平らな深み、緩やかな時間

357.『パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展』について

2024年が始まりました。

ところが、お正月早々から「令和6年能登半島地震」と命名された災害に見舞われてしまいました。地震による建物の倒壊ばかりでなく、津波の脅威もあって心配でニュースから目が離せない状況でした。現地の被害ができるだけ少なくて済むことを願うばかりです。

それに関連して、被災地に物資を届けようとした飛行機が旅客機と接触してしまう、という信じられない事故も起こってしまいました。

ただでさえ、先の読めない世界に不安を感じる日々ですが、世界中で被災、被害に遭っている方々のことを忘れないようにしつつ、日々の何気ない暮らしを大切にしたいものです。

私のような年齢になると、残された時間も少なくなってきますが、とにかく毎日を芸術と向き合いつつ、その成果を少しでも記録に残せれば、と思っています。

 

さて、今回は国立西洋美術館の展覧会の話題です。

今年になって初めての開館日に、東京・上野の西洋美術館に行ってきました。正月の混雑を避けようと開館時間の前に美術館に着いたのですが、すでに美術館前のコーナーを曲がるところまで人の列が出来ていました。『キュビスム展』という、やや渋めの展覧会なのに予想以上の人出で喜ばしいことではありますが、これから鑑賞することを考えるとちょっと不安になりました。でも、大丈夫です。展示は比較的ゆったりとしていて、西洋美術館は天井も高く、人の多さはそれほど気になりませんでした。

 

それでは、まず展覧会の概要を書いておきましょう。『パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展ー美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ』というタイトルの展覧会ですが、美術館のホームページには次のような説明が書いてありました。

 

ピカソとブラックが開いた新たな美の扉——初来日作品50点以上を含む約140点を展示する、日本では50年ぶりとなる「キュビスム」の大型展覧会。ポンピドゥーセンターと国立西洋美術館という日仏を代表する国立美術館の共同企画によって、ついに実現します。20世紀美術の真の出発点となったキュビスムの全貌を明らかにします。

(『キュビスム展』公式サイトより)

https://cubisme.exhn.jp/exhibition/

 

正直に言うと、今さら「キュビスム」か・・・、というふうに思いました。

ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)さんやブラック(Georges Braque, 1882 - 1963)さんの絵ならば、これまでにも山のように見ていますし、「キュビスム」運動について言えば、モダニズムの典型のような芸術運動ですから、今になって学ぶべき点もないだろう、という思い込みがあったのです。

しかし結果的に言えば、見てよかったと思う展覧会でした。そして若い方にも、ぜひ見ていただきたい展覧会だと思い、こうして文章を綴ることにしました。それは「キュビスム」に対する私の評価を覆すような展覧会だったから、というわけではありません。むしろ、私の評価が概ね正しかった、と確認できた展覧会だったのですが、それでもやはり見るべき点が多く、つまらない先入観によって本物の作品との出会いを逸してしまうのは惜しい、とあらためて感じた展覧会でした。

それにしても、30歳くらいだった若いピカソさんとブラックさんの探究した絵画表現が、その後のモダニズム芸術を大きく動かすことになるのですから、やはりすごい事件だったと言わざるを得ません。これらの、二人がともに刺激し合いながら描いていた作品を「分析的キュビスム」とカテゴライズしてしまったことで、かえってその評価を矮小化してしまったのではないか、と私は思っています。その事については、後で詳しく書いておきます。

さて、ちょっと最初から個人的な感想に入りすぎてしまいました。まずは一般的に「キュビスム」運動がどのように理解されているのか、そのことを押さえておきましょう。この展覧会のカタログで西洋美術館館長の田中正之さんは、「キュビスムを理解するためにーいくつかの視点」という文章で次のように書いています。

 

一般的には、キュビスムは次のようなものだと説明されている。二次元の絵画平面上に三次元の空間や立体があるかのように見せる遠近法や陰影法といった西洋絵画の伝統的イリュージョニズムの技法を捨て、複数の視点を用いたり、幾何学的形態に単純化された図形によってグリッド(格子)状に画面を構成することで、描かれる対象を再現的、模倣的、写実的に描写する役割から絵画を解放し、より自律的な絵画を作り出した美術運動である、と。そして20世紀に花開くこととなる抽象芸術への道を開いたものとして、キュビスムには大きな価値が与えられてきた。こうした説明は、キュビスムの作品がどのようなものなのかを知るための基礎的な理解を提供してくれる。

