今回は、佐々木 健一(ささき けんいち、1943 - )さんという美学者が書いた本から学びましょう。『日本的感性―触覚とずらしの構造』という中公新書として出版されている本です。新書ではありますが、内容はずしりと重たいです。簡単には要約できないので、ここは書店の紹介文を引用しておきます。
花の好みに現れるように、日本人には西洋人とは違う感じ方がある。「おもかげ」「なごり」「なつかしさ」など、日本人にとってそのものに「詩」を感じる言葉がある。〈世界〉が〈われ〉のなかでどのように響き合うか。それこそが感性であるならば、その多くは文化的な環境のなかで育まれ、個々の文化に固有の感性が生まれるだろう。本書は日本的感性を和歌を素材として考察し、その特性である「ずらし」と「触覚性」を明らかにする。
(中央公論社ホームページより)
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2010/09/102072.html
佐々木健一さんは、先ほどご紹介したように、著名な美学者です。
美学といえば、私のような素人からすると、西欧の美術を中心とした美の概念の研究を予想してしまいますが、この本は和歌を素材として書かれたものです。ですから、狭義の美学書として読もうとすると、少し肩透かしを喰らうかもしれません。しかしその一方で、和歌の文学的な研究書だと思って読むと、こちらも少し違和感を感じることでしょう。
それでは、この本はどういう興味を持って読めばよいのでしょうか?
この本は、和歌によって表現されている美的な世界について書かれたものです。佐々木さんによれば、この本で取り上げられている美的世界観は日本特有のもので、その固有性を探究する上では、美術品を見るよりも言葉を介した和歌の方が顕著でわかりやすいのだそうです。さらに、和歌だからこそ可能な表現もあるようです。
しかし、その和歌に関する私の理解力は、あまりにも心許ないものです。ですから、あまり細かいことは気にせずに、大づかみに佐々木さんが提示する独特の美意識を読み取ることにしましょう。研究素材に関する詳細には通じていなくても、佐々木さんが探究している美的世界観には興味があります。だから、そのエッセンスだけでも懸命に読み取ろうとするわけです。それが、私なりに考えたこの研究書の読み方です。
また、佐々木さんの提示する「日本的感性」の中には、私が探究している「触角性」と相通じるものが含まれているようです。あるいはサブタイトルにもなっている「ずらし」という言葉も、このところ気になってるものです。それら点について、少し注意深く読み取ることで私なりの学習を試みてみることにします。
ということなので、私のこの本の読み方は、かなり偏った読み方になります。そして私にとっては、ここに書かれていることが「日本的」であるのかどうか、つまりそれが「日本的感性」であるのかどうか、ということはどうでもよいことなのです。私は、日本という国や地域に拘泥されたくないし、たとえその美意識がローカルなものとして見出されたとしても、いずれはそれを乗り越えていかなければならない、と考えているのです。それについて後で触れることにしますが、佐々木さんの真意も同じところにあるようです。
それでは、本の内容に入りましょう。
佐々木さんが「日本的感性」について考えるようになったきっかけは、ごく日常的な花の観賞体験によるものだったそうです。この本は全体としては難しい本ですが、このきっかけのところはとても身近でわかりやすいので、その部分を読んでみましょう。
かつて三年間、毎年ひと月ほど、集中講義のため、マストリヒト(オランダ)の美術大学に滞在したことがある。先方の学年暦と、日本の大学教師の日程表が、最もよく折り合えるのは、二月末から三月だった。最初の年、今年は花見はできないな、と思いつつ出かけた。
小さな大学だが、その構内には一本のかなりな大木があり、木肌は桜に似ていた。そう思って見ているうちに、蕾が色づき、ほころんで、やがて日本の時期よりは早く、満開の桜となった。同行の妻もわたしも、これに見とれて幸せだった。ところが、大学のスタッフも学生たちも、満開の桜に対して無関心のようであった。この中庭に面して図書館があり、そこは全面ガラスで陽光がいっぱいに差し込むようになっていた。驚いたのは、そこで働いている司書の女性が、それを桜と知らないのはもとより、いま満開に咲き誇っている、という事実にさえ気づいていなかったことである。花壇に植えられたバラやチューリップならば、無関心ではいないはずである。関心があればこそ、そこかしこに花壇をつくり、これらの花を植える。
