平らな深み、緩やかな時間

280.スピノザ『知性改善論』からクリスト、デュシャン、宮川淳を考える

はじめに、再度の連絡です。

私は前々回のblogで若い画家の個展をご紹介しました。

 

東京都渋谷区神泉町の「Liamgallery /リアムギャラリー」で、12月25日(日)まで開催されている『大竹奨次郎「竜泉」』という個展です。

http://liamgallery.com/exhibition.html#82_ootake

 

まだ会期が残っていますので、ぜひお出かけください。

リアムギャラリーは窓の広い、開放的で気持ちの良い空間ですが、さまざまなジャンルの展覧会を開催しているので、もしかすると大竹さんのような現代絵画に興味がある方には馴染みがないかもしれません。しかし、成長過程にある若い画家の旬の作品を見逃すのは、あまりに惜しいです。大竹さんは才能があるというだけでなく、感性や思考方法が私のような年配の作家とは違っていて、それがとても新鮮で興味深いです。

渋谷区とはいっても松濤美術館の近くで、落ち着いた雰囲気の中で鑑賞できます。感染症が心配な状況ではありますが、絵画鑑賞はマスクをしていれば大丈夫です。今年の最後の画廊巡りとして、お勧めいたします。



それから前回は、六本木ミッドタウンの2つの展覧会を紹介しました。

 

『京都・智積院の名宝』「サントリー美術館」2023年1月22日(日)まで※12月30日 - 1月1日が休館期間です。

https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2022_5/index.html

 

『クリストとジャンヌ=クロード "包まれた凱旋門"』「21_21 DESIGN SIGHT」2023年2月12日まで※12月27日 - 1月3日が休館期間です。

https://www.2121designsight.jp/program/C_JC/

 

こちらの六本木ミッドタウンの展覧会は、来年まで開催されていますので、休館日を確認の上、お正月のお休みなどを利用してご覧になることをお勧めします。展覧会に関することは、前回のblogをお読みください。

 

さて、私は『クリストとジャンヌ=クロード "包まれた凱旋門"』の紹介の中で、クリスト(Christo、1935 - 2020)がなぜ作品を梱包したのか、について少しだけ触れました。そこでマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887 - 1968)を引き合いに出して、芸術作品の成立する要因が現代美術の中で問題とされてきたこと、クリストの梱包作品もその延長線上で考えることができること、を指摘しました。そしてその上で次のように書きました。

「(クリストにとっては)いつしか、なぜ梱包するのか、ということよりも、どのようにして梱包するのか、ということのほうが重要になってきます。

こういうふうに作品のコンセプトについて深化させていくのではなくて、より多くの共感を得て人々を巻き込んでいくという社会運動が目的化していったところに、クリストとクロードのユニークさがあります。」

この文章で書いたことについて、概ね間違っていないと思います。しかし、それでは実際のクリストとは別の方向で、つまり「作品のコンセプト」を深化させる方向で進めた場合にどのような結論に至るのか、ということも気になると思います。

そこで今回は、作品のコンセプトを先鋭化させて表現した現代美術の始祖とも言えるデュシャンについて、そしてそのデュシャンを鋭く批評した日本の美術評論家、宮川淳(みやかわ あつし、1933 - 1977)さんの著作『紙片と眼差とのあいだに』をとりあげてみたいと思います。この著作を通して、美術作品の成立要因が現代美術においてどのように考えられてきたのか、ということを確認しましょう。そして、そのことから現代美術がいま置かれている状況を理解し、その問題点に対して前々回まで勉強してきたスピノザ(Baruch De Spinoza 、1632 - 1677)の哲学がどんなふうに応用できるのか、ということを考察してみます。なかなか結論までの道のりが長いのですが、頑張りましょう。

 

さて、クリストが物を梱包した作品を制作したとき、私たちは美術作品として鑑賞すべき核心を隠されてしまいました。これは何だろう?と思って作品を見ても、それは布で隠されていて見えないのです。それでも、クリストがその梱包されたものを美術作品として展示したとき、私たちはひとつの物を「美術作品」として認識するときに、それを「美術」とする要因が「物」そのものにあるのではなく、私たちが物を見るその視線のなかにあることに気が付きました。

そのことを端的に示した作品が、デュシャンの『泉』であり、『グリーンボックス』であったことを前回、確認しました。

https://www.artpedia.asia/fountain/

https://www.artpedia.asia/the-green-box/

宮川淳さんは、このデュシャンの『泉』という作品について、次のように問いかけます。

 

便器を『泉』と題して出品しようとしたとき、デュシャンが提出した問はより深く、つぎのことにあるだろうー作品も人間によってつくられた物質的存在、いいかえればひとつの物体(オブジェ)であり、陳列されるものとしては、ショー・ウィンドーに陳列された便器と同じではないだろうか。とすれば、それを単なる物体以上のものとするのはなにか。

(『紙片と眼差とのあいだに』「マルセル・デュシャンの余白に」宮川淳)

 

宮川淳さんは美しい文章を紡ぐ人で、けっして過剰な説明をしません。ですから、彼が発した問いは投げ出されたままになっているように見えますが、もちろん、彼はこう問いかけているのです。

展覧会場に置かれるであろう「便器」を、商品として陳列された「便器」以上のもの、すなわち「芸術作品」として見なす要因は何なのか?

