平らな深み、緩やかな時間

363.『キェルケゴール 生の苦悩に向き合う哲学』鈴木祐丞について①

はじめに、私に関する連絡です。

2月12日(月・祝)から17日(土)まで、東京・京橋の「ギャラリー檜e・F」で個展を開催します。ギャラリーのスケジュール表は次のリンクを開いてください。

https://hinoki.main.jp/img2024-2/exhibition.html

なお、私のホームページから、案内のDMと展覧会に向けて作成したパンフレットをPDFファイルの形式で見ることができます。

http://ishimura.html.xdomain.jp/news.html

パンフレットの文字原稿をこのblogに転載しました。文字だけをお読みになりたい方は、前々回の私のblogをお読みください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/5a3f6224008e7b4055310622ed97528a

もしもDMとパンフレットの現物をご覧になりたい場合は、私に直接メールで連絡してください。ご住所とお名前をいただけましたら、送料等を含めて、すべてこちらの負担で送らせていただきます。

私のメールアドレスは「harvestone1@gmail.com」です。

 

そして追加の連絡です。

毎日新聞 2024/2/2 地方版(東京)の「遊ナビ」という欄に次のような私の展覧会の紹介が掲載されました。

 

■石村実展―触覚性絵画の探究―

 12~17日、11時半~19時、ギャラリー檜e・F(中央区・宝町駅)。

石村は、1985年に愛知県立芸術大大学院絵画研究科修了。今展は、奥行き表現と、絵画の触覚性との緊張関係について探究を深めるものになっている。作品によっては、二つのモチーフのイメージを重ね、イメージが表出する複雑な奥行きと絵画の触覚性について試行錯誤している。ミクストメディアによる絵画約20点を展示する=写真は触覚性絵画「芦名の木立」ミクストメディア、20×28センチ。

会期中無休。入場料無料。03・6228・6361

https://mainichi.jp/articles/20240202/ddl/k13/040/010000c

※実際の紙面には、DMで使用した作品写真が掲載されました。

 

おそらく、ギャラリーの方が広報してくださった結果だと思います。この記事を見て展覧会に来てくださる方が実際にいらっしゃるのかどうか分かりませんが、一人でも多くの方に見ていただけるとうれしいです。



さて、今回はデンマークの哲学者、思想家のセーレン・キェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard 、1813 - 1855)さんに関する本を取り上げます。

『キェルケゴール 生の苦悩に向き合う哲学』という新書ですが、この本を書かれたのは鈴木祐丞(すずきゆうすけ)さんという研究者です。大学の先生をなさっている方のようです。

このキェルケゴールさんですが、著名な思想家であることはもちろんですが、「実存主義」哲学の創始者とも呼ばれ、200年以上前に生まれた方であるにもかかわらず、現代思想に大きな影響を与えた人です。その重要性は同時代人であるドイツの哲学者、経済学者、革命家のカール・マルクス(Karl Marx、1818 - 1883)さんにも比肩しうるものだと、キェルケゴールさんの主著『死に至る病』(1849)の岩波文庫版の解説に書かれています。

 

実存主義とマルクス主義とが現代の二大思潮であるといわれるにつけても、キェルケゴールへの関心は世界を通じてマルクスへのそれに迫っているともいえる。彼はたまたまマルクスと時代を同じうしていたが、マルクスが1848年に『共産党宣言』を書いていたとき、その前後にキェルケゴールが書いていた諸著は「宗教宣言」ともいわれるべきものであった、という学者もいる。二人の辿った道はいわば全く異質的なものであったが、両者ともに人間の「自己疎外」の問題に深く思いをひそめたという点では相通ずる所があるということは、近時学者達によってしばしば指摘されている。ただそれを問題にした次元が異なっているので、マルクスが現実の社会の矛盾への鋭い洞察に即して人間の自己疎外すなわち自己分裂を問題にしたのに対して、キェルケゴールはほかならぬ彼自身の内面にひそむ深刻な矛盾への自己分析に即して、いわばおのが傷口を眼として、不安と絶望に悩む近代的人間の姿を赤裸々に暴露したのである。

(『死に至る病』「解説/岩波文庫」斎藤信治)

 

このような解説を読むと、現代の社会問題に直結する思想家であるマルクスさんとキェルケゴールさんが、同じように私たちに迫ってくる気がするのですが、その一方でこの比較には違和感があります。なぜなら、キェルケゴールさんは私たちから見ると圧倒的にキリスト教的な人であり、それ故にその著作はとても読みづらいのです。これは私自身が無宗教であり、なおかつ宗教に関する教養がほとんどないことに起因するのかもしれませんが、キェルケゴールさんの本を実感を持って読もうとするなら、何か一つ壁のようなものを乗り越えなければならないのです。そんなわけで、私はキェルケゴールさんには興味があるのに、その著書にはどうにもなじめない、というジレンマに悩んできたのです。

