平らな深み、緩やかな時間

279.『京都・智積院の名宝』『クリストとジャンヌ=クロード "包まれた凱旋門"』

今回は『京都・智積院の名宝』、『クリストとジャンヌ=クロード "包まれた凱旋門"』という六本木のミッドタウンで開催されている二つの展覧会をご紹介します。両方ともミッドタウンの敷地にある施設で開催されているので、六本木で半日楽しめる内容です。冬の一日を充実した芸術鑑賞で過ごされるのは、いかがでしょうか?ということで、ご紹介します。



まず『京都・智積院の名宝』です。こちらは「サントリー美術館」で2023年1月22日(日)まで開催されています。

https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2022_5/index.html

 

この展覧会は、次のラジオ番組でも紹介されました。

『Tokyo Midtown presents The Lifestyle MUSEUM』

「ピーター・バラカン氏がメインパーソナリティーとなり、毎回様々なゲストを迎えて生き方や価値観を探っていくゲストトーク番組。毎週30分だけオープンするこのミュージアムをポッドキャッストでもお楽しみ下さい。」(広報文)

ゲスト;大城杏奈さん(今回の担当学芸員)と石田佳也さん(学芸部長)

Tokyo Midtown presents The Lifestyle MUSEUM_vol.762

https://www.tfm.co.jp/podcasts/museum/month.php?month=202212

 

この展覧会は、弘法大師空海(774 - 835)の真言宗智山派の総本山である京都・東山の智積院の宝物を展示した展覧会です。展覧会の案内文書から、基本情報を押さえておきます。

元々、秀吉の夭折した息子・鶴松(棄丸)の菩提を弔うために建てられた祥雲禅寺のあとに智積院が建造され、その宝物も引き継がれました。長谷川等伯(1539 - 1610)と息子・久蔵(1568 - 1593)が描いた名高い金碧障壁画群も、手厚い保護を受けて今日まで守り伝えられてきました。

この展覧会は、国宝「楓図」「桜図」など、誰もが知る障壁画群を初めて寺外で同時公開し、桃山時代の絢爛豪華な抒情美にふれる貴重な機会となります。また、国宝「金剛経」や重要文化財「孔雀明王像」の他、仏堂を荘厳する仏教美術の貴重な優品や、近代京都画壇を代表する堂本印象(1891 - 1975)による「婦女喫茶図」に至るまで、智積院が秘蔵する多彩な名宝を一堂に公開します。

 

さて、私のような者に日本美術の名品を十分に語ることができるのか、自信がありません。それに、私の関心は長谷川等伯派の障壁画のみ、ということになりますので、あらかじめご了承ください。それでは、私の学生時代の体験からお話しします。

私が京都の智積院を訪れたのは、大学生の時です。大学が名古屋にありましたので、京都国立博物館で見たい展示があると、友人たちとガソリン代と高速料金を割り勘にして、車で京都に見学に行ったものでした。智積院は博物館のすぐ近くにあって、そこは養源院の向かい側にもなります。博物館で企画展示を見て、智積院で長谷川 等伯(はせがわ とうはく、1539 - 1610)の障壁画を見て、養源院で俵屋宗達(たわらやそうたつ、1570頃 - 1640頃?)の杉戸絵を見る、というのが私の見学コースでした。ですから、何回か智積院で等伯の障壁画を見ています。

私は日本美術の専門家ではありませんから詳しいことはわかりませんが、智積院の障壁画は日本美術史のなかでも五本の指に入るほどの名品ではないでしょうか。しかし、等伯の作品として最も有名なのは、水墨画の『松林図』の屏風でしょう。白い空間に浮かび上がる松の姿を見ると、呆然となってしまうほど美しいです。それはモノクロームの切り詰めた世界ですが、墨の表現が大胆、かつ繊細なので、色のない世界だということを忘れてしまいます。この水墨画の世界こそ、等伯という画家の真骨頂なのだ、と誰もが思うでしょう。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/456847

ところが、今回も展示されている智積院の『楓図』を見ると、その色彩の見事さにため息が出ます。また、木の枝や花や草の生命感は、部分的にその後の琳派の絵画を思わせるような躍動感があります。

