はじめに広報です。
「現代アーチストセンター」がTシャツ・アートのチャリティ展を開催します。
くわしくは、次のホームページをご覧ください。
(http://artistcenter.web.fc2.com/)
興味のある方に、ぜひ情報を拡散してください。よろしくお願いします。
それから、引き続き10月6日から10月18日に東京の櫻木画廊で開催される『Dan Nadaner、Miyashita Keisuke(ダン・ナダナー、宮下圭介)』展をよろしくお願いします。
先日、宮下さんが出来上がったパンフレットを送ってくださいました。しっかりとした紙質で印刷も美しいので、お二人の作品がよくわかります。宮下さんの作品のクオリティーはつねに確かなものですが、ダンさんの作品もとても良さそうで、実物を見るのが楽しみです。
さて、前回からの続きで、今回は持田季未子(1947 – 2018)の『美的判断力考』「美的判断力の可能性」に書かれた読み方で、『カントの批判哲学』(ドゥルーズ)を読んでみます。
その前に、前回、前々回のおさらいをしておきます。
まず前々回のことですが、8月末に京橋のギャラリー檜で『Chatterbox』展という展覧会がありました。この展覧会は阿部尊美、藤本珠恵、山本裕子、飯沼知寿子という4人の女性作家による展覧会だったのですが、彼女らが発行した小冊子から、美術とジェンダーの問題とのかかわりを考えることになりました。
そして前回は、私の尊敬する持田季未子の遺作とでも言うべき『美的判断力考』という本のなかの、「美的判断力の可能性」という論文が、ジェンダーという観点から芸術関連の諸学について考える内容だったので、その概要を読んでみたのでした。持田は、現代美術の批評ともかかわりの深い哲学者のカント(Immanuel Kant、1724 - 1804)の思想の中に、男女の差別が深く根付いていたことを明らかにしましたが、それと同時にカントの生きた時代的な背景があることも、私たちに示しました。それが次の文章になります。
美学言説がジェンダー・バイヤスに濃く染まりながら18世紀に成立したのは事実だが、カントの美学そのもののなかに、近代的主体の限界の自覚とその克服への努力を読みとることもできる。ジェンダー観点導入による批判はたしかに一度は必要だが、告発だけに終わるのではつまらない。フェミニズムと1970年代後半以降のフランス哲学は、立場の相違こそあっても、ともに、文化がいかにフィクショナルな言説でしかなかったかを明らかにした。両者は西洋の近代的価値の批判という共通の動機をもち、ひいては人間の文化一般の批判という目標を共有していた。それだけに、相互に栄養を与え、学び合っていくことが可能なはずである。
(『美的判断力考』「美的判断力の可能性」持田季未子著)
このような問題提起で前回は終わりました。
何気なく書かれていますが、この投げかけはとても難しく、かつ重要です。ふつうは、もっと安易なふたつの筋道が考えられます。ひとつは、カントの思想の根本にジェンダー・バイヤスがかかっているのだから、彼の美学は信頼できない、と批判する筋道です。しかし、批判するだけでは新しい創造は生まれません。もうひとつは、そのような告発はカントの美学の根本とはかかわりがない、そもそもフェミニズム的な批判は芸術活動の大筋とは関係ない、とフェミニズムを軽視する筋道です。しかし、女性は「男性を楽しませ、男性に服従させられるように造られたのである」(ルソー)という18世紀の思想の下で成立した美学が、まったく健全なものだとは言えませんし、それを無視するのはあまりに不誠実です。
そこで持田は「西洋の近代的価値の批判という共通の動機」に目を向け、「相互に栄養を与え、学び合っていくこと」を提唱しているのです。つまり、いままで私たちが寄って立ってきた価値観を疑い、さまざまな立場の人たちの知恵を集めて、お互いに勉強しながら前へ進むこと、それがいまの私たちに必要なのだ、というわけです。
