平らな深み、緩やかな時間

354.佐伯啓思のコラム、エルヴィン・ジョーンズのポリリズム

前回、美術家の髙橋圀夫さんの展覧会の考察のおりに、ジャズ・ドラマーのエルヴィン・ジョーンズ(Elvin Jones、1927 - 2004)さんのポリリズム(polyrhythm)の技法について、そして小野小町(おののこまち、9世紀の歌人)さんの和歌の掛詞について触れました。

今回は、現在の私が制作を通じて考えていることと、ポリリズムについて考察してみたいと思います。和歌の掛詞については、後日改めて考察することにします。

ちなみにそんな私が現在制作中の作品は、2024年2月にご覧いただける予定です。関連のギャラリーのホームページは次のとおりですので、ご参照ください。

https://hinoki.main.jp/img2024-2/exhibition.html

 

さて、その話に入る前に、朝日新聞の記事で興味深いものを見つけたので、そのことから書いてみます。

それは「オピニオン」欄に連載されている思想家の佐伯啓思(さえきけいし)さんの『異論のススメ』というコラムです。

https://www.asahi.com/articles/DA3S15817758.html?iref=pc_rensai_long_561_article

 

このコラムは、民主的で進歩的な(と考えられている)記事が多い朝日新聞の中で、あえて保守的な立場で「異論」を書く、というものなのだと思いますが、もちろん「異論」のままで終わらない仕掛けになっています。

今回は「日本の方向を決めるのは」というタイトルなのですが、見出しとして「海外の『普遍文明』神に代わり担がれて社会に秩序を与えた」、「価値基準の『追いつくべき先』がない現代」という文字が並んでいます。これでだいたい何が書かれているのか、予想がつきますか?

佐伯さんは、戦後の二つの思想的な立場を対比させて語り始めます。

まずは丸山 眞男(まるやま まさお、1914 - 1996)さんに代表される進歩派知識人の立場です。彼らは「日本の戦争(第二次世界大戦)原因を、天皇制国家という日本社会の後進性に求め、それゆえ、欧米を手本とした民主的な市民社会の建設に戦後日本の希望を託した」のだと佐伯さんは解説しています。それに対し、「戦時中に過酷な軍隊経験をもつ」評論家の山本 七平(やまもと しちへい、1921 - 1991)さんは「戦後の民主的な社会になっても問題は何も解決しない」と言ったのだそうです。山本七平さんは、「天皇制」が「民主主義」に変わっても、日本の大衆はそれが何なのかを深く考えず、あたかもそれらが自明の真理であるかのような「空気」を作り出し、その「空気」に従っているだけなのだと考えたのです。まさに「日本の大衆」の一人である私には、耳の痛い話です。

そして今日の日本の「空気」は「グローバルな世界文明」を価値基準としているのですが、どうもその「世界文明」が、あちらこちらでほころびが生じていて「機能不全に陥っている」というのが、佐伯さんの見方です。「空気」を作り出すためのお手本がなく、私たちは歴史上かつてないほどに「国の進むべき方向を指し示す価値基準が見えなくなった時代」に生きているのだ、というのです。「今日の日本にあって、政治家は方向感覚を失い、官僚は影響力を失い、知識人やジャーナリズムは確かな言葉を失った」、そんな過酷な時代を迎えているのです。

それでは私たちには何の希望もないのでしょうか?

それがそうではないのです。佐伯さんは最後に次のように書いています。

 

だが考えてみれば、それはまた日本の長い歴史を貫いてきた「海外の先進文明に追いつく」という不安な心理前提からの解放をも意味しているだろう。「中国」も「西洋」も「アメリカ」も、そして「グローバルな世界」ももはや価値基準とはならないのである。「追いつくべき先」などどこにもない。そうであれば、今日こそ改めて、われわれはわれわれの手で、自前の日本の将来像を描くほかなかろう。

(『異論のススメ』「朝日新聞2023年12月16日」佐伯啓思)

 

これが、ただの内向きの自国肯定の話であれば読む価値のない記事になってしまいますが、そうではない厳しさを感じます。

右を見ても、左を見ても、そして海外を見ても手本とすべきものが何もない、というのですから、これは立場を超えて新たな価値観を作るほかない、そういう困難な道しか私たちには残されていないのだ、という話なのだと思います。