何をくだらないことを言っているのか、と思われるかもしれませんね。それでは『死に至る病』の出だしの部分を読んでみてください。

 

「この病は死に至らず」(ヨハネ伝11・4)。それにもかかわらずラザロは死んだ。キリストの弟子達が、「われらの友ラザロ眠れり、されど我よび起こさんため往くなり」というキリストのその後の言葉の真意を理解しなかったときに、キリストは弟子達に直截にこう語った、ー「ラザロは死にたり」(11・14)。かくてラザロは死んだ。にもかかわらずこの病は死に至らなかったのである。ラザロは死んでしまった、にもかかわらずこの病は死に至っていない。もっとも我等はキリストがそのとき当時の人々に「もし信ぜば神の栄光を見せしむ」べきはずであった(11・40)奇蹟のことを考えておられたことを知っている。キリストがラザロを死人の中から甦らしめたあの奇蹟、ーかくて「この病」はただ死に至らなかったのみではなく、キリストが予言したように、神の子がそれによって栄光を受け神の栄光が顕されるに至った(11・4)かの奇蹟のことをキリストは考えておられたのである。おお、されど、もしキリストがラザロを甦らしめなかったとしても、この病が、いな死そのものさえもが、死に至るべきものでなかったということは同様に真ではないだろうか?

(『死に至る病』「緒論」キェルケゴール著 斎藤信治訳)

 

これを読んで、何を言っているのかわかりますか?要約を試みてみましょう。

ラザロという人が病気になったとき、キリストは「この病は死に至らず」と言ったのですが、それにもかかわらずラザロは死んでしまいました。その後、キリストは奇跡を起こしてラザロを甦らせたので、弟子達はキリストの言葉の真意を悟った、という新約聖書の話です。私は聖書にくわしくないので、不正確な解釈だったら申し訳ないのですが、キェルケゴールさんは、たとえラザロさんが甦るという奇跡が起こらなかったとしても、キリストが「死に至らず」と言ったことは「真ではないだろうか」と問いかけているのです。

これは一体、どういうことでしょうか?

この後の部分を読んでみましょう。

 

一体人間的にいえば死はすべてのものの終わりである、ー人間的にいえばただ生命がそこにある間だけ希望があるのである。けれどもキリスト教的な意味では、単なる人間的な意味での生命におけるよりも無限に多くの希望が、死のうちに存するのである、ーこの生命がその充実せる健康と活力のさなかにある場合に比してもそうである。

それ故にキリスト教的な意味では、死でさえも「死に至る病」ではない。いわんや地上的なこの世的な苦悩すなわち困窮・病気・悲惨・艱難(かんなん)・災厄・煩悶・悲哀・痛恨と呼ばれるものどれもそれではない。それらのものがどのように耐え難く苦痛に充ちたものであり、我々人間がいな苦悩者自身が「死ぬより苦しい」と訴える程であるとしても、それらすべてはーかりにそれらを病になぞらえるとしてー決してキリスト教的な意味では死に至る病ではない。

(『死に至る病』「緒論」キェルケゴール著 斎藤信治訳)

 

キェルケゴールさんは「キリスト教的な意味では」という断りを入れつつも、「死ぬより苦しい」と訴えるような病であっても、それは「死に至る病」ではない、と言っています。これはどういう意味でしょうか?私たちには、到底受け入れられません。キリスト教では、それほど特殊な考え方をするのでしょうか?

さらにキェルケゴールさんは、その後の部分でも「キリスト者のみが死に至る病の何を意味するかを知っている」と書いています。これでは、この本を理解する意欲を失ってしまいます。このように書いたキェルケゴールさんの真意はどのようなものなのでしょうか?

ここで一つ、おさえておかなければならないことがあります。それは19世紀のデンマークがどういう社会であったのか、ということです。鈴木祐丞さんの『キェルケゴール』にそのことが書かれているので、読んでみましょう。

 

かつて異教(ユダヤ教)の世界にキリスト教が導入されてから長い年月が過ぎた。ときは19世紀のデンマーク。すでにキリスト教は長きにわたり、ヨーロッパの国々の支配的な宗教となっている。今やほとんど誰もキリスト教をめぐって真剣に思いを巡らせたりはしないし、そのために生きることもしない。人々は神との関係について、せいぜい祝祭日に、それも他人事のように想像するくらいのことしかせず、自分自身の救いが懸かったリアルな問題として考えることはないようだ。こうしたキリスト教界にあっては、キリスト教を「再」導入するという課題が生じる。キェルケゴールはその任を担おうとしたのである。

(『キェルケゴール』「序章 神に仕えるスパイ」鈴木祐丞)

