私は前々回のこのblogで、小野小町(おののこまち、平安時代9世紀頃の歌人)さんの古今和歌集に含まれる次の短歌について考察しました。
花の色はうつりにけりないたづらにわが身よにふるながめせしまに
(『古今和歌集』小野小町)
今回は、この歌がどれほど素晴らしい、あるいは稀有なものなのか、そして和歌における「掛詞」の技法の可能性として、古典的な解釈とは別に絵描きの立場から新たな解釈ができるのではないか、という点について探ってみたいと思います。
その前に、前々回の復習をしておきましょう。
前々回では、 この歌の現代語訳を、『100分de名著 古今和歌集』から拾ってみました。
花の色は、むなしく褪(あ)せてしまった。しとしとと春の長雨が降り続いていた間に。私も、あれこれと物思いにふけっている間に、むなしく老いてしまった。
(『100分de名著 古今和歌集』「第1回 めぐる季節の中で」渡部泰明)
そして、この歌の解説を、同じ本から引用してみました。
ここでは「ふる」と「ながめ」が掛詞になっています。「ふる」は「降る」と「経る」、「ながめ」には「長雨」と「眺め」が掛けられています。この歌における「眺め」は「物思いにふける」という意味です。
つまりこの歌の下の句には、長雨が降っているということと、人生に悩んで物思いにふけっているうちに時が経ち、老いてしまったという二つの意味が重ねられているのです。「いたづらに」(むなしく)は、上の句の「花の色はうつりにけりな」と、下の句の「わが身よにふるながめせしまに」の両方を形容しているので、花がむなしく色褪せてしまったように、私もむなしく齢を重ねてしまった、ということになります。
掛詞を二つ並べて詠むのは大変に難しく、これは小町だからこそできた離れ業だと言ってもいいでしょう。しかも、二つの意味が密接に結びつき、人生に悩んで気が晴れることのなかった時の長さと、長雨の時季の鬱々とした気分まで、ひたと寄り添うように表現されています。
この歌は、自分の容貌を「花の色」に託し、恋に悩んできた人生を振り返っている、と解釈されることもあります。ただ、そのようにはっきりと解釈されるようになったのは室町時代以降のことで、才色兼備で自信家の小町というイメージは、それとともに形成されたと言われています。私は、この解釈に少し疑問を感じています。絶世の美人だったとしても、自分を「花の色」になぞらえるのはいかにも自慢が過ぎます。なにより、もしこれが美貌の衰えを嘆く小町が恋の悩みを詠んだ歌だとしたら、春の巻には収載されていないと思います。入れるとしたら「雑歌」の巻でしょうか。
小町は、長雨に打ちしおれて花が色褪せてきたことに、ふと気がついたのでしょう。色褪せた花を見て、胸に浮かんだ「いたづらに」(むなしく)という言葉が、些事に翻弄されてきた自分の人生を思い起こさせ、それが長雨とオーバーラップしていく。そのように読むと、歌に人生を懸けた小町らしさを味わうことができるのではないかと思います。
(『100分de名著 古今和歌集』「第1回 めぐる季節の中で」渡部泰明)
この和歌から私が感じ取ったことは、二つの絵のようなイメージがみごとに重なっているということでした。その要因は「掛詞」という技法にあります。掛詞による「花」と「自分自身」とを重ね合わせた時のイメージの鮮烈さが私の驚きの原因でした。
私は「ふる」と「ながめ」という動詞がもたらすイメージに注目し、「(長雨が)降る」という映画のワンシーンのような、静かな動きのあるイメージと、それを「ながめ(眺め)」ながらもの思いに耽る女性の姿とを、同時に、正確には共時的に感じ取ったのでした。
それは庭にシトシトと降る長雨のシーンと、その長雨を眺めながら自分の人生を顧みて物思いに耽る女性の姿とが、どちらかに焦点を合わせれば、どちらかが消えてしまうような緊張感をもって展開していると思ったのです。
どちらかのシーンに焦点を合わせれば、どちらかのシーンは引いていく、これがひとつの言葉で二つの意味を表現する「掛詞」の力なのだと思います。その不思議なイメージの共有が、緊張感をはらんだ表現となっているのです。
というのが、とりあえずの私の結論でした。
しかし、これは素人の勝手な解釈だったようです。
谷知子さんという研究者が書いた『和歌文学の基礎知識』という入門書を手掛かりに、「掛詞」という表現についてもう少し理解を深めておきましょう。
谷さんは、「掛詞」について次のように解説しています。
掛詞とは、和歌に見られる同音異義語の組み合わせです。平仮名表記は同じですが、あてる漢字が異なるのです。駄洒落?
