平らな深み、緩やかな時間

368.川西紗実 個展『雪解土』から思うこと

このblogでも何度かご紹介している川西紗実さんが、2024年3月3日(日)まで、東京・神宮前の「トキ・アートスペース」で『雪解土』というタイトルの個展を開催しています。DMに使われた作品写真や会期の詳細などは次のリンクからご覧ください。

http://tokiart.life.coocan.jp/2024/240220.html

 

まだまだ会期が続くので、多くの方に見ていただきたいのですが、上記のトキさんの公式サイトで、時間や休日などを確かめてから、お出かけいただくと良いと思います。

そして、そのページにはアーティストのコメントが書かれています。

 

<アーティスト・コメント>

土といったりきたりする

雪が解けて春に届く

 

このコメントの通り、今回は絵の上に土を混ぜた絵の具が使われていたり、雪景のような、やや色合いを抑えた作品が並んでいます。それは前回の個展のDMの写真と見比べるとよくわかります。

http://tokiart.life.coocan.jp/2023/230124.html

 

それから、ここまでに私が川西さんの作品について書いたblogを次のリンクからご覧いただけます。よかったらご参照ください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/71f91dc96b70e1b33d90d4ab5afac55c

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/0072623a50e7e2160bee2ae31ee2f99b

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/9b6fb21a04345f25b1591f4086f65915

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/89101040f756167fef8c2668d9d73f7e

 

これらのページをお読みいただくとわかりますが、私はここ数年、川西さんの作品を継続して見ています。川西さんの活発な活動のすべてをフォローするわけにはいきませんが、それでも時間がある限り、見せていただくようにしているのです。それはなぜなのかと言えば、単純な話、彼女の作品が素晴らしいからです。そしてとても興味深いのです。

しかし、自分の書いたものを見返すと、私はこの素晴らしい作品群を、どのように自分の中で消化したら良いのか、四苦八苦しているのがわかります。川西さんの自由な表現に対し、すでに老人の年齢に入っている身としては、なんとか自分の目にしてきた作品様式にあてはめようとして、必死になっているのです。そして、おそらくは私のように川西さんの作品を前にして戸惑っている人がいるのではないか、と心配になってしまいます。そういう人たちには「素晴らしい表現に対して、素直にその素晴らしさを味わいなさい」と言いたいのです。今回も、ちょっとそんな話になってしまうかもしれません。

もしもくどかったら、ごめんなさい。

 

さて、とは言うものの、今回の展覧会では、これまでで最も川西さんの実力を推し量りやすい、形式的にも見やすい展示となっています。DMの写真を見ればわかる通り、今回は矩形の絵画作品が壁面を占めています。それも、表面を削ったり、土を混ぜたりしているとはいえ、一般的な現代絵画の様式に近いものとなっているのです。

その絵画の色彩が素晴らしいです。そして周囲の空間を取り込むような、自由な筆使いも気持ちが良いです。私は彼女の色の使い方に、アメリカの画家、ヘレン・フランケンサーラー(Helen Frankenthaler, 1928 - 2011)さんの作品を思い出してしまいました。フランケンサーラーさんの作品に、タイトルに「雪」が入った『snow-pines』という絵がありました。

https://www.wikiart.org/en/helen-frankenthaler/snow-pines-2004

ヘレン・フランケンサーラーさんは1960年代からカラーフィールド・ペインティング( color-field painting)の代表的画家として活躍していた人です。その手法は、下塗りをしていないキャンバスに薄く溶いた絵の具を染み込ませるステイニングと呼ばれる手法で、その後、全世界的に多くの画家たちに影響を与えました。今回の川西さんの作品は、手法はまったく異なりますが、そのデリケートで美しい色彩感覚と自由な空間把握について、フランケンサーラーさんと共通したものを感じます。

また、彼女の今回の作品のマチエールについて言えば、フランケンサーラーさんよりも少し前の世代のアンフォルメルのイタリアの画家たち、アルベルト・ブッリ(Alberto Burri, 1915 - 1995)さんやルーチョ・フォンタナ(Lucio Fontana, 1899 - 1968)さんたちの作品を彷彿とさせます。川西さんは、ある意味では彼らの試みを継承する人だとも言えると思います。

https://www.christies.com/en/stories/alberto-burri-artist-guide-21067bf90ca047d58f23bb5b46f74d10

このように、今回の川西さんの絵画作品についていえば、これまでの彼女の作品よりも現代美術史的な継承が感じられました。そのせいか、彼女の画家としての実力も、これまでよりもよく表れていたと思います。彼女の色彩感覚は生得のものかもしれませんが、空間把握の能力は彼女が研鑽して身につけたものでしょう。

