今回は、最近の出来事からいろいろと思うことを書いてみます。
はじめに、前回からの引き続きで、10月6日から10月18日に東京の櫻木画廊で開催される『Dan Nadaner、Miyashita Keisuke(ダン・ナダナー、宮下圭介)』展をよろしくお願いします。
私も先日、展覧会を見に行きました。今回は宮下さんの展示はやや控えめで、アメリカから作品を送ってきたダンさんの作品をたくさん展示しています。キャンバスに描かれた作品も素晴らしいのですが、私は紙に描かれた作品がとても魅力的に思えました。ダンさんについて、それほど作品を知っているわけではないのですが、いつかまとまった文章を書いてみたいです。
それから、会場では今回の展覧会のパンフレットを無料で配布しています。私の文章が載っているので、読んでいただけるとうれしいです。英訳もついているので、外国の方にも広めていただけると、さらにうれしいです。
櫻木画廊に行ったその日に、ふたつの個展を見に行きました。
ひとつはs+arts(スプラスアーツ)の「さとう陽子」展です。充実したたくさんの作品が並んでいました。コロナ禍の状況で「愛でる」をテーマにした作品が並びます。
さとうさんの多様な切り口には、いつも驚かされます。それでいて、作品はすべて「さとう陽子」のものなのです。現代美術のさまざまな手法が使われていますが、そんな方法論は彼女にとって、どうでもいいことでしょう。人間の五感をフルに使ったような作品群で、私は「触覚性」が重要だと言いながら、どうしても視覚偏重になってしまうので、とても勉強になりました。
(https://www.splusarts.com/)
もうひとつはトキ・アートスペースの「野村俊幸」展です。野村さんは教鞭をとる傍ら農業にもたずさわっていて、作品は彼の生活を色濃く反映したものです。土を固めた立体と壁面には花や草が描かれた大きな紙が貼られています。われわれの若い頃は、ミニマル・アートの立体と「もの派」の土の表現を併せたような作品が多々あったし、以前にも書きましたが、生け花の世界の人が現代アートに参入して箔をつけよう、という動きもあって、野村さんのような作品形態は珍しいものではありませんでした。しかし時が経て、生け花の世界の人は思惑通りに有名人になり、現代アートの画廊で見かけることはなくなりました。また、作品のスタイルとして土を用いた作家たちは、時代の流れと共に他の素材や表現に移っていきました。野村さんは変わらずに、炭や金属板や土が自然の時間の中で静かに変化していく様子を見つめています。
(http://tokiart.life.coocan.jp/)
野村さんの作品は、現代美術の表現としてどのように位置づけられるのでしょうか。先に書いたさとう陽子さんと同様に、そんな方法論は野村さんにとって、どうでもいいことなのでしょう。そういえば、人間の五感を刺激するような表現であることも似ていますね。
さらに言えば、平面作品の中に時間性や身体性までも表現しているダンさんや宮下さんを含めて、四人が四人共に継続して表現しているがゆえの個性があって、本当に素晴らしいと思います。現代美術の流れを踏まえながらも、いまの流行とは別の時間がそれぞれの作家の中に流れているようで、中身の濃い画廊訪問の一日でした。
そういえば、ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter, 1932 - )の氷山を描いた作品が2年前に25億円で、最近では抽象絵画が29億円で落札された、なんてニュースがありました。リヒターは悪い作家ではないけれど、この値段は異常です。資本主義経済の原理の中で、こんな素朴なことを書いていては叱られてしまいますが、もはや芸術作品としての良しあしとは別次元の価値観ですね。私が四人の作家の作品をのんびりとながめて歩いたようにリヒターの作品をながめる人は、たぶん、いないのではないでしょうか。それはリヒターにとっても不幸なことだと思うのですが・・・。
さて、今回ははじめに書いたように、最近の出来事からいろいろと思うことを書いてみるのですが、すこし美術から離れます。
私は公立高校に勤めているのですが、そんなことから、ちょっと気づいたことを書いてみます。