うーん、そうですね、全否定はしませんが、駄洒落とはやはり異質のものです。
<中略>
一つのことばに二つの意味を掛けるといえば、現代の駄洒落を思い浮かべますが、駄洒落のおもしろさは、どちらかというと、二つの意味が突拍子もなくかけ離れているところにありますので、やはり本質的に違うのです。
掛詞で組み合わされる二つのことば(意味・概念)は、おおよそ「心(人間・人事)」と「物(自然・景物)」の組み合わせで成り立っています。
(『和歌文学の基礎知識』「5 掛詞」谷知子)
「掛詞」が単なる駄洒落ではないことは、私にも理解できます。
注目すべきところは、掛詞で組み合わされる二つの意味・概念は、おおよそ「心(人間・人事)」と「物(自然・景物)」の組み合わせで成り立っていると書いているところです。
この「心」と「物」の組み合わせで成り立っている、ということはどういうことでしょうか。谷さんは、この後でいくつかの和歌を例にとって解説していますが、ここでは一つだけ例を取り上げましょう。
人知れぬ思ひをつねにするがなる富士の山こそわが身なりけれ
(『古今和歌集』詠み人知らず)
この歌では「思ひ」の「ひ」が「火」と「思ひ」という二つの意味に、「するがなる」の「するが」が「駿河」(地名)と「する」(動詞)の二つに意味に掛けられていて、それらが掛詞となっています。
谷さんの解説の続きを読んでみましょう。
「火」と「思ひ」はイメージ的に近い気がしますが、地名の「駿河」と動詞の「する」はまさに語呂合わせですね。
<中略>
このように、音の共通性を核にしつつ、人間の心情表現と、自然の風景描写が結びつけられ、拮抗しながら、重層し、融和していくのです。これは、さまざまな漢字表記の広がりをもつ仮名文化の国だからこそ生まれた。中には駄洒落や頓知にちかいような掛詞もありますが、『新古今(和歌)集』の時代になると、象徴という表現世界をも生み出してきます。
(『和歌文学の基礎知識』「5 掛詞」谷知子)
最後の「『新古今和歌集』の時代になると」という部分は後で見ることにしましょう。
先ほどの小野小町さんの和歌のように、この歌のなかに映像的な場面を見るとすると、「火」と「駿河」という掛詞からイメージされる富士山の風景が見えてきます。
一方、「思ひ」と動詞の「する」を合わせたイメージからは、「人知れぬ思い」に耽っているという心情表現が伝わってくるのみで、あまり映像的な場面は思い浮かびません。このように、掛詞は本来、映像的な表現と心情表現という異なる要素を組み合わせるのが常なのです。
考えてみると小野小町さんの和歌も、年月を重ねた自分の年齢を思う心情と、長雨の光景との組み合わせだったのですが、歌のはじめに「花の色はうつりにけりな」と書かれていることによって、心情の描写も思い浮かべる光景も、いずれもビジュアルなものとして色づいていたのです。
これは驚くべき表現なのだと思います。
しかし、谷さんの解説によれば、和歌の表現の本来の到達点は、私が感じ取ったようなイメージのぶつかり合いではありませんでした。谷さんが掛詞表現の到達点として選んだのは、藤原定家(ふじわら の さだいえ/ていか、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人)さんの次の和歌です。
たづねみるつらき心の奥の海よ潮干の潟ののいふかひもなし
(『新古今和歌集』藤原定家)
この歌の解釈は次のようなものです。
尋ねてみる、冷淡な恋人の心の奥の海よ。そこは潮の引いた潟のように乾ききって、貝もないように、もはや何もいう甲斐もない。
(『和歌文学の基礎知識』「5 掛詞」谷知子)
この歌の掛詞は「いふかひもなし」の「かひ=貝=甲斐」です。この和歌には『源氏物語』に本歌があるのですが、その本歌の解説の後で、谷さんは次のように書いています。
藤原定家も本歌と同じく「貝」と「甲斐」の掛詞を用いています。しかし、定家の歌の場合は、伊勢島のような現実の海ではなく、「(恋人の)心の奥の海」です。人の心の奥にある海とは何でしょうか?これはもちろんバーチャルな海です。恋人の心を海になぞらえるなんてロマンチックなのですが、ただ、この海は愛の枯渇を象徴しています。
「心の奥」は「本心」です。表面的な態度などではわからない、心の奥深いところにある真心です。恋人の本心を知りたいという願望は、恋する人に共通してあるものかもしれません。この歌の詠歌主体である「私(女)」は、冷たくなった恋人の本心を知りたいと願います。そして恋人の「心の奥の海」を尋ねてみるのです。しかし、案の定その海は、干潮の潟のように乾ききって、拾う貝もないほど、枯渇しきっていたのです。「貝」がないほどに、何を言っても「甲斐」もない、不毛の状態だった、と。ここにも掛詞による、二重の文脈が見られます。「海」と「私」、つまりここでも「自然(景物)」と「人間」が組み合わされています。しかし、小野小町の例と比べますと、二重の文脈とはいっても、その二つが融合しきって、分離していないことに気づきます。つまり、自然と人間が一体化しているのです。掛詞の「貝」と「甲斐」は本来全くの別物なのに、「貝がない」状態と「甲斐がない」状態は非常に近づき合って、一つの心象風景を形成しています。貝もない乾ききった干潟の風景、それはまさに、言う甲斐もない、愛の枯渇という心の風景です。新古今時代になって、本来二つの概念(心と物)を対立的に表現していた掛詞が、心でもなく、物でもない、心と物が融合したかのような第三の世界を築いていく、象徴詩に近い表現世界に到達した例と言えるでしょう。恋人の愛情の枯渇を、干潮で渇ききった浜辺の貝すらも落ちていない風景になぞらえる。現実世界を心と物に二元化し、それを常に対立させ、または重ねてとらえようとしてきた日本人は掛詞という手法を生み出しましたが、この一首はその掛詞を生んだ日本人の心性がたどり着いた一つの到達点と言えるのではないでしょうか。
