平らな深み、緩やかな時間

81.『中動態の世界』國分功一郎、『芸術の中動態』森田亜紀

「中動態」という聞きなれない言葉がタイトルになっている本を、二冊読みました。正確には『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎(著)を先に読み、その結果、「中動態」という概念によって芸術を論じた本がないのだろうか、と探したところ、見つけたのが『芸術の中動態 受容/制作の基層』森田亜紀(著)だったのです。

さて、その「中動態」という言葉の意味ですが、これは中学校の英語の時間に習った、「能動態」「受動態」という文法用語と同じく、動詞の「態」をあらわす用語です。(たぶん、日本語の文法で、「能動態」「受動態」の違いを教わったことはありませんよね…。)しかしその授業なかでも、「中動態」という「態」を習ったことはありません。それもそのはずで、國分功一郎が『中動態の世界』の中で「中動態」の概念をさかのぼって考察していくのですが、それは今から8000年以上も前のことになります。古いヨーロッパの言語(インド=ヨーロッパ語という言語だそうですが)では、「能動態」と「中動態」が先にあって、「受動態」はなかったのだそうです。「受動態」はずいぶん後になって、「中動態」から派生したのです。私は言語について勉強するつもりはありませんし、それほどの興味もありません。しかし、私たちが当たり前のように認識している「能動」と「受動」の区別が言語の黎明期には存在しておらず、そのかわりに「能動」と「中動」の違いがあった、ということは頭に置いておいた方がよいでしょう。言葉は私たちの思考の基礎になるものですし、私たちがあたりまえのように思っていることが、意外とそうでもないということは(少なくとも私にとっては)よくあることです。
それでは、その「中動態」とはどのようなものなのでしょうか。この点について、『中動態の世界』(國分功一郎)にくわしく書かれているのですが、私には『芸術の中動態』(森田亜紀)の序章に書かれた説明がわかりやすかったので、その事例に沿って説明してみましょう。
例えば私たちが林道を歩いていて、ふと顔を上げると、そこに山があったとします。そのとき、「私は山を見た」というべきでしょうか、それとも「山が見えた」というべきでしょうか。意志を持って、つまり山を見ようと思って顔を上げたのなら、「山を見た」という方がしっくりくるのでしょうが、何気なく顔を上げたらそこにたまたま山があったのなら、「山が見えた」という方がぴったりでしょう。これを文法の「態」にあてはめてみると、「山を見た」という場合、これは私たちの能動的な行為だとはっきり言えますから「能動態」だと判断できます。しかし「山が見えた」という場合、私たちの能動的な行為だとは言い難い…、かといって受動的である、つまり私たちは「受け身」の立場であった、とはっきり言うことも出来ません。私たちは誰かに首をつかまれて、むりやり顔を上げさせられて山を見た、というわけではありませんし、もちろん、山が動いて私たちの目の前に立ちはだかった、というわけでもありません。能動的だとは言えないものの受動的でもない、そういう行為を語るときに、能動態と受動態のふたつの「態」では足りないのです。森田はそれを、次のように説明します。

これに対して「見る」と区別される「見える」という語によってわかりやすくなるのは、主体―客体、能動―受動を超えた自然な展開、おのずからの成り行き、自然発生性・自発性である。
(『芸術の中動態』森田亜紀 p10)

「見える」という日本語の動詞だけでなく、インド=ヨーロッパ語の中動態という第三の態を足掛かりとすることで、西洋思想の文脈と手を切らずに、これまで捉えにくかった何かを考えることができるのではないか。
(『芸術の中動態』森田亜紀 p12)

誰かの意志によらず自然発生的に見えたこと、意外なことに、このようなよくある行為を適切に語る「態」が、いまの文法の用語ではない(ような)のです。そこで、かつてあった「中動態」という用語、概念が注目されているわけです。

ところでこんなこと、つまりこんな取るに足りないことに注目して、どんな意味があるのか?と思う方もいるでしょう。私が山を見ることに意志があろうがなかろうが、それが能動的であろうが受動的であろうが、どうでもいいことのようにも思えます。しかし、私たちの行為を能動、受動という二者択一に整理してしまうことに、ふと違和を感じることがあります。私自身の違和感はあとで書くことにして、國分功一郎が『中動態の世界』の冒頭で書いている架空の対話について、ここで触れておきましょう。それはアルコール・薬物依存症の人との対話なのですが、架空とはいっても國分の実際の体験から書かれたものだそうです。アルコールや薬物に依存してしまう人、それは意志の弱い人であり、その依存から立ち直るためには強い意志が必要である、という一般的な思いこみに対し、この対話の人物は次のように言います。