一般の方がどれほど関心を持たれているのかわかりませんが、2022年度から高校では新しい学習指導要領が実施されます。おそらくどこの高校でも、それに合わせたカリキュラムの検討が進められていることと思います。
とくに国語、社会(地歴公民)の変更は大きな論点ですが、さらにそのなかでも国語の「論理国語」と「文学国語」という科目について、さまざまな意見が出ています。私などは教科外ですから詳しいことはわからないのですが、そうは言っても国から降りてきた指示を何も考えずに現場に反映させるのでは、戦前の軍事教育の二の舞になってしまいます。優秀な教師とは言えない私といえども、何が問題なのか、気になります。
例えば朝日新聞の7月31日の「社説」にこんなことが書かれています。
高校で学ぶ国語は、22年度実施の新学習指導要領に基づいて再編され、論理的・実用的な文章を扱う「論理国語」と、文学的な文章を扱う「文学国語」という選択科目が登場する。
これに対し、多くの作家や研究者が「文学軽視につながる」と異を唱えてきた。全体の授業時間の制約や受験への配慮などから「論理国語」が優先され、「文学国語」を採用する高校は少なくなるとみるからだ。
日本学術会議の分科会も先月末、懸念とそれを踏まえた改善策を提言した。「『論理』と『文学』を截然(せつぜん)と分けられるものだろうか」との指摘に、共感する人は多いのではないか。
<中略>
実際に学校現場はこれまで、物語の構造を分析し論理的な思考力を養う授業を重ねてきた。教員経験のある研究者は、物語の読解指導をするうちに、苦手だった説明文なども読めるようになる子がいると話す。取りあげる文章の種類に最初からたがをはめてしまうと、教材の多様さが失われ、そうした相互作用は働きにくくなるだろう。
(朝日新聞 7月31日「社説」)
たぶん、こんな批判を予想したうえで、文部科学省は学習指導要領を再編したのでしょう。
もちろん、再編の理由は学習指導要領に書かれていますが、その文字通りの理由では腑に落ちないから上記のような批判があったのではないか、と思います。そう考えると、もっと本当の理由があるのではないか、と勘繰りたくなります。
例えば、国際的な教育テストで日本の子供は論理的な考え方ができないことがわかったから、とか、就職した若者がマニュアル通りの仕事ができなくて困ったから、とかいう主に経済界から寄せられたご意見があったのではないか、と推察してしまうのですが、私の浅知恵だったらすみません。
専門家の意見を読むと、国語の授業に限らず論理的な思考力の育成が必要である、という点では異論はないようですが、それが文学的な文章と切り離されてしまうことに、戸惑いがあるようです。私の思いつく卑近な例で申し訳ないのですが、文学としてはあまり尊重されているとは言えないミステリー小説でさえ、いざ読むとなると論理的な思考力がなければ楽しめません。私たちは謎解きや犯人探しをしながら、ふだん使わないような思考力をくるくると回しながら夢中で本を読むのです。ましてや高校時代によく読んだドフトエフスキー( 1821 - 1881)に至っては、時系列や人名を注意して読まないと何が何やらわからなくなってしまいますし、それぞれの人物が繰り出す長広舌な話の内容やその背景が分からないと、ドフトエフスキーを読んだことにはなりません。まさか、とは思いますが、そういう読書体験がない人たちが、学習指導要領を決めているのではないだろうか、と不安になってしまいます。
そして、これはあながち根拠のない不安とは言えないと思います。例えば、いま話題の「日本学術会議」に関する次のような記事を読むと、日本の教育行政の鍵を握る為政者たちが、いったいどのような論理的な思考力を持っているのか、と首をかしげたくなってしまいます。
日本学術会議の新会員候補のうち6人を任命しなかった問題で、菅義偉首相はきのうの毎日新聞のインタビューでも具体的な理由を明らかにしなかった。
首相は「総合的、俯瞰(ふかん)的活動、すなわち広い視野に立ってバランスの取れた活動を行い、国の予算を投じる機関として国民に理解される存在であるべきだ」との観点から判断したと繰り返すだけだった。抽象的で、なぜ除外したのかが分からない。
学術会議の設置法は、会員について「会議の推薦に基づいて首相が任命する」と定めている。条文を審議していた1983年に中曽根康弘首相は「政府が行うのは形式的任命にすぎない」と述べた。それゆえ「学問の自由独立はあくまで保障される」と答弁した。