『楓図』と『松林図』の両方の作品を見ると、等伯が多彩な才能の持ち主だということがわかりますが、そう思うのは私だけではないようです。講談社『日本の名画』という画集の3巻が長谷川等伯の作品に割り振られているのですが、その本の解説を橋本綾子(1928 - )さんという美術史家が書いています。橋本さんは、等伯の表現領域の広さについて、こう書いています。

 

わたくしもまた、はじめて『松林図』を見たとき、これほど美しい絵があるだろうかと思い、長谷川等伯という名前が忘れられなくなった。ところがそれいらい、等伯の描いた作品を見続けているうちに、その作家のもつ複雑さに悩まされはじめたのである。それというのも、ここに取り上げた作品をみてもわかるように、彼の絵は仏画、肖像画、山水画、花鳥画、道釈画、禅機画、とあらゆる領域にわたっていて、その各々がともに、絵画史上エポックを画するほどに優れた出来映えをみせており、いったいそれらが、一人の作家の中でどのように関連するのか、疑問に思わないわけにはいかなかったからである。

(『日本の名画 3 長谷川等伯』「人と作品」橋本綾子)

 

よくわからない絵画の種類がでてきました。「仏画(ぶつが)」とは、仏教絵画全般を指しています。仏教の伝来を表した絵画とか、場合によっては僧の肖像画を含みます。「山水画(さんすいが)」とは、山や樹木、岩石、河川などを描いた墨による風景画ですが、実景を写生したものよりも、再構成した風景画が主流です。「花鳥画(かちょうが)」とは、文字通りの花や鳥だけでなく、草木、虫、水生生物などの生き物(小動物)がモチーフとなった絵画です。「道釈画(どうしゃくが)」とは中国絵画の一部門で、道釈(道教と仏教)関係の人物画のことをいうのだそうです。「禅機画」とは、禅の悟りの契機や極意を描いたもので、人物の所作や禅僧応答の機微を象徴的に描いた絵画です。

このように、当時の日本の絵画は中国の絵画の影響をまともに受けていましたので、絵画のジャンルも中国の芸術や宗教に沿ったものとなります。等伯もそういう絵画をたくさん描いていたわけです。後でわかりますが、彼は日本画の主流となることを意識していたので、手掛ける絵画の種類も自ずと増えていったのでしょう。

 

それでは、その長谷川等伯とは、どのような人物だったのでしょうか?

等伯は能登国の出身ですが、その後上洛(じょうらく/京にのぼること)し、26歳のときに信春という名前で絵仏師として美術史上に現れたのだそうです。その後は不明な期間もあったものの、画家としての修行を積んで45歳のときに長谷川等伯という名前で水墨画家として再び登場するのです。

先程も書いたように、等伯は日本画の主流となるような画家を志していたようですが、この当時は狩野派という一派が日本画の大きな仕事を請け負っていたので、結果的に等伯は狩野派と競り合うことになります。この頃の絵師は、いまの芸術家のように絵画を独立したものとして描いていたわけではなく、襖や屏風などの生活用品の発注によって制作し、その収入で暮らしていたのです。ですから、大きな寺院などの障壁画の仕事を請け負うためには、それなりの工房を構えて、受注を得るように努力しなくてはなりません。

智積院の襖絵の仕事ですが、狩野永徳という狩野派の中心画家が亡くなったタイミングと時期が重なったことで、等伯が受注を得ることができたのです。大きな仕事ですから、工房をあげて全力を尽くしたに違いありません。その結果、現在の私たちは智積院の障壁画の展覧会を見ることができるわけです。この作品について、先の橋本綾子さんは次のように書いています。

 

この寺は文禄2年(1593年)8月、ほぼ2年かかって完成し、伽藍の大きさ、内部の美観、都第一といわれるほど善美を尽くしたものであったが、障壁画もまた、念願かなった長谷川派の総力をあげて制作しただけあって、豊麗な色彩と生命力にみちた描写は、(狩野)永徳とはちがった金碧画様式を創造したといえよう。中でも『楓図』は、画面の中央を斜めに徽る巨大な樹木を描き、その幹を色と線を継ぎ重ねながら肉付けする点において、狩野派の様式を取り入れたが、画面左半分、幹を埋めて咲き乱れる楓や菊、或いはそれに吹き上げるように立ちのぼる萩の描写は、息の長い輪郭線でかこみ、その中を塗りこめ、平面化する手法をとって、大和絵の描写を採用したといえる。そして永徳のように金で持って背後を遮断し、目指す対象をくっきりと浮き上がらせ、様式化してしまうのではなく、細部を克明に描いてそれのかもす全体的雰囲気を情景的に表現して、花鳥画にふさわしい華麗さ、やさしさを与え、自然とのより感性的な結合を感じさせるのである。ここで等伯は彼本来の大和絵的描法を基調とし、強大な筆力と構成力を要する大画面障壁画に挑戦し、それを美事にのりこえたということができる。