(『和歌文学の基礎知識』「5 掛詞」谷知子)
すごく面白くて、参考になる解説ですが、かなり高度で複雑ですね。
掛詞という手法は人間の心情と物(風景など)の描写との重ね合わせが基本でしたが、藤原定家さんのこの歌においては、心情と風景が融合し、「一つの心象風景を形成」しているというのです。そのことから、小野小町さんの表現よりも、藤原定家さんの表現の方がより洗練されたものであると言えるのでしょう。だから藤原定家さんの和歌は、「掛詞を生んだ日本人の心性がたどり着いた一つの到達点」だということができるのです。
そのことは理解できるのですが、言葉に関して素人の、画家の眼から見るとどうでしょうか?
私の目から見ると、小野小町さんの和歌には、「花」、「ながめ(長雨)」など私たちの日常にありふれたイメージを喚起する具体的な風景の感触があります。例えば、雨の音や長雨の季節の匂いのような、五感を刺激するようなものです。
一方の藤原定家さんの和歌では、「心の奥の海よ」ということですから、実際の海ではなく記憶の底にあるような、少し遠いところにある海のイメージを喚起します。乾いた干潟の風景も、リアルな干潟のイメージというよりは、自分の心の乾きや虚しさのメタファーのような、そんな曖昧さが先行しているのです。
小野小町さんの和歌が具体的なイメージ同士が相互に入れ替わるような緊張関係をはらんでいるのに対し、藤原定家さんの和歌の場合はイメージ同士が溶けて混ざり合うような、そんな「融合」するような関係なのです。
谷さんが言うように、「掛詞」という技法の到達点ということでいえば、藤原定家さんの高度な技術がその頂点に当たるのだと思います。
しかし画家の目から見ると、具体的なイメージが入れ替わる小野小町さんの表現の方が、より刺激的であるように思えます。
このような掛詞の考察をふまえて、それでは絵画において同様の表現を探すとなると、どうなるのでしょうか?複数のイメージを共有するような関係性というのは、絵画の上ではどのような表現を生んできたのでしょうか?
例えば、単純に思いつくところでは、シュルレアリスムのデペイズマンという手法があります。
https://www.artpedia.asia/d%C3%A9paysement/
辞書によれば、「デペイズマン / Dépaysement」は「あるモノが思いがけない場所にある違和感」を表現する技法のことです。その表現のために絵の中に異質な写真をコラージュしたり、あるいはそれらを細密に描写したりするのです。
しかしこれは、ここでの話とは別なものです。私たちは、私たちの無意識のうちに封じ込めた不安や欲望を喚起しようというわけではないのです。むしろ私たちは覚醒したクリアーな意識の中で、イメージの重なりがどのような表現をもたらすのか、ということに興味があります。その重なりがもたらす緊張感や、混沌としながらもイメージ豊かな空間、あるいは前回のblogで考察したポリリズムのリズムのように大きなうねりをもたらすもの、そんなものを見てみたいのです。
そう思って絵画の歴史を振り返ってみると、絵画表現に特有の奥行き(イリュージョン)のある空間と、絵画の平面性との間で、緊張感のある葛藤を継続した画家ならば、少なからず存在します。彼らの絵画は、その画面上でときに大きなうねりをもたらすものでした。
印象派のクロード・モネ(Claude Monet, 1840 - 1926)さんやセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)さん以降の優れた画家たちは、絵画のイリュージョンと平面性との間で葛藤し、独自の表現を展開してきました。
それはそれで素晴らしいものですが、私たちはその既存の絵画空間に、私たちなりの歩みを新たに記したいと願うものです。彼らの表現をさらにダイナミックなものにしていくのです。
以上のように、和歌において私たちの求めるイメージのぶつかり合いは、小野小町さんの作例の他にあまりないようです。一方絵画においては、これからの発展次第ということになりそうです。先日の髙橋圀夫さんの例のように、複数の絵画空間を重ね合わせるような試みは確かにありますが、それが広く認知されているというわけではありません。
以前にも書きましたが、私はそれを私なりの独自の方法で追究していきたいと思います。それはとても楽しみなことなのです。このことについては、2月の展覧会に向けて別途考察することにしましょう。