ところが、政府は今回、形式的任命を行わないことについて、過去の答弁との矛盾はなく、法解釈も変えていないと主張する。
持ち出したのは、内閣府が2年前に作ったという内部文書だ。推薦された人を首相が必ず任命する「義務があるとまでは言えない」と記し、人事を通じて一定の監督権を行使できるという内容だ。
文書は、公務員の選定は国民固有の権利と定めた憲法15条を根拠にしているが、これは一般的な理念を示したものだ。独立性の高い学術会議にも人事・監督権が及ぶという説明は説得力を欠く。
今回のようなつじつま合わせが通用するようなら、検察庁や会計検査院など他の独立性の高い行政機関の人事にも影響を及ぼしかねない。
首相は、人事権を使って首相官邸に権力を集中させ、政策推進の原動力にしようとしている。しかし、公正で透明な手続きを欠けば、強権化につながる恐れがある。
政権内からは学術会議のあり方を見直すべきだとの意見も出ている。だが、任命拒否に対する疑問に答えず、会議のあり方に矛先を向けるのは論点のすり替えだ。
河野太郎行政改革担当相は、学術会議を行政改革の対象にするという。「行革」の名の下に圧力をかける狙いが透けて見える。
首相は任命拒否について、合理的で国民が納得できる理由を示さなければならない。それができないのであれば、撤回すべきだ。
(毎日新聞 10月10日「社説」)
はたして「総合的・俯瞰的な活動、すなわち広い視野に立ってバランスの取れた行動をすること」という説明が、この場合に十分に論理的だと言えるのでしょうか。なぜ、この6人の人が任命されなかったのか、という質問に対して6人を一絡げにして「綜合的・俯瞰的」な理由だと書いたなら、「論理国語」で満点が取れるのでしょうか?
さらに記事にあるように、「学術会議」は行政改革の対象になるようですが、その理由はお金がかかる割には実働がないから、というふうに解釈されているようです。しかし前の記事を見ると、「日本学術会議の分科会も先月末、懸念とそれを踏まえた改善策を提言した」と書かれていますから、併せて読むと「学術会議」は働かないから改革されるのではなくて、余計なことを言うから改革されるのだ、というふうに読めてしまいます。
それに10月9日には、びっくりするようなニュースが入ってきました。菅総理大臣は105人の名簿を見ていない、というのです。「任命する」という重責を担っていることと、任命されなかった6人を把握していなかった、ということをどのように論理的に考えたらよいのでしょうか?新学習指導要領で論理を重んじる教育改革をするのなら、せめてその模範を示していただきたい、と願ってしまうのは間違っているのでしょうか?
あまり時事的なことを書いてしまうと、ワイドショーやネットニュースでうんざりしている方に申し訳ないのですが、これらのことは広く文化、ひいては芸術に関わることなので、捨てておけません。どうも最近の風潮として、学問や文化、芸術が、社会的な実働、実務と相反する、という考え方が蔓延しているように思えてなりません。そのことから、文化や芸術に関わること、もしくは文化人や芸術家を軽視してしまう傾向が感じられるのです。文化を大切にしない、もしくはそのことに関する理解が足りない例として、次のような記事もあります。
萩生田光一文部科学相がアイヌ民族をめぐり「差別でひとくくりにするのはどうか」などと発言したことについて、同氏は11日、北海道白老町で記者会見し、「もちろん困難な時代を越えてきたアイヌの人たちがいたのも事実だ」と釈明した。同氏は会見に先立ち、町内に12日開業するアイヌ文化施設「民族共生象徴空間(ウポポイ)」の記念式典に出席した。
萩生田氏は10日、「原住民と新しく開拓される皆さんの間で、さまざまな価値観の違いはあったと思う。それを差別という言葉でひとくくりにすることが、果たして後世にアイヌ文化を伝承していくためにいいかどうかは、ちょっと考えるところがある」と語っていた。
同氏は11日の会見で「これまでの歴史や経緯を全て差別という言葉でひとくくりにすることが、アイヌ文化を伝承していくためによろしいのかという発言だ」と改めて述べ、ウポポイについて「(差別の歴史を)正しく伝承しながらアイヌ文化を国内外に発信する拠点として活用いただきたい」と語った。
(時事通信社 7月11日]