持田が注目したのは「近代的価値の批判」を実践した思想家ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)が著した『カントの批判哲学』(1962)という本です。この本を正しく読むためには、カントとドゥルーズという時代を隔てた二人の巨大な思想家について、ある程度の理解が必要なのだと思います。もちろん、素人の私にその素養はありません。したがってここでは、持田に導かれて芸術に関りがありそうなところだけ、拾い読みをすることにします。
ところで、まずこの本を読もうとして、ちょっとした違和感を覚えました。というのは、以前にドゥルーズの著書である『ニーチェ』を読んだときに、私は本文のどこまでがドゥルーズの思想で、どこまでがニーチェが言っていることなのかわからなくなった、と書きました。そのときに、この『カントの批判哲学』の訳者でもある國分功一郎が、別の本で次のように書いていたことを思い出したので抜き書きしました。
ドゥルーズ=ガタリは、その思想としか言いようのない数々の概念を打ち出し、哲学や歴史や社会を独自の仕方で描いた。その意味で、ドゥルーズ=ガタリの思想を研究する際、その研究の対象は明確である。対し、ドゥルーズの思想はそうではない。ドゥルーズの著作のほとんどが特定の哲学者や作家を対象としたモノグラフだからである。そこでは対象となる哲学者の概念や作家のテーマが詳細に解説されている。言い換えれば、ドゥルーズの本で解説されているのは、対象として取り上げられた哲学者や作家の思想であって、ドゥルーズの思想ではない。
(『ドゥルーズの哲学原理』「はじめに」國分功一郎著)
つまり、ドゥルーズという人は、ある哲学者について書くときに、「対象として取り上げられた哲学者や作家の思想であって、ドゥルーズの思想ではない」というぐらい、その研究対象と同化してしまうのです。しかし、この『カントの批判哲学』では、そうではありません。カントの本がつねに対象物として私たちの前にあり、ドゥルーズの指示によって私たちはそれを参照し、繰り返し問いを設定し、その答えを見出しながら前へ進む、というような読み方になるのです。
何となく、ひとつひとつのトピックで何かが突っかかるような気がして、スーッとは読み進めないのです。それはなぜなのか、國分功一郎は「訳者解説」のなかで次のように書いています。
カントこそは、ドゥルーズが自らの主著を世に問う以前の1963年の時点で、モノグラフィーを著すという直接的な仕方で乗り越えねばならない対象だった。その時点で、カント哲学は、過去に繰り広げられた諸々の哲学の中の一つなのではなくて、ドゥルーズが眼前に見据えている現在の哲学のフォーマットそのものを敷設した哲学だった。いま、哲学はカントが敷いた枠の中で動いている。その先に進むためには、この枠そのものを解体しなければならない。カントこそ、いまそこにいる「敵」である。
(『カントの批判哲学』「訳者解説」國分功一郎)
私のような者から見ると、哲学者は誰もが頭が良くて、偉大であって、その中の誰かが「敵」である、ということはありません。しかしドゥルーズのような人からすると、カントはいま自分が歩いている道を作った人であり、ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844 - 1900)のような人は、そこからはみ出してしまった人なのでしょう。カントがドゥルーズにとって乗り越えるべき人であるとするなら、ニーチェはその乗り越えを企てた先達というところでしょうか。だからドゥルーズはカントの思想を深く読みこみながらも、どこかでその思想を問い返しながら、より遠いところへ行こうと試みているのです。
そして持田季未子が「美的判断力の可能性」の最後に、ドゥルーズが書いたカントを取り上げたのは、その本が私たちの今までの歩んできた道を越えて進んで行くための格好の素材であったからだと思います。彼女は次のように書いています。