そしてさらに私は、これは「日本の将来像」に限った話ではないと考えています。あらゆる分野において、もはや「日本」も「世界」も「海外」もありません。例えば、私の描くべき絵画は私自身が決めるしかない、ということなのです。佐伯さんの文章を読むと、いつも「自分の頭で考えろ!」と檄を飛ばされているような気分になります。

「自分で考える」などということは当たり前だ、とあなたは言うかもしれません。

いいですね、それが健全な反応です。

でも、あなたは何かを表現していて、ふと不安になり、何かに頼りたくなることはありませんか?誰か、自分の見本となるようなことをやっている人はいないかなあ、などと海外の情報を探ってみることはありませんか?日本では、そういう情報をいち早く察知して、みんなが知らないうちに自分のものとして発表した人が勝ち!という価値観がまだまだ蔓延しています。しかし頼るものなど何もない、この世界に超越的に正しいものなど何もない、というのが現実です。そして、そこがスタート地点であるべきで、やっとそこまで私たちは辿り着いたのだ、と佐伯さんは言っているのだと思います。

そうは言っても、これからだって、海外の最新の流行を携えた人があなたの前に現れるかもしれません。しかしその人の表現が他人からの借り物であるならば、それは何の価値もないものです。その人は、自分の足でちゃんとスタート地点に立っていたのでしょうか?そう問いかけてみましょう。最新の流行がいかにスマートでカッコよく見えても、そしてそれに比べて自分の(例えば私の)表現がいかにぎこちなくみっともないものに見えても、そこが私の現在地点です。私はそのぎこちなさも、みっともなさも、自分のものであるならば表現に値するものだと考えています。というか、本物の表現とはそういうものなのです。

 

それでは、本題に入りましょう。

私は冒頭に書いたように、ポリリズムや掛詞という手法に注目しています。それらの手法の特徴は、複数の表現が同時進行しているということです。私がそれらに注目しているのは、私自身が絵画を制作するときに、いくつかの矛盾した価値観の中で表現活動をしているからです。気づいてみると、優れた表現をしている人たちの中には、複数の価値観や表現を一つの作品の中で実現している人が多く、前回取り上げた髙橋さんもその一人だというわけです。

ちょっと考えてみると、20世紀までのモダニズムの考え方の中には、そのような複数の価値観や表現があるのであれば、それらに順列をつけて整理して、矛盾のない形で提示することが良いことだ、という思い込みがあったような気がします。価値が低い(と思われる)ものは極力排除して、価値の高いものだけの純度の高い表現にすることが作品の価値を上げることだったのです。

モダニズムの代表的な美術評論家といえばアメリカのクレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg, 1909 - 1994)さんですが、彼がジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)さんの絵画を、そのモダニズムの考え方でオールオーヴァーな表現へと導いたことは有名な話です。ポロックさんのプリミティブな絵画を、モダニズムの価値観に適う純度の高いものになるようにアドヴァイスを続けたのです。しかしその先にあったものは、一様な色面で塗られたミニマルな絵画であり、それはコンクリートとガラスだけでできたピカピカの近代建築と相似のものでした。そのような貧しい(と私は思う)芸術表現は、現在の世界で起こっている様々な課題と連動しているように、私には思えます。

今こそ私たちは、矛盾した価値観に出会ったときに、その矛盾を解消することだけに力を注ぐのではなく、その矛盾をより豊かな形で私たちの生活の中に、表現の中に取り込んでいくことを考えるべきでしょう。それはとても困難なことで、それまでのモダニズムのように「〇〇主義」というような便利なパターン思考で乗り切れるものではありません。佐伯啓思さんが「『追いつくべき先』はどこにもない」と書いていたように、ここからは自分の頭で考えていかなくてはならないのです。

さて、モダニズムの後に到来した(と言われる)ポストモダニズムの芸術表現は、一見すると矛盾した価値観のものを組み合わせた、新しい表現のように見えます。しかし残念ながら、それらの多くは単なる折衷主義であって、おおもとの価値観を豊かにするどころか、逆に表面的にそれらをなぞって貶めているだけだったと私は思います。そして考えてみると、複数の価値観を矛盾として捉えるのではなく、それらを取り込んでより豊かな表現へと変えていく、ということはそれ以前から、優れた芸術家たちによって実践されていたのです。