(『日本の名画 3 長谷川等伯』「人と作品」橋本綾子)

 

ここで比較の対象とされている狩野永徳(1543 - 1590)の作品を見てみましょう。

https://global.canon/ja/tsuzuri/works/64.html

いかにも武家社会の中で鍛えられてきた造形という感じがします。それに狩野派として栄えていくには、工房の誰が制作しても良いように様式化して、作品のレベルを維持しなければなりません。橋本さんの文章では「永徳のように金で持って背後を遮断し、目指す対象をくっきりと浮き上がらせ、様式化してしまうのではなく、細部を克明に描いてそれのかもす全体的雰囲気を情景的に表現して、花鳥画にふさわしい華麗さ、やさしさを与え、自然とのより感性的な結合を感じさせる」という長い文章が永徳と等伯の対比を捉えていると思います。作品の保存状態によりますが、等伯の作品の方がモチーフの植物が周囲の空間に溶け込むように柔らかく、それだけ画家の力量を感じさせる作品となっています。

さらにここでは「大和絵(やまとえ)」という名詞が出てきましたが、これは「唐絵(からえ)」という概念と対になっているものです。先ほども書いたように、日本は長らく中国の文化や芸術の影響を受けてきたので、中国の様式をそのまま踏襲したものを「唐絵」と言ったのです。そのような時代の流れの中で、日本的な様式の絵画も描かれるようになりました。それらの作品を「大和絵」と言います。例えば『源氏物語絵巻』のように、色彩豊かで柔らかな表現の作品は中国にはなかったので、こういった作品を「大和絵」というのです。『楓図』は、まさに大和絵の要素をふんだんに取り入れたものだと言えるのです。

 

今回の展示では、「第二章:桃山絵画の精華 長谷川派の障壁画」というタイトルの大きな部屋に、長谷川派の障壁画が一堂に眺められるように展示されています。作品の保存のためだと思われますが、照明が少し落とされていて、それが良い雰囲気を醸し出していますが、老眼の私にはちょっと物足りませんでした。智積院では、もう少し明るいところで作品を見た記憶があるのですが、私が若かったからよく見えただけかもしれません。

また、日本の古美術は置かれるべき場所が決まっていますから、このようにニュートラルな展示場で鑑賞するというのは、見やすさという利便性の反面、本来の見え方とは異なるのではないか、という思いが絶えずつきまといます。しかし、背後の壁の前に置かれたベンチに座って、横に長く並べられた障壁画をのんびりと眺める、というのはやはり贅沢な体験です。私はゆっくり鑑賞したくて開館と同時に入ったのですが、私と同様にベンチに座ったまま長い時間作品を眺めている方がいらっしゃいました。

『楓図』のことばかり書いてしまいましたが、久蔵作とされる『桜図』の花びらの立体的な表現は、実物を見ないと実感できません。久蔵は26歳で亡くなったそうなので、この障壁画も20代で描いたのだと思います。等伯と並ぶほどの腕前だったというのですから、大したものです。その実力が、この『桜図』からも読み取れます。

それから、絵の具の立体感を実感することも大切ですが、同時に金箔の背景も本物を見ると物質感が強くて、画像や印刷物で見るのとはまるで違います。金箔は絵の具の質感とはまったく異なりますから、絵を描く立場で言うと、絵画として成立させるためには、図と地の関係をしっかりと計算して描かなければならない、と感じます。通常の絵画以上に、ネガとポジのバランスや境目の形が重要になるのです。

そしてこれらの作品が描き上がったばかりの頃は、どんな姿をしていたのか、ということも想像してしまいます。それぞれの作品の葉や花びらの色がだいぶ落ちていますが、それはそれで時間の経過を経た美しさがあります。絵の具が落ちた後に残った墨の線が、一級品のドローイングを見るような伸びやかさと正確さがあるのです。そんな現在の姿と、描き上がったばかりの輝くような状態と見比べてみたいものです。