(『キュビスム展』カタログ「キュビスムを理解するために」田中正之)

 

この説明をもう少しわかりやすく言い直すと、キュビスムの手法というのはモチーフである対象物を遠近法を使ったり、影をつけたりして奥行きや立体感を表現することをやめて、対象物を色々な視点から見て、その形を幾何学的な単純な図像に置き換える、ということを実践したものでした。そして、その単純化された図像を画面上で再構成する、ということをしたことから、結果的にそれが写実的な絵画からの解放を実現し、絵画をモチーフから独立した自律的なものとした、というのです。そしてそれが最終的には、対象物を必要としない抽象絵画への道を切り開いたというのが、一般的な「キュビスム」に対する評価という事になります。

これはよくできた説明のようでありながら、いくつもの疑問符が付くものです。

例えば、何だってピカソさんとブラックさんは、こんな革新的な試みに身を投じたのか、ということがさっぱりわかりません。よく言われるポール・セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)さんの絵画からの影響、という説ですが、セザンヌさんの芸術はこの説明に合致しませんし、そもそも彼らがセザンヌさんに惹かれた理由もわかりません。それに、キュビスムが抽象芸術の道を開いた、と言われても、ピカソさんもブラックさんも抽象絵画を描いていません(と、思います)。

この一般的な説明を書いた後で、田中さんはもう少しちゃんとキュビスムを理解できるように、幾つかの観点を提示しながらこのエッセイを続けています。田中さんのエッセイは私が提示した疑問に直接答えるものではありませんが、とても勉強になるものなので、カタログを買った方はぜひ目を通してみてください。

個人的には、思いがけずスイスの言語学者のフェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857 - 1913)さんの名前が出てくる、エッセイの最後の部分に注目しました。それに続けて美術史家のイヴ=アラン・ボワ(Yve-Alain Bois,1952 - )さん、ロザリンド・E・クラウス(Rosalind E. Krauss, 1940 - )さんという現存している研究者について言及しているところが貴重な記述です。このあたりの同時代の論者たちの文章を、私たちはもっとちゃんと読まないといけませんね、頑張りましょう。

とは言うものの、田中さんの文章の結びの言葉には、ちょっと物足りないものがあります。それは次のような文章です。

 

キュビスムとは、伝統的な絵画とは異なる新たなコードに従って描かれた絵画、世界を表すための新たなコードの絵画なのだと言っていいのかもしれない。

(『キュビスム展』カタログ「キュビスムを理解するために」田中正之)

 

この後半の「世界を表すための新たなコードの絵画なのだ」というところに、私は疑問を抱いてしまいます。

今回の展覧会では、セザンヌさんの絵画から始まり、続いてピカソさんとブラックさんの「分析的キュビスム」の頃の作品へと部屋が続いて行くのですが、このあたりの作品については確かに「世界を表すための新たなコードの絵画」を模索している、と言えると思います。

ここでちょっと、今回の展覧会の感想をはさんでおきましょう。

この最初の二つの部屋を見るためだけでも、今回の展覧会を見る価値があると思います。

まずは最初のセザンヌさんの作品を、しっかりと見ておきましょう。日本の美術館にある見慣れた作品ですが、改めて見ると背筋が伸びるような思いがします。余計なことを考えず、真っ直ぐに世界と向き合う態度には、学ぶべき点が多々あります。

それに続くブラックさんとピカソさんの「分析的キュビスム」と呼ばれる作品の部屋も素晴らしいです。モノクロームの色調に近い絵が続くのに、とても美しくて感動的な展示となっています。これは前回取り上げた、モネさんの晩年の部屋の美しさと通底するものがあると思います。ブラックさんの『円卓』(1911)は息を飲むほどきれいですし、ピカソさんの『女性の胸像』(1909)はその集中した描写に見とれてしまいます。しかし肝心なのは、そんな表面的な美しさではなくて、何とか世界と接触しようとする彼らの表現が心を打つのです。ところがこれらの作品は、残念ながら、カタログの写真を見てもまったくその素晴らしさがわかりません。こういう作品にありがちなことですが、本物の作品の息づかいが重要なのです。そういうことなので、ぜひ実物を見てください。

ところがその後のキュビスム運動は、「世界を表す」という志(こころざし)からは随分と後退してしまったように見えました。「世界を表す」ということよりも、一枚の絵としての完成度を優先し、心地よい作品を制作することに腐心しているように見えます。もちろん、優れた作品はたくさんありますが、それとこれとは別の話です。