<中略>
この違いに注目するならば、バラと桜の対立は、実は見かけ以上に根の深い問題で、身体感覚や感性の違いに及ぶことが見えてくる。西洋の近代思想は、認識する「我」を中心におき(主観)、この我が対象(客観)を捉える、という主題ー客観の軸に添って構成された。この機軸の意味は、主観が対象を支配することであって、その逆ではない。「我」が対象を受容するのではない。「我」がその対象を対象として成り立たせている、という考えである(この思想を確立し、近代的世界観の根幹を打ち立てたのが、カントの認識論である)。
<中略>
本書の主題は美ではなく感性だが、焦点を変えつつ、同じうたを糸口として、議論を始めよう。それはよく知られた与謝野晶子(1878〜1942)の次のうたである。もちろん、ここでの注目点は、対象として立ち現れる花に対する、われを包むような花のあり方であり、それに応ずる感性である。対象に向かう意識が視覚的であり、知性に傾斜するのに対し、花に包まれるとき、意識は拡散し、その美は触角的に、全身で感じ取られる。
清水(きよみず)へ祇園(ぎおん)をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき(『みだれ髪』)
初出は1901年5月で、この年の花の季節に詠まれたものと見られる。ここには幸福感がにじんでいる。ときに明子は22歳。前年に初めて逢った鉄幹(てっかん)に、この年の二月、粟田山(あわたやま/京都の東山)で再会し、「二夜妻」として結ばれた。その鉄幹を追って6月に上京し、8月には『みだれ髪』を出版、10月に結婚している。幸福感の謂れは明らかだ。
(『日本的感性』「1 語彙 A われ 1 花に囲まれる」佐々木健一)
この後の部分で、佐々木さんは丁寧にこの歌の解釈を書いているので、和歌に興味のある方、あるいは和歌について詳しく知りたい方は、是非とも原著にあたってください。ここで私たちは、この後の文章の解説よりも、もっとコンパクトに歌の意味や内容をまとめてあるこの本の「結び」の章に目を転じて読んでみることにしましょう。
日本的感性という巨大な対象に斬り込む最初の一撃は、明証的な経験を以ってするほかはない。わたしが注目したのは、花の観賞体験における、西洋と日本の違いである。西洋人の好むバラやチューリップ、あるいは花瓶に挿した花束のようなものは、明瞭に見つめるべき対象という性格をもち、それゆえ静物画の画題となる。それに対して、われわれの好む桜は、花のトンネルに顕著に見られるように、対象ではなく、われわれを包み込む広がりにおいて感じ取られる。次の二首を参照しよう(なお、分析の際に取り上げたうたを以下に再引用する場合には、歌人の名と、そのうたが詠まれたと思われる世紀を記し、詠み人知らずのうたの場合には、歌集の名を記す)。
清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき(与謝野晶子、19世紀)
花の色にあまぎる霞たちまよひ空さへにほふ山桜哉(藤原長家、11世紀)
花のトンネルどころではない。晶子のうたは、桜の花が、それを直接見ていない人びとにもその美を放射し、人びとを美しくし、幸福にしていることをうたっている。その広がって包み込む美の空間が、長い伝統をもっていることは、長家のうたに見てとれる。「あまぎる(天霧る)」という美しい動詞がその美的空間を表現している。その空間はわたしを包む大気的なものであり、のちに触れるように、「けしき=気色」の日本的概念の原型と見ることができる。
(『日本的感性』「結び 日本的感性の構造」佐々木健一)
これらの話を要約すると、日本人が好む桜の観賞は、群生する花に包み込まれるような身体的な感性による観賞なのですが、西洋人の好むバラやチューリップの観賞は、花を明瞭な対象として向き合う思想的な認識による観賞だというのです。その西洋人の観賞からは、近代的な世界観のもととなるカントの認識論が生まれる素地がある、と佐々木さんは言っています。しかし、日本人の花の観賞では「意識は拡散し、その美は触角的に、全身で感じ取られる」ものであり、その美意識が与謝野晶子のような和歌を生んだのだ、というのです。
つまり、花の観賞の仕方の中に、対象物と距離をとって向き合う西洋の思想的な観賞と、花の中に囲まれて全身で花を感じ取る日本の感性的な観賞との対比が見られるわけです。このような対比が、なぜ一冊の本を紡ぐほど重要なのかと言えば、それには次のような理由があります。