小論も結びにさしかかった今、私がより深く立ち入ってみたいのは、デリダではなくドゥルーズのほうである。ドゥルーズのカント論が、終始テクストに即しつつもリオタールやデリダのそれにも増して自由な態度で貫かれ、あたかもドゥルーズ自身の先駆者を先人のうちに模索するかのごとくであり、その結果、『判断力批判』解釈が直接的な意味での美学や芸術論の範囲を越えて推進されていることに注目するからである。ドゥルーズはこの書を通例のように美学の古典とするかわりに、『純粋理性批判』以下の三批判のむしろ根幹に位置づける。
ドゥルーズのとった道からフェミニズムは栄養を得ることができるのではないだろうか。
フェミニズム思想の得意とする領域がもともと芸術より社会思想史、社会学、倫理学、宗教史学、表象文化史、政治哲学などの方面であることを、フェミニズム美学・美術史の陥りがちな単調さが反証として示していることを前節までに述べたが、とすれば、『判断力批判』に対峙する生産的な方法は、いっそそれをたんに美学や芸術論としてではなく読解することであり、そのときドゥルーズのカント論が参考になるのではないか。
(『美的判断力考』「美的判断力の可能性」持田季未子著)
このように書いた後で、持田はドゥルーズがカントの「崇高」の概念を取り上げていることを指摘しています。その話に入る前に、前回も取り上げたカントの「崇高」という概念について、復習をしておきましょう。カントは「美」と「崇高」という概念を次のように捉えていたのでした。
カントは「美」を、例えば自然のなかに咲く花のようなものだと考えました。そしてカントは女性についても、その自然の美しさに近い存在だと考えたのです。一方の「崇高」は、例えば峻厳な山や荒れ狂う自然を見た時に人が抱く畏怖の感覚から発想されました。それは動揺、不快、高揚、苦痛を孕んだ感情でもあります。峻厳な山という圧倒的な大きな存在に対した時、人は自分が自然から独立した理性的な存在だと感じることができるのだと、カントは考えたのです。
ここでカギになるのが、「崇高」が人の意識の中で一瞬の動揺を来した後に、「感性」ではなくて「理性」によって沸き起こる概念だということです。つまり、圧倒的に大きな自然の驚異に対面した時に、人間は動揺し、「感性」だけでは受けとめきれない状態に陥ります。そのときに人間は自分を越えたものを受容する「想像力」を働かせるのですが、その「想像力」が自然の驚異と立ち向かうためには「理性」による調整が必要です。自分を越えたものを「崇高」なものとして受け止める「想像力」は、「理性」によって人間の内面に位置づけられることによって、動揺した感情をコントロールできるのです。そのように、「理性」と「感性」が同時に働く感覚のことを、このblogでも以前に取り上げた「共通感覚」だとカントは言うのです。
崇高という場において、不調和や不一致の後に初めてあらわれ来る諸能力の調和が、一致、すなわち共通感覚である。美と異なる次元でこのようにして成立する共通感覚こそ、『判断力批判』の急所であり、そこからさかのぼって美の問題もあらためて解明されるべきだ、とかれは考える。崇高なものにからんではじめて存在が明らかにされるカントの共通感覚は、不調和をはらんだ調和であり不一致の一致であるが、だからこそ、そこで産出される諸能力の一致は、たんなる論理上の一致をしのぐ重要性をもっている。
共通感覚論は第三批判(『判断力批判』のこと)だけではなく、時間的に先立つ二つの批判書(『純粋理性批判』『実践理性批判』のこと)にもすでに登場していた。すなわち第一批判(『純粋理性批判』)では「悟性が立法をなす論理的共通感覚」が、第二批判(『実践理性批判』)では「実践理性が立法をなす道徳的共通感覚」が論じられている。しかしドゥルーズは、最後に書かれた『判断力批判』における共通感覚こそ、すべての根底によこたわり、以前に執筆された二批判書におけるそれに本質的に先だって存在しなければならないものだと言う。崇高が介在して成立する美的判断力が、すべての根底にあるということになる。
(『美的判断力考』「美的判断力の可能性」持田季未子著)
この最後の部分「崇高が介在して成立する美的判断力が、すべての根底にある」と、なぜ言えるのでしょうか。理性だけで判断できる思考よりも、あるいは道徳的な倫理感で判断できる思考よりも、なぜ「美的判断力」が「すべての根底にある」と言えるのでしょう?
