平らな深み、緩やかな時間

268.『100分DE名著「存在と時間」』①、教育の問題について

はじめに身近な教育の問題です。興味のない方には、少し退屈かもしれませんが、後半の哲学的な問題とつながりますので、よかったら最初からお読みください。

 

11月12日の朝日新聞の30面(地域総合)に『「都立の復権20年 改革の現在地は」という記事で、東京大学教授の本田由紀さんと、前日比谷高校長の武内彰さんの二人の意見が掲載されていました。これは東京都教育委員会が9月に都立高校7校を「進学指導重点校」に再指定したことを話題にしたものです。

私は東京都に住んでいませんし、本来ならば他県のことなど気にならないのですが、これが東京の話となると、ちょっと状況が異なります。東京都の教育行政は、日本全体に影響を及ぼすことが多いからです。「進学重点校」については、神奈川県でもほぼ似たようなことをやっています。これを一地方のことだと思わずに、日本全体のモデルケースだと思って二人の識者の意見を聞いてみましょう。

まず、本田さんはこの「進学重点校指定」を次のように評価しています。

 

進学重点校は特色ある都立高づくりを目指した制度ですが、「縦の序列」を強化しただけです。

序列の下位は自分を否定されるようなプレッシャーを受け続ける。上位は恵まれた家庭の子が多く、そうでない人たちへの想像力を養いづらい。そんな傾向が強固になる一方です。

(「都立の復権」20年 本田由紀)

 

本田さんがいう通り、この進学重点指定校は「縦の序列」を強固にしてしまうと私も思います。具体的な学校名を見ても、それまでの名門校と言われる学校ばかりです。例えば、課題が多い高校に予算的なバックアップをつけて、家庭環境に恵まれない生徒たちにも進学への可能性を広げよう、などという配慮が感じられないのです。エリートと呼ばれる生徒たちを特定の高校に集めて、あたかも教育行政が進学実績をあげたかのように見せかけるための偽善的な政策ではないか、と疑わずにはいられません。

本田さんが書いているように、教育に恵まれた階層の生徒たちがそれ以外の生徒と切り離されるという弊害もあります。もしも「進学重点校」のエリートたちが為政者の思惑通りに日本を牽引していくような立場になったなら、彼らは恵まれない人たちを思いやる想像力に欠けた、いびつな為政者になってしまう可能性が高くなってしまいます。いまの日本が既にそうなっていて、恵まれない人たちのことがわからない人達による行政改革、という悪循環の中に私たちはいるのではないでしょうか。

それでは、その教育行政の先端を担った日比谷高校の元校長先生は、この改革についてどう評価しているのでしょうか。

 

2012年から21年まで日比谷高(千代田区)の校長を務めました。16年には44年ぶりに東大合格者が50人を超え、21年には63人に。「都立の完全復活」と言われたこともあります。

進学指導重点校などの都立高改革は「受験競争をあおる」との批判も受けました。でも私はそうは思いません。生徒の多くは、指定の基準にある「難関国立大学等」に進みたいと希望しています。私たちは生徒の進路をかなえるために努力していました。

授業では生徒同士の対話の機会を増やしました。しっかりと考えて対話をすると、新たな気づきや思考の深まりを得て、生徒は自発的に学ぶようになります。

(「都立の復権」20年 武内彰)

 

当該校の校長先生として、言うべきことを言っているという印象を受けます。「受験競争をあおる」と言われても、当該校でどうにかなるものでもありませんし、そのことについては武内さんの言うことも理解できます。また、「生徒同士の対話の機会」を増やすなど、進学よりも生徒の将来を考えた教育をしたいという良心的な指導も工夫されていたようで、その点も評価して良いでしょう。

しかし、意地の悪い見方をすれば、必死になっている受験生の立場に立てば、高校が進学に直結しない授業をするのならば、それだけ予備校や塾に依存する度合いが増すだけです。私は東京都の教育現場にいませんし、この記事に書かれたことでしか判断できませんが、結局のところ、もともと勉強のできる生徒をどれだけ集めることができたのか、ということの競争に勝っただけではないか、というふうに読めてしまいます。

もしも「都立の復権」ということを言いたいのであれば、都立高校全体でどれほど希望する進学先に生徒たちが進学できたのか、というデータがほしいです。そのうえで、その生徒たちが予備校や塾などに過度に依存せず、経済的に恵まれない生徒たちもお金の負担を気にせずに受験勉強ができたのかどうか、そんな調査も行って公表していただきたいものです。

一方の本田さんは、教育行政全体を見渡して、次のようなことを書いておられます。

 