この私の感想が、田中さんのエッセイの最後の言葉に疑問を抱く原因なのです。

 

そんなことを考えていたら、このことと関連する記述が、カタログ中の「キュビスム以後」というエッセイの中にありました。村上博哉さんという研究者が、次のようなことを書いています。

 

『ノール=シュド』(1917 - 1918年)などの芸術雑誌に掲載されたピエール・ルヴェルディ、ポール・デルメらの評論や、レオンス・ローザンぺールの著書『キュビスムと伝統』(1920年)など、大戦末期から終戦直後のキュビスム論の多くは、明晰さや均衡という、当時の社会の保守的風潮のなかで伝統的・ラテン的な特質と見なされるものに立脚する芸術の創造を唱えた。そのような主張に呼応して、1910年代末から1920年代初めのキュビスム芸術は、それぞれの作家の個性による多様性を維持しながらも、全体としては実験性や難解さを避け、より簡潔で平明な構成へ向かった。

(『キュビスム展』カタログ「キュビスム以後」村上博哉)

 

おそらく日本で受容された「キュビスム」というのは、この「簡潔で平明な構成」によって「伝統的」な絵画に歩み寄った「キュビスム」のスタイルだったのでしょう。

例えば私の大学の時の先生は、この伝統的な絵画となった「キュビスム」のスタイルで絵を描いていました。かつては前衛的な芸術であったものが、実は今は保守的で伝統的なものであるということが、しかるべき地位に辿り着いた人にとっては好都合だったのだと思います。しかしその一方で若い学生から見ると、「キュビスム」が実質以上に魅力のないものに見えてしまったのもやむを得ない話です。そのような事情から、はじめに書いたように、今さら「キュビスム」を見ても・・・、という感想になってしまったのです。

話が脱線しました。

私はこのようなキュビスムの変化によって、キュビスムの作品がダメになった、と言いたいわけではありません。その証拠に、今回の展示でもフェルナン・レジェ(Fernand Léger, 1881 - 1955)さん、ロベール・ドローネー(Robert Delaunay, 1885-1941)さん、フアン・グリス(Juan Gris, 1887 - 1927)さんなどのキュビスムの成熟期の作品は、贅沢だと思えるほど素晴らしいものでした。ただ、彼らの作品を「キュビスム」の発展として捉えるなら、私の求める世界との向き合い方とは方向性が外れてしまった、と言わざるを得ないのです。それらの作品は、「実験性や難解さ」が影を潜め、革新性よりも「簡潔で平明な構成へ向かった」のは、確かなことなのです。

そのことを象徴するのが、この西洋美術館を設計したル・コルビュジエ(Le Corbusier、1887 - 1965)さんについて村上さんが書いた次の記述です。

 

ル・コルビュジェの建築論のなかでも、キュビスム絵画の先駆的な意義はたびたび言及された。『建築をめざして』(1923年)の最初の章には、キュビスムの絵画が現実の再現という目的を放棄して純粋な造形に到達したことにより、絵画は他の芸術分野に先んじて、いち早く近代という時代との調和を果たしたと記されている。同様の見解は、1924年6月にソルボンヌで行われた講演「建築における新精神」でも繰り返された。

(『キュビスム展』カタログ「キュビスム以後」村上博哉)

 

このように、ル・コルビュジェさんに至って、「キュビスム」は「現実の再現という目的を放棄」した、完全なモダニズムの表現となったのです。しかし私がこだわっているのは、ここで言う「現実の再現」、つまり画家が世界とどう向き合って表現していくのか、という画家にとって本質的な問題です。私はその問題の分水嶺となったのが、「分析的キュビスム」の作品群だと思っているのです。

 

さて、それでは「分析的キュビスム」の作品に関して、この展覧会のカタログではどのように語られているのでしょうか。そう思ってカタログのページを繰ると、素晴らしい文章に行き当たりました。

実は次のエッセイがもっともこのカタログで興味深いものであり、この文章が掲載されていたために私はこの分厚いカタログを購入してしまったのです。それは松浦寿夫さんが書いた「セザンヌの教え」というエッセイです。

このエッセイの終盤で、松浦さんはジャック・リヴィエール(Jacques Rivière, 1886 - 1925)さんという、キュビスムの同時代においてキュビスムを論じた批評家について書いています。

 