その答えは、彼の著作から容易に読み取ることができます。それは私たちの「眼差」にほかなりません。つまり、私たちがそれを「芸術作品」だと思って見るから、「芸術作品」に見えるのです。

宮川淳さんのこの考え方は、当時の最新の現代思想によるものです。宮川さんはスイスの言語学者、記号学者、哲学者で、「近代言語学の父」といわれたフェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857 - 1913)に発する記号学を美術の世界に応用し、見事な成果をあげたのでした。次の文章を読んでみてください。

 

作品(あるいはむしろ☓作品)は、もはや、それ自体において意味をになうのではなく、「美術」という記号(意味)作用の一項となる。いいかえれば、「美術」という記号(意味)作用のシステムはもはやひとつの作品の中に、あるいはひとつの「作品」としての完結的に見出されるのではなく、それを見ることのの中に、「見る」ことのディスクールとして求められなければならないだろう。作品=創造に対して、それを見るというテクスト=引用として捉えること。

(『紙片と眼差とのあいだに』「記号学の余白に」宮川淳)

 

宮川さんが何を言っているのか、解読してみましょう。

この世界は言葉の意味によって区切られていて、その区切り方は言語によって微妙に異なる恣意的なものだというのが、記号論の描く世界観です。芸術作品も例外ではなく、何を芸術作品として意味づけるのかは、恣意的な区切りによるものです。それを平たく言えば、私たちがその物質を「芸術作品」として見なすのかどうか、あるいは「芸術作品」として意味づけるのかどうかによるものだ、ということになります。

そうすると、世界をどのように「意味」によって区切るのか、が問題ですから、新たな芸術作品などというものは「創造」しようもありません。新たな芸術作品だと思ったものは、どこかで見たものの「引用」でしかないのです。

その事実を私たちに突きつけることが、宮川さんのこの文章の主旨です。実際に宮川さんはその考え方に則って、自分の文章を「引用」のコラージュによって、つまりすでに書かれた文章のツギハギによって新たな文章を綴る、という試みを実践しています。

私は、それはそれで面白い試みであると思うのですが、同時にその試みには何か息苦しいものを感じます。すでに限界づけられたものを切り貼りするしかない、という選択肢の貧しさが、そのような感情を抱かせるのだと思うのです。皆さんは、どうお感じになるでしょうか?

ところでこの文章が書かれた当時、このような宮川さんの批評はどのように受け止められていたのでしょうか?

この宮川さんの切れ味の鋭い文章、最新の哲学や思想を土台にした考察は、その当時(1970年代)の美術批評にとっては、ただ驚愕するしかなかったのだと思います。私が美術批評らしきものを読むようになった1980年代には、すでに宮川さんは他界していましたが、その残響のようなものはありました。その頃の美術批評家の反応は、宮川さんを別格の研究者として祭り上げるか、あるいは日本の現代美術から遊離した、あまり現実的ではない高尚な思想を語る人として排除するか、だいたいそのいずれかではなかったかと思います。

宮川さんの批評はちゃんとした批判を受けることもなく、ある意味では彼は孤独のうちに亡くなったのだと思います。「孤高の人」と言ってもよいのでしょうが、それだけで終わらせては、今の私たちのためになりません。彼の思想を正当に批判した上で、私たちは次の時代を生きなくてはならないのです。その手がかりとして、私たちはスピノザの思想を手に入れました。さらに検討を進めましょう。

 

宮川淳さんの批評を批判的に検討するに当たって、そもそも彼の論理の進め方が窮屈ではないか、と呟いてみてはどうでしょうか?それはこういうことなのです。

例えば、デュシャンがあろうことか男性「便器」を芸術作品として差し出したり、自分のメモをおもちゃ箱のような「グリーンボックス」という箱に収納したり、ということについて日常的な感覚で考えてみましょう。これらの作品には、デュシャンという人の遊び心による余裕とか、ユーモアとか、ウィットとか、ピリッとした皮肉とか、そういうものを感じないでしょうか?