そのことに気づいた私たちは、本当に現在見るべき価値ある表現を自分の目で、耳で探し出し、それらを参考にしながら自分の表現を新たに構築するべきなのだと私は考えました。そこでたまたま気づいたのが、ポリリズムと掛詞という二つの手法だった、ということです。

 

それでは、ポリリズムについて、私の乏しい知識で書けることを書いておきましょう。

前回も書いたように、私がエルヴィン・ジョーンズさんのドラミングにポリリズムの手法が使われていることを知ったのは、作曲家でギタリストの大友良英さんのラジオ番組を聞いたからでした。

その大友さんの『ぼくはこんな音楽を聴いて育った』という著書には、そのエルヴィン・ジョーンズさんの音楽との出会いについて、こんなふうに書いてありました。

 

「おまえらエルビンって知ってるか」  

全然知らない。またもや何を言ってるんだこの人。ドラムはすごいかもだけど、やっぱ変な人には変わりない。

「あんなあ、コルトレーンのバンドのドラマーだよ、エルビンってのは。今オレがやったのはエルビンの8分の6拍子、わかるか? 

適当にフリーをやったんじゃねえぞ。全部テンポがあって小節もしっかりある演奏。な、これがジャズだよ、これが出来ればロックなんてすぐに出来るんだから。だからおまえらジャズ研に入れ、あ、それからオレにベース貸せ。ちょっと練習したいから、な」  

やばい。この人につかまったら終わりだと思った。

(『ぼくはこんな音楽を聴いて育った』「第22話 間違ってジャズ研に入ってしまった」大友良英)

 

これは大友さんがジャズ研の先輩に勧誘された時の話です。

大友さんと友人はロックをやりたくて軽音学部の部室に行くのですが、並いるロック・ギタリストに恐れをなして退散したところ、長髪で猫背の先輩に無理やりジャズ研の部室に連れていかれます。先輩は、大友さんと友人の前でわけのわからないベース、ギター、そしてドラミングを聴かせて、これがエルヴィン・ジョーンズさんのドラムのパターンだと言うのです。大友さんと友人は、そのテクニックと迫力に度肝を抜かれてしまいます。

翌日、大友さんは同じ先輩に部室に連れて行かれて、何か弾いてみろ、と言われます。しかし大友さんが何も弾けないということがわかり、先輩は大友さんを無理やりジャズ喫茶に連れて行きます。そこで先輩は偉そうに、ジョン・コルトレーンコルトレーン( John William Coltrane, 1926 - 1967)さんの『トラジション』(Transition、1965年5月26日、6月10日録音)というレコードをお店の人にリクエストします。

https://youtu.be/fwj4Cx7Xz3A?si=64UsjyuO_SGs9z8h

 

猫背先輩、今度はお店の人に偉そうにリクエストしてる。流れたのはコルトレーンの『トランジション』。ドラムはエルビン・ジョーンズだ。巨大なアルテックのスピーカーから流れてくるコルトレーンはすごい迫力だった。それまでジャズには全然興味がなかったけど、古臭い大人の音楽くらいにしか思ってなかったけど、このとき初めて面白いかもと思ったのだ。 

「おまえ、このリズムわかるか? どこが頭か、何拍子か、どうやってポリリズムを叩いてるか」  

言ってる事がさっぱりわからない。ぽかんとしてるオレの目の前で、猫背先輩がドラムのスティックを出して机をたたき出す。

「いいか、よく見てろ、ここがリズムの頭、で、3拍子と4拍子が、こうやって混ざってるだろ、わかるか、で、ここにハイハットのアクセントが入って……」

説明はいいけど、ものすごい大きさでスティックで机を叩いていて、いつお店の人に怒られるかと気が気じゃない。しまいには勢いあまって、コーヒーカップを床に落として割ってしまう。あー、まずいよ、先輩、いくらなんでも、これはまずい。

「島田くん、これで3度目、いいかげんにしなさい、これ以上やったら出入り禁止よ」

お店のママさんにこっぴどく怒られて、ぼくらはお店をとぼとぼ出ることになった。

そうか島田くんっていうんだ、この先輩。

(『ぼくはこんな音楽を聴いて育った』「第22話 間違ってジャズ研に入ってしまった」大友良英)