私はこのニュースを見て、そもそもアイヌの文化の伝承が困難な状況にあること、その危機的な状態を「価値観の違い」という「言葉でひとくくり」にすることの方が危ういと感じました。古くから伝わる文化を圧倒的な力で摘み取ってしまった「歴史」は、「価値観の違い」に関して不寛容でした・・・、などという穏当な言葉では表現できないものだろうと思います。
このことについても、私は門外漢なので詳細について意見を言う立場にありませんが、文化の継承に関する為政者の無神経な態度だけは感受できます。グローバル化していく社会の中で、ただでさえ地域に根差した文化はすたれていきます。そこに差別意識を持った政治的な介入があれば、文化を継承していくことはほぼ不可能だと思います。「ウポポイ」が出来た、というニュースを聞いたときに、そういう反省に立ったものだとうれしいな、と思ったのですが、やはり違っていたようで残念です。
古い文化を大切にできない社会は、新しい文化に対しても「価値観の違い」だ、などといって攻撃的な姿勢を取ることがあります。「あいちトリエンナーレ」の一連の動きも、同様のことがいまだに起きているのだと思います。
「学術会議」のことも「ウポポイ」のことも、「トリエンナーレ」のことも共通するのは学問や文化、芸術に対する軽視です。私とは立場や考え方の違う方たちに「文化」や「芸術」に対する「理解」や「尊重」を求めても空しいだけですが、少なくともある程度の敬意をもってそれらをながめる、といった節度ある態度は文化国家の一員として必要なのではないでしょうか。
このblogを読んでくださっている芸術を愛する方、もしくは芸術活動をされている方は、そんなことを私から言われるまでもなく、日々実感し、それでも芸術を愛しているのだろうと思いますから、これ以上しつこく書きません。
しかし、この後で取り上げる文章は、これらのことと関係しています。
今回の最後の話題として、平野啓一郎( 1975 - )の講演『文学は役に立つのか』を取り上げます。これは以前に、フランク・パブロフ(Franck Pavloff , 1941 - )の『茶色の朝』と村上春樹(1949 - )の『青が消える』を紹介いただいた方から、資料をいただいたうえで教えていただいたものです。
この講演は2019年11月に明治大学で行われたもので、日本近代文学会・昭和文学会・日本社会文学会合同国際研究集会「文学のサバイバル──ネオリベラリズム以後の文学研究」の一連の講演やディスカッションに含まれていたもののようです。研究会の概要は次のアドレスから見ることができます。
(http://amjls.jp/con_history2011.html#2019-10)
さて、「文学は役に立つのか」という問いに対して、平野啓一郎の答えを初めに書いておくと、それは「今の世の中で正気を保つため」に文学は必要だ、ということです。
本人も語っていますが、講演そのものはきわめて雑駁で、話がいろいろと拡散しています。平野は中央公論4月号でも同じタイトルで同じ答えの文章を書いているようですが、こちらは読んでいないのではっきりとしたことは言えません。ただ、新型コロナウイルス感染が深刻になってきた時期だっただけに、別な意味を帯びていたのかもしれませんし、この講演の後で書かれたものなら、もうすこし読みやすいのかもしれませんね。しかし、「今の世の中」の様相が少しぐらい変わったとしても、たぶん同じ思いで書いたものでしょう。なかなか共感できる答えなので、その講演の部分を抜き書きしてみましょう。
そういうわけで、「文学は何の役に立つのか?」という大仰なタイトルを付けましたが、これはもちろんアイロニカルな括弧つきの問いです。研究者の立場にある皆さんと、小説を書いている僕の立場は多少異なっていると思いますが、いずれにしろ文学の世界にいると、しょっちゅう突きつけられる問いが、「いったい文学は何の役に立つんですか?」というものなんですね。
この問いは答えるのに苦慮する問いでもありますが、最近僕は、この問いに答えるのに苦慮しないひとつの理由を見つけました。それは、「今の世の中で正気を保つため」です。僕は最近、ほとんどそのためだけに本を読んでいます。
というのは、世の中自体が本当に「キレイはキタナイ、キタナイはキレイ」を地で行くようになって、そういう言葉の中で社会を認識していると、ちょっと頭がおかしくなってくる感じがあります。だから文学作品を読むということは、僕にとって精神的な健康を保つ、有効な手段になっています。