 

さて、今回は展示されていませんが、この後に描かれた『松林図』までの間、等伯はどのような時間を過ごしたのでしょうか。さきほども書いたように若くして長男が急逝し、後ろ盾であった千利休が壮絶な死を遂げるなど、等伯は時代の荒波に揉まれることになります。その等伯の運命について、橋本さんの解説を見てみましょう。

 

最愛の息子久蔵に先立たれた等伯の嘆きはいかばかりであったろうか。北陸の辺地から、なんの背景もなく上洛して、独力で画壇に登場してきた彼にとって、嘱望する後継者を失うということは最大の痛手であった。それに智積院に揮毫(きごう)しはじめた天正19年(1591年)、彼を大徳寺に推挙して何かと尽力を惜しまなかった千利休が、秀吉の怒りにふれて自刃(じじん)した。等伯は独裁者のもとにある芸術家の運命をも思い知ったことであろう。以来等伯は文禄3年(1594年)『春屋宗園像(しゅんおくそうえんぞう)』、同4年(1595年)『千利休像』を描き、やがて枯淡(こたん)な水墨画の制作へと没頭してゆくのである。彼は中国宋代の画僧、牧谿(もっけい)に傾倒し、これを学び、自家薬籠中(じかやくろうちゅう)のものとして、『枯木猿猴(えんこう)図』『竹林猿猴図』等の傑作を描いていった。そしてその果てに名作『松林図』が生まれたのである。

(『日本の名画 3 長谷川等伯』「人と作品」橋本綾子)

 

この文中に登場する牧谿ですが、13世紀後半の画僧です。墨の濃淡の柔らかな表現が、おそらく日本の画家の好みだったのだと思います。

http://kousin242.sakura.ne.jp/maruhei/%E4%B8%AD%E4%B8%96/%E7%89%A7%E8%B0%BF/

その後も等伯は絵を描き続けますが、結局、長谷川派というのは等伯一代のものだったようです。長谷川等伯以降というと、私は狩野派には興味が持てず、もっぱら本阿弥光悦や俵屋宗達らの琳派の表現ばかりを見てしまいます。宗達も等伯と同じくらい興味深くて、好きな画家です。野人のような宗達と、一大派閥を築こうとした等伯とはまるで違う生き方をした画家たちですが、実際にはどこかに接点があったのでしょうか?多分、30年くらいは同じ時代を生きていますから、どこかで出会っていても不思議ではありません。どなたか分かる方がいらっしゃったら、教えて下さい。

 

ということで、とりあえず智積院の障壁画と長谷川等伯について、思いつくことを書いてみました。先入観なく、絵を見た方が良い、という考え方もありますが、日本の古い絵は私たちにとって縁遠いものになってしまっていますから、彼がこの仕事を担当した背景や、狩野派との比較、大和絵的な表現、等伯がこの後で『松林図』を描くことになる画家だということ、ぐらいは知っておいても良いような気がします。

先にリンクを貼ったラジオ番組で学芸員の方の話を聴くとわかりますが、今回は智積院の展示場所が工事で展示できなくなる、ということで貴重な障壁画を貸し出しているようです。東京にいながらにして、このような贅沢な展示を見る機会は、今後もないでしょう。お時間があったら、ぜひお出かけください。私は日曜日の開館時間に合わせて行きましたが、混雑はそれほどでもありませんでした。しかし、作品を後ろから一望のもとに見たいなら、空いている時間をねらって行ったほうがよいと思います。



さて、もうひとつの展覧会、『クリストとジャンヌ=クロード "包まれた凱旋門"』は「21_21 DESIGN SIGHT」で2023年2月12日まで開催されています。

https://www.2121designsight.jp/program/C_JC/

 

この展覧会も同じラジオ番組で紹介されました。

『Tokyo Midtown presents The Lifestyle MUSEUM』

ゲスト;野間真吾さん(グラフィックデザインを担当)

Tokyo Midtown presents The Lifestyle MUSEUM_vol.739

https://www.tfm.co.jp/podcasts/museum/month.php?month=202206

 