 

これ以降、大友さんはジャズ研に入り浸るようになり、学校をサボってジャズ喫茶に通うようになったのだそうです。

このエルヴィンさんのドラミングですが、この『ぼくはこんな音楽を聴いて育った』には章ごとに音楽を解説するコラムがあって、須川善行さんという方がこの話について次のような解説を書いています。

 

『トランジション』(1965、インパルス)は、コルトレーンが『アセンション』(1965、インパルス)で本格的にフリー・ジャズに取りくみはじめた直前に録音された過度的な作品ですが、コルトレーンの音楽の変遷をたどる上では興味の尽きない内容です。

エルヴィン・ジョーンズ(1927 - 2004)は、長くコルトレーンの片腕でもあった名ドラマーで、マッコイ・タイナー(p)、ジミー・ギャリソン(b)と合わせて、「黄金カルテット」と呼ばれました。その後は、自ら「ジャズ・マシーン」というバンドを率いて活動しています。

猫背先輩、もとい島田先輩いうところの「ポリリズム」とは、たとえば4/4と3/4、4/4と7/8など、異なる拍子が同時に進行すること。柔軟なリズム感覚を持つエルヴィンは、ポリリズムを叩き出す名手としても知られており、コルトレーンの『アフリカ/ブラス』(1961、インパルス)はエルヴィンがいなかったらとても実現できなかったのでは。

(『ぼくはこんな音楽を聴いて育った』「第22話 間違ってジャズ研に入ってしまった」コラム 須川善行)

 

この解説を読んで、お分かりになりますか?

なんとなく理屈ではわかりますが、そもそもそんなことができるの?と思ってしまいます。そういう方は、次の動画をご覧ください。大坂昌彦さんというジャズ・ドラマーの解説ビデオです。

https://youtu.be/yhWFWXQ9zDg?si=72_9J7VRW92cGQ7r

マーチのリズムとアフリカ的なリズムを重ねていくところが、とても丁寧に解説されています。漠然と聴いているとリズムの重なりなどわかりませんが、たとえばマーチのリズムを心の中で刻んでいると、リズムが交錯しているように聞こえてもその背後に別のリズムが重なっていることがわかります。それらの重なり合った結果が、図太いスイング感となって聞こえてくる、というところが興味深いです。つまり、大きなうねりを感じるようになるのです。

解説の後半になると、エルヴィンさんのドラムの感じが私でも少しだけ理解できます。リズムが重なり合うことで、複雑な粘りが生まれているような気がするのです。フォーマルなリズムだけでは生まれないような土着的なうねりが表れているのです。

 

また、エルヴィンさん自身のドラムに関する解説の動画があります。

https://youtu.be/oHA3eeVthTI?si=knvoq7wNq1akKjvn

エルヴィンさんがドラムの音色を色彩として語っているところが印象的です。彼にとっては音楽はビジュアルなものなのかもしれません。ビジュアルであるということは、もしかしたらエルヴィンさんはドラミングの音を空間的に把握しているのかもしれません。

後半のところでは、一定のパターンのリズムから、徐々に自由に音を展開しています。やはりこうなってくると、素人には何が何だかわかりませんが、大阪さんの模範演奏と同様に、はじめにエルヴィンさんが叩いたリズムパターンを心の中で刻んでいると、微かにその音の重なりが見えてきます。

 

このような解説を聴いた後で、私の好きな「My favorite things」のライブを聴いてみましょう。音階のある楽器の隙間を、エルヴィンさんのドラムの音が抽象絵画の重厚な下地のように、絶え間なく埋めていきます。エルヴィンさんのポリリズムの構造も、明快にはわかりませんが、なんとなく感じ取ることができます。

https://youtu.be/ehYM_cg2DHI?si=1fmGHc_0MnbRv-QI

ここでエルヴィンさんが動画で言っていたことを思い出しましょう。

音色には色がある、と言っていたことです。彼はバンドで演奏している最中にも、その音で満たされた空間を大きな絵画のように感じていたのかもしれません。不足した色を補い、場合によっては色を重ねて厚みを出し、時には意図的に音をずらして色が滲んだような、あるいは形が微妙にずれたデッサンのような手法で、バンドの音を構築していたのかもしれません。そこに展開されていた絵画は、アンリ・マティス(Henri Matisse, 1869 - 1954)のような装飾的な広がりのある絵でしょうか、あるいはワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky、1866 - 1944)の初期の即興絵画のような自由で伸びやかな筆致の絵でしょうか。

 

さて、このようなエルヴィンさんのポリリズムから、私は何を学んだら良いのでしょうか?