それは「美的判断力」だけが、人間が自分の内面だけではなくて外部と関わって判断するものであり、「崇高」という概念に至っては、自分自身を見失うほどの状態のときになされる判断だからでしょう。そして、あとで詳しく見ていくことになりますが、「美的判断力」には他者を説得する、という観点が避けようもなく入ってくるのです。
そのような、自分の中の理論だけでは受容できない状況に置かれたとき、人間は自分自身のバラバラな能力をフルに関連付けながら働かせる「共通感覚」を得るのであり、それこそが人間の理解を越えたものを受け止める唯一の方法なのです。だからここでは「『判断力批判』における共通感覚こそ、すべての根底によこたわる」と考えられるのです。
実際に、ドゥルーズはこの本の中で、どのように言っているのでしょうか。ドゥルーズの考えを辿ってみましょう。
「これは美しい」と言うとき、われわれは単に「これは好ましい」と言っているのではない。われわれはある種の客観性、ある種の必然性、ある種の普遍性を当然のものとして要求しているのである。だが、美的対象の純粋な表象は個別的である。つまり、美的判断の客観性は概念を欠いている。あるいは(同じことだが)、その必然性と普遍性は主観的である。一定の概念(幾何学図形、生物学上の種、合理的な観念)が介入するたびごとに、美は自由であることを止め、同時に、美的判断も純粋であることを止める。感情能力は、その高次の形態においては、思弁的関心にも、実践的関心にも依存することはできない。それゆえに、美的判断において普遍的で必然的なものとして呈示されるものは、ただ快に過ぎないのである。われわれは、自分たちの感じる快が、権利上、伝達可能で、万人に妥当なものであると仮定し、だれもがそれを感じるはずだと推測する。この推測、この過程は「要請」ですらない。なぜなら、それらはあらゆる規定された概念を排除しているからである。
(『カントの批判哲学』「第三章 判断力批判における諸能力の関係」ジル・ドゥルーズ著 國分功一郎訳)
これは人間が「美」を受容するときの、根本的な問題を問うている文章です。
私たちは、他人に向かって「これは美しい」と言うとき、どこかでその気持ちを相手と共有したい、という気持ちを持っています。「これは好ましい」と自分の気持ちを言うだけなら、ただ単に「私はいま、気持ちいい」と言っているのと同じです。そうではなくて、「これは美しい」と言った時には、「そう思いませんか?」と言っているのに等しいのです。そして、その気持ちを他人と共有するためには、そこに「ある種の客観性、ある種の必然性、ある種の普遍性」が必要なのです。ですから、「これは美しい」という短い言葉の中には、「客観性」や「必然性」、「普遍性」が「当然のものとして要求」されるのです。
しかし、もう少し深く考えてみましょう。この共有したい気持ちは、例えば「これは四角い」とか、「これは正しい」ということと、どこが違うのでしょうか。「これは四角い」という言葉は、私たちの作ったある一定の決まりごとのなかで、それは「四角い」と了解されます。また、「これは正しい」という言葉も倫理的に、または法律的に「正しい」ことに一致するのか、ということで了解されるのです。これらは、「これは美しい」ということとは根本的に違っています。このような決まりごととしての一致と同じものを求めてしまうと、「美は自由であることを止め、同時に、美的判断も純粋であることを止める」とドゥルーズは言っているのです。だから、「これは美しい」というときに、私たちはそれが「だれもがそれを感じるはずだと推測する」しかないのです。私たちは、「これは美しい」ということを他人に対して、強要することはもちろんのこと、「要請」することもできません。
それでは、どのようにして私たちは「これは美しい」という気持ちを他人と共有できるのでしょうか。これを説明することは、とても困難です。ドゥルーズの説明も『Chatterbox』の誰かが美術批評について言っていたように、とても「まわりくどい」ものです。しかし、ここを飛ばしてしまったなら、あなたにはわからない!と言ってしまうことになります。ですから、ちょっと我慢して読んでみてください。