社会がインターネットを中心に、フェイク・ニュースが世界的な問題になっていて、言葉が非常に大きな混乱状況にある。その中で、文学の意義は問い直される局面ではないかと思っています。
(『文学は何の役に立つのか』平野啓一郎)
確かに、先ほどの為政者たちのニュースに見るように、言葉の意味、論理的な思考が混乱し、その重みが感受できるのが文学の世界だけ、という笑えない状況にあります。そういう状況にあって社会の格差ばかりが広がり、本屋さんに行って本を手に取って選んで買う余裕がどんどんなくなってしまう、そんな時代に自分は作家になったのだ、と平野は言います。
人々は社会の役に立つ歯車となることで何とか生活を維持しているわけですが、そこで平野はボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821 - 1867)の言葉を引きます。
「役に立つ」という話をもう少し考えてみたいと思います。この言葉は何となく嫌な響きのある言葉ではあります。僕はボードレールという詩人がとても好きなんですが、彼は『赤裸の心』という遺稿集の中で、「役に立つ人間であるということが私には常に、何かしらひどく醜悪なことと思われた」という呟きを残しています。ここで彼は「utile(役に立つ)」というフランス語を使っていますが、僕は大学生の時にこの一文を読んで、非常に心慰められるところがありました。「そうだ!いいこと言うなぁ」と。
ここでボードレールが何を言おうとしていたのかについて、もう少し真面目に考えてみたいのですが、彼はこの言葉を人間について言っています。「役に立つ人間(homo utile)」と言っている。近代社会というのはご承知のように、機能的に分化して、分化した機能が緊密にリンクして社会が維持されています。それぞれの機能の中で働く人間は、ある意味ハンナ・アーレントが言うように、目的として扱われるのではなくて、全体の中の一つの手段として扱われることになる。しかも社会には格差がありますから、労働は共同体にとって良いことに繋がっているという実感よりも、むしろ資本家に搾取されているだけという感じになり、「役に立つ」ことが自分の存在承認に全然跳ね返らなくなるという問題が起きています。
(『文学は何の役に立つのか』平野啓一郎)
この後で、平野はどんどん現実分析を進めていきます。ユヴァル・ノア・ハラリ (Yuval Noah Harari、1976 - )の『サピエンス全史』が示す暗い未来、村田 沙耶香(1979 - )の『コンビニ人間』が表現したアイロニカルな自己の存在承認、コスト管理とリスク管理がひしめく社会の中で忘れられていく人々のこと、などです。自己と公共性のかかわりもどんどん形を変え、たばこの害に関する社会的認識の広がりがいまでは環境保護の観点から環境負荷の多い牛肉を食べないという運動、CO2の排出の多い移動を伴うツアーをやめる有名なバンドまで出現する、という現実があります。
ここで例示されたものの中では、賛同できるもの、興味のあるものもありますし、そうではない、行き過ぎだとおもうものもあります。平野は「文学は役に立つのか」という問いもこのような状況下で発せられており、コストとリスクの面から文学不要論が出てきているのだ、と言います。こういう社会背景があって「論理国語」「文学国語」の分断が起こっているのですね、やっと話が繋がりました。
この後で、平野はアーサー・ダントー(Arthur Coleman Danto, 1924 - 2013)の「アートワールド」の論文を取り上げます。美術の価値観が一般の人に分かりにくくなっている中で、アートの世界はアートの関係者の中で自律した世界を形成している、というような内容です。平野はこの説にあまり感心しなかったものの、「あいちトリエンナーレ」の問題を考えた時に、アートワールドという考え方が有効なのではないか、と思ったと言っています。アーサー・ダントーはこのblogでも取り上げた「芸術の終焉」を言いだした人ですが、私はこの平野の意見には承服しかねます。芸術の自律性というのは、芸術を一定の人たちで囲い込むことで成立したのではだめだと私は思うのです。