私たちは具体的なものを正確に描き写すことが絵画の描画力、あるいはデッサン力だと思いがちですが、そんな能力は絵を描く上での一部の能力に過ぎません。抽象的な画面の位置を見切る力は、なかなかわかりにくいだけに問題視されないのです。しかし、この把握力がないと、密度の足りない作品を量産してしまうことになります。今回の彼女の絵を見れば、おそらく誰にでもその作品の充実度がわかると思います。

 

その一方で、ギャラリーの中央に設置されたインスタレーション作品は、絵画作品と同時に視野に入れると、その混在の様子に戸惑う人がいるかもしれません。

なぜ、絵画だけでは十分でないのか?また、絵画の設置もインスタレーションと呼応するようでもあり、これは絵画というよりも部屋全体の作品の一部なのか?

この中央部のインスタレーションは、壁面の絵画と関連があるのか?インスタレーションとは言いながらも、ふわふわと宙を漂う透明感のある布とビニールの紐と、床にばら撒かれた微細なものたち・・・、これでは形もなく、あまりにも不安定ではないのか?

先ほども書いたように、私ぐらいの年配になると作品を整理して鑑賞したくなるので、このような問題点が気になります。しかし、よく考えてみましょう。これらは本当に問題点なのでしょうか?

このような、一見未整理に見える点を、あえて整理せずに、そのままの形で受け入れてみましょう。そうすると、インスタレーションの作品の色合い、質感が、壁面の絵画作品と呼応していることがわかります。『雪解土』という展覧会のテーマを表現しているようにも見えます。

それにしても、絵画は絵画として、画面に集中できるように展示しなくてはならない、とか、インスタレーションは空間を構築するように作らなくてはならない、とか、現代美術は自由であるとはいえ、なんと私たちは無用な不文律に縛られていることでしょうか?

そのことに対して、私は一つの事例を示しておこうと思います。

それはエヴァ・ヘス (Eva Hesse, 1936 - 1970)さんというドイツ生まれで、1960年代にニューヨークで活躍した作家の例です。次のリンクから彼女の作品を確認してください。

https://note.com/artoday/n/n50f017e06308

そのエヴァ・ヘスさんの作品に対して、アメリカのポスト・モダニズムを代表する批評家であるロザリンド・E・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1940 - )さんは次のように書いています。

 

彼女が自分の「もっとも重要な初期の申し立て」ー1966年の『吊り下げる(Hang  Up)』について語る際、自分の仕事に対するその重要性を正当化してこう述べている。「それは私の不条理ないし極端な感情の観念がにじみ出た初めての時だった。」そして不条理は、ヘスが好んで指摘していたことだが、反復によって難なく生み出す頃のできるものの一つである。「私の観念は」、と彼女はコンポジションの美学、形の美学について述べながら、1970年にこう言っている、「なにか他のものを見つけるために、こうしたことについて私が学んだり教えられたりしてきたどんなことにも逆らうということである・・・。なにかが不条理なら、それは反復されれば、よりいっそう誇張され、より不条理になる」。

実際、ヘスは不条理ーとしてー反復の専門家になっていたが、それは反復が、算術的、非人称的法則のミニマリズム的投影ー格子(グリッド)、連続(セリー)的拡張、体系的前進ーを、たわごとの、本能的に想定された遊びの幼児化された世界の分裂的主観性へと作り直すということである。多数の同心円が優雅に引かれたドローイングは、それぞれが白から薄い灰色を経て黒っぽい灰色へと段階的に変化し、それぞれが繊細に記されたグリッドの区画の内部のそれ自身の正方形の上に位置し、つねにコンセプチュアル・アートの論理の領域から逃れ、おのずから身体的なもの、強迫的なものの内部に留まろうとするが、それぞれの的めいた円の中心からそれらが長い明確な造形的紐(ストリング)の繊細な細糸(フィラメント)ーじつに多数の乳首からなる光輪を印すじつに多数の毛髪ーを投影しようとするとき、いっそうそうなのである。

(『視覚的無意識』「six再び」ロザリンド・E・クラウス著 谷川・小西訳)

 

ここで、ヘスさんの十分な作品例も見ずに、難解なクラウスさんの文章を読み解くのは容易ではありませんが、一つヒントを出しておきましょう。それは、この文章を理路整然としたモダニズムの批評と読み比べてみるということです。あまり難しく考えずに、目立つ語彙を拾ってみましょう。「不条理」、「極端な感情の観念」、「本能的に想定された遊び」、「幼児化された世界」、「分裂的主観性」、「コンセプチュアル・アートの論理の領域から逃れ」、「身体的なもの」、「強迫的なもの」などでしょうか。これだけの言葉が重ねられれば、ヘスさんの作品を何かわかりやすい論理に還元し、整然と語るのは無理だということがわかるでしょう。

このクラウスさんの文章の中で、もう少し具体的に彼女の作品や言葉について語った部分があります。そこを読んでみると、もう少し分かりやすいかもしれません。

次の文章は、いかがでしょうか?

