前回、川西沙実さんの展覧会について書くにあたって、ベンヤミンの「アウラ(オーラ)」という概念について考えてみました。今回はベンヤミンの著作のうち、ボードレールについて書かれたものを読んで、ベンヤミンの批評の方法について考えてみましょう。
ヴァルター・ベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin、1892 - 1940)は、ドイツの文芸批評家、哲学者、思想家、翻訳家、社会批評家です。ベンヤミンは裕福なユダヤ人家庭に生まれ、文化史、精神史に通暁したエッセイを数多く書いた人です。
テオドール・アドルノ(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund、1903 - 1969)らとの関わりから、細見和之さんの『フランクフルト学派』の著作において一章を割かれて紹介されていましたので、私はそれを手掛かりにこの難解な思想家について書いてみることにしたのです。
ベンヤミンは第二次世界大戦中、ナチスの追っ手から逃亡中に、ピレネーの山中で服毒自殺を遂げたとされています。美術の愛好家ならば、フランスのポルボウにあるダニ・カラヴァン(Dani Karavan, 1930 - 2021)さんの『パサージュ ヴァルター・ベンヤミンへのオマージュ』という、美しい環境彫刻作品を思い出すかもしれません。
https://www.danikaravan.com/portfolio-item/spain-passages-homage-to-walter-benjamin/
さて、私は先ほどベンヤミンは難解だと書きました。前回の「アウラ」に関する考察でも、ベンヤミンの意見がよくわからないと書きました。どうしてこうなってしまうのか、これは私の理解力不足というだけではない、ベンヤミンという思想家の複雑さがあるようです。細見さんの『フランクフルト学派』から、その点について言及している文章を読んでみましょう。
特徴的なことは、これらのひとびとにとってベンヤミンのいちばん大切なイメージが異なっていることです。アドルノにとってベンヤミンとはまずもってバロック悲劇の捉え返しをつうじてアレゴリーの復権を果たした『ドイツ哀悼遊戯の根源』の著者でした。そのベンヤミン像に依拠しつつ、アドルノは芸術論をめぐってベンヤミンそのひとと書簡によって論争することにもなります。アーレントにとってベンヤミンは何よりも、カフカと同様に「ドイツ系ユダヤ人」という立場を背負って、カフカよりもいっそう困難な状況のなかで鋭利な文芸批評を書き継いだ「文人」でした。一方ショーレムにとってベンヤミンは、若い日からユダヤ神秘主義への強い関心を共有した、かけがえのない思想家でした。アレゴリーを軸に据えた芸術批評家、ドイツ系ユダヤ人という立場にたった文人、ユダヤ神秘主義に耽溺する思想家・・・。
これだけでもベンヤミンは多面的ですが、さらにベンヤミンは、20世紀を代表する劇作家ブレヒトとの密接な交流をつうじて、戦闘的なマルクス主義者という側面を有していました。さらにその優れた写真論、映画論をつうじて、ベンヤミンをポストモダン思想の先駆者、あるいはメディア論の先駆者と位置づけることも可能です。
(『フランクフルト学派』「第3章 亡命のなかで紡がれた思想」細見和之)
なるほど、これを読むと、私などにベンヤミンの全体像がおいそれとはつかめないのも当然です。それを肝に銘じて、今回はベンヤミンの『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』というボードレール論に絞って、彼の批評の方法を学んでみたいと思います。まずは、このボードレール論の成立した事情を確認しておきましょう。
ベンヤミンは1933年にパリへ亡命して以降、パリの国立図書館にこもって、『パサージュ論』の仕事に没頭していました。かつてアドルノに語った企図の実現に向けて、ベンヤミンは努力を続けていたのです。最終的に残された断章群が遺稿として刊行されたのは、1982年、じつにベンヤミンの死から40年以上を経たのちでした。現在、岩波現代文庫『パサージュ論』全五巻でその翻訳を読むことができます。
一読していただければ分かるとおり、そこに収められたテクストの大半は引用です。19世紀という時代のイメージを、パリに成立したパサージュ(両側に商店がならぶ、ガラスの天井で覆われたアーケード)を軸に描き出すというのがベンヤミンの目論見でした。そのために、彼は19世紀のパリにまつわる著作、パンフレット、場合によってはチラシの類から、膨大な抜書きを作成していたのです。メモや抜書きはどんどん膨らんでゆきましたが、『パサージュ論』の輪郭はその分、ますます不分明になってゆきつつありました。