平野は次にように続けます。
国家が自国の中にアートを制度的に抱え込むということは、アートワールドの自律性を信頼し、保護するということです。僕はその信頼性があるかどうかが非常に重要だと思います。アートというのは、人間がサルかヒトかようやく区別がついたくらいの頃から―それをアートと呼ぶかどうかはともかく―延々と続いてきた人間の営みです。それは国家の出現などより遥かに早くから始まって、何だかよく分からないけれど人間がとにかく必要としてずっと続いてきた営みなわけです。国家はそれを抱えておいた方がいいんだ、という発想の下に国家はアートを抱えている。だからこそ、その自律性を守って行かなければならない。
アートは国家より遥かに長いタイムスケールを人間の進化と共にしてきたし、国境を超えるような広い地理的ネットワークを持っています。そうすると、そこで考えられていることは、その時々の政権の考えとか政策とは対立することは当然出てきます。出てきても、それでもアートを抱え込んでおいた方が、平たく言うと、国家にとっては大きな活力になるんだ、という考えの下に、国家はアートワールドの自律性を尊重しながら維持していくべきだ、というのが基本的な考え方なんだと僕は思うんです。つまりアートは「役に立つ」ということでしょう。それを今の政権、今のトレンドの思想で矮小化しようとすると、結局、国家の今現在を越えていくような活力を共同体の中から失っていってしまう、ということが問題だと思います。
(『文学は何の役に立つのか』平野啓一郎)
うーん、どうでしょうか。ボードレールの「役に立つ人間であるということが私には常に、何かしらひどく醜悪なことと思われた」という名言はどこかへ行ってしまったような・・・。
この後は、平野が共感した作家たち、トーマス・マン、三島由紀夫、太宰治などのことが語られていきます。いま書いている小説について語り、文学と政治とのかかわりについて悩んでいる様子が述べられています。結局のところ、「今の世の中で正気を保つため」という答えも、どこか不明確になってしまったような気がします。
私には、「文学は何の役に立つのか」という問いそのものが、いまの社会の強迫観念をそのまま背負ってしまっているように感じられます。「文学」が何かの役に立たなくてはならない、という問いの意図を感じるのですが、いかがでしょうか。
例えば10月10日の朝日新聞に、『「不健康でもいい」と唱える医師 大脇幸志郎さん(36)』という見出しがありました。
健康であることはいいことだ。だが医師の大脇幸志郎さんは、甘い物や酒を我慢するなど人生の楽しみを犠牲にしてまで、健康である必要はないという。そもそも健康にいいとされることには「迷信」と言えるものも少なくないと指摘する。コロナ禍でより強まる「健康至上主義」の風潮は、私たちを窮屈にさせるだけだと言うのだが―。
(朝日新聞 10月10日「オピニオン&フォーラム」)
人間にとって「健康」であることは、異論のない「善」だと思うのですが、その「健康至上主義」さえもが見直されつつある、ということだと思います。
また、これとは別の記事で、ちょっと裏付けが取れないのですが、「人に迷惑をかけてはいけない」という思いでうつ状態にある人に対して、「あなたは迷惑なんてかけていませんよ」と声をかけるのではなくて、「人は迷惑をかける存在なのだから、あなたも迷惑をかけてもよいのですよ」と言うことの必要性について書かれていたこともありました。「人に迷惑をかけない」、「健康でなければならない」などは「誰かの役に立たなくてはならない」ということと共通しているように思うのですが、いかがでしょうか。これは今の社会が病的なまでに思い込んでしまっている強迫観念だろうと思います。このうえ、文学や芸術までもが、「人の役に立たなくてはならない」という強迫観念に駆られてしまっては、人間にとっての自由はどこへ行ってしまうのか、と考えてしまいます。
平野の「文学は何の役に立つのか」という問いに対する答え、「今の世の中で正気を保つため」を再度思い出してみましょう。「正気を保つ」ということはこの強迫観念から自由になることではないでしょうか。朝日新聞では強迫観念ではなくて「現代の宗教」という言い方をしていますが、とにかく、そのことから「正気を保つ」というのは、答えとしていい線をいっていたと思います。