この点で、分析的キュビスムの形成期に書かれた同時代的な批評のなかで最も優れた分析でありながら、その後忘却されたままになっているジャック・リヴィエールの文章を想起しておこう。ここでリヴィエールは印象主義の絵画が、対象の実在性ではなく、画家の知覚に提示される対象の感覚的な現れの表現にとどまっていることへの批判から、キュビスムの画家たちに対して、対象の実在性を十分に把握する試みの実現を期待するのだが、キュビスムの絵画がその解決策における誤謬のためにこの課題の実現に成功していないことを詳細に論じている。まず、この課題の実現のため、彼は照明とパースペクティヴとの排除という必要不可欠なふたつの条件を提示し、その理論的な根拠として、この両者が観察者の時間的、空間的な特定の瞬間への依拠を前提にするがゆえに、対象の特定の様相しか提示しえず、対象をあるがままの実在性において捕捉することを不可能にする点を指摘している。

(『キュビスム展』カタログ「セザンヌの教え」松浦寿夫)

 

リヴィエールさんが問題としたのは、絵を描くときに画家が対象の実在性をどのように捉えるのか、ということでした。その問題に対して、印象派の画家たちはその対象の実在性よりも、「画家の知覚」つまり目に見えるままを描こうとしました。それ故に、印象派の絵画には限界があった、というのがリヴィエールさんの意見のようです。そこでリヴィエールさんは、キュビスムの画家たちにその実在性の表現を期待したのです。その実在性を描くためには、ある特定の時間に、固定的な視点から絵を描くという印象派の方法を捨てなくてはなりませんでした。

このリヴィエールさんの期待は、そのまま「分析的キュビスム」の表現へと繋がっていきます。しかし残念ながら、キュビスムの画家たちはこの課題に対して、三つの過ちを犯してしまった、というのです。

それはどのような過ちでしょうか?

 

これに対して、キュビスムはこの課題の実現に際して、3つの誤謬を露呈させてしまったことが批判点として列挙される。対象の量感を表現するために、対象のあらゆる局面を加算することによって、画面が対象の展開図の様相を示し、量感を破壊してしまった点。照明とパースペクティヴとが諸対象の従属的な序列を構成することから、この両者の排除を諸要素間の序列の全面的な排除と考えてしまったために、画面上で諸要素が無秩序になってしまう点。最後に、奥行きに実体性を与え、諸対象間の間隙を諸対象と同等の堅牢さで表現する事によって、諸対象の分離が不可能になり、諸対象が分離なき連続体として結合されてしまう点。そして、この第3点こそ、先に述べたブラックによる間隙の「物質化」に対する批判にほかならない。それゆえ、分析的キュビスムの展開期に書かれたリヴィエールの批判は、セザンヌ主義からキュビスムへの移行に対しての理論的な次元での明晰な批判であり得ている。

(『キュビスム展』カタログ「セザンヌの教え」松浦寿夫)

 

これを読んで、ちょっとびっくりしました。

私が日頃から、セザンヌさんの芸術を発展させたと言われるキュビスムですが、実はセザンヌさんの絵画からの後退だったのではないか、と考えていたのですが、この指摘はそのことを的確に言葉にしているように感じました。

それでは、一つ一つの点を見ていきましょう。

まず一点目は、「画面が対象の展開図の様相を示し、量感を破壊してしまった」という指摘です。これは多視点から見た形を画面上で組み合わせる、というキュビスムの手法が、結局のところ、対象(モチーフ)の形状の展開図を図形として表現することでしかない、ということを指摘しているのです。これでは、対象の量感を表現することはできない、ということです。例えば目の前の立方体の展開図を見て、もとの立方体の量感を感受することは誰にとっても不可能でしょう。これを避けるためには、晩年のセザンヌさんのように的確なバルール(色価)の筆致を重ねて対象を表現するというのが適切な方法で、このセザンヌさんの方法は初期の分析的キュビスムにおいては踏襲されていたのです。そしてこの方法は、私が日頃から提唱している「絵画の触覚性」とも重なる表現だということを付け加えておきます。今回の展示では、例えば先ほど私が取り上げたピカソさんの『女性の胸像』の顔の部分の細かい筆致にその触覚性の好例を見ることができます。しかし、その一方で今回の展示を見ても分かる通り、キュビスムの図形処理的な手法が洗練されていくに従って、このような触覚性は失われていったのです。

