平らな深み、緩やかな時間

82.『熊谷守一 生きるよろこび』展

年始年末は美術館もお休みだと思っていたら、東京の国立近代美術館が1月2日から開いていました。私は3日の正月休みの最終日に、『熊谷守一 生きるよろこび』展(http://kumagai2017.exhn.jp/)を見に行きました。没後40年ということですが、それにしても、なぜいま熊谷守一なのか、腑に落ちないまま出かけましたが、意外と見に来ている人が多かったですね。展覧会場で知ったことですが、5月には『モリのいる場所』という映画も公開されるそうで、熊谷守一役を山崎努が、妻を樹木希林が演じるとのことです。いろいろな形で美術作品が多くの人に触れることはよいことですし、「仙人」と言われた熊谷守一の生き方を映画やドラマにするのも面白そうです。ただ、私自身のことでいえば、自分がよく知っている(と思っている)芸術家を映画やドラマにされると、自分のイメージと違っていた場合にそれが気になってしまって映画そのものが楽しめない、という困った性癖があります。先日、「bunkamuraで上映されていた『セザンヌと過ごした時間』も、忙しさも相まって、結局、見に行くには至りませんでした。『モリのいる場所』は、山崎努と樹木希林というベテラン俳優のお芝居を見るだけでも楽しそうですが、どうしたものでしょう。

さて、肝心の展覧会ですが、これまでも熊谷守一の作品を数多く見てきましたが、今回はさすがに国立近代美術館での企画ということで、質、量、ともに充実していました。もしも熊谷守一の作品に触れたことがない方でしたら、彼のことを知る絶好の機会になると思います。
その熊谷守一(くまがい もりかず)がどんな人だったのか、作品の内容に入る前に軽く触れておきましょう。彼は1880年(明治13年)に生まれ、1977年(昭和52年)に97歳で亡くなった長寿の画家です。岐阜の名士の家に生まれ、東京美術学校では青木 繁(あおき しげる、1882 - 1911)と同級生でした。『海の幸』などの大作を描いて夭折した青木繁の、いかにも芸術家らしい生涯に比べると熊谷守一の人生は、波乱はあるものの、なんともつかみどころのないものでした。美術学校卒業後、文展に出品するなどして作品を発表し、1909年(明治42年)に自画像『蝋燭』が賞を受け、評判になりました。しかし、母の死をきっかけに帰省すると、そのまま上京せず、ほとんど絵を描くこともやめてしまいました。岐阜の山中で材木をいかだに組んで運ぶ仕事をしていたそうです。それが1915年(大正4年)にひょっこり上京し、大江秀子という女性と結婚し、5人の子供を得ることになります。生活は極度に貧乏で、絵を描けば売れたのになかなかそうもできず、奥さんをやきもきさせました。子供が病気になっても、満足に医者にも行けない生活が続き、そのためか、元気に成人した子供は2人だけで、次男の陽が死んだときには、枕もとでその様子を絵に描いていたそうです。その絵が『陽の死んだ日』(1928年)という作品なのですが、これはなかなかの傑作です。描いている途中で、描くことに夢中になっている自分に気づき、嫌になって筆をおいた、ということですが、そのタイミングもよかったのだと思います。その後、池袋モンパルナスと呼ばれた地域に住み、戦後になって70歳半ばのころからは体を悪くしたこともあって、自宅の猫や庭のアリや植物などの身近なものをもっぱらモチーフとして描きます。早い時期から墨絵にも積極的に取り組み、書も多数残しています。彼は『へたも絵のうち』という自伝を書いていますが、これがまた飄々とした文体で、面白さも抜群です。晩年には文化勲章の内示を辞退した、という有名なエピソードを残しています。受章して騒がれることが、煩わしかったのでしょう。
実は熊谷守一について、私は若いころにずいぶんと興味を持ち、作品を見に行ったり、本を読んだりしていました。とくに写実的な表現から、熊谷守一特有の色面を主体とした絵画へと変化していく様子が興味深く、今回もその時期の作品によいものが多いと思いました。しかし、いまは若いころよりも少し客観的に絵を見ることができるようになり、熊谷守一への評価も微妙に変わりました。そのあたりのことを、今回の展覧会の感想も交えて、書いておきましょう。

まず、熊谷守一の若いころの写実的な作品についてです。今回、それらの作品を見て、思ったよりも絵がくすんでいて、暗く見えるのが気になりました。欲を言えば、もうすこし明るい部分の明度を上げて、形体をより一層、明快に描いてほしかった、と思いますが、そうはいっても明治時代の画家の作品だと思うと、やはりたいしたものだと思います。たぶん、デッサン力は青木繁よりも上なのではないか、と思います。それに熊谷守一の素晴らしいところは、絵画の平面性に関する意識が高いところです。図像として奥行きの深いところでも平面性が意識されているので、画面に緊張感があります。この資質がその後のフォーヴィズム的な絵画の時期に、『陽の死んだ日』などの作品として花開くことになります。明治以降、多くの画家が写実的な絵画から、ヨーロッパのフォーヴィズム、キュビズムの影響を受け、形体の単純化や色面化を推し進めますが、それが表面的なまねごとに見えてしまうことが多々あります。それは絵画の平面性に対する意識が希薄なことに起因するのではないか、と私は解釈しているのですが、熊谷守一、それ以降だと山口長男(やまぐち たけお、1902- 1983)などは、絵画の平面性についてきわめて高い意識を持っていたので、その作品も真摯な試みとして受け止めることができます。
もともとヨーロッパの画家たちは、日本の浮世絵などの影響から絵画の平面性に気づいていったのですから、日本人の絵画の意識が平面性に対して鈍感だ、というわけではないと思います。しかし、遠近法(透視図法)との相克を経て平面性へと発展していったヨーロッパの絵画と、そういった経験のない日本の画家たちの絵画とは自ずと異なるはずで、そこには複雑な要素が入り組んだ事情があると思います。こういうことを言い出すと、例えば日本人はモダニズムの哲学をちゃんと理解しないうちからポストモダニズムなんて言い出して滑稽だとか、似たような事情の色んな話に及んできそうですが、あまりにのめりこんでしまうのは不毛だと、私は思っています。明治以降、さまざまなヨーロッパの絵画が日本に入ってきて、日本の画家たちはそれらを消化不良のままに受け入れざるを得ない状況にあったことは事実です。もしかすると、その構図は現代でもほとんど変わっていないのかもしれません。だから日本の絵画は見る価値がないのか、といえばそうでもなくて、結局のところ、個々の画家の個性や資質、努力の問題ではないか、と思うのです。だから一人一人の画家の作品、一枚一枚の絵をちゃんと見ることが大切なのだ、という当たり前のことを感じています。例えば1930年ころの熊谷守一の絵画には、ヨーロッパのフォーヴィズムの絵画と比べても遜色のない質の高さがあると、私は思っています。
さて、今回の展覧会の感想としては、先にも書いたようにここからが問題です。熊谷守一は、中期の作品で形体を単純化していきました。その色面と色面との間には塗り残しの空間が垣間見えるものがあり、それが線のように見えてとてもよい感じでした。しかしやがて、その塗り残しを赤い(赤とは限りませんが…)明確な線で引き直すようになってしまいます。これが私には、気になるのです。
熊谷守一という人は自然体で生きた人で、その作品のほとんどを良い感じのところで描き終えています。画家によっては描き過ぎ、凝りすぎと思える作品が多い人もいますが、熊谷守一にはほとんどそういう作品がありません。それが彼の良いところでもありますが、いまの私の感じ方からいうと、そこが少し物足りないのです。たぶん、不自然に思えるような根を詰めた作業をすることを嫌ったのでしょう。しかし、そういうことがやっぱり必要だったんじゃないかな、と(文化勲章級の画家に対して不遜なことですが)私は思ってしまうのです。形体の単純化にあたっては、それが細部表現を含んだものでなければ、単なる簡略化になってしまいます。また、明確に引かれた線は、微妙な空間表現を平板なものにしてしまいがちです。晩年の彼の作品には、その危惧に該当するようなものがあると思うのです。
これについて、そうではない、熊谷守一の作品には、単純な形体の中にちゃんと細部が含まれている、と感じる人もいるでしょうし、もしかすると、ほとんどの人がそう感じるのかもしれません。例えば著名な哲学者、谷川 徹三(たにかわ てつぞう、1895 - 1989)は、こんなことを書いています。

熊谷さんのデッサンの確かさは、こういう簡浄な平塗りの画面においても、女体にはそのヴォリュームを感ぜしめ、猫にはそのしなやかな筋肉を、鶏にはその柔らかい羽根につつまれた丸味を、そして風景には遠い空や遥かな山々や大きな海のひろがりや深い湖の水のたたえを、表現し得させている。黒い盆の上に置かれた卵子は、その卵子の裏側の感ぜられる位に如実性をもっている。この秘密は形をたしかに捉えることによって線を決定し、線をたしかに捉えることによって形を決定するところにあるのだろうが、それはまたひとえに、あらゆるものを見て、見て、更にその上にも見て、見て、見ている熊谷さんの毎日の生活にあるのであろう。デッサンもタブロオもその上のことである。絵は才能ではない、経験ですよ、と熊谷さんが言うのはそういうことであると私は思っている。
(『熊谷守一の人と絵』谷川徹三)

ちなみに、詩人の谷川 俊太郎(たにかわ しゅんたろう、1931 - )は、谷川徹三の長男です。そんな偉大な学者がこのように言っているにもかかわらず、私は自分の目で見て、感じたことをあえて書き留めておきたいと思います。谷川徹三の言っていることも、もちろん理解できるのです。その通りだと頷ける作品もあるのです。しかし、あえて言えば、ということなのです。できれば、みなさんも自分の目で確かめてみてください。
そんなことを考えながら、展覧会全体を眺めてみて、つまるところ熊谷守一という画家は、どういう作品を描きたかったのだろうか、と考えてしまいました。私から見ると、絵画表現というものをひたすら突き詰めて探究した画家、というのとは少し違うと思いました。そういう表現ではなく、もっと自然な、例えば身辺で起こったことを日々、日記に記すような、あるいは歌に詠みこむような、そんな表現を目指した人なのではないか、という気がしてきました。日本には文人画という言い方がありますが、そういう表現形態に近いものではないか、という考えが頭をかすめました。「文人画」という言葉そのものが、私の中ではボヤっとしたものですが、例えば熊谷守一という人が得た技術、知識、教養、芸術に対する考え方をそれとなく絵の中に表現する、というような形の表現です。それが、晩年の絵のモチーフの選び方に色濃く表れているような気がします。盆に載っている卵、伸し餅と包丁、居眠りをしている猫、庭の草花、虫、雨滴など、身辺にあるものを意外な形で造形化する、そのウィットに富んだ表現が、絵の楽しみの大きな要素になっていることは確かです。三重丸に色を塗っただけの『朝の…』などの抽象絵画のようなシリーズがありますが、これは幾何学的な抽象画、というほどの厳密な抽象性はなく、かといって直接、タイトルを想起させるような具象的な要素もありません。ただ、何となく眺めていると、タイトルに示された時間帯の雰囲気が伝わってきます。このあいまいな距離感を楽しむのか、それとも積極的な意味が見いだせないと思ってしまうのか、それはこちらの心映え次第なのかもしれません。この、私の感じたことに近いことを、谷川徹三は次のように書いています。ちょっと長い引用になります。

ゴーガンのポンターヴェンにおけるグループの一人が語っている話だが、或る時彼がゴーガンと食卓を共にした。デザートに林檎が出るとゴーガンは突然「林檎とは何か、どう僕はこれを見るか、色を用いずに林檎の等価をどう与えるかを見給え。」そう言って、かたわらのインキ壺へ指を突っ込むと、いきなり真っ白な卓布の上へ大きな円周を描いて見せた。こういう探求の方向を熊谷さんは押し詰めていったのである。コーガンがここで描いて見せたものはいわば形のイデーである。ゴーガンは印象派の光と影とによって物象をとらえるあのやり方を否定した。そこから知的な形体把握と画面構成への道を開拓したのである。熊谷さんの資質はゴーガン的なものがある。
しかし熊谷さんは東洋人として、東洋における線と色彩の伝統をまごうかたなく受けている。あの赤鉛筆の輪郭線にしても、単なる輪郭線ではない。それは生きた線で、熊谷さんの墨絵の、筆による線と相通ずるものをもっている。熊谷さんの墨絵は油絵画家の余技と見られているが、もともと熊谷さんは最初に日本画を学んだ人であり、兼ねて書をよくする人である。東洋画の線についてはおのずから会得したところがあるのだろう。「犬」の如き実際の作品がそれを示している。中期の油絵の中に見られる、強靭な筆触を盛った線的画面構成をも私はそれと無関係ではないと思っている。それはやがて色塊として対象をとらえる方式に取って代わられ、その方式が単純化されて赤鉛筆の輪郭線になったのだが、この輪郭線は、あの墨絵の筆による線を引き得る者にして初めて引きうる線なのである。「朝陽」や「わさび谷」の場合には、それは油絵具をもってした太い線となり、線のもつリズムを画面構成の中に一層よく融け込ませている。特に「朝陽」では、強い陽光の精気を示すとも見えるその線は、線のリズムを生かしながら、画面一杯の光の表現となっている。それは紛れもなく、東洋画の伝統を油絵で生かしたもので、そこに熊谷さんをゴーガンからはっきり区別する独自な芸術世界が打ち立てられたのである。
(『熊谷守一の人と絵』谷川徹三)

谷川徹三が書いている、西洋絵画にはない「東洋画の伝統」について、私はまったく疎いし、熊谷守一が打ち立てた「独自な芸術世界」についても、理解が足りないのかもしれません。また、私は林檎の「形のイデー」を表現するタイプの画家でもありません。それを言うならば、私は絵画のイデーについて、その平面性と深みについて、もっと深く知りたいと願っています。だから私は、熊谷守一が豪快につき進めた形の単純化と、形の隙間に大胆に引いた輪郭線の手前で、もう少しとどまりながら絵画について考えたいと思っています。
若いころには熊谷守一の絵画について、ただただ面白がり、感心していましたが、今では面白い部分と、違和を感じる部分とを同時に見ることができます。それは、ある意味では熊谷守一の絵画を、もう少し身近に引き寄せて考えることができるようになった、ということなのかもしれません。良質の展覧会というものは、さまざまなことを見る者に語りかけてくるものだ、つくづく思いました。このグローバル化とナショナリズムが複雑に混じりあった時代に、池袋の小さな庭で仙人のように絵を描いた画家について、みなさんはどう感じるのでしょうか。

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