アルコール依存症、薬物依存症は本人の意志や、やる気ではどうにもできない病気なんだってことが日本では理解されていないからね
(『中動態の世界』國分功一郎 p4)

しっかりとした意志をもって、努力して、『もう二度とクスリはやらないようにする』って思ってるとやめられない
(『中動態の世界』國分功一郎p4)

もちろん、クスリをやめる、という意志は大切ですが、そのような「意志」ではどうしようもないことが存在する、そのことをいくら語っても理解してもらえない、ということなのです。刑務所の講習会でそう語っても、最後には「一生懸命に努力すれば薬やアルコールはやめられます」と刑務所の人にまとめられてしまう…、その徒労感についても語られています。
それでは、この理解を妨げているものとは、いったい何なのでしょうか。

やっぱり言葉だと思う
(『中動態の世界』國分功一郎 p6)

というところで、この会話は終わっています。
正直に言って、中動態の概念が依存症の人の気持ちを本当に理解する鍵になるのか、私にはわかりません。國分自身も、そのことを明確に言及しているわけではないのですが、「あとがき」で次のようなことを書いています。

そんな緊張感を感じながら、その場で熊谷さん、上岡さん、ダルクのメンバーの方々のお話をうかがっていると、今度は自分のなかで次なる課題が心にせり出してくるのを感じた。自分がずっとこだわり続けてきたにもかかわらず手をつけられずにいたあの事件、中動態があるときに失踪したあの事件の調査に、自分は今こそ乗り出さねばならないという気持ちが高まってきたのである。
その理由は自分でもうまく説明できないのだが、おそらく私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な哲学の言葉では知っていた「近代的主体」の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。「責任」や「意志」を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもできなくなっている悩みや苦しさがそこにはあった。
(『中動態の世界』國分功一郎 p320)

この文中の「熊谷さん」は小児科医で研究者、「上岡さん」は「ダルク女性ハウス」の代表者です。「中動態があるとき失踪した」というのは、國分が「中動態」について学生時代から気になっていたものの、考えをまとめきれなかったことを指しています。
この「依存症」の話との出会いから、「責任」や「意志」ではどうにもならない悩みや苦しさがあることを知り、それが言葉の問題や、「近代的主体」の問題へと大きくつながっていく、というのです。この本の中でもアリストテレス(BC 384 - 322)などのギリシャ哲学、言語学者のバンヴェニスト(Émile Benveniste, 1902 - 1976)、哲学者のアレント(Hannah Arendt、1906 – 1975)、デリダ(Jacques Derrida, 1930 - 2004)、ハイデガー(Martin Heidegger、1889 - 1976)、スピノザ(Baruch De Spinoza、1632 - 1677)といった名前が次々と出てきます。こうなってくると、私などはもうお手上げ状態ですが、「中動態」の問題が根深く、かつ幅広く西洋哲学の根底にあることはわかります。これらの思想家について、少しずつでも学ばなければなりません。例えばこのなかのアレントですが、彼女は政治哲学と言われる分野の学者ですから、私の興味からはずいぶんと遠い人だと思っていました。ハイデガーとの関係で名前が出てきますし、『エルサレムのアイヒマン』で彼女が厳しい立場に立たされたことなど、話題として興味の惹かれることはありますが、残念ながら著書を読んだことはありません。しかし、人間にとって「意志」や「責任」とは何かを深く考えるときに、アレントは避けて通れない重要な思想家であることがわかりました。