アドルノにとってベンヤミンの『パサージュ論』はかけがえのない仕事でしたから、繰り返しその公表をベンヤミンにもとめていました。ベンヤミン自身、自分の仕事のあてどなさに呆然としつつ、さしあたり、その仕事の中心のひとつに置くつもりだったボードレールを主題とした部分を、ひとつの論考としてまとめて発表することを決意しました。ベンヤミンにとってボードレールは、パリの風景とその変遷のなかで書き継いだ詩人として、19世紀という時代の証言者そのものだったのです。
(『フランクフルト学派』「第3章 亡命のなかで紡がれた思想」細見和之)
「パサージュ」って何?という方もいらっしゃるかもしれません。日本的に言えば「アーケード街」というところでしょうが、パリの「パサージュ」は、ちょっとイメージが異なります。写真で見てください。
https://www.token.co.jp/estate/useful/archipedia/word.php?jid=00023&wid=04760&wdid=01
そして『パサージュ論』は、もちろん建築に関する論考ではありません。このような都市建築ができたことで、パリの大衆が集まってきたわけですが、その「パサージュ」をぶらぶらと彷徨っている人、ベンヤミンはその人たちを「遊歩者」と呼んだのです。そしてその人たちこそが、近代社会が生んだ新しい階層の人たちであり、ベンヤミンの興味の対象だったのです。
パサージュに集う人たちに関して、ベンヤミンの『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』の一節をお読みください。
パサージュは、街路と室内とのあいだの中間物である。生理学ものの筆法についていうなら、その技巧は新聞の文芸娯楽欄ですでに実効をあげたもの、すなわち、大道を室内にするというやりかたであって、こうして街路が遊民の住居となる。遊民は、市民が自宅の四方の壁のなかに住むように、家々の正面と正面のあいだに住む。かれにとっては、商店のきらきらと光る看板が、市民にとっての客間の油絵と同じもの、それ以上の、壁の装飾なのであり、家の壁が書斎の机であって、かれはかれのメモ帳をそこに押しあてる。新聞売りの屋台がかれの書庫、喫茶店のテラスがかれの出窓だ。かれは一仕事おえるとその出窓から、かれの住居の全体を見わたす。多様きわまる生活、無尽蔵の変化にみちた生活が繁栄しているのは、せいぜい灰色の石だたみのあいだでにすぎず、その背後には専制政治の灰色の背景があるーというのが、生理学もののたぐいの文学の、内々の政治的な考えだった。
(『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』「Ⅱ 遊民」ベンヤミン 野村修訳)
そして19世紀から20世紀へと時代が変わっていく中で、文化の担い手は王侯貴族からブルジョワジーへ、そして一般大衆へと移っていきます。その時代を象徴する詩人がボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821 - 1867)だというわけです。私は以前に、主に美術評論家としてのボードレールを取り上げた、阿部 良雄(1932 - 2007)さんの『群衆の中の芸術家』について書きました。今回の内容とリンクしますので、よかったら読んでみてください。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/52d9491fac9fd93e3c1ca8508171fa64
この阿部良雄さんの本は、ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugène Delacroix, 1798 - 1863)やクールベ ( Gustave Courbet, 1819 - 1877)、マネ( Édouard Manet, 1832 - 1883)といった当時の画家たち、マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842 - 1898)やランボー(Arthur Rimbaud、1854 - 1891)といった詩人たちとボードレールとの関係を明らかにしながら、ボードレールという人物、あるいはボードレールの美術批評についてわかりやすく語っています。それに対し、ベンヤミンの『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』は微妙なニュアンスに富んでいて、私には少々難しすぎます。