上のホームページとラジオを聞いていただけると、だいたいのことがわかりますが、基本情報を確認しておきましょう。

この展覧会はクリストとジャンヌ=クロード (Christo & Jeanne-Claude)というアーティストの夫婦が手がけたプロジェクトで、2021年9月に実現した「L'Arc de Triomphe, Wrapped, Paris, 1961–2021(包まれた凱旋門)」の記録展です。夫のクリストと妻のジャンヌ=クロードは同じ1935年6月13日生まれで、クロードは2009年に、クリストは2020年に亡くなりました。したがって、パリの凱旋門を包むという大プロジェクトは、彼らの遺志を組んで関わったスタッフが実現させたものです。

もしもあなたがクリストというアーティストをご存知なければ、ちょっとわかりにくい話だと思うので、順を追って説明しましょう。

クリストは物を梱包する作品で有名な人です。しかし、そもそも物を梱包するということはどういうことなのか、これはおそらくマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887 - 1968)の作品に、その源流を辿ることができます。

私たちは、ある作品を良いと言い、ある作品を良くないと言います。その判断基準がどこにあるのかといえば、少し前までは写実的に絵を描く技術が基準になっていたと思います。しかし20世紀になって、写実的ではない作品がたくさん現れて、何を良しとするのか、その基準が曖昧になってしまいました。デュシャンは、作品の良し悪しを決めるのは作品そのものではなく、それを見る人たちの内面にあるのではないか、と考えました。

それならば、日常にありふれた工業製品を「芸術作品だ!」と言って差し出して、人々がそれを芸術作品だと思い込めば、それも芸術として成り立つのではないか、と考えました。デュシャンはありふれた工業製品(レディメイド)を作品とすることを考えました。有名なのは男性用便器にサインを入れて『泉』という作品にしたことです。

https://www.artpedia.asia/fountain/

それからデュシャンは、作品を決定する重要な要因は自分の考えの中にある、と考えました。そこでデュシャンは作品制作のメモを一つの箱の中に封じ込めてしまいました。その作品を『グリーンボックス』と言います。

https://www.artpedia.asia/the-green-box/

クリストの初期の発想は、この『グリーンボックス』に似ているでしょう。クリストの梱包作品を見た人は、中に何があるのか、知りたくなります。しかし、中には日用品が入っているだけです。もしもその作品を芸術表現だと認めるなら、それを芸術だと判断する要因は梱包された中身にあるはずがありません。それを芸術作品だとみなす私たちの頭の中にあるはずです。

はじめのうちは、日用品を梱包していたクリストは、どんどんイメージを膨らませていきます。大きな建物や、島、風景を梱包することを考え始めました。そうすると、ひとりだけでは制作できず、自分の仕事に共感してくれる仲間が必要になります。それに資金も必要ですので、完成したイメージをスケッチやポスターにして販売します。梱包する対象が公共物ならば、特別な許可が必要でしょう。組織的な交渉も必要です。次第にクリストの作品は、社会全体を巻き込んでいきます。いつしか、なぜ梱包するのか、ということよりも、どのようにして梱包するのか、ということのほうが重要になってきます。

こういうふうに作品のコンセプトについて深化させていくのではなくて、より多くの共感を得て人々を巻き込んでいくという社会運動が目的化していったところに、クリストとクロードのユニークさがあります。クリストは、現場の人たちと議論するのが好きだったそうですが、制作過程そのものが作品だったのですから、それは当然です。

私はクリストとクロードの作品にそれほどの興味があるわけではありませんが、このように制作する人々の姿を記録として展覧会を開催する、というのは理にかなっていると思います。その記録された工程の一つ一つに説得力があって、自分にも何かできそうな力をもらえるのです。

 

クリストとクロードは亡くなりましたが、まだ計画中のプロジェクトがあるそうです。その中に、ぜひともクレムリン宮殿を為政者ごと梱包する、という計画が含まれていてほしいと思います。一ヶ月ぐらい梱包しておくだけでも、世界はずいぶん平和になるのではないでしょうか。

 

さて、一方は日本の古美術で、国宝指定の作品が鑑賞できます。

もう一方は、展示場の建物そのものがユニークな現代美術展です。現代美術そのものというよりは、そのドキュメンタリーの展示だと言ったほうが良いかもしれません。

六本木のミッドタウンはおしゃれなお店が並びますが、こういう心の贅沢に時間を使うことが、もっともおしゃれな行為ではないでしょうか?

冬の一日を、よかったらそんなことにお使いください。これをきっかけに、美術に興味を持つ方が一人でも増えるといいなあ、と思っています。

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