 

『吊り上げる』は、不条理なものの王国へのヘスの芸術の参集をしるすばかりではなく、また絵画の圏域を離れることに対する彼女の拒否ないし不能性を明らかにしている。彼女は、「一つの観念に基づく」芸術という点にひとえに固執するアルバースの制約、彼の規則、彼の格言を嘲笑う。「こうした考え方でさらにどれくらいのことがなされうるのだろうか?」と彼女は自問した。彼女は言った、「規則なんかない。・・・どんな規則も私は守りたくない。私はときどき規則を変えたくなる」。しかし彼女に辞典を買わせた同じ従順さが、彼女を絵画的なものへと固着させたのである。

この点をわかりやすく示す例が必要だろうか。彼女はチーズクロスの上にゴムとグラスファイバーを乗せた新しい支持体を発明し、これから『偶然的』(1969年)を作って、壁から垂直に、ヴェールのように吊り下げたし、あるいは『拡張された拡張』(1969年)のように、壁に直接にもたせかけた。後者の、あるいは『増大』(1968年)のもたせかけられたグラスファイバーの棒の、あるいは壁レリーフ『SansⅡ』(1968年)のグラスファイバーの箱の巨大なスケールは、抽象表現主義の英雄的スケールへと、壁面的存在性(ステータス)へのその要求へと、その大騒ぎと作用域へと向かっている。ちょうど媒材(メディウム)そのものがその半透明さと相対的な軽さのために「視覚的(オプティカル)」なものへの傾向を宣言しているように。「エヴァがなしえたのは」、とメル・ボクナーはのちに言うだろう、「直接に光を用いることだった。彼女は光を彫刻の媒材にすることができた」と。しかしそれは確かにはっきりと別の方法だったのだろうか。彫刻に通常結びつけられる堅固な材料をこの燦然(さんぜん)たる輝きで満たし、この光輝を壁に結びつけることで、彼女はそれらを絵画に、三次元ではなく二次元の問題性に再び結びつけていたのである。

(『視覚的無意識』「six再び」ロザリンド・E・クラウス著 谷川・小西訳)

 

ちなみに、文中のジョセフ・アルバース(Josef Albers, 1888 - 1976)さんは、ドイツのバウハウスに学び、教鞭をとり、のちにアメリカに移住した美術家で教育者です。ブラック・マウンテン・カレッジやイエール大学などで美術教育に携わり、教え子にはヘスさん以外にもロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg, 1925 - 2008)さんやサイ・トゥオンブリ(Cy Twombly、1928 - 2011)さんなどの有名な美術家、画家がいます。そういえば、昨年アルバースさんに関する大規模な展覧会がありました。

https://kawamura-museum.dic.co.jp/art/exhibition-past/2023/albers/

それから、メル・ボクナー(ボックナーとも表記されます、Mel Bochner、〜1940) さんはアメリカのコンセプチュアル・アーティストで、その中心的な存在です。日本での展覧会の記事をリンクしておきます。

https://growing-art.mainichi.co.jp/art_20230501_2/

そしてクラウスさんの文章を読むと、クラウスさんはヘスさんがただ単に自由に表現したことを賞賛しているのではありません。クラウスさんはヘスさんを、「三次元」の立体的な作品を「二次元」の絵画の「問題性に再び結びつけ」て、その表現領域を横断的に活動した人として評価しているのです。

それは次の一節を読むとわかります。

 

ロープの作品に関して、彼女はこう言っている。「カオスは非カオスとして構造化されうる。そのことをわれわれはジャクソン・ポロックから学んでいる」。

この知識は絵画の垂直の領野の内部に投影される。それは掛けられ、宙に浮き、視覚的に展示される。とはいえ、この知識それ自体は逸脱的なものと解される。ヘスの共犯性は、ここでもっとも腐食的な方法で働いている。絵画的パラダイムの内部からまさにその基盤を掘り崩すからだ・・・

(『視覚的無意識』「six再び」ロザリンド・E・クラウス著 谷川・小西訳)

 

