平らな深み、緩やかな時間

348.ビートルズ、大竹奨次郎、山本裕子を『近代美学入門/井奥陽子』から考える

少しだけ時事的な話題を取り上げます。

ウクライナやイスラエル・ガザ地区での戦闘、殺戮など、ニュースを見れば暗い話題ばかりです。ロシアはもちろん、中国もアメリカも、大国はいずれも病んでいるとしか思えません。日本の政治も何をやっているんだか・・・ということで、ニュースを見ればストレスがたまります。あげくの果てにニュース離れが進んでいるそうです。インターネットの怪しげな情報ならば、距離を置くことも必要でしょう。しかし、こういう時代だからこそ現実の状況を客観的に捉える努力が必要です。

それではいったい、どうしたらよいのでしょうか?

11月5日の朝日新聞の9面に「ニュース離れ」という大きな見出しが載っていました。その下の方に、心療内科医・日本ストレス学会理事の海原純子さんのインタビュー記事が掲載されていました。

海原さんは、辛いニュースが心の負担になっている時はその見出しだけ見て、あえて記事を全部読まない、という工夫が必要だと言っています。見出しを見ればだいたい状況が分かりますし、そのあとは深掘りをせずに、「共感疲労」を蓄積しない方が良いということだそうです。

その上で、海原さんは次のようなことも言っています。

 

「3対1の法則」を知っていますか?米国のポジティブサイコロジー医学で言われています。一つのネガティブなことに出くわしたとき、お茶を飲む、音楽を聴く、花を飾るなどの心のポジティブ部分を増やす三つのことをすると、マイナス感情のスパイラルに陥りにくいというものです。

(「共感して疲労 深追いしないのも手」朝日新聞11月5日9面)

 

素晴らしいアドヴァイスですね。これに「絵を見る」「素敵な美術品に触れる」なども加えて欲しいところです。こういう時こそ、芸術の力が必要です。

頑張りましょう。

 

さて、それでは今回は、ビートルズの新曲の話題からです。次の記事を読んでみてください。もう、皆さんがご存知のことかもしれませんが・・・。

 

ザ・ビートルズの愛好家なら昔から知っていることだが、ジョン・レノンは1970年代半ばから後半にかけて、ピアノとヴォーカルでデモ・レコーディングを行っており、それらの音源は「For Paul(ポールのために)」と書かれたカセットテープに収録されていた。そのテープをオノ・ヨーコが見つけ、『Anthology』プロジェクトの前にマッカートニーに渡した。

ポール、リンゴ・スター、ジョージ・ハリスン、そしてプロデューサーのジェフ・リンは「Free As A Bird」と「Real Love」に続く3曲目の新曲としてこの曲を完成させようとしたが、デモ・テープの音質的な限界から当時それは不可能だった。

しかし、近年の驚異的な技術の進歩は新たな機会をもたらし、ポールはジャイルズ・マーティンと一緒に新たに「Now And Then」を作り上げ、新たに録音されたポールとリンゴによる演奏がジョージによる以前のパートを補強し、彼らのヴォーカルがデモ・テープから劇的に音質が改善されたジョンの歌声に加わった。

(『ジャイルズ・マーティンが語る、ビートルズ最後の新曲「Now And Then」の制作舞台裏』「udiscovermusic」ホームページより)

https://www.udiscovermusic.jp/news/giles-martin-on-the-beatles-final-song-now-and-then?amp=1

 

この話題はビートルズファンから熱狂的に受け入れられ、全世界で報じられているようです。その一方で、かつての若い4人が力を合わせていたグループ活動とは別物ではないか、という違和感を抱いた方もいらっしゃるでしょう。また、この奇跡的な音源復活にはAI技術の進歩が深く関わっていることから、AI技術の賛否を問う報道番組もありました。

私は、ポピュラー音楽の世界ではさまざまな人や技術が力を合わせることが当たり前になっていますので、この曲についても楽しんで聴けば良いのではないか、と思っています。予想よりも出来が良く、名作がたくさんあるジョン・レノン(John Winston Ono Lennon、1940 - 1980)さんの作品の中でも佳曲だと感じました。

 

しかし、この出来事を芸術という観点から考えると、なかなか興味深い問題点を孕んでいます。そのことを語ったのは、作家の高橋源一郎さんでした。彼は11月3日の『高橋源一郎の飛ぶ教室』というラジオ番組の中で、おおむね次のようなことを語っていました。

 