現代の絵画を描いている者なら、単色のミニマルな絵画を描いている場合以外は、誰もが複数の矛盾した概念の中で引き裂かれることになります。現代絵画の平面性と、絵画本来が持つ虚構の奥行き表現との間で、自分の表現をどうすべきなのか悩むのです。それは長らく、解消すべき問題であると考えられてきました。

しかしエルヴィンさんの例のように、異なる文化から生まれたリズムを重ね合わせることで、新しいうねりを作ることができるのです。ただし、それは表面的な重ね合わせではなくて、一見(一聴)すると混沌として聴こえるぐらいに、表現者の中で血肉化されなくてはなりません。絵のこの部分は古典派風の人物の形で、他の部分は漫画のキャラクターで、といった程度の折衷案では視覚的なうねりは生まれてきません。

私は絵画の触覚性に注目することで、絵画の平面性と奥行きとの双方にある感触を同時に表現できるのではないか、と考えました。それもある種のポリリズムではないか、と考えます。そしてさらにそこに、異なる風景のイメージを重ね合わせることで、エルヴィンさんがドラムで表現したようなうねりが画面上に表れないものか、と考えています。はじめのイメージでは抜けるような青空であった空間に、他のイメージではそこに木の枝が入り込んできて、複雑で緻密な空間を形成するのです。

そこには空のような広がりがあるべきなのか、あるいは入り組んだ木の枝のような複雑な空間があるべきなのか、さらにはそれらを表現する筆致が絵画空間の平面性をも主張しているのです。それらが重なり合い、交錯することで絵画としての厚みのある部分とその隙間の部分が生まれ、それらが響き合って大きなうねりを形成するのです。その過程が表現者の中で十分に血肉化されていれば、そのうねりは生命力に満ちた豊かな表現となることでしょう。

 

エルヴィンさんの言葉の端端には、自分の中にはアフリカ大陸をバックボーンにもつ力強い生命力がある、という自負が窺われます。だからアメリカやヨーロッパのリズムにアフリカ的なものをぶつけて、自分のアイデンティティーを表現するのだ、というような熱情を感じるのです。

それでは、私の場合は何があるのでしょうか?あまり誇らしくは言えませんが、私の中にはこれまでの人生で教員として感受してきた、日本社会のあらゆる悲惨な矛盾が渦巻いていて、それが大きなわだかまりとして残っています。その解消し得ない大きな矛盾に比べれば、絵画の平面性と奥行き表現などという問題は大いにさらけ出して、見る者を翻弄させて仕舞えばいい、と思っています。

しかし、それでもなお、私は自分の作品が美しいものであることを、誰もが足を止めて見るようなものであることを願っています。そういえば、エルヴィンさんは動画の中で、自分の音楽が美しく、多くの人が朝から聴いてくれるものであればいい、という趣旨のことを語っていました。自分の音楽は聴く者を選ばないのだ、という自負の表れなのかもしれません。そういう点も含めて、彼の姿勢に学びたいものです。

 

ところで話がどんどん進んでしまって、大友さんの本から離れてしまいましたが、大友さんとジャズとの出会いには、エルヴィンさんが大きな役割を果たしていたのですね。これはなかなか素敵なことだと思います。

ジャズという音楽にとってリズムが重要だということは誰だってわかることですが、それでもジャズを聴き始めた最初からドラムの音に注目する、というのは珍しいのではないでしょうか。私は今回、少しだけ勉強したおかげで、何回も聴いてきたはずのコルトレーンさんのバンドの音の素晴らしさが、ちょっとだけわかったような気がします。そして思いの外、自分のやっていることと関連性があって、それがとてもうれしかったのです。

おそらく、ポリリズムの概念は皆さんの作品とも大いに関係していると思いますので、何かの参考にしていただけると本当にうれしいです。

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