宮川さんのデュシャンへの探究には、そういうデュシャンの良い意味での不真面目さを不真面目なままに引き受けるゆとりがありません。不真面目さを純粋な真面目さで受け止めてしまっているのです。その結果、「芸術作品」の意味を狭い方へと追い込んでしまったのではないでしょうか。

私の言っていることは、批評の本質とは関係のない、ただの感覚的な戯言のように見えるかもしれません。私自身も、以前はそう思っていました。そして、これでは宮川さんを批判したことにならない、と思っていたのです。けれども、それがそうでもないかもしれない、と最近、スピノザを読んでいて思いました。

今回は、スピノザが『エチカ』の前に書いた、『知性改善論』という著作をを読んでみます。『エチカ』よりは、だいぶ読みやすい本のようです。そこに書かれているスピノザの言葉は、厳密さを追求しつつもどこかおおらかです。これは國分功一郎さんの一連のスピノザ研究から学んだことでもありますが、例えば「知覚」と「認識」に関する次のスピノザの文章を読んでみてください。

 

(20)これらすべてを、例を以て解明しよう。単に聞き覚えだけから私は、私の誕生日や、これこれの両親を持ったことや、その他同様の、それについて決して疑ったことのないような事柄を知る。漠然たる経験によっては、私が未来に死ぬだろうことを知る。これは私が、自分と同じような他の人々が死んだのを見たから信ずるのである。もっとも、すべての人が同じ期間だけ生きたわけでもなければ、同じ病気で死んだわけでもないけれども。なおまた、漠然たる経験によって私は、油が焔を維持するのに適する資料であり、水がこれを消すのに適するものであることを知る。また、犬が吠える動物であり、人間が理性的動物であることを知る。このようにして私は、生活に役立つほとんどすべてのことを知るのである。(21)ところで、他の事物から結論するというのは、次のような場合である。すなわち、我々がこれこれの身体を感覚し、その他の何ものをも感覚しないことを明らかに知覚する時に、そのことから直ちに、我々は、精神が身体と合一しているということ、そしてその合一がこうした感覚の原因であることを明瞭に結論する。しかし我々は、一体その感覚とか合一とかがどんな種類のものであるかをそれから絶対的には理解できない。ーあるいはまた私が、視力の本性を識り、視力には同一物でも遠く離して見ればそれが近くで見られる時よりも小さく見えるという特性のあることを識る時に、我々はそれから、太陽が目に見えるより大きいことや、その他それと類似する事柄を結論する。

(『知性改善論』スピノザ著 畠中尚志訳)

 

スピノザは「漠然たる経験」によって、自分が誕生した日のことや両親のこと、そして未来にはいずれ自分が死ぬこと、生命に限りがあることを知った、と書いています。その他のさまざまなこと、例えば油が火の燃料になること、水が消火に使えること、犬が吠えること、人間が理性的な動物であることなどを、漠然とした経験から知った、とも書いています。さらに身体と精神の合一、視覚によって物の遠近を識ることについても書いています。

要するに、私たちは日々の経験によって、大抵のことを知るのです。そういうごく当たり前のことをスピノザは書いているのですが、実はこれが近代哲学の中では当たり前のことではありません。

それはどういうことでしょうか?ここで近代哲学の大物、デカルト( René Descartes、1596 - 1650)の『方法序説』の有名な一節と比較してみましょう。

 

さて、前にもいったように、実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように、従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。しかしながら、いまや私はただ真理の探求のみにとりかかろうと望んでいるのであるから、まったく反対のことをすべきである、と考えた。ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえぬ何ものかが、私の信念のうちに残らぬかどうか、を見ることにすべきである、と考えた。かくて、われわれの感覚がわれわれを時には欺くゆえに、私は、感覚がわれわれの心に描かせるようなものは何ものも存在しない、と想定しようとした。次に、幾何学の最も単純な問題についてさえ、推理をまちがえて誤謬推理をおかす人々がいるのだから、私もまた他のだれとも同じく誤りうると判断して、私が以前に明らかな論証と考えていたあらゆる推理を、偽なるものとして投げすてた。そして最後に、われわれが目ざめているときにもつすべての思想がそのまま、われわれが眠っているときにもまたわれわれに現れうるのであり、しかもこの場合はそれら思想のどれも、真であるとはいわれない(夢の思想には存在が対応しない)、ということを考えて、私は、それまでに私の精神に入りきたったすべてものは、私の夢の幻想と同様に、真ならぬものである、と仮想しようと決心した。しかしながら、そうするとただちに、私は気づいた、私がこのように、すべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は、必然的に何ものかでなければならぬ、と。そして「私は考える、ゆえに私はある」というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によっても揺り動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一の原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。

(『方法序説』デカルト著 野田又夫訳)

