のさまざまな行為を、最後の行為の時間へと収斂することができたのです。それがリヒターの抽象絵画に特有の、画面上のどこも均質な強さを持つという特徴を与えることになったのです。
リヒターは過去の作品を新しい方法論によって乗り越える、というモダニズムの考え方を徹底した画家だと言えるでしょう。だから極端なことをいえば、その作品の中にはリヒターという作家は存在せず、その方法論だけが見えてくる、とも言えるのです。その良し悪しについては色々と意見があると思いますし、私の感想は前回のblogにも書きましたので、ここでは触れません。
ここまでが絵画の「時間性」について、とくに現代絵画における「時間性」に関する復習でした。このことを踏まえて宮下さんの作品を見てみましょう。宮下さんは、今回の作品シリーズに対して「面位」という概念を提案していることは、冒頭に書きました。その言葉の説明として、次のように書いています。
「面に対して垂直に位置を測ろうとする知覚、視野の中で視点を切り替えつつ統合を図ろうとする見る者の指向性、そのような場で揺らぐ透層の不安定な位相。」
この「面に対して垂直に」というのは、私たちが通常、壁にかかった絵を見るときに、画面に対して正面から、つまり垂直の方向から見ている、ということを言っています。あたりまえのことを言っているようですが、画面と私たちとの間には距離があって、私たちの放った視線が画面のどこかでぶつかる、という感覚が大事なのです。旧套的な遠近法の画面では、私たちの視線は画面上の奥行きの中へと吸い込まれてしまいます。しかし、絵画の平面性を意識した現代絵画においては、その視線が画面上でカチンとあたる場所、あたる位置があるのです。現代絵画においては、私たちはその接触した位置を推し測ろうとするのだ、と宮下さんは言っています。
例えばそれが、ポロックの絵の場合だったらどうなるのでしょう。ポロックの絵に特有の、幾重にも重ねられた絵の具のいずれかの層に視線があたると、私たちははそこに画面上の位置を感じとります。宮下さんは、その視線が感じとる位置の重要性に気づいたのです。そしてそれを「面位」という概念で言い表したのです。
実は宮下さんは、これまでにもそういう絵の具の層を意識するような作品を作り続けてきました。
例えば以前に、宮下さんは「ヴェイル(vail)」という概念を作品のタイトルとしたことがありました。この「ヴェイル」の意味は、画面上に幾重ものヴェイル(層)が重なって作品が形成されている、ということを指しています。その「ヴェイル」と今回の「面位」とは、どこが違うのでしょうか。「ヴェイル」とは、画面上に重ねられた絵の具の層を指した言葉であり、宮下さんは実際にヴェイル状の透明な絵の具の層を用いて作品を制作されていました。しかし、今回の「面位」は物理的な絵の具の層が問題なのではなくて、絵を見るときの垂直な視線が、画面とあたるときの位置が問題とされているのです。だから「面位」という概念にとっては、それが物理的な絵の具の層でなくても良いのです。例えば剥き出しのキャンバスの層が画面上から垣間見えたのなら、それも「面位」と呼べるものです。むしろ生なキャンバスを画面の基層として認識することで、「面位」という概念がより明確な形を取ることにもなるでしょう。そして、その上に線を描くにしろ、絵の具を塗るにしろ、宮下さんはつねに自分の行為が画面上のどの層を形成しているのか、つまりどの「面位」にあたるのかを絶えず意識しながら描くことになります。「面位」という概念を打ち出すということは、宮下さんが「面」の位置を認識しながら絵を描いている、という宣言でもあるのです。
また、宮下さんの直前のシリーズである「sign on sign」と「面位」とは、どのような違いがあるのでしょうか。このことについて、宮下さんは明確に書いています。「『sign on sign』は方法であり、『面位』はより具体性を帯びたと思っている」と書いていますから、「sign on sign」は絵画の層を積み重ねる方法であり、「面位」はそこから生じる画面の位置を指した言葉だと言えるでしょう。つまり宮下さんはこれまで以上に、いま制作している「面」がある「位相」を考えながら、絵の具を重ねているということなのです。
もう少し具体的に、今回の宮下さんの作品にどのような特徴があるのか見てみましょう。
まずまっさきに目につくのが、何も描かれていないキャンバスの地の部分です。これまでの宮下さんは、丹念に絵具の層を重ねてきたので、最後に線描を施すときには何層かの色彩が重ねられた下地がありました。しかし今回の作品では、キャンバスの地が見える状態で絵が仕上げられているのです。その地の部分がいままでの作品にはないような確固たる基層になっていて、「面位」の最初の「面」の層として、作品を力強く支えているのです。
それから今回の作品においては、線描の上からさらに面的な色彩が塗られています。案内状に画像が使われた作品でいうと、明るい青緑色がその最後の絵具の層にあたります。それは最後の絵具の層でありながら、微妙に下の絵具が透けて見え、さらに土手のように盛り上がった線描の絵具の層が青緑色を遮って下から顔をだしているのです。先ほども書いたように、宮下さんの作品はシステマティックに考えられた制作過程をふんでいますが、そこには手仕事によって生じる多様性の余地が残されていて、それが絵画特有の豊かな「時間性」を育んでいるのです。
