今日、千葉のDIC川村記念美術館に、中西夏之展を見に行きました。私の住んでいる横須賀からは遠いのですが、とにかく見る価値のある展覧会です。
中西夏之という画家は、私が学生の頃に紫色を使ったタブローの作品を見て以来、機会があれば作品を見るようにしてきました。そのどこに魅かれているのか、いまだにうまく言葉に出来ないのですが、いつかまとまった文章にしてみたいと思っています。
とりあえず、今回の感想を忘れないうちに書き留めておきます。
まず、今回の展覧会は『韻』、『洗濯バサミは攪拌行動を主張する』といった初期作品と、最新作のタブローを並列的に設置してある点が特徴です。中西夏之の作品はほぼ時系列で知っていますから、作品を見ること自体は何も新しいことではありません。しかし、今回ほど『韻』という作品が美しく、またリアルに感じたことはありません。とくに大部屋に飾られた『韻』のシリーズは、最新作と並べられても不思議なほど違和感がありませんでした。
これらの作品は、日本の美術の同時代の作品、つまり1960年頃の作品と並べられると、何となく昔の作品として見てしまいますし、和風アンフォルメルの作品群の喧騒の中では、ひとつひとつの絵のこまかいところまで目が行かないのも、やむを得ないところです。しかし、『韻』にしろ、『洗濯バサミは攪拌行動を主張する』にしろ、私はどこかで絵画的な触覚性を感じてきました。それが今回は、かなり明確に見えていたと思います。絵画的な触覚性とは、たんに物理的な絵の表面のことではありません。絵としての表面に確かに触れているという感じ、とでも言えばいいでしょうか。例えば、どんなに画面の上で絵具を撒き散らして暴れてみても、それは絵画の表面に触れたことにはならないのです。重要なのは、描き手の意識の問題なのだろうと思います。
それから、タブローの設置の仕方が独特で、イーゼルに立てられた作品と、壁面に飾られた作品が同時に目に入ってくることが、とても自然なことのように感じられました。これまでも、中西夏之の展覧会では、インスタレーションのように絵が設置されていたことがありましたし、寒冷紗に点々と穴のあいたものが吊り下げられていたこともありました。ですから、とくに驚くことではないのかもしれませんが、こちらの意識が慣れてきたせいか、今回はとくに部屋全体が心地よくて、離れがたい感じがしました。
DIC川村記念美術館はすばらしい所蔵作品をもっていますが、その現代美術の名作たちと比較してみても、中西夏之のユニークさは際立っているのではないでしょうか。個性、というようなものではなく、作家として立っている地平が違う、というか、大げさではなく、それくらいの差異があるような気がします。
前回のセザンヌ解釈とのつながりでいえば、ジョナサン・クレーリーがセザンヌについて言っていた「知覚経験における変則的なものに、驚くほど敏感であった観察者」とは、中西夏之にもあてはまるのではないか、と私は考えます。20世紀になり、テクノロジーの発達により、私たちの視覚世界は多様化しましたが、私たちはそれを何の疑問もなく受け入れています。それに、あいかわらず絵画は壁に掛けて鑑賞するものであり、それはまるで室内からガラス越しに窓の外を見るような安定感を保っているような気がします。中西夏之は「敏感な観察者」として、私たちにそうではない世界を見せてくれているのではないか、と思います。彼にとって絵画の平面性とは、美術館の壁に掛けられるだけの制度的なものではなく、もっと知覚的にあらわれてくるものなのでしょう。
これ以上の事を書くには、もう少し考察が必要ですね。いまはまだ、予感のようなもので書いているにすぎません。
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