人口減少が進む地方では、序列下位の公立高が優先的に統廃合されつつあります。上位の学校に人材を集めれば進学実績は上がるでしょうが、必要なのは横の多様性です。一つの序列の中で競争するのではなく、子どもたちが様々な学校の中から進学先を選び、興味のある専門性を身につけられるような教育です。

(「都立の復権」20年 本田由紀)

 

具体的なことは申し上げられませんが、私はまさにその現場を目の当たりにしてきました。その統廃合がこれからの生徒たちのためになれば良いのですが、一つの基準で強者と弱者を決めつけて、強者にばかり手厚く予算配分をする、その結果、多様性を失った日本社会がどんどん沈没していくのではないか、と心配になります。そうならないように、本田さんは最後にこう書いています。

 

人口減少が進む日本では、社会を支える様々な職業人の育成がいっそう必要です。それなのに専門教育の機会が不十分なのは、学力の序列が高い方に資源を配分しているからではないでしょうか。医療や保育、介護といったエッセンシャルワーカーの待遇の悪さが指摘されていますが、学力をあがめて専門性を敬わない文化が背景にあると思います。

(「都立の復権」20年 本田由紀)

 

本当にその通りです。

ちなみに武内彰さんも、記事の結びに「社会はもっと教育に投資してほしいと思います」と書かれています。ただしこちらは、「国際的な教育に力を入れる学校を優遇してもいいかもしれません」ということですので、少し意図が違っています。私も武内さんの言う通りだと思いますが、実感としてはその優先度は少し低いです。海外留学にお金がかかりすぎて、日本の学生が海外に出にくくなっているという問題もよく耳にしますが、それよりも本田さんの書いていることを、まずはやるべきではないでしょうか。

その上で別の問題として、海外留学に限らず、日本は大学院や研究室に残って地道に研究しようという人たちに対して十分な補助をしていない、と言われていますので、その問題も解消する必要があります。そもそも、経済的な理由から大学進学をあきらめてしまう生徒たちを、なんとかしなくてはなりません。

多様な文化、多様な職業、多様な専門性に敬意を払わない日本の社会が、あらゆる点で貧しい国へとひた走っているような気がして、心配です。高齢化社会や、過度に輸入に頼る農業や工業などの実情は、社会を支える職業に対する価値観の低さが根本にあるような気がします。これを解消するには、対処療法的な政策ももちろん大切ですが、長い目で見れば今の教育が大切です。

しかしその教育が、偏った価値観で進められているとしたら、問題の根が深いと言わざるを得ません。これは教育だけではなく、思想や哲学の問題であるのかもしれません。

ということで、引き続き哲学的な問題について考えます。たぶん、問題点とその答えは共通したところにあると思いますので、あとでこの問題についても考えてみましょう。



さて、今回は『100分DE名著「存在と時間」』を取り上げます。『存在と時間』という名著を書いたのは、ドイツの哲学者、マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger, 1889 - 1976)です。この本の解説者は戸谷洋志さんという哲学研究者です。

ハイデガーも『存在と時間』も、哲学の中ではとてつもなく大きな存在で、私にはうまく紹介することができません。そこでNHKの番組ホームページの紹介を見てみましょう。

 

20世紀最大の哲学者の一人とされるマルティン・ハイデガー(1889-1976)。彼の哲学は「存在論」と呼ばれ、「存在とは何か」という哲学史上最も根源的な問題を問い続けました。そんな彼の前期の主著が「存在と時間」です。

「現象学」という新しい哲学的方法を用いて「存在の意味」に迫ろうと企図された「存在と時間」は、1927年2月に発表されるや圧倒的な評価を受け、「まるで稲妻のように閃いて、見る間に思想界の形勢を変えた」と伝えられます。この著作によりハイデガーは世界的な名声を得ました。その後、この哲学書は世界各国で翻訳・出版され、現代思想を担う数々の哲学者や思想家たちにも巨大な影響を与え続けます。では、ハイデガーの哲学はなぜそこまで人々を魅了したのでしょうか。

(NHK100分DE名著 ホームページより)

https://www.nhk.jp/p/meicho/ts/XZGWLG117Y/blog/bl/pEwB9LAbAN/bp/pl4pKRebel/

 

だいたいハイデガーがどんな人なのか、『存在と時間』がどのような本なのか、おわかりいただけたでしょうか?