ビートルズの新曲というのは、僕や僕より年上の人たちにとっては何とも言えない響きを感じます。僕がはじめて意識的に聴いた彼らの新曲は、世界で衛星中継された『All need is love』でした。それ以来、ビートルズの新曲は、僕や世界中のファンにとって神様からの贈り物でした。1970年にビートルズが解散し、1980年にジョン・レノンが亡くなってから数えても、もう40年以上が過ぎました。その後、メンバーの動向などさまざまなことが話題になりましたが、僕にとっては、もう終わってしまったことでした。

<この後、今回の新曲録音に関する経緯が説明されます。>

もちろん、この曲はビートルズの本当の新曲ではない、という考えも間違っていないでしょう。先日、30年以上連載が続いた漫画『ベルセルク』が作者の三浦健太郎さんの急死でストップ、その後、三浦さんの親友で作品の構想を聞いていた漫画家、森恒二さんが監修して連載が再開されました。この時にも、やはりファンの間では論争が起こりました。去っていった人の遺品をどう扱えば良いのか、残された人たちはその人への愛が深いほど悩むのです。でも『Now And Then』という曲、僕は好きです。

(『高橋源一郎の飛ぶ教室』「11月3日」冒頭のコメントの聞き取りです。)

 

だいたい、こんな内容でした。ちなみに『ベルセルク』という漫画ですが、私は不勉強なので、まったく知りませんでした。しかし、高橋さんが語っていたことが、ニュースにもなっていたのですね。

https://www.oricon.co.jp/news/2296681/full/

 

さて、ここで問題となっているのは、作者と作品との関係性、そして作品がオリジナルなものであると認められるのかどうか、ということです。『Now And Then 』も『ベルセルク』も、商品であると割り切ってしまえば、その出来栄えが良ければ何の問題もないはずです。あるいは、出来栄えが悪くても売れないだけのことなのです。しかし、それらを作家の創作物と見做せば、つまりその芸術性を問題とすればさまざまな課題が浮かび上がってきます。

いったい、どうしてこういう悩ましいことが起こるのでしょうか?

 

このことについて、あるいはこのことに関連するようなことについて、今回は考えていきたいのですが、そのために参考にしたい本があります。

それは先月、井奥陽子(いおくようこ)さんという美学者が「ちくま新書」として出版した『近代美学入門』という本です。この本は、日頃から私が悩んでいることをかなりわかりやすく解説してくれている本です。ですから今後もたびたびこのblogで取り上げていきたいと思います。

それでは、この本の概要を出版社の紹介文から引用しておきましょう。

 

「美は、美しいものにあるのか、感じるひとの心にあるのか」現代における美や芸術の”常識”は歴史的にどう成立したのか、平易な言葉で解説する。読書案内付き。

(筑摩書房のホームページより)

 

ここに書かれている「現代における美や芸術の”常識”は歴史的にどう成立したのか」とは、どういうことでしょうか?

例えば先ほどのニュースで問題となっている作者の問題ですが、実はこれはきわめて近代的な価値観の問題なのです。

次の井奥さんの文章を読んでみてください。

 

たとえば次のようなことをよく耳にします。芸術とは、芸術家が自分の思いや考えを表現したものである。すでにある作品と似たような作品は価値が低い。オリジナリティがあり、作者の気持ちが発露した作品こそが優れている。この点で芸術家は職人とは異なる、等々。

こうした考えは、近代美学に基づいたひとつの見解でしかありません。ヨーロッパでも少なくとも中世までは、あるいは長く見積もれば18世紀前半までは当てはまりません。レオナルド・ダ・ヴィンチもバッハも、自己表現やオリジナリティを作品で目指してはいなかったはずです。そうであれば、こうした見解を前提にして彼らの絵画や音楽を評価するのは不当だと思いませんか。

私たちには知らず知らずのうちに、近代美学の考え方が刷り込まれているのです。意識的に顧みなければ、その価値観を基準にしてあらゆる時代と地域の文化を眺める、ということをしてしまいがちです。当然そうした態度では、近代(なかでも19世紀)ヨーロッパの芸術や思想が至上であるように思われ、そこから外れるものを適切に理解することはできないでしょう。

無意識のうちに内面化している価値観を客観視して相対化するために、近代美学を学ぶことは非常に重要です。

(『近代美学入門』「はじめに」井奥陽子)

 