その難しさは、最初の「Ⅰ ラ・ボエーム」の章から始まります。この章は、ボードレールが政治的にどういう立場を取ったのか、ということを具体的な事例を出して説明していくのですが、当時の事情がわからない私には細かすぎるのです。ベンヤミンの時代の思想的な問題として、まずはマルクス主義による社会の変革があって、芸術について語るにしてもその論者が政治的にどういう立場に立っているのか、が重要だったのでしょう。
カール・マルクス( Karl Marx、1818 - 1883)は、考えてみるとボードレールやクールベと同世代ですね。『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』は、マルクスの話題から文章が始まって、「ボードレールの相貌をくっきり浮かびあがらせようとすれば、ボードレールとこの政治的タイプとの類似性について、語らなくてはならない」と書かれています。この19世紀という時代に、それぞれの画家、詩人たちが、政治的にどのような立場に立っていたのか、激動の時代であっただけに興味深いことでしょう。
ボードレールという人は、生活そのものが不安定な人だったので、政治活動家のように動いたわけではないと思います。しかし、それでもボードレールは次のようなことを言っていた、と阿部良雄さんは書いています。「正当であるためには、つまり存在理由をもつためには、批評というものは、偏向的で、情熱的で、政治的でなければならない、つまり、排他的な観点、だが最も多くの地平を開く観点に立ってなされなければならない。」私はこの言葉だけでも、批評を書く者としては十分な政治的覚悟があるなあ、と感動したものです。というか、何かを書くということは「政治的」であることが避けられないことなのだと思います。絵を描いていてもそう感じますが、言葉による表現は余計にそれを意識します。
それだけに、いつの時代の批評家も、その時代における政治性をおびています。ベンヤミンの時代に19世紀の人たちの政治的な立場や行動を振り返るのと、今、私たちが同じことをするのとでは、自分自身の立ち位置が違っているわけですから、批評対象に対する評価も違ってくるでしょう。そういう事情も、「Ⅰ ラ・ボエーム」の章の文章を難解なものにしているのです。
さて「Ⅱ 遊民」の章は、いよいよ『パサージュ論』につながる大衆の話です。ベンヤミンはボードレールの『行きずりの女』という詩を引用しながら、次のような解説を書いています。
耳を聾する通りがわたしのまわりで唸り声をあげていた。
背の高い痩せた女が、喪服に身をつつみ
威厳にみちた悲しみそのもののように、通りすぎた、
派手な手で縁飾りのついた裳裾をもちあげ、ゆすりながら
彫像のような脚で、すばやく、気高い様子で。
わたしは狂った男のように身をひきつらせ
嵐をはらんだ鉛色の空のようなかの女の眼から、飲んだ、
魅惑する甘美さと、生命をうばう快楽とを。
稲妻の一瞬・・・あとは闇。ー過ぎ去った美しい女よ、
きみの眼差しはわたしを突然いきかえらせてくれたのに
きみにはもう、あの世でしか会えないのか。
ここから遠く離れた他所で。遅すぎてから。おそらくもう決して。
きみがどこに去り行くかわたしは知らず、わたしがどこへ行くのかきみも知らないのだから。
おお、わたしはきみを愛していたかもしれないのに。きみにはそれがわかっていたのに。
ソネット「行きずりの女に」は、群集を犯罪者の避難所としてではなく、詩人を避けてゆく恋の避難所としてえがいている。市民の生活ではなくて恋愛者の生活における群集の機能が、そこで扱われている、といっていいだろう。一見したところではこの機能は不都合にみえるが、しかしそうではない。恋愛者を魅了する現象はーかれが群集のなかにいるからかれの手に届かない、といったものではぜんぜんなくてーまさに群集がいなければかれに生じえないものなのだ。都会人をうっとりさせるのは、最初のひと目の恋よりも、むしろ最後のひと目の恋である。「もうけっして」というのが邂逅の頂点であって、その瞬間に詩人の情熱は、一見して挫折するが、そのじつは初めて焔となって燃え上がる。詩人はその焔で身を焼く。
<中略>
アルベール・ティボーデはこの詩について、「それは大都市でのみ成立しえた」といったが、この発言はまだ詩の表層にしか触れていない。詩の内面のすがたは、そこでは恋すらが大都市の刻印をおびているものとして認識される、というところにこそ、くっきりと見て取れるのだ。
(『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』「Ⅱ 遊民」ベンヤミン 野村修訳)
アルベール・ティボーデ(Albert Thibaudet、1874 - 1936)はベンヤミンよりも20歳ぐらい年長の、フランスの文芸評論家です。この少し前の世代の大批評家が、「大都市でのみ成立しえた」詩である、と評価しているのですが、ベンヤミンは恋愛そのものが大都市ならではの様相を呈しているのだ、と言っているのです。