ヘスさんの作品の革新性は、その表現力の強さによるとともに、このように表現領域をその内部から崩壊させるような、そういう真の過激さによるものなのです。私見ですが、どうも日本では、このような本当に過激な表現というのは不人気で、その表面的な表現様式のみが取り入れられているような気がします。例えば赤い糸を使って、ビジュアルな意味で美しいインスタレーションの作品が持て囃されたりするのですが、そこにはヘスさんのような危うさは存在しません。

そのような日本の傾向については、美術批評の問題もあるのだと思います。このクラウスさんの『視覚的無意識』が翻訳されたのが2019年です。アメリカで出版されたのは1993年ですから25年以上の差があります。

さらに言えば、クラウスさんのかつての師であり、モダニズム批評の中心人物であったクレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)さんが、その代表的なモダニズム絵画の批評を書いたのが1950年代から60年代です。そしてグリーンバーグさんの批評選集が日本で出版されたのが、2005年のことです。

つまりアメリカの代表的なモダニズム批評を私たちが日本語で読むことができたのが、その原文が書かれてから50年後のことで、ポスト・モダニズム批評については25年後ということになります。結果的に、私のような年配の人間にとっては、原文でそれらの本を読んだ人以外は、数十年間も内容が曖昧なモダニズム批評、ポスト・モダニズム批評に翻弄されてきたのです。若いインターネット世代の方々から見れば、信じられないようなタイム・ラグですね。

 

さて、このような事情を飲み込んだ上で、川西さんの作品を見てみましょう。

川西さんの絵画は、中央のインスタレーションと呼応するようにギャラリーの壁にまばらに展示され、インスタレーション作品はおそらく再現が不可能なほどに浮遊した表現になっています。私たちは、これらの展示の全体を眺めて、その表現の心地よさを、まずは受け止めるべきでしょう。

しかし、それでは個々の絵画作品は全体の部品でしかなく、自立した魅力がないのかと言えば、そんなことはありません。部屋全体の中で作品同士が有機的に結びつきつつも、一枚の絵画として魅力があるのです。その一枚一枚を味わってみましょう。川西さんは、同じような絵画を何枚も並べる、というような退屈なことはしません。ほとんど一つの色面のようなマットな、あるいはミニマルな絵画もあれば、うっすらと風景が透けて見えるような絵画もあります。色合いは統一感があるものの、一点一点がそれぞれ違っています。あえて言えば、それはフランケンサーラーさんの絵画の色彩を想起させるような、デリケートで複雑な色彩の絵画なのです。

私はこのような表現を見ると、若い作家が表現の領野を横断して、ごく自然に自分の世界を展開していることにうれしい驚きを感じます。ピント外れの理論には拘泥せず、自分の表現を突き詰めた結果、このような展示にたどり着いたのでしょう。

私たちぐらいの年配の作家たちが、絵画表現の様式の変遷にあたふたとし、そこに無用な理屈を求め、納得のできない作品を作っては悶々としていた状況に比べると、とても健康的で生き生きとして見えます。

今だからわかるのですが、私たちは理論的に作品を語りたいならば、その良し悪しはともかくとして、例えばアメリカのモダニズム批評、ポスト・モダニズム批評がどのようなものであったのか、ということぐらいは知っておく必要があったのです。アメリカの落書きアートがポスト・モダニズムを象徴するものではありません。商業主義的な情報だと、どうしてもそうなってしまうのですが、そんなことに翻弄されるのは時間の無駄です。その一方で、ポスト・モダニズム批評のクラウスさんの注目してきた作品がすべて良さそうか、と言えば、そうでもありません。彼女だって一人の人間として、批評家として悩み、判断して生きてきたのです。その活動に敬意を表しますが、彼女がすべて正しかった、というわけではないのです。アメリカでは、そんなことを批評家同士が言い合う議論の場所があるようですが、日本からは見えにくいようです。

そして日本には、そのような議論の場所がありません。しかし、以前にも書きましたが、表現活動に安全な場所はありません。何かを表現すれば、それに対する批判はあるはずですし、そのことにヒリヒリするようなスリルを感じることが健全なことなのです。ですから、何かの権威を求めて批評家の文章を読むのはやめましょう。グリーンバーグであれ、クラウスであれ、例外ではありません。何かの拠り所を求めるのではなく、自分の表現や判断に資するために彼らの文章を読み、勉強しましょう。

 

さて、またいつものように、理屈抜きで川西さんの作品を楽しんで!と言いたいために、下手な理屈をこねてしまいました。感覚的に、川西さんの作品がスーッと心に入ってくる方は、私の駄文を読む必要はありません。それが出来ない方は、よかったら私の文章を読んでみてください。何か納得できるものがあれば、幸いです。

 

それでは、まだ会期中の展覧会ですので、よかったら会場まで足を運んでください!

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