さて、このように『中動態の世界』は、「中動態」の概念が私たちの気づかなかった視野を大きく広げてくれる可能性を示唆しているのですが、私にとってこの本はもう少し身近なところで、引っかかるものを感じました。それが先ほど書きかけた、私自身が感じる「能動」「受動」の二者択一に対する違和感です。例えば(前にもどこかで書いているのですが)私が絵を描いているとき、描く前に想定していた方向性とはかなり違った形で仕上がってしまうことが、しばしば起こってしまいます。しばしば、というよりほとんど毎回のように起こっている、といった方がよいのかもしれません。それは私の技術的な「拙さ」によるものだ、と言ってしまえばそれまでですが、始末の悪いことに結果的にそれがかえってよかった、と思えることもあるのです。才能のある人ならば、「神がかり」とか、「天から何か降りてきたような感じ」とか言うのでしょうが、私の場合、それほど素晴らしいものではありません。しかし、それでも「拙さ」という言葉で捨てきれないものがあることは確かです。そのように、かなりの頻度で私の絵は成り行き任せにできてしまうのですが、一般的にはそれはまずいことでしょう。絵を描くときには、しっかりと自分の意志を持って描かなければなりませんし、できた作品に対してはきっちりと責任を取らなければならない、というのは当然のことです。それを頭ではわかっているのですが、気持ちの中のどこかで違和を感じてしまうのです。「意志」や「責任」という言葉できっちりと語れないこと、それを別の観点から語ることで自分の表現にフィットする言葉が生まれるのではないか、と『中動態の世界』を読んだときに思ったのです。
考えてみると現代美術において、この制作に関する「意志」の問題は制作に関する概念の問題、いわゆるコンセプトの問題として、かなり重要な位置を占めてきたのではないか、と思います。そしてその一方で、制作にともなう偶然性の問題、あるいは無意識の問題も20世紀初頭からとくに注目されてきました。これらの問題について「中動態」の概念を用いると、どのような考察が可能なのか、ということを知りたくなりました。この文章の冒頭で、『中動態の世界』を先に読み、その結果、「中動態」という概念によって芸術を論じた本がないのだろうか、と探したところ、見つけたのが『芸術の中動態』だった、と書きましたが、それはそういうわけだったのです。
私の「拙さ」と見分けがつかない制作のエピソードはともかくとして、例えばジャクソン・ポロック(Jackson Pollock, 1912 - 1956)のドリッピング技法に関する諸説を考えてみます。彼が画布の上に立ち、絵の具をコテでドリップする技法は、絵の具の滴る偶然性を活用した、と言われますが、その一方でコテの動きによってかなり絵の具の具合を制御できたはずだ、とも言われます。そして彼は意図的に、画面全体を俯瞰できないような位置に立って制作したわけですが、それも画面構成を意識しないためにそのようにしたのか、それとも従来の画面構成とは異なる意識で描こうとしたのか、意見が分かれるところです。これらを「意志」の有無、能動的であるのかどうか、という観点から考察すると従来の考え方から抜け出せませんが、「中動態」の概念から考えると、違ったアプローチができるのではないか、という予感がします。

さて、それでは『芸術の中動態』では、そのような考察がなされているのでしょうか。そのこたえは半分があたりで、半分がはずれ、というところでしょうか。
例えば私の制作上の違和感については、次のような明確なこたえが書いてあります。

つくり手の作者であることは、出来上がった作品から事後的に成立することと考えてよいのではないか。作品をつくる過程が、主観的なものと客観的なものとのかたちを介した相互限定なのであれば、つくり手は、出来上がった作品から、作品が出来上がったということから、遡ってその作品の「作者」になる。作品に先立つ「作者」であることを後日引き受ける。「作者」である自分が「作品」をつくり出したと、時間を遡って認める。「実在の作者」は、こうして成立すると考えられるのではないか。
(『芸術の中動態』森田亜紀 p194-195)

つくり手の作者であることは、出来上がった作品から事後的に成立すると考えられる。作品をつくる過程が、主観的なものと客観的なものとの「かたち」を介した相互限定なのであれば、作り手自身、つくる過程の中で変化していく。それは、出来上がる作品に呼応した変化のはずだ。作品の出来上がることと、つくり手の「作者」になっていくこととは、一つの同じ中動の動的構造をなす。同じ構造に与えることから、両者のかたちは対応する。おそらくここからつくり手には、出来上がったものが「自分の作品」と思えるのだろう。「自分の作品」とは、「自分のつくった作品」である。つくり手は出来上がった作品から、遡ってその作品の「作者」になる。作品に先立つ「作者」であることを事後的に引き受ける。「作者」である自分が「作品」をつくり出したと、時間を遡って認める。遡行によって、「作者(である私)が作品をつくった」と、能動-受動のかたちで出来事を語るようになる。
ここには現在による過去の修正がある。過去が現在を決定する決定論に対し、現在が過去に意味を与えるという逆方向の決定論である。そしてこの修正は、修正された過去が現在を決定したようなかたちになされる。第九章で見たように、これはフロイトの言う事後性と同じ図式である。
中動態は生成変化の態である。しかもそこには「差異ともいえない差異」が用意されていて、後から振り返れば、主体-客体、精神的意味的なもの-物理的感覚的なもの、等々の二元的対立が遡行的に見いだされる。その遡行まで含めて、言い換えると事後性の問題を含めて、中動態を考えなければならない。
(『芸術の中動態』森田亜紀 p221-222)