 

デカルトは、「実生活」においては不確実な意見にも従わなければならないことがあるが、と極めて常識的なことを言いつつ、そのあとは徹底して「疑う」ことを決意します。このデカルトの方法についての批判的な検討については、次のblogを参照してください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/d6478fe6d2283e4a3e2690dec5909a27

それはともかくとして、とにかくデカルトは「疑う」という方法を徹底することで「私が存在する」ということを証明しようとしました。この「疑う」という自己批判的な姿勢は、現代美術の批評家グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)にまで連綿と続きます。そのことも、私は先のblogで書きました。

これを頭において、もう一度先ほどのスピノザの文章を読んでみてください。スピノザは「わかる」という肯定的なことから考えていることに気が付きませんか?

私の誕生日は何月何日である、ということを、私はさまざまなことを疑ったがゆえに知るのではなく、何となくそのことを知っていて、それがあらゆる場面で整合性を保っているのです。人が死ぬこと、そしていずれ私も死ぬであろうことも、私は何となく知っています。私は死んだことがないからそれは証明できない、などということはありません。

そう考えると、一見鷹揚に見えるスピノザの方が、否定や疑問を基本として物事を考えようとするデカルトよりも、本来の私たちの認識に近いということがわかるでしょう。

 

このスピノザ的な、鷹揚で肯定的な、あるいは私たちの実感に根ざした知覚と認識の方法で、宮川さんのデュシャンの見方を見直してみると、どうなるのでしょうか?

デュシャンは「便器」を芸術作品として差し出そうとしました。宮川さんは、このデュシャンの行為から、「創造」という行為を疑う方へと進んでいきました。なぜなら『泉』は、創造的な行為を否定する作品だからです。

しかし、こんなふうに考える人も中にはいるでしょう。「自分の実感として、どうしても『泉』は芸術だと思えない」、「こんなものは芸術として認めない」という人たちです。デュシャンの『泉』を芸術作品だと認識することが100%正しいわけではありませんから、このように考える人たちのことを否定することはできません。そう考えると、この『泉』をもってして「創造」行為そのものを否定するというのは、ちょっと乱暴なのではないでしょうか?

考えてみると、私たちが作品を作るときに、100%の創造行為によって作品を作り得たとはなかなか言えません。かといって、創造行為のすべてを否定して、過去の作品の引用だけで制作するということも、通常では起こらないでしょう。作品制作というのは、つねにこの両方の要素が混じり合っているのです。

ところが、モダニズムの思考方法だと、創造か、引用か、そのいずれかに徹底することが重要だと思われているようです。だから宮川さんのような頭の切れる人だと、徹底的に自分の立場の思考を突き進めて、「創造」を全否定し、「引用」だけを称揚してしまうのです。

一方のスピノザは、ものごとを否定的に考えるのではなく、漠然と感じることを厳密に捉えようとするのです。おそらくスピノザ的な思考を発揮するなら、現実に即した創造行為を否定的に語ることはないでしょう。

そしてスピノザは物事を固定的に考えるのではなく、つねに動きのあるものとして受け入れます。私は以前のblogで、そのことについて触れました。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/a1947ba45a00bcc44f8d3edfff124425

スピノザは、物事を固定的な「形相」において見るのではなく、ある「傾向を持った力」として見ようとしたのです。先程の『知性改善論』の文章を読んでも、そこには生活する人の息遣いがありました。それはスピノザが「形相」という固定的な見方において物事を見るのではなく、「力」という動的な見方において見ることによるのでしょう。スピノザの文章を読むと、動いていく人、変化していくものを見つめようとする態度を感じます。私には、デカルトのものの見方よりもスピノザの見方の方が現実的であり、またそこから世界が開かれていくような可能性を感じます。

 

さて、私はデカルトもスピノザもたいして勉強していないのに、二人の思想を比べて判定するようなことを書いてしまって、ちゃんとした研究をしている人から叱られそうです。ですから、この辺でやめておきましょう。

しかし、この先のことを考えていく上で、ヒントになりそうなことがいくつかあります。

それは、人や物を動きのあるもの、スピノザ的に言うと「力」として認識すること。

次に「否定」することよりも、「肯定」することを基本に考えること。

さらに、私たちのこれからの思考の筋道は、今後の未来が切り開かれていくようなものでなければならないこと。

闇雲に考えて、未来が硬直したもの、否定的なもの、息苦しいものになってはいけません。私たちの筋道を引き継いだ人たちが、その先の未来を切り開いていけるようでなければ困ります。このように考えると、哲学や思想は倫理的なものでなければなりません。スピノザの言うところの「エチカ」=「倫理学」とは、こういう意味なのでしょうか?

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