二点目は、「照明とパースペクティヴとが諸対象の従属的な序列を構成することから、この両者の排除を諸要素間の序列の全面的な排除と考えてしまったために、画面上で諸要素が無秩序になってしまう」という指摘です。ちょっとややこしいのですが、読み解いていきましょう。ここで言う「照明」というのは、特に印象派に顕著であった光の表現のことです。そして「パースペクティヴ」は、透視図法で表現されるような絵の奥行きの表現のことです。いずれもセザンヌさんが苦心して排除した表現です。セザンヌさんは、じーっと対象を見つめた時に、じわじわっと感じとることのできる対象の実在性を表現するために、あえて遠くの山や空を目前にあるかのように、慎重にバルールを確認しながら色を置いていったのです。その色は、もはや移ろいやすい光に左右されるものではありません。しかし、それは「無秩序」ではありませんでした。むしろセザンヌさんの画面は、遠近法や光の表現などのようなわかりやすい秩序を超えて、もっと高度な思考による秩序の中にある、と言ってもいいでしょう。それがキュビスムにおいて、「画面分割」が方法論として定着するにつれて、それらを画家が自由に、そして恣意的に構成できるようになってしまったのです。それは絵画の「自律性」を確立したという見方もできますが、対象の実在性から離れた「無秩序」の状態と同じではないか、とリヴィエールさんは指摘しているのだと思います。

三点目は、もっとややこしいです。「奥行きに実体性を与え、諸対象間の間隙を諸対象と同等の堅牢さで表現する事によって、諸対象の分離が不可能になり、諸対象が分離なき連続体として結合されてしまう」という指摘です。この点について松浦さんは「この第3点こそ、先に述べたブラックによる間隙の『物質化』に対する批判にほかならない」と書いていますが、この「先に述べた」部分というのを見ておきましょう。

それはセザンヌの絵画に特徴的な「余白」の表現がキュビスムによって失われていった、という話の中で述べられた部分です。

 

ところが、この余白は分析的キュビスムの形成とともに画面から姿を消していくことになる。それゆえ、セザンヌ主義的な絵画からキュビスムへの移行をこの余白の消失の過程として記述することもできるかもしれない。この点で、注目すべき点は、ブラックが「事物を他の事物と分離する視覚的な空間」、つまり事物と事物のあいだの空間を「物質化すること」を課題として思考していたという事実である。事物と同様に事物間の間隙をも同等に物質化すること、この課題の自覚こそが、やがて分析的キュビスムに顕在化するオール・オーヴァーな絵画面の出現を可能にすると同時に、セザンヌ的な意味での奥行きの出現の可能性の条件を奪うことになったとはいえないだろうか。

(『キュビスム展』カタログ「セザンヌの教え」松浦寿夫)

 

実はこの部分の後で、松浦さんはリヴィエールさんについて言及しているのですが、その内容を見ていきましょう。

モダニズムの時代を先導したブラックさんにとっては、事物と事物の間の空間でさえ、事物があるのと同じように「物質化」して、均質に画面を埋めなくてはならない、ということを課題として思考していた、というのです。この思考によって、セザンヌさんの絵画にあった魅力的な「余白」は消滅し、のちのモダニズムの絵画に顕著な「オール・オーヴァーな絵画面の出現」が可能」となったのです。しかしこの手法を推し進めることが「諸対象の分離が不可能になり、諸対象が分離なき連続体として結合されてしまう」という結果になってしまいました。目の前に対象となる事物があっても、あるいは何もない隙間の空間であっても、画面上では等価のものとして扱われるのです。そうなれば、あとはアクション・ペインティングによって新しい絵画を開拓したジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)さんの絵画に至るのは必然であるように思います。このような絵画の展開にあっては、リヴィエールさんが期待した「対象の実在性を十分に把握する」という試みは跡形もなくなっているのです。

さて、これらの3点の指摘を併せて考えてみましょう。

①事物(対象/モチーフ)は多視点から見た展開図として図形化され、②それが事物の置かれている実際の位置関係から切り離されて恣意的に構成され、③さらにそれぞれの「事物」、あるいはその間の「空間」の区別がなく連続体として描かれるようになる、という事態が一気にキュビスムの絵画に現れたのです。その無秩序な恣意性が、やがて「事物の実在性を表現する」というリヴィエールさんが期待した命題から遊離してしまったのです。その一方で、「キュビスムの絵画が現実の再現という目的を放棄して純粋な造形に到達したことにより、絵画は他の芸術分野に先んじて、いち早く近代という時代との調和を果たした」という、先ほど見たようなル・コルビュジエさんの論理へと至るのです。確かに、「近代」という時代と調和することが目的であるならば、キュビスムはその先導役を果たしたのですが、セザンヌさんの芸術からの発展ということでいえば、あるいはリヴィエールさんが期待した「実在性」の表現ということで言えば、キュビスムは「分析的キュビスム」の過程を経る段階で失ってしまったものがあまりにも大きかった、と言わざるを得ません。