長い引用になりましたが、ここに書かれていることは、かなり制作者の実感に近いものではないかと思います。こういうことが、制作者のエッセイやインタビューではなく、研究者の立場からしっかりとした思想的な裏付けのある言葉で語られていることが、とても貴重なことだと思います。そしてこの本の中で頻繁に引用されるのが、現象学のメルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)です。もともとこの本の著者である森田は、メルロ=ポンティの研究途上で動詞の態に関する疑問に出会った、と書いています。「山が見えた」という事例も、まさにメルロ=ポンティの現象学的な視野から出てきたものです。そのメルロ=ポンティが知覚の問題を深めていくとき、しばしばセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)の絵画を参照したことは周知のことですが、そのことを考えると、中動態の概念はまさにセザンヌの絵画を解読する重要な鍵になるのではないか、という気がします。

しかし残念ながら、セザンヌの絵画に関すること、そして先に触れた現代美術に関することは、『芸術の中動態』では書かれていません。そもそも、この『芸術の中動態』が出版されたのが2013年で、『中動態の世界』が出版されたのが今年(2017年)です。私は『中動態の世界』を読んで中動態について知り、さらに芸術の分野において専門的に書かれたものを求めて『芸術の中動態』を読みましたが、出版されたのは『芸術の中動態』の方が4年も前です。さらに『芸術の中動態』のもとになる論文は1990年頃から書かれていたようですから、森田の論文に中動態に関する基礎的な理解を深める内容がかなりの部分を占めるのは、当然です。そのうえで、作品制作にかんする思索にかなりの文章を割いているのですから、ここから先は私たち自身が考えていかなくてはならないのかもしれません。
森田の文章を読むと、「主体-客体、精神的意味的なもの-物理的感覚的なもの、等々の二元的対立」は、時間を「遡行」することによって「見いだされる」ということがわかりますが、例えば現代芸術における「コンセプト」に対する認識は、そんな複雑なものではなく、それらの二元的な対立を短絡的にとらえた結果、「コンセプト」のみを取り出しうる、と考えたもののように思います。コンセプチュアル・アートは、まさに「主体-客体、精神的意味的なもの-物理的感覚的なもの」のうちの前者のみを取り出して作品化したものだと言えるでしょう。私はそのような果敢な試みを否定しませんが、その試みの後で私たちが何をすべきなのか、と考えると、何やら空しい気分になります。コンセプチュアル・アートによって「主体-客体、精神的意味的なもの-物理的感覚的なもの」との関係が見直された、というよりは、コンセプチュアル・アートも芸術のひとつの形式として、あるいは商品としてただたんに消費されてしまったのではないか、と思うからです。
そしてコンセプチュアル・アートのような試みの中には、人間の「意志」が何事においても優先する、という深い思い込みが連動している、という気がします。國分が書いていた「近代的主体」の諸問題について、「ポスト○○主義」というような言葉で、あたかも近代を軽々と超えるような思想や方法があるかのように言われますが、実際には依存症の人たちへの偏見のように、「近代的主体」による二元的対立が私たちの思考を縛っているのではないか、と思います。それを解きほぐしていくには、まずは自分自身の身近なことに関して感じる違和を大切にし、後付けでつじつま合わせをしている自分に気づくことが必要でしょう。
例えば現代芸術、現代美術の発展と行き詰まりが、「近代的主体」による二元的対立を違和感もなく飲み込んで、そのうえでそれらを細分化したものだとしたら、再検討すべき問題が山のようにある気がします。「中動態」が、それらの問題を解決する便利なツールだとは思いませんが、その概念によって何かに気づき、何か違った言葉で芸術や美術について語ることができれば、新しい視野が広がってくるのではないか、と思っているところです。

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