ただし、ハイデガーには『存在と時間』を発表したあとに、後日談があります。彼はフライブルク大学の総長にまでのぼりつめますが、それがちょうどアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler , 1889 - 1945)が政権を取った時期のことで、ハイデガーはナチス党員となりナチスの活動に同調してしまいます。その後、総長を辞任し、戦後は5年ほど教職に就くことを禁じられました。その後復職しますが、何のわだかまりもなく、というわけにはいきません。なぜ、このような大哲学者がナチスに加担したのか、これは大きな謎です。哲学の叡智は、現実にはまったく無力だということになるのでしょうか?このことは、『存在と時間』という著書の評価にも、暗い影を落としていると思います。『100分DE名著』でも、最終回でそのことが取り上げられています。

 

その『存在と時間』という哲学書ですが、ハイデガーが30代の半ばの頃に、大学教師としての安定した職を得るために書かれたものだそうです。ハイデガーは、とりあえず構想していた本の前半部分を書いて、急いで製本したのですが、それが大評判となったのです。しかし、ついに後半部分が書かれることはありませんでした。

その内容は難解なことで知られていますし、私も何回かいろんな人の翻訳で挑んでみたのですが、ハイデガーが何を言いたいのかよくわかりませんでした。彼の『芸術作品の根源』については、それなりに大意をつかめたのですが、とにかく『存在と時間』は長大です。気軽に読み直すこともできません。それを戸谷洋志さんは超ダイジェスト判とでも言えそうなほどに、みごとに整理して語っています。哲学書というのは不思議なもので、大きな骨格が頭にあって字面を追うのと、そうでないのとでは全然違います。とりあえず、この『100分DE名著』を読んで原書(といっても翻訳ですが・・)をパラパラとめくってみると、なんだか読めそうな予感がします。戸谷さんの超ダイジェストをさらに端折ってここにメモしますが、もしも私の文章で合点がいくところがありましたら、『100分DE名著』から『存在と時間』へと遡って読んでみてください。私もこれからやってみますので、何か報告できそうなことがあったらblogに書きます。

 

さて、そのハイデガーがはじめに問いかけたのは、「ものが存在する」という哲学にとって根本的な問題です。これまでの哲学は「ものが存在する」ということについて、わかりきったことだと思って軽視してきた、ということです。しかし「ものが存在する」ということについてきっちり考えようとすると、意外とちゃんとした説明ができないことに気が付きました。それはどういうことでしょうか?

例えば、目の前に置いてあるりんごについて考えてみたときに、りんごをいくら分析しても、「りんごが存在する」ということは解明できません。なぜなら、「りんごが存在する」ということを語るには、「りんご」というものについて語ると同時に、りんごがそこに「在る」ことについて語らなければならないからです。さらに「りんごが存在する」ということを認識している「人間」についても語らなければなりません。その「人間」ですが、「人間」は永遠にそこにいて、「りんごが存在する」ことを認識しているわけではありません。「人間」は「時間」の経過によって変化する存在なのです。そう考えると、「りんごが存在する」ことの認識にとって、「時間」はきわめて重要な要素だということになります。

つまり「りんごが存在する」ということを説明するためには、「りんご」、「在る」、「人間」、「時間」という、少なくとも四つの要素について語らなければならないのです。ハイデガーは「りんご」にあたるものを「存在者(ザイエント)」と呼び、「が在る」に相当するものを「存在(ザイン)」と呼んだのだそうです。そして存在の意味を問う存在者を「人間」とは呼ばず、「現存在(ダーザイン)」と呼びました。

そしてこの中では、時間の経過と密接に関わる「人間」という存在がもっとも気になるところです。ハイデガーの興味は「人間」=「現存在」と「時間」との関係に、集中していきました。そのためにこの著書のタイトルは、『存在と時間』になったのです。

実はハイデガーは、『存在と時間』の書かれなかった後半部分で、「りんごが存在する」ということの全体を解明しようとしたのだそうです。しかし結局、それは書かれませんでした。そしてとりあえず、「現存在」と「時間」についての省察が進められたのです。

まずは「現存在」について、戸谷さんは次のように解説しています。

 

存在の意味を問うことができる現存在は、存在について何かしらの理解を持っており、そしてその現存在自身もまた存在しています。そうである以上、現存在は、自分自身の存在を理解している、ということになります。現存在は、自分が何者であるかを分かっているし、だからこそそれを問うことができる、ということです。ハイデガーは、このように現存在が関わり合うことになる自分の存在を、「実存」と呼んでいます。

(『100分で名著「存在と時間」』「第1回放送」戸谷洋志)

 