 

これを読むと、おそらくキェルケゴールさんが「キリスト者」と言った人たちとは、同郷の人たちのすべてが当てはまるのだということがわかります。だからこの本は、一部の信者にあてて書かれたものではなく、この本を読むであろうすべての人たちに向けて書かれているのです。しかし、そうは言っても、当時のデンマークの人たちは熱心にキリスト教について考えていたわけではなかったようです。だからキェルケゴールさんは「自分自身の救いが懸かったリアルな問題」を考えるために、キリスト教の教えが必要なのだと訴えたかったのです。

それにしても、なぜキェルケゴールさんは「キリスト教」にこだわったのでしょうか?先ほども紹介したように、キェルケゴールさんと同時代のマルクスさんは、社会的な活動で人々を救おうとしました。どうしてキェルケゴールさんも、もっと手っ取り早くそういう方法を考えなかったのでしょうか?

当時のデンマーク社会のことが分かったとしても、やはりキェルケゴールさんについては謎が残ります。

 

ちょっと先走りました。

『死に至る病』について読み始めたので、キェルケゴールさんが何を「死に至る病」だと言っているのか、そのことがまずは気になりますよね。『死に至る病』を本格的に読むのは別の機会としますが、とりあえず、そのことだけでもここで知っておきましょう。

実は先ほど読み始めた部分は『死に至る病』の「諸論」、つまり本編に入る前の部分です。その後に「第一編」が始まるのですが、サブタイトルには次のように書かれています。

 

死に至る病とは絶望のことである。

(『死に至る病』「第一編」キェルケゴール著 斎藤信治訳)

 

「絶望」というのは、言うまでもなく人間の心の状態を指す言葉です。キェルケゴールさんは「地上的な」困窮や病気、厄災は「死に至る病」ではなく、さらには身体的な「死」をもたらすものであっても「死に至る病」ではない、と言うのです。それに対して、「絶望」は「死に至る病」であると言っているのです。

これはどういうことでしょうか?

鈴木さんの『キェルケゴール』のなかの、その解説に当たる部分を読んでみましょう。

 

「死に至る病」(Sygdommen til Døden)という概念は、新約聖書「ヨハネによる福音書」のいわゆる「ラザロの復活」(11:1-44)の話をベースにしている。イエスは、死の床に臥す友ラザロについて、彼の姉妹に向けて「この病は死には至らない」(11:4参照)と言う。もちろんそれは、彼が、ラザロの死後にラザロを蘇らせることを念頭に述べた言葉ではあった。だが、その真意はじつはそうした時間的な意味での生命のことではない、というのがクリマクスの解釈である。イエスは永遠的な意味での生命、つまり精神としての存在にかんして、ラザロの病は死に至らないと述べているのだ。だから同書の言う「死に至る病」とは、時間的な意味で死をもたらす致死的な病気のことではない。永遠的な意味での死病とも言いうるような、精神として存在する人間にあっての危機的な状態のことである。

(『キェルケゴール』「第7章 汝自身を知れ」鈴木祐丞)

 

ちなみに、文中の「クリマクス」という人は、キェルケゴールさんが『死に至る病』を書いた時のペンネームです。

さて、キリスト教に限らず、人間について宗教的に考える時に身体と魂を分けて考えることが多いと思います。そして身体的な人間には生命という時間的な限定があるけれども、魂としての人間は永遠に存在する、と考えるのです。そう考えると、人間にとって本当に深刻なことは身体的な死ではなく、魂が死んでしまうことだ、ということになります。この魂の死をもたらすものが「絶望」であるとするなら、「死に至る病とは絶望のことである」ということになるのです。

このことが分かるだけでも、『死に至る病』はかなり理解しやすい本になります。先ほどの「諸論」の引用部分も、ほぼ意味が読み取れるようになるのではないでしょうか?

そして「第一編」の書き出しのところも、これらのことを知っていると、キェルケゴールさんが何にこだわって言葉を連ねているのかが、ある程度理解できるようになります。試しに読んでみましょう。

 

人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものとなることが含まれている、ーそれで自己とは単なる関係はなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、綜合である。要するに人間とは綜合である。綜合とは二つのものの間の関係である。しかしこう考えただけでは、人間はいまだなんらの自己でもない。

二つのものの間の関係においては関係それ自身は否定的統一としての第三者である。それら二つのものは関係に対して関係するのであり、それも関係のなかで関係に対して関係するのである。たとえば、人間が霊なりとせられる場合、霊と肉との関係はそのような関係である。これに反して関係がそれ自身に対して関係するということになれば、この関係こそは積極的な第三者なのであり、そしてそれが自己なのである。

(『死に至る病』「第一編」キェルケゴール著 斎藤信治訳)

 