しかし、このように仮定することも、悟性が何らかの仕方で介入しなかったなら、不可能であった。われわれは構想力の役割がいかなるものであるのかを既に見た。構想力は形式の観点から単独の対象を反省する。その際、構想力は、規定された悟性概念ではなく、諸概念一般の能力としての悟性そのものに関係している。つまり、構想力は、悟性の無規定な概念に関係する。言い換えれば、構想力は自らの純粋な自由において悟性と一致するのだが、その際に悟性は、特にその内容を特定されていない合法則性の中にある。場合によっては、次のようにいってもよい。構想力は、ここで、「概念なしで図式化している」、と。しかし、図式化とは、常に、もはや自由ではない構想力、悟性概念に即して働くよう規定された構想力の行為である。ということは、実のところ、構想力はここで図式化とは別のことを行っているのである。構想力は、対象の形式を反省することで自らの最も深い自由を表し、「形象の観察において、いわば、戯れている」のであり、「可能的直観の恣意的な諸形態の原因としての」産出的で自発的な構想力になるのである。これがつまり、自由なものとしての構想力と、無規定なものとしての悟性との一致である。これが、諸能力間の、それ自身で自由で無規定な一致である。この一致について、それは本来的な意味で美的な共通感覚(趣味)を明示するものであると言わねばならない。実際、われわれが、伝達可能で、万人に妥当なものであると想定している快は、この一致の結果以外の何ものでもない。構想力と悟性の自由な戯れは、一定の概念のもとでは起こることではないので、知性に認識されることはなく、ただ感じられるだけである。したがって「感情の伝達可能性」(概念の媒介を経ないそれ)というわれわれの仮定は、諸能力の主観的一致という理念に基づいているのだが、但しそれも、この一致そのものがひとつの共通感覚を形作っている限りにおいてのことである。
(『カントの批判哲学』「第三章 判断力批判における諸能力の関係」ジル・ドゥルーズ著 國分功一郎訳)
私たちが「これは美しい」という気持ちを共有しようとする時、お互いに分かりあえる「悟性」が働かなくてはなりません。簡単に言えば、「これは美しい」、「そうだね、わかるよ」というやり取りのことです。しかし、どうして私の「これは美しい」という気持ちが相手に伝わったのでしょうか。そこには幾何学おける定義のようなものはありませんし、法律上の条文にあたるものもありません。そういう決まりごとから自由なままで、お互いに分かり合える、ということは不思議なことですが、実際にはそれが起こっているわけです。そのことをドゥルーズは「自由なものとしての構想力と、無規定なものとしての悟性との一致である」と説明しているのです。そこで働いているのが、「美的な共通感覚(趣味)」だというわけです。
ここまで読んでみて、みなさんはどう感じているでしょうか。分かりきったことを、まわりくどく、面倒くさい言い回しで語っているに過ぎない、と思われるのかもしれませんが、実はこれは大変なことです。本来なら、私と他人との気持ちの伝達は、互いに理解できる決まりごとのなかで行われます。しかしその筋道がないところで伝達がなされている、と言っているのですから、そこには論理的な飛躍があるわけです。
しかし、だからこそ、この他人同士が分かりあえる「美的な共通感覚」が重要で、それはすべての人間同士の分かりあい(理解)の基礎になるのかもしれない、とこのあとでドゥルーズは言っています。そして、この説明でもまだ十分ではない、もっと掘り下げて考えなくてはいけない、とドゥルーズは言うのです。
美的共通感覚が、諸能力の客観的一致を表象することはない(言い換えれば、支配能力への対象の従属、かかる対象に関して他の能力が果たすべき役割を同時に規定するような能力への対象の従属を表象することはない)。それは、構想力と悟性がそれぞれ自分のために自発的に働く際の純粋な主観的調和を表象する。したがって、美的共通感覚は他の二つの共通感覚を補うのではない。むしろそれはこれらを基礎づける、あるいは、可能にするのである。仮にすべての能力の間で最初からこの自由な主観的調和が可能でなかったなら、どれかひとつの能力が立法的で基底的な能力を担うこともなかっただろう。
だが、するとわれわれは、とりわけ困難な問題の前に立たされることになる。われわれは、美的快の普遍性と高次の感情の伝達可能性を、諸能力の自由な一致によって説明している。しかし、この自由な一致を推定し、ア・プリオリに仮定するだけで十分なのだろうか?それはむしろ、われわれの中で産出されるべきものなのではないか?