このように、「現存在」である「人間」は、自分が何者であるのか問うことのできる存在です。このような「自分の存在」をハイデガーは「実存」と呼んだのです。しかし、自分が何者であるのか問う「人間」は、過去から未来に向けて生きていく存在です。「実存」という語感から、私たちは(物質的な)モノが安定的に存在するような「在り方」のことを示した言葉ではないかと思いがちですが、そうではありません。「実存」とは、私たちが「時間」との関わり方の中でどのように存在していくのか、という概念ですから、確かな、そして固定的なものではありません。その解説は次のとおりです。

 

ハイデガーは、「存在とは何か」を考える上で決定的に重要なのは、現存在がどんな「時間」を生きているのか、つまり現存在の時間性であると考えました。彼は次のように述べています。 わたしたちの当面の目標は、時間を解釈することで、時間があらゆる存在了解一般を可能にする地平であることを示すことにある。  

整理すれば、こういうことです。「存在とは何か」という問いを深めていくためには、まず、この問いの当事者であり、「存在とは何か」について考えてしまう存在者である、現存在──つまり人間が何者であるかが明らかにされなければならない。現存在は、単なるモノとは異なり、過去と未来のつながりのなかで生きている。そこには現存在の時間性がある。そうである以上、「存在とは何か」という問いも、この時間のなかで生み出されることになる。

(『100分で名著「存在と時間」』「第1回放送」戸谷洋志)

 

さて、「人間」が「時間」と密接に関わる存在である、ということはわかりますが、その関係について考察すると、どういうことになるのでしょうか?

戸谷さんの解説によると、ハイデガーはとても具体的にそのことを考えたのだそうです。私たちは生活の中で、常に自分を見失わずに生きているのか、と問われればそうでもありません。世間の人たちがそうするから自分もそうしよう、などとあまり深く考えずに行動する場合が多いのではないでしょうか。ハイデガーはそのような人間の性質を「非本来性」と言ったのだそうです。一方で、自分らしく生きてきた、と実感できるような場合もあります。ハイデガーはそれを「本来性」と言ったのだそうです。

また、そのように「人間」は自分が関わる社会と密接に繋がって生きているのですが、それをハイデガーは「世界」と呼び、「世界」の中で生きる人間を「世界内存在」とも呼んだのだそうです。人間は「世界内存在」であるがゆえに、「非本来性」と言われるような生き方をしてしまうのです。

自分の生き方を振り返ってみましょう。私たちは、というか私は、考えてみると「本来性」と言われるような生き方よりも、「非本来性」と言われるような生き方を多くしてきたような気がします。社会的な自分の立場や、世間からどう見られるのか、などとくよくよ考えて、まるで自分らしくない生き方をしてきたような気がします。実はハイデガーもそうだったようで、「人間」というのは「非本来性」の存在として生きているのではないか、という疑いを持ったようです。そのような生き方を私たちに強いるもののことを、ハイデガーは「世人(ひと)」と呼びました。私の読んだ翻訳では、ただ「ひと」と書いているだけですが、「世人(せじん)」と読ませる本もあるそうです。この「世人」について、戸谷さんは次のように解説しています。

 

「世人」はハイデガーの独特な用語です。わかりやすく言うと「世間」、あるいは、その場の「空気」のようなものに近いと思います。誰かにはっきりとそう言われたわけではないけれど、何となく「みんなもこうしている」「こうしたほうがいい」という規範をもたらすもの。それが「世人」です。

日常において、現存在は世人に従って生きています。それは、言い換えるなら、人間はどんなときでも空気を読んで生き、「みんな」が正しいと思うものに照らし合わせて自分を理解している、ということです。ただし世人は、特定の誰かではなく、あくまでも匿名的な他者の総体です。私たちは、誰かに命令され、その人の言いなりになっているから、空気を読んで生きているのではありません。「みんな」と同じ行動をしようとしてしまう。それが世人による現存在の支配なのです。

(『100分で名著「存在と時間」』「第2回放送」戸谷洋志)

 

『存在と時間』の翻訳書を読んでいると、このような日常的なことを書いているようには思えないのですが、解説してもらえるとわかりやすいです。「存在」について哲学的に考えるとなると、目の前の「りんご」をじーっと見て、何か気の利いたことを思い浮かべなければならないような勘違いをしてしまいますが、「りんご」を見ている自分という存在が、世間の雰囲気に流されやすい存在ではありませんか?と聞かれたのなら、そうですね、それでちょっと困っています、などと答えられそうです。

さらにハイデガーは、「世人」としての人間の生き方を分析して、「世間話」、「好奇心」、「曖昧(あいまい)さ」という3つの特徴に注目したのだそうです。だいぶハイデガーの提示した哲学用語に通じてきましたので、このへんで冒頭の「進学重点校」の指定の問題について、ハイデガー風に考えてみましょう。