いま世界は激動のなかにいます。地球温暖化、旧共産圏の崩壊、文明の対立、国際金融市場の引き起こした問題など、近代を支配してきた西洋文明が大きな転換点に来ていることを示しています。もしも、これまでわたくしが国際的な場で自らの学問を考えることをしてこなかったなら、この文明の危機的な状況に対しても、さほどの関心をもたなかったことでしょう。日本の哲学諸分野の活動は、主として西洋の古典的テクストの研究に殆どの活力を割いています。もちろん古典の研究は重要で、これなしにはいかなる思索も砂上の楼閣となりましょう。しかし、現実の世界についての思索を欠いた研究は、創造的な活力が希薄になりがちです。
<中略>
わたくしの求めていたのは、日本的な目次によって美学そのものを更新することです。ローカルな特殊性のなかに閉じこもることではなく、あわよくば世界の美学への寄与となるような新しい美学を、日本的な美学のなかに求めたい、と思っていました。そこで、これらの日本的な美的概念を更に掘り下げ、その根底にあるモチーフを取り出したい、と考えました。そのためには、感じ方のレベルで顕著な特徴を探すことが第一歩です。それはいまだ理論化されておらず、従って、自由な目次構成に資する、という高度の可能性を持っています。
(『日本的感性』「まえがき」佐々木健一)
この本が出版されたのは2010年のことです。もう10年以上前のことになりますが、「近代を支配してきた西洋文明が大きな転換点に来ている」という認識は、ますます強くなっているように思います。現在の世界では、「地球温暖化」の危機は喫緊の問題だと言わなければならないほど高まっていますし、「文明の対立」は10年前なら信じられないような戦闘を各地で引き起こしています。そう考えると、佐々木さんは現在の危機を先んじて意識していたのだとも言えるのです。
その佐々木さんが試みたことは、「日本的な目次によって美学そのものを更新する」という研究なのです。私のような素人が、学問の現状を知らずに大きなことを夢想するのとは違って、佐々木さんのような高名な学者がこのように言うからには、それ相応の確信と覚悟があってのことでしょう。
そして「ローカルな特殊性のなかに閉じこもることではなく」とか、「日本的な美的概念を更に掘り下げ、その根底にあるモチーフを取り出したい」という言葉を読むと、先ほども書いた私の問題意識と通じるものを感じます。そしてさらに私は、前回のblogで取り上げた音楽家の久石譲さんの言葉を思い出すのです。
やっぱり宮崎さんの作った世界はすごいよね。っていうか、世界中が同じように・・・、日本人が狂喜して喜ぶのと同じように世界中が喜んでいるから・・、本当にドメスティックでいいから、真剣に掘り下げたものが、かえってインターナショナルなんだ。そのあかしだな、と思いました。
(「久石譲 いま世界で奏でる音楽」久石譲のインタビューより)
学問にしろ、芸術にしろ、何かについて深く考え、そしてなおかつ、世界の現状に背を向けずに生きている人たちは、だいたい同じ結論に至るのではないか、と思えてなりません。彼らがローカルな、あるいはドメスティックな場所で「根底にあるモチーフ」を掘り下げて、そしてその成果を世に問うた時には、「日本的な美的概念」や「美的感性」といったものが、本当の意味での「インターナショナル」なものになるのだ、と私は思います。
ですから、私たちは佐々木さんの『日本的な感性』を読むときに、これを私たちの暮らしている地域固有の、ローカルな感性を慈しむための探究だとは考えずに、国境のない世界へと開いていくための探究なのだと思わなくてはなりません。そうでなければ「日本的」などという言葉は閉塞感しか生まない、とても陳腐なものになってしまうでしょう。
さて、それではこのように日本の和歌に固有な表現だと思われたものが、実は人間にとって根底的なものであり、それがローカルな表現を超えてインターナショナルなものへと繋がっていく、という事例を一つ見ておきましょう。それは、私が課題としている芸術表現における「触角性」の問題とも繋がるものなのです。
その表現というのは、意外なことに「香り」に関する表現です。日本の和歌には「香り」を表す表現がしばしば見られるようです。代表的なものに「梅の香り」という言葉があります。「梅の香り」は春の訪れを予感させるものとして、私たちにも親しいものです。その「香り」を感受する「嗅覚」が、「触角性」と繋がっているというのが、佐々木さんの考えなのです。しかし、それはどのようにしてそうなるのでしょうか?