(『カントの批判哲学』「第三章 判断力批判における諸能力の関係」ジル・ドゥルーズ著 國分功一郎訳)
これは何を言っているのか、わかりにくいですね。私なりに説明してみましょう。
例えば、私が「これは美しい」と言い、他人も「これは美しい」と言います。たまたま同じ趣味を持ち合わせていて、すぐに納得がいく場合もあるでしょう。でも、もしもどちらかが「これは美しい」と言われたことにしっくりとこなかったら、どうでしょうか。ただ、お互いの感覚を了解しているだけなら、それで話が終わってしまいます。しかし、人間同士の相互理解ではそれで終らないことがたくさんあります。時間をかけて話を聞くと、相手の「これは美しい」がわかってきて、自分自身も納得がいくということがありますし、場合によってはそのやり取りによって、自分の世界が広がっていくような気持ちになることもあります。そのときには、私たちの中で何か創造的なことが起こっている、すなわちお互いの不一致を、一致へと導くような何か不思議な力が働いているのです。ドゥルーズが「われわれの中で産出されるべきもの」と言っているのは、そういう創造的なことなのではないか、と私は思います。
そこで思い出されるのが「崇高」の概念です。ただ、「美しい」と感じるのではなく、例えば自然の驚異を前にして一瞬、我を忘れるような感覚、そしてその後に現れる新たな感覚や感情、それは創造的な何ごとかに違いありません。ドゥルーズは次のように説明します。
われわれが「これは美しい」という型の美的判断にとどまっている限りは、理性はいかなる役割をも果たさぬように思われる。そこに介入してくるのは、悟性と構想力だけだからである。その上、快の高次形態はそこに見いだされるものの、不快の高次形態は見いだされない。だが「これは美しい」という判断は、美的判断の一つの型に過ぎない。(対し)「崇高」においては、構想力が、形式の反省とは全く別の活動に身を委ねる。崇高の感情が経験されるのは、無定形なものないしは奇異な形態のもの(広大さもしくは威力)を前にした時である。
(『カントの批判哲学』「第三章 判断力批判における諸能力の関係」ジル・ドゥルーズ著 國分功一郎訳)
「美」の共有が悟性と構想力の働きによってなされるのだとしたら、「崇高」という概念の共有は、「理性」の働きがなくて成立しません。そもそも「崇高」なものを感受した時、人間ははじめに「不快」な感覚を覚えるのですから、感覚的な分かり合いでは話にならないのです。しかしこの「崇高」の概念を掘り下げてこそ、「美的判断力」が理解できるのだとドゥルーズは考えます。「広大さもしくは威力」を前にしたときに、私たちの内面で何が起こっているのか、ドゥルーズは次のように説明します。
だが、実のところ、感性界の広大さをひとつの全体にまとめ上げることをわれわれに強いるのは、理性以外の何ものでもない。この全体は感性的なものの「理念」であるが、そうであるのは、感性的なものが、その基体になるものとして、叡智的ないし超感性的な何かを有している限りにおいてのことである。それゆえ、構想力を駆り立てて、その力の限界へと推し進めるもの、構想力の全能力は「理念」に比すれば何ものでもないことを認めるよう強いるもの、それは理性に他ならないということを構想力は学ぶのである。
「崇高」は、したがって、われわれを、構想力と理性との直接の主観的関係に直面させる。だが、この関係は、まず一致というよりも不一致であり、理性の要求と構想力の能力との間で体験される矛盾である。構想力がその自由を失い、崇高の感情が快であるよりはむしろ不快であるように思われるのはそのためである。だが、この不一致の根底に、一致が姿を現す。不快が快を可能にするからである。構想力が、自らをあらゆる方面において超える何かによって、自らの限界に直面させられる時、それは自分自身で自らの限界を超え出る。それは確かに、否定的な仕方によってである。つまり、理性的な「理念」への近づきがたさを思い描くとともに、この近づきがたさそのものを、感性的自然の中に現前する何かとすることによってである。
(『カントの批判哲学』「第三章 判断力批判における諸能力の関係」ジル・ドゥルーズ著 國分功一郎訳)
私たちが自分の理解を超える「広大さもしくは威力」と出会った時、自分自身の無力さや空しさを感じます。しかし、そのときに「理性」が働き、自分の中の不調和を調和に変えるのだと考えられます。そこからドゥルーズはさらに踏み込んで、人間がそれまでの経験で培ってきた「構想力」を超えるものと出会った時、「構想力」そのものが「自らの限界を超え出る」のだと分析しています。そのことによって、「理性の要求と構想力の能力」との不一致が解消され、両者が一致するのです。
何だか、つかみどころのない話のように思われますが、しかしこの気持ちの動きは、何も自然の驚異や威容との出会いに限らず、例えば私たちの予想を超える芸術作品に接した場合にも起こっていることでしょう。そして、その感動をどのように他人と分かち合ったらよいのか、ということをドゥルーズはしつこく考えているのです。