まず、この教育改革のもとになっているらしい「世間話」について考えてみましょう。公立高校は低迷している、なぜなら東大の合格者数が減っているからだ、という短絡した考えを持った都知事が、かつていたような記憶があります。この短絡思考のおおもとには、一部のエリートの生徒たちが私立の学校に集中しがちだという分析があったのだろうと思います。しかしたとえそうだとしても、そのどこがいけないのか、私にはよくわかりません。むしろエリート教育から外れてしまう恵まれない生徒たちに手厚く教育することが、公教育の使命だと思うのですが、間違っていますか?私から見ると、教育改革はしかるべき理念のない「世間話」に反応してしまったように見えます。

そして、しっかりとした理念やセオリーをもたないで、いたずらに現場を翻弄する教育改革のやり方は、人間の悪しき「好奇心」によるものだと考えられます。ハイデガーは「好奇心」を必ずしも良いものだと考えていなかったそうです。世間に迎合してコロコロと考えを変えて、軽薄に移り変わってしまうものを「好奇心」と呼んだのです。まさに日本の教育行政そのものではありませんか?その結果「詰め込み教育」の世代のあとには「ゆとり教育」の世代が続き、このあとの、今の世代の生徒たちはなんと呼ばれるようになるのでしょうか?

さらに、元日比谷高校の校長先生の発言に見られるように、その教育改革の成果の検証は「曖昧さ」そのものです。東大の合格者数が伸びたことがデータとして提示されていますが、先ほども書いたように、それは単にエリートの生徒を集めた結果ではありませんか?海の向こうでは、「自国優先主義」の為政者がもてはやされるような社会的雰囲気がありましたが、その国の人々はその弊害に気づきつつあるようです。自分の周囲の見える範囲さえ恵まれていれば良い、そうすれば何だか豊かになった気分だ、というような自分中心の「曖昧さ」を孕んだ判断を改めませんか?せめて、同じ東京都内の公立高校全体を見て、教育改革の成果があがったのかどうか、「曖昧さ」のないしっかりとしたデータで判断できないものでしょうか?

 

だめですね、身近な問題になると、つい悲観的な、やや辛辣な言葉ばかりが並んでしまいます。ちなみにハイデガーは、「世間話」「好奇心」「曖昧さ」の3つの要素をまとめて「頽落(たいらく)」と呼んだのだそうです。別の言葉で言えば「退廃していること」ですが、ハイデガーはさすがに私よりももっと辛辣です。それを解説している戸谷さんの文章を見てみましょう。

 

ハイデガーはこの三つの要素をまとめて「頽落」と呼んでいます。別の言葉で言えば「退廃しているということ」です。私たちは日常において、穴に落ちるように世人のなかに飲み込まれているのであり、そこから抜け出すことができず、どんどんその深みにはまってしまう。それが現存在のもっとも日常的な姿である、とハイデガーは考えたのです。

(『100分で名著「存在と時間」』「第2回放送」戸谷洋志)

 

人間に対する、とても厳しく、そしてある意味では用心深い考え方です。さすが大哲学者であるハイデガーだ!と言いたいところですが、ここで引っかかるものがあります。

なぜ、このような厳しい、スキのない考え方を持った人が、あろうことかナチスに協力してしまったのでしょうか?自分自身が「頽落」する存在だとわかっていたなら、なぜ自分の振る舞いを省みることがなかったのでしょうか?その結果を考慮するなら、ハイデガーの思想そのものが無効だということになりませんか?

そのことについても、『100分DE名著』の後半の部分で戸谷さんは言及しています。すごく気になるところですが、今回は長くなりましたので、このあたりで終わります。

次回、ハイデガー後の思想について、そして『存在と時間』のもっと踏み込んだ解釈について、さらに続きを読んでいきます。そして、この戸谷さんの本を通して読んでみて、私はなぜか黒澤明監督の『生きる』という映画を思い出してしまいました。ストーリーもうる覚えですが、『生きる』の主人公の男性は、まさに「非本来性」から「本来性」へと生き方を変えた人ではないでしょうか?死を前にして、そのことに気がつくという点でも、ハイデガーの思想と見事に一致しています。

ということで、次回は映画『生きる』と『存在と時間』という組み合わせで考えてみることにします。最終的には、ナチスに加担したハイデガーを超えて、私たちは人間の「本来性」に基づいた、豊かな生き方を目指さなくてはなりません。また、続きを読んでいただけるとうれしいです。

コメント一覧

dankainogenki
生きる という映画は、東京にいた時、
八ミリ映画でしたが、素晴らしかった。
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