最後に、このような近代主義の病理の原点ともいえる、カント(Immanuel Kant、1724 - 1804)の話をしておきましょう。彼は主著のひとつ『判断力批判』において、「美」を感受するというのはどういうことか、と考えています。「美学」という学問の原点でもあるのですが、「美」を感じるという快感を伴う感覚を、何とか近代主義の哲学の中に位置づけようと、カントは考えます。当然のことながら、その感覚は合目的であり、人間の生活や進歩に資するものでなければなりません。人の制作する芸術作品であれば、その善し悪しが何とか判定できそうですが、自然の美しさを感受するということは、どのように位置づけたらよいのか、カントは悩みます。
自然のかかる美に属するものには草木を装う花がある、それどころかありとあらゆる植物の形態がある。またあらゆる種類の動物の優美な形態がある、これはそれぞれの動物の本来の用途にとっては不必要であるが、しかし我々の趣味のためにいわば選び出されたかのような優美な姿である。なかんずく我々の眼をいたく喜ばせ楽しませる多様な色彩とその調和的配合とがある(雉、甲殻類、昆虫や、ないしは極く有りふれた花における)。およそかかる色彩は、動植物の形態の表面を飾るだけであり、またこの表面においてすらこれらの被造物の内的目的にとって必要と思われるような形状に関するものではない。要するにこのような一切のものが、我々の美学的判断力に対して、自然の現実的(意図的)目的を想定するところの説明の仕方を著しく有力ならしめるのである。
ところが理性は、その格律(主観的原理)によってかかる想定に反対するのである、理性の格律は、いかなる場合にも原理の不必要な増加をできる限り避けることを旨とすることからである。しかしそればかりでない、自然形式は、あたかも我々の判断力の美学的使用のために、いわばわざわざ作られたものであるかのように見えるにも拘らず、自然はその自由形式において、かかる形式の産出に関し到る処で甚だしく機械的な傾向を示しているのである。
(『判断力批判(上)』58章 イマヌエル・カント著 篠田英雄訳)
むずかしい言葉遣いですが、私なりに読み直してみましょう。
自然の美しさは、どうも動植物にとって必要なものではなさそうだ、だからそれらは私たちの目を愉しませるためにその姿を飾っているのかもしれない、いや、自然は自由に生まれ出るものだからそんなことはない、と理性がいってるよ・・・、という感じでしょうか。思い悩むカントの姿がいかにも人間的で、とくに「我々の眼をいたく喜ばせ楽しませる多様な色彩とその調和的配合とがある」という部分などは、どれだけ自然の美しさに魅せられた人なのだろう、と微笑ましくもあります。カントは規則正しい生活をしていて、決まった時間に散歩に出たそうですが、その時に目に映るものを楽しみながら眺めたのでしょうね。
そんなカント先生は、まちがっても自分の理論に合致しないからと言って「総合的、俯瞰(ふかん)的に見て、自然の美しさは認められない」などとは言わなかったでしょう。
そういえば、カントの後輩にあたるヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770 - 1831)も、美学の講義において、人間の右肩上がりの進歩史観を示しながらも、その当時の美術が古典美術よりも劣って見えることに戸惑っていました。彼らは理論に忠実だけれども、その理論が複雑な現実や自然と合致しないときには、その矛盾を隠しません。それが論理的な態度というものではないでしょうか。
いずれにしても、私たちは近代主義の難しい曲がり角に来ています。どちらを向いてもうまくいかないことばかりですが、それを個人的に背負い込む必要はありません。
弱ったこと、困ったことは、みんなで分かち合うと同時に、お互いを自律した存在として尊重しましょう。そんな毎日を送っていると、最初に紹介した4人の作家たちのように、自律した独自の時間を持つ素晴らしい作品が制作できるようになるのかもしれません。
ちょっと腰が痛くなってきました。明日も仕事なのにピンチです。読み直さないで、このままblogにアップしますので、読みにくかったらごめんなさい。次回はがっつりと美術について書く予定です。
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