このベンヤミンが論じたボードレールの「遊歩者」について、細見さんは『フランクフルト学派』「亡命のなかで紡がれた思想」で次のように解説しています。
パリのような都市、そのパサージュをぶらぶらと彷徨っているひと、それが「遊歩者」です。群集が何かの目的を持ってどこかに一目散に歩いているのに対して、遊歩者はとりたてて目的がありません。それは徹底して規律化されている近代の大衆からすればはみ出し者ですが、それだけに時代の特徴を鋭敏に捉えることができます。ボードレールはまさしくそのような遊歩者であり、かつ最終的にそういう遊歩者というあり方からも追い払われることになった存在である、というのがベンヤミンのボードレール理解の基本です。
そして、ここでは「記憶」というものに大きな焦点があてられています。プルーストの『失われた時を求めて』の冒頭には、マドレーヌを紅茶にひたしたその瞬間に思わぬことに過去の記憶がよみがえるという有名な一節があります。あのようなあり方をベンヤミンは「無意志的記憶」と呼んで「意志的想起」と区別しています。私たちの記憶は意志によっては呼び覚まされない記憶のほうが私たちの意識の奥深くに強く刻まれている場合が多々あります。フロイトはまさしくそのような記憶、むしろ意識によって抑圧され、無意識の領域に追いやられた記憶に注目しました。
<中略>
ボードレールにそのような無意志的記憶を呼び覚ますものを、ベンヤミンは「ショック体験」と呼んでいます。平たく言うと、ボードレールにとって詩を書くとは、パリで群衆のあいだを遊歩者として彷徨いながら、そのつど見舞ってくるショック体験を書きとめることだった、ということです。ボードレールは、ベンヤミンの指摘している通り、『悪の華』のなかで「前世の記憶」すら呼び起こします。
この論考の後半ではふたたび「アウラ」が主題化されています。ボードレールの『悪の華』以降の散文詩をとりあげて、ベンヤミンはボードレールの最大のショック体験を「アウラの崩壊」に定めているのです。ここでは『複製技術時代の芸術作品』においてよりも、いっそうその喪失の痛切さに力点が置かれています。アドルノから批判を受けたからというよりも、やはりその喪失を惜しむという側面も元来、ベンヤミンには強くあったのだと思えます。とはいえ、ここで最終的にベンヤミンが描いているのは、やはりそういうアウラの崩壊を承認した、あるいは、承認せざるをえなかった、ボードレールの姿です。
(『フランクフルト学派』「第3章 亡命のなかで紡がれた思想」細見和之)
ここで細見さんが参照しているのは、ベンヤミンの『ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて』という論考であって、これは私が先程来参照してきた「Ⅱ 遊歩者」という章の文章を拡張したものだそうです。残念ながら、それは私の手元にはありませんが、その『ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて』において、ベンヤミンは「アウラ」の喪失、あるいは崩壊について語っていたのです。しかもそれは『複製技術の時代の芸術』におけるよりも「痛切」なものであった、と書かれています。しかし、私の「アウラ」に関する考え方は、前回のblogで書いた通りで、ボードレールの詩そのものが、現代から読み直せば「アウラ」に満ちたものなのだと思います。
それよりも、ここでベンヤミンが論じているというボードレールの記憶の呼び覚まし方の方が興味深い話です。意識的に呼び覚ますことのできない記憶の方が、私たちの内面の重要な層を成していて、それを呼び覚ますために「遊歩者として(大衆の集う街を)彷徨う」というのは、とても面白い話です。詩を書きたければ、田舎にでも行って、豊かな自然の中を散策すれば良さそうなものですが、ボードレールは飽くまで近代的です。ボードレールから近代が始まった、と言っても良いのかもしれません。複雑で、屈折した面を持っていたボードレールという人に、一層の興味が湧いてきました。
さて、ボードレール同様に、ベンヤミンもとても複雑な人です。思想的に激動の時代を生き、その状況にヴィヴィッドに反応したが故に、今から見返すと簡単には捉えられない仕事をした人だということが、よくわかりました。ベンヤミンもボードレールも、何かわかりやすい指針を私たちに示すような思想家、詩人ではありませんが、こちらの理解力が増すほどに新たな局面を見せてくれる人たちです。折に触れて、もう少し勉強することにしましょう。
次回以降、ボードレールについて引き続き考察します。