井奥さんはレオナルド・ダ・ヴィンチ( Leonardo da Vinci、1452 - 1519)さんの名前を例に出していますが、この本の後の章で、具体的に『キリストの洗礼』という作品について書いています。

https://www.artpedia.asia/the-baptism-of-christ/

この作品は、ダ・ヴィンチさんがヴェロッキオ(Andrea di Michele di Francesco de' Cioni 1435 - 1488)さんの工房で修行中に、左下の天使の部分を分担して描いたというふうに言われています。この頃は工房が絵画や彫刻などの注文を受け、師匠の指示のもとでみんなで作品を仕上げていたのです。

その師匠のヴェロッキオさんは彫刻家として有名な人で、この作品でダ・ヴィンチさんの描いた天使があまりに素晴らしいので、ヴェロッキオさんはこれをきっかけに筆を置いて彫刻に専念するようになった、という逸話が残っています。これはあくまで逸話ですが、大工房での共同制作の様子がよくわかる話です。

井奥さんの本によれば、作家の著作権が公式に制定されたのは18〜19世紀だそうです。ですから、仮にそれ以前の価値観にもとづいて考えるなら、『ベルセルク』も『Now And Then』も、まったく問題にならなかったのです。そしてこのような井奥さんの指摘から考えると、作者の意志とか、オリジナリティとかを問題にすること自体が、きわめて近代的な価値観によるものだということがわかります。

私はそれが良いとか悪いとかいうつもりはありません。しかし私たちには、その価値観を「客観視して相対化する」という視点が必要なのです。

このことについて、さらに実際の作家を事例にして考えてみましょう。

 

それでは、ここからは私が見た展覧会について考えてみます。

その展覧会とは、大竹奨次郎さんという若い作家の個展です。「KYOBASHI ART ROOM(東京都中央区京橋1-8-4京橋第二ビル4F)」の次のホームページから、第3回優秀作家展覧会の大竹さんを探してください。

https://www.toda.co.jp/kyobashi-art-wall/exhibition.html?exhibit=fst#otake

すでに会期が終わってしまっていますが、この展覧会から、近代の美意識、価値観と大竹さんの制作について考えてみます。

 

まず、大竹さんの作品ですが、一見すると普通のきれいな抽象画のように見えますが、大竹さんの絵の描き方は少し変わっています。私はそのことを、前回の大竹さんの展覧会に取材して書いていますので、よかったらそちらをご覧ください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/32c72d7f61fb3df9b82267c3d0770bb1

 

今回の展覧会は、前回の展覧会の作品三点と、5年前の作品一点を含めて九点の展示でした。大きな鉛筆のデッサンもあって、大竹さんの作品の概要に触れることができました。

そして、大竹さんの制作方法は以前から大きく変わってはいません。一点ずつ、作品の構造や骨格は変わっているのですが、それも含めて大竹さんの絵画の方法論になっています。

大竹さんは、展覧会の折に自分の書いた文章も公開しています。今回も、A4サイズの紙に両面刷りで3枚分の文章が添えられていました。これは、今回の展覧会のパンフレットによれば、大学時代の先生だった画家の丸山直文さんのアドヴァイスによるものだそうです。良いアドヴァイスですね、そういう師を持つ人がうらやましいです。

先ほども書いたように、大竹さんの制作方法は私の以前のblogに詳しく書いてあります。しかし簡単に、今回の大竹さんの文章から読み取れることを抜き出して書いておきましょう。

 

1本の線を引いて今日は終わり、線と形をおかれてから何か月か経って始められることに気づく。

 

色の数、筆の幅、種類、動かし方、絵の具の薄いと厚い、表面張力、層が、青が違う場所にある青と共鳴する。二乗的に関係するということ自体に関係していく。

 

あるとき色がペンチの力になる。色を使ってぐぐぐぐぐと、因果関係や在り方がへし曲がる。

 

目的もなく街々を歩き続けるように、何を探しているのかわからないまま探し続けるように。頭が回る。比喩が回る。

何かに似る。

思いつくことによって、タイミングによってできる。

 

世界の測る基準。

鷺、白鳥、タツノオトシゴの踊り。

ヒラメ。洗面台の下に伸びている、水道管を見てヒントになる。

 

何度も何度も読んでも前に戻るために進まない物語のように、描くというより見方自体を発見する。

(「世界の限界」大竹奨次郎より)

 

大竹さんの作品は、はじめに大きな描き方だけ決めておいて、あとは自らの眼が反応するのを待って描き進めていきます。だから、自分の描いた色や筆のタッチ、余白などによって、徐々に絵が出来上がっていくのです。そして、以前に彼が書いていたことですが、絵の中から「細胞や地図や街や教会のように関係性があらわれて、色と形が光になって、建てられる」という状態が画面上に訪れるのです。この「光」が見える状態になったら、彼は筆を置きます。