この「自己」に関する面倒な最初の叙述が、『死に至る病』を読むときの躓きの石になるのですが、ここまでの私たちの学習で、「人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、綜合である」というあたりはだいぶ理解しやすくなったのではないでしょうか?人間の生命に限りがあることは自明のことですが、人間という存在について目を向けた時には、その精神的な永遠性という概念が綜合的に含まれるのだとキェルケゴールさんは言っているのです。

これが宗教的な考え方一辺倒の人ならば、「人間の魂は永遠である」と言い放ってしまえば良いのかもしれません。そして肉体の死後に天国に行きたければ良い行いを積み重ねなさい、と言えばわかりやすかったのかもしれません。しかしキェルケゴールさんは、そのような宗教家にはなれなかったようです。

その一方で、彼は宗教の外側からキリスト教を研究するような、そんな学者になるつもりもなかったのです。そこが興味深いところで、キェルケゴールさんの特殊な立ち位置が、今回鈴木さんの著書を読んでわかりました。そのキェルケゴールさんの振る舞いは、芸術的な表現者の立場から見て、とても参考になるものです。この点については、次回、もう少し詳しく考察しましょう。

今回は最後に、そのようなキェルケゴールさんの特殊な立ち位置がどのようなものであるのか、鈴木さんの説明を読んでおきましょう。キェルケゴールさんが考えたのは、「実存」者としての自分の、あるいは人間のあり方でした。キリスト者としてのあるがままの存在を認識すること、キェルケゴールさんの思想のすべてがそこから始まります。

 

「実存」(Existens)とは一般に、とくにキリスト教の教えのなかで見られた、現実の存在するものの姿のことである。すなわち、存在そのものとしての神から、それぞれの本質に存在を付与されて現前するようになった、個々の事物の具体的なあり方のことである。言い換えれば、神や永遠という相を遠景としたときの、人間をふくむ時間的で有限な事物のリアルな姿である。

<中略>

キェルケゴールの理解では、実存と類比的な考え方は、すでに古代ギリシアの哲学者たちの思想にも見られる。人間を、時間的な肉体と、永遠不滅の魂という対立的な要素から構成されるものとして捉える理解がそれである。これには、死とは肉体という牢獄から魂が解放されることであるとか、人間は魂に配慮して生きねばならないといった理解が付随する。キェルケゴールは、そのような古代ギリシア的な人間観と対比させることで、キリスト教的な実存の概念の、ある部分にとりわけアクセントを付すのである。  

キリスト教もやはり、永遠的なものを遠景に時間的な現実の存在を見、そこにキリスト教的な人間理解が、実存としての人間が、姿を現している。人間は、時間的な肉体と、永遠的な精神という、矛盾する二項の関係から成るという理解(『死に至る病』参照)がそれである。だがキリスト教にあっては、肉体の死後に精神が解放され、それで万事が済まされるわけではないことに留意すべきである。むしろそうではないところにこそ、キリスト教がキリスト教たるゆえんがあるのではないか。

(『キェルケゴール』「序章 神に仕えるスパイ」鈴木祐丞)

 

この文章の中で印象的なのは「神や永遠という相を遠景としたときの、人間をふくむ時間的で有限な事物のリアルな姿である」というところです。キェルケゴールさんの思想にとって、「リアル」であることは大切なことでした。それは個人的な幸福な生活や、社会的な高い地位よりも、キェルケゴールさんには重要なことだったのです。

このことは、単にキェルケゴールさんが誠実な人であった、というようなきれいごとではすみません。彼はそうせざるを得ないような人だったのです。そしてその結果、キェルケゴールさんは宗教を盲信する人ではなく、かと言って宗教を外側から研究する人でもなく、自分という存在をあるがままに認識しつつ、その当時のデンマークのキリスト教社会を内側から変革しようとしたのです。そのようなキェルケゴールさんの生き方や感性に、私は深く共感しますが、その話は次回に、ということになります。

 

今回は、私にとってキェルケゴールさんがこれまで理解しづらい思想家であったこと、その躓きが鈴木さんの『キェルケゴール』によって、かなり解消できたことを言いたくて、文章を連ねてしまいました。次回はもう少しわかりやすく、キェルケゴールさんという思想家について、あるいはその主著である『死に至る病』について、私の理解できた範囲で書いてみることにします。そしてその存在のユニークさ、芸術表現者から見て参照すべきことについても、できるだけ書いてみましょう。

そして、もしも私のようにキェルケゴールさんのことを難しいと思っている方がいらしたら、この鈴木さんの新書『キェルケゴール』を読んでみてください。あるいはキェルケゴールさんについてすでに理解をしている方にも、鈴木さんのキェルケゴール解釈を読んでみていただきたいと思います。

そして一緒に、この魅力的な思想家について考えてみましょう。

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