さて、ここまでの内容を踏まえた上で、絵画における「時間性」の概念から、ポロックとリヒターと宮下さんの作品の成り立ちを比較してみましょう。
ポロックは彼の独自の描画方法である「ドリッピング」を施しながら、画面上を行き来します。彼にとってはその行為の蓄積が重要であり、その多寡によって画面の密度に微妙な強弱をつけることができたのです。その繰り返しによって、最終的には「オールオーヴァー」な画面へと至るのです。さきほども説明したとおり、ポロックは前の絵の具の層と後の絵の具の層を入れ替えて見せたり、混沌として見せたりすることで、彼独自の「時間性」を形成します。その奇跡的な即興絵画を制作するために、ポロックは神経をすり減らし、破滅へと至ったのです。
リヒターは、ポロックが苦労した絵画の「時間性」を、方法論として表象できないかと考えました。絵の具の表面を板でこすることで、描画行為の時間をフラットで共時的なものに変えてしまいました。しかし、この共時的なシステムは、ポロックの混沌としたダイナミズムとは似て非なるものです。そのことを批判したのが評論家の藤枝晃雄であったこと、そして繰り返しになりますが、そのことに関する私の考えは前回のblogで書きましたので参照してください。
宮下さんの「面位」という作品が、彼らと異なっているのは、宮下さんが描画行為の各層を、「面位」として認識している点です。自分が今、どのような「位相」で行為しているのか、それを宮下さんは把握しようとしているのです。宮下さんの作品は、描画のシステムを規定しながら、その中で繰り返しさまざまなことを試みています。先ほども書いた通り、宮下さんは色の使い方や筆触(タッチ)などに独自の工夫をしていますが、それに加えてマチエールやメディウムの使い分けにも気を配っています。そのことよって宮下さんの描画行為は、今描いている「面位」がその前に描いた「面位」に近づいたり、あるいは次の「面位」へと侵食するような仕掛けを施したりしているのです。私のような行きあたりばったりで絵を描いている人間からすると、宮下さんの制作行為の周到さは、科学的な研究者の方法に近いように見えます。それはポロックが感覚的な持続として行おうとしたことを、あらためてしっかりとした概念に置き換えて、繰り返し探究しているようにも見えます。あるいはリヒターがオートマチックな方法論で解消しようとした現代絵画の「時間性」の問題を、宮下さんは独自の描画システムの中で、画面に手仕事の余地を残しながら取り組んでいるのです。これはモダニズムの絵画が忘れがちな、人間の身体的な側面を意識した試みでもあるのです。私の仕事に引き寄せて言わせてもらえれば、現代美術が知性や視覚情報にたよりがちな傾向がある中で、宮下さんは触覚性の重要さを自分なりの方法で再認識して制作しているのです。だからこそ、宮下さんの作品の本物の手触りの感触を、多くの人に見てほしいと思うのです。
ここまでのことを整理してみましょう。
ポロックがその爆発的な才能によって作り出した、混沌とした行為性による絵画の「時間性」を、宮下さんは「面位」として整理して、独自の方法で表現しようとしています。そしてリヒターが一元的な行為として束ねてしまった絵画の「時間性」を、宮下さんはそれぞれの制作過程が持つ豊かな「時間性」へと再構築しようとしているのです。それを彼は「面位」という概念で言い表しました。
さて、ここでは三人の作家の作品を比較しましたが、そのなかの誰の作品が優れて見えるのか、とか、美術的な価値があるのか、ということは、後で誰かが判断することなので、私にはさほどの興味もありません。それよりも、いまを生きている私たちにとって大切なことは、ポロックやリヒターの試みのあとで、私たちが何をやるべきなのか、何を見るべきなのか、ということに対して真摯に向き合っている画家がいる、ということです。
誤解のないように書いておきますが、宮下さんがポロックやリヒターをとくに意識しているということはありません。それはここで私が勝手に引き合いに出しているだけです。しかし宮下さんが、これまでの現代絵画の成果について丹念に研究し、敬意をはらっていることは確かだと思います。そしてさらに自分自身にとって、しっくりとくる新たな方法を模索し、その過程で「面位」という概念を見出したのです。
宮下さんは私と同時代人というよりは、尊敬できる先輩作家の一人ですが、それでも同じ人生の時間の中で活動している人が、こういう前人未到の試みに挑んでいるということ、そしてその瞬間にいま、私たちが立ち会っているということが、何よりも尊いことだと私は思っています。
すでに高い評価が定まっていて、活動が終わってしまっている作家の作品ならば、機会があればいつでも見ることができます。いまここで、あなたがそれを見なくても、大したことではないでしょう。しかし、この瞬間に生まれつつある芸術作品と向き合い、まだ誰も正確には評価し得ない作品に対して未知の評価を与え、あらたな刺激を作家に与えることができるのは、あなたしかいないのかもしれません。
この文章をアップしている時点で、まだ残りの会期がありますので、実際にご覧になることをおすすめします。「面位」という概念によって、これまでよりもシンプルに作品のねらいを表現している宮下さんの作品と、ぜひ出会ってみてください。
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