この大竹さんの制作方法は、「絵を完成させる」ために描くという一般的な画家の方法とは根本的に異なります。彼は「何度も何度も読んでも前に戻るために進まない物語のように、描くというより見方自体を発見する」ために描くのです。

ギャラリーでは、大竹さんは私に読書の話をしてくれました。文章の言葉通り、何度も何度もページを戻って、ゆっくりと読むのが好きなのだそうです。フランツ・カフカ(Franz Kafka、1883 - 1924)のように、行きつ戻りつしないとわからない、そしてページを読み返すことが心地よい作家の本をよく読むのだと教えてくれました。

私は、そういう気持ちが少しわかるような気がします。本当に本が好きな人は、きっとそういうふうに楽しみながら本を読むのだろう、と思うからです。

大竹さんは、あたかも本を読むように絵を描いているのです。

 

さて、今回、大竹さんの作品をあらためて見せていただき、このような大竹さんの絵画は、井奥さんの『近代美学入門』が指し示す近代の価値観と少しずれているなあ、と感じました。そしてそのことが、大竹さんという若く卓越した画家の作品を考える上で、大きなヒントになると感じました。

それはどういうことでしょうか?

そのことを考える前に、井奥さんの指し示す近代美学の価値観について確認しておかなくてはなりません。井奥さんはそのことについて、「クリエイション」もしくは「クリエイター」、つまり「創造」という概念をキーワードにして、次のようにその歴史的な経緯を解説しています。

 

現代では、広告やウェブサイトなどを制作する人をクリエイターと呼び、そうした職種をクリエイティヴな仕事と言います。何かを制作することが広くクリエイションと捉えられているようです。  

しかしヨーロッパのキリスト教文化では、言葉のもとの意味からすると、人間が「クリエイション」をすることは不可能です。人間を「クリエイター」と呼ぶことも、中世以前にはありえません。  

クリエイションとは本来、キリスト教の基本的な教義である「無からの創造」を示す概念です。神が最初にこの世界を創ったことをクリエイションと呼ぶのです。

<中略>

ところがルネサンス時代になると、前述した「第二の神」という思想の影響で、芸術の創作を神の創造になぞらえるような表現がなされるようになっていきます。  

ただしここではまだ直接的な表現ではありません。「創造する」ではなく、「自然界にないものをもたらす」とか「新しい世界をかたちづくる」といった言い方がなされていました。そこから17世紀に入ると、はっきりとクリエイションという語が使われ始めます。

<中略>

18世紀にはこうした表現も散見されるようになります。ドイツ語圏では神学を応用した詩論も出てきました。そうして、芸術家=神(創造主)、作品=世界、芸術創作=世界創造というアナロジーが成立します。  

そうは言っても、18世紀中頃はまだストレートな表現をするのは憚られたようです。この段階ではサルビェフスキやフェリビアンのように、「創造のようなもの」や「いわば創造者」といった留保が必ず付けられていました。

<中略>

こうして近代に、ジーニアスやクリエイションやオリジナルといった、もとは神や天使に関する概念が人間にも適用されるようになりました。このことは、作品の源が神や自然ではなく芸術家に求められるようになったことを反映し、芸術家が神に比する存在になったことを示しています。「独創的な天才が世界を創造する」という表現は言葉の使い方からして、近代以降に初めて可能になったものでした。

(『近代美学入門』「第2章 芸術家ー職人から独創的な天才へ」井奥陽子)

 

このように、近代の美の価値観からすると、芸術家は神に変わって無から有を創造する、そんな存在になったのでした。何だか大それたことのように思われますが、私たちは無意識のうちにそう考えているのです。

大竹さんの制作過程を考えると、このような「創造」とは少し違っているように思います。確かに彼も、白い紙やキャンバスから絵を描くわけですが、その過程は常に以前の自分の行為に対するリアクションとして積み重ねられていきます。「作品=世界」を創造するというよりは、その世界の中の「光=核のようなもの」を探すという営為によって大竹さんは絵を描くのです。「創造者」というよりは、「探索者」と言った方が良いのだと思います。

私は、大竹さんのこのような制作態度に深く共感します。私自身も、同様に感じながら制作しているからです。しかし、私が何十年もかかっておぼろげに見えてきたことが、若い大竹さんによって、きわめて明確に自覚されていることに驚きます。そのことは、彼の言葉の端々に表れています。

例えば大竹さんは、「色の数、筆の幅、種類、動かし方、絵の具の薄いと厚い、表面張力、層が、青が違う場所にある青と共鳴する」と書いています。これは彼がその後に「目的もなく街々を歩き続けるように、何を探しているのかわからないまま探し続けるように」と書いていることと共鳴しています。「街々を歩き続けるように」、あるいは「何を探しているのかわからないまま探し続けるように」彼は絵を描くのです。

 

このような大竹さんの制作の姿勢は、どこから来るのでしょうか?