前のblogで見たように、カントは「美」を女性的なものだと言い、「崇高」は男性的なものだと言いました。ドゥルーズはカントの敷いた道を歩きながら、それを批判的に検討し、それをのり越えるための新たな道を私たちに指し示しているのです。ドゥルーズの示した「構想力」と「理性」との葛藤と、その調和に至る筋道をたどったならば、そこにはジェンダーによる差別は微塵もなくなっていることに気が付くはずです。持田は、このような近代的な価値観の乗り越えを支持し、ドゥルーズが語るカント論を私たちに紹介してくれたのでした。
最後に、ドゥルーズのカント論から離れますが、持田季未子が「美的判断力の可能性」という論文の最後で、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906 - 1975)に触れていることを書き留めておきます。アーレントは晩年に、カントの『判断力批判』を美的判断力としてではなく、政治判断力に読み替えてこの本を政治哲学書として蘇らせたのだと、持田は書いています。
なぜ、『判断力批判』における「美的判断力」が「政治判断力」として価値を持ったでしょうか。それはこの本が、「他者への同意の要求」をテーマとしていたからです。面白いですね。「美」の判断を他人と共有することがいかに困難であり、かつ高度で重要なことなのか、ということをさんざんこの『判断力批判』のなかで読んできましたが、それが他者を扱う政治的判断力としても重要だ、というのです。アーレントの本は、私から見るとちょっと敷居が高いと思ってきましたが、このように書かれると読んでみなければなりませんね。そして持田はこんなふうに書いています。
『判断力批判』の崇高論にこのように他者性の問題が大きく影を落としていることに、フェミニスト美学者たちはもっと気づくべきではないだろうか。アーレントやドゥルーズが正しく見抜いていたように、理性的主体を外部から脅かす崇高という場には、明らかに「他者」が顔を出している。アーレントがフェミニストの範疇に収まるかどうかは私にはどちらでもいいことだが、この辺りの理解に関する限り、両者の認識に開きがあると言わざるを得ない。崇高にかかわって獲得される美的共通感覚、すなわち不一致のなかで取得される一致、不調和にもかかわらず確保される調和という考えは、明らかに他者性の契機をはらんでいた。フェミニスト美学者のように崇高論を男性中心的として批判するだけでは、貴重な思想的富を取り逃がしてしまうのではないか。
(『美的判断力考』「美的判断力の可能性」持田季未子著)
哲学にとって、他者を考える、というのはとても困難で、かつ重要なことなのだということはわかりました。そしてその点で、『判断力批判』は重要な書物なのだ、ということになるのです。その考察においてカギとなる概念が「崇高」なのですから、「崇高論を男性中心的として批判するだけでは、貴重な思想的富を取り逃がしてしまう」と持田は書いているのです。
このように書いた後で、持田はこの論文を次のようにまとめています。
ジェンダー観点から人文諸学を見直すことは、学問的認識の深化のためにも現実社会における女性差別解消のためにも必要であるが、芸術関連諸分野とかかわるとき、細心の注意が不可欠となる。フェミニズムが本来女性に対する不当な抑圧と戦うという現実的関心に源を発する社会思想であり、政治思想であるだけに、当然ながら道徳的要請がついてまわり、そのことが芸術を対象とするときにはしばしば不都合に機能するからである。芸術と道徳の間を短絡すれば、芸術的にも倫理的にも貧しい研究成果しか生まれない。誤解を恐れずに言えば、芸術は道徳とは別の論理をもっているのである。
芸術作品に対して道徳的に価値評価を下したり、歴史的知識や図像学的体系その他の外的な物差しに照らして解釈したりするかわりに、他者に圧倒される崇高の経験こそ重要であることを先人は教えている。畏怖の感情をともなう時すらある崇高の経験こそ、直後に美的判断を招来する契機になると。カントの判断力論は、芸術作品に直面して一人で判断を下さねばならないときに私たちが感ずる心許なさに、明快な説明を与えてくれる。美的判断においては真理性が客観的に保証されることはありえないという事実をあらわにして見せる。
表象文化や芸術社会学のような学問分野であれば、客観性は成立し得るし、またそれをみずからに課すべきだろう。だが肝心の、芸術作品を前にして美的判断を実践する場においては、人間の別の能力が活動を始めなければならないのである。そしてたとえ心許なく、確実性を欠くように感じられようとも、美的判断はけっしてたんなる個々人の恣意による好き嫌いにすぎないわけではないということを立証すべく、まさに『判断力批判』は書かれたのだった。さらに、ドゥルーズの読解を是とするなら、美的判断は論理的一致や倫理的一致を発生させるひこばえでさえある。アーレントに倣えば、そこから政治哲学に通ずる道がある。フェミニズム美学が、現在のように従来の学問的言説にひそむ男性中心主義の告発を事とする過渡期的な段階を過ぎ、成熟するためには、芸術作