松浦さんは、そのことを的確に、キュビスムと同時代の批評から読み取るという学究的な方法で、私たちに提示して見せたのでした。これは本当にすごいことです。

 

さて、これだけの指摘でも十分に刺激的ですが、このエッセイにはさらに続きがあります。

松浦さんはこのリヴィエールさんの批判が、イギリスの哲学者、バートランド・ラッセル(Bertrand Arthur William Russell, 1872 - 1970)さんの著書の中にそれと呼応するものが見出せると指摘しているのです。さらにそれがケンブリッジの集団、ブルームズベリー・グループの一員であったロジャー・フライ(Roger Eliot Fry, 1866 - 1934)さんの批評にも見出すことができるとも指摘しています。

このフライさんについて、私は通り一遍の紹介ですが、次のblogで彼について、彼のセザンヌ論について書いていますので、よかったら参照してください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/55e6638f0702710bf1562d27a3c2e8f9

 

さて、だいぶ話が込み入ってきましたが、最後に少しまとめておきましょう。

まず、この展覧会はとても充実したものです。

キュビスムの作品展示として、これ以上の内容は望めないかもしれません。フランスのジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センター (Centre national d’art et de culture Georges Pompidou (CNAC-GP); 通称「ポンピドゥー・センター (Centre Pompidou)」) は、パリ4区のサン=メリ地区にある総合文化施設ですが、美術部門の展示としてはフランスの国立近代美術館に当たるものです。それだけ所蔵作品も豊富で、質が高いのです。

その中でも、例えばドローネーさんの大作『パリ市』はその看板にもなるような作品ですから、それが来日していること自体がたいへんなことです。それに、レジェさんの『婚礼』も来日していますが、同じくキュビスムの発展を象徴する記念碑的な作品でもあります。

さらにキュビスムに付随して、現代最高の彫刻家であるブランクーシ(Constantin Brâncuşi, 1876 - 1957)さんの彫刻作品も代表的なものが数点、それに小品ですがモディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani、1884 - 1920)さんの佳作も展示されています。モディリアーニさんは通俗的な画家だと思われている面がありますが、触覚的な形体感をわかりやすく表現した稀有な画家だと私は思っています。今回は、そのことがよくわかる渋めの作品が展示されています。

また、この展覧会がル・コルビュジエさんが設計した西洋美術館で企画されていることも、興味深いことです。この美術館の建物が世界遺産に決まった時には、建物を見るために長蛇の列ができていましたが、もうそれも昔の話になってしまい、皆さんはそのことを忘れているのではないでしょうか?コンクリート四角い建物ですが、街中のオフィスビルとは違って、モダニズムの粋を象徴する建築です。ル・コルビュジエさんのキュビスム絵画も展示されていますが、彼の絵画は不思議な温かみがあって、私も大好きです。

https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM17H0B_X10C16A7000000/

https://artplaza.geidai.ac.jp/sights/8726/

 

しかし、それらの素晴らしさにもかかわらず、私が最も興味深く見たのは、繰り返しになりますが、はじめのセザンヌさんの作品から「分析的キュビスム」の頃のピカソさんとブラックさんへと繋がる展示です。

これらの作品は、ここまで見てきたように、ただ単に美しいということではなくて、人間がどのように対象(モチーフ)と向き合うのか、ひいては人間がどのように事物と向き合うのか、さらには人間がどのように世界との向き合うのか、という問題にまで波及する、芸術を超えた表現となっているのです。そのことをもっと正確に把握するには、カタログ内の松浦さんのエッセイが示唆してくれたバートランド・ラッセルさんの哲学やブルームズベリー・グループのことなども勉強しておく必要があるのでしょう。私も改めて彼らの著作を読み直して見るつもりです。何か成果があれば、またご報告します。

 

ということで、初期のキュビスムが秘めていた可能性に興味がある方、キュビスムが切り開いたモダニズムの成果を堪能したい方、美術史に詳しくないけれども現代絵画の最も大きな運動に触れてみたい方、いずれの方々も満足できる展覧会です。

東京では今月の後半まで見ることができますので、ぜひ足を運んでみてください。これをきっかけに現代美術に親しんでくださる方が増えるようでしたら、これはたいへん喜ばしいことです。

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