次の文章をお読みください。
香りはなつかしさと本性的なつながりをもっていた。なぜなのか。その理由は比較的単純である。嗅覚が接触感覚である、ということにある。気体となった匂いの微粒子が、鼻腔の粘膜に接触することによって、われわれは匂いの感覚を得る。香りそのものはすぐに消え去るはかないものだが、感覚のメカニズムにおいて、身体化され、記憶としていかほどか留まる。
はかないもののこの逗留は、更に慣習として文化的に構築され、精妙な経験を形成する。香を焚きしめることは、文化的な洗練の重要なしるしのように思われる。それは消え去りがちな香りを留めておくことである。留めおかれた香りは、ひとの記憶と結びつき、ときの目印ともなる。香道という不思議なあそび(あるいは藝術)がある。平安時代の薫物(たきもの)合せを原型として室町期に発展したもので、いくつかの香木を取り合わせて焚き、臭いからその組み合わせを言い当てる遊びである。このような匂いの遊びをもつ文化は、おそらく他になく、嗅覚は日本的感性の特徴的な場面と見られる。
春の夜のやみはあやなし梅花色こそみえねかやはかくるゝ (凡河内躬恒、『古今集』四一番)
このうたには、「はるの夜むめの花をよめる」という詞書がついている。《春の夜は、(月明かりで)もののかたちが渾然としていて、梅の花も見分けられないのだが、香りは間違いようがない》という趣旨だ。
<中略>
敢えて言うならば、この歌意は「視覚の幻惑、嗅覚の確かさ」ということになろうが、このような考えは西洋思想では絶対に見られない。
(『日本的感性』「1 語彙 A われ 2 美の残像」佐々木健一)
これは面白い話ですね。日本古来の感性から考えると、目に見えるもの、つまり視覚は幻惑されるけれども、香るもの、つまり嗅覚は視覚よりも確かだと言うのです。そして、その確かさの理由として、佐々木さんは「嗅覚」は「接触感覚」であるからだ、つまり「嗅覚」はある種の「触覚性」だと言っているのです。
近代文明においては、どうしても目に見えるものが確かなものだと考えがちです。いつの間にか、私たちは対象と距離をおいて認識するということに慣れてしまっているのです。しかし日本古来の感性はそうではなかった・・・、目に見えるものよりも直接接触できるものの方が確かなものだと考えたのです。この考え方は、私が常日頃から提唱しているものですが、そうか、嗅覚もそうだったのか、というのは新たな発見です。
考えてみると、私たちは春の到来をどのようにして認識しているのでしょうか?テレビのニュース報道で桜前線がどうとか、どこそこの地方で梅の花が咲きました、とか、そんな人伝の情報とか、映像に左右されてはいないでしょうか?そんなことよりも、外に出て梅の木のあるところを歩いて、その香りを嗅ぎながら、もうすぐ桜も咲くのかな・・・、というふうに全身で季節を感じることのほうが、私たちが生きている実感に近いのではないでしょうか。
さて、さらに佐々木さんの本のサブタイトルにもなっている「ずらし」という言葉について学習してみましょう。私は今回の個展のパンフレットで、ジャズのリズムの「ポリフォニー」や、日本の和歌の「掛詞」によって、二つの異なる意識を一つの作品の中で表現することによって生じる驚き、緊張感について取り上げました。佐々木さんがこの本の中で提唱している「ずらし」も、それに近いものだと思います。佐々木さんは、この「ずらし」の表現を「文化的に形成された感性の極致」というふうに、高度な表現として位置付けています。
われわれは既に、ずらしの想像力の実態を見ている。心中に焼きついた残像があり、しかも、そのこころが実体というような固定したものではなく、変化し動いてゆくものなので、その心中の像や思いが、反省的に見つめられ、更に進んで、別の対象に、あるいは別の時間位相に投影される。この想像力のはたらきは、単なる感じ方の境位を超えて、世界の見方、あるいは見え方に関する解釈学的な機能をおび、翻ってその通常の感じ方への批判の意識を示し、藝術的な造形の原理へと展開する。文化的に形成された感性の極致であり、大なり小なり能動的である。能動的でありながら感性であるのは、能動性の回路が文化的に形成され、定着して、言わば自然な、言い換えれば内発的なはたらきになっているからである。こころに回路が出来あがると(定着すると)、そこが霊感の通り道となる。これは、定家に見る技巧的な詠み方においても、変わらない。回路を共有しない余人には分からなくとも、かれ自身のなかでは、そのシュルレアリスティックな詠み方は、操作というよりも感じの問題なのである。日本の詩学(広い意味でのそれ、すなわち創造論)が理論的でないと見られがちなのは、このためである。
まず、解釈学的というのは、わたしの知識や思い、感情のあり方が、対象の見え方を規定することである。西行の「かれのの薄有明の月」に見た日本的感性の基本構造、すなわち世界がこころを染めるというあり方の、裏返しである。
けふあけて昨日ににぬは見る人の心に春のたちぬべらなる (紀貫之、九~一○世紀)
同一の情景が、こころのありよう、知識のあるなしで、全く変わって見えてくる。意識が世界に投影された結果である。重要なのは、その事実そのものよりも、その事実を知覚し、このようにうたにしていることである。そこに一つの認識が成立する。
(『日本的感性』「結び 日本的感性の構造」佐々木健一)
日本の和歌の特徴として、あるいは日本語の特徴として、主語や目的語が曖昧であること、時制が自由に行き来すること、などがあります。その分だけ自由に読み取れる、ということもありますし、読み手にそれなりの能力が要求される、ということもあると思います。
だから「回路を共有しない余人には分からなくとも」と佐々木さんが書いているのは、そういう事情によります。そのようにわかりにくいがゆえに、「日本の詩学(広い意味でのそれ、すなわち創造論)が理論的でないと見られがち」になってしまうのです。しかし、古い和歌の中には、のちのシュルレアリスムが理論化し、表現した手法がすでに「操作というよりも感じの問題」として、つまり理論化する必要のないほどのなじんだものとして表現されているのです。この「結び」の部分の要約では物足りない方は、ぜひとも原著の豊富な和歌の解釈を読んでみてください。
それにしても、この紀貫之さんの和歌などは、偉大な哲学者の呟きのようにも読めますね。人の心に対する深い洞察から、その意識の「ずらし」の本質をずばりと言い当てているのです。和歌として美しいかどうか、などということを超越しているようにも感じます。そして佐々木さんの「重要なのは、その事実そのものよりも、その事実を知覚し、このようにうたにしていることである」という言葉に共感します。事実を知るだけではなく、それを表現することに芸術の意味があり、それを読んだり、見たりした人の中で「一つの認識が成立する」という事件を引き起こすのです。それこそが芸術の役割ではないでしょうか?
さて、このような佐々木健一さんがそれまでの「美学」へと投げかけた新たな認識について、私はもう少し勉強してみることにします。
佐々木さんの研究のユニークなところは、西洋=認識的、日本=感性的、というような特徴を指摘するだけではなく、その「日本的感性」を構造的に読み解こうとしているところです。そのことによって、見過ごされてきた「日本的感性」が現代の世界で果たしうる重要性を認識し、やがて「感性」という言葉で片付けられてきたものも見直されることにもつながるのだと思います。
私はモダニズム思想が世界を還元しようとするあまり、絵画や芸術を、あるいは人間の生き方を貧しくし、私たちを袋小路に追い詰めようとしているのだと、日頃から感じ、そのことに警告を発してきました。いま、心ある研究者、芸術家、活動家などの人たちは、その共通する世界の危機に対して、違う立場から言葉を発しているのではないでしょうか?佐々木さんの研究にも、同様の思いを感じます。そのおおもとのところに、日本古来の和歌という表現がある、というのは、なかなか素敵な話ではないでしょうか?これをローカルな話題として埋もれさせたり、あるいは無用なナショナリズムの高揚に利用するのではなく、世界へと開かれたものとすることに意義があると思います。
優れた研究者の探究の成果は、すでに新書という読みやすい形で私たちに委ねられています。それをどう読み解いて、どう活用していくのか、私たちの真価が問われていると思います。