私は大竹さんと私との間の世代の違いではないか、とふと考えてしまいます。若い作家が、みんな大竹さんのような自覚を持っているとはとても思えませんが、彼のような芸術観が可能であったのは、ある程度は現在という時代が影響している、という感じを持っているのです。

例えば大竹さんと比較して、というわけではないのですが、次の展覧会の案内状を見てください。

https://hinoki.main.jp/img2023-10/e-5.jpg

山本裕子さんという、私と世代が近いと思われる作家の遺作展です。こちらも会期が終わってしまいましたが、山本さんの言葉に注目してみましょう。

 

やはり私は、名前のないものを作りたいんでしょうね。

いまだに名前を持たない、誰も名前を教えてくれないものに出会った時、まさに、その人にとっての世界の始まりに突き戻されるんじゃないかと思うんですよ。デジャ・ヴュの安心感で成り立つ作品もいいと思いますけれど、私は、ジェネシス(世界の始まり)の不安と期待に人を陥れるような作品を作りたいと思っているんです。

(『ACRYART』vol.20掲載インタビュー記事より 山本裕子遺作展実行委員会)

 

この遺作展には圧倒されるものがありました。

まさに「世界の始まり」を模索した作家の足跡が、そのまま作品として並んでいたのです。そしてこの「世界の始まり」のような作品を作りたいという願望は、作品を「創造」したいという意味でもあるのです。

しかし山本さんは、なぜこのような願望を声高に宣言したのでしょうか?

実は私の世代に近い作家だと、若い時期に「創造」か「引用」か、というポストモダン的な問いが横行し、真面目に考えれば考えるほど、「創造」という概念に疑問を持たずにはいられませんでした。その時代は今から考えると嵐の中に放り出されたようなもので、井奥さんのように分かりやすい言葉で「近代美学」を整理してくれる案内人もいませんでした。私も随分と悩みました。私はその頃の山本さんのことを知りませんが、おそらく彼女もそのような時代の雰囲気を感じ取っていたのではないでしょうか?

そういう中で、「私は、ジェネシス(世界の始まり)の不安と期待に人を陥れるような作品を作りたいと思っている」と語る作家の言葉には、感動を覚えます。それは、今読み返す以上に勇気のある言葉だったのだと思います。そして今回の遺作展を見ると、その言葉を山本さんが実行したことがわかるのです。

私は山本さんの作品について詳しく語るほど、私は彼女の作品を見ていません。しかし、この遺作展を見た限りでも、彼女が制作した時代の困難さが予測できます。その中で、これだけ質が高く、そして何よりもユニークな作品を作り続けることがどれほど素晴らしいことなのか、よく分かります。彼女はあえて「近代美学」の価値観を正面から受け止めたのです。誰もが、立ち位置を少しずらそうとした時に、彼女はその真ん中に立って、作品を作り続けたのだと思います。

 

井奥さんの『近代美学入門』を読むと、いま私たちは、「近代美学」という価値観を冷静に振り返るときに来ているのだと思います。

山本さんのように、毅然と「創造」という概念と向かい合うのか、あるいは大竹さんのように「創造」を相対化する視点を持つのか、それはかつてのようにモダニズムか、ポストモダニズムか、というような軽々しい二者択一ではなく、作家自身が決めていくべきことだと思います。

そんな中で、大竹さんの公式サイトの次の言葉は興味深いです。

 

どうしたら絵が描けるのか、何を描いているのか、わからないまま線を引いたり色をつけていく。そうすると混乱してくる。いろいろなことをして待っていると、タイミングがやってきて気づく。テーマもコンセプトも目的もなく、一つの光ができる。

(大竹さんの公式サイトより)

 

さて、私自身のこの後のことについて、最後に書いておきましょう。

私は、かつて「創造」か、「引用」かという論争の中で取り上げられた「ブリコラージュ」という言葉について、もう一度考えてみようと思っています。そして大竹さんの世代の方たちが「わからないまま」に「混乱」しているのだとしたら、少しでもその混乱を解消するための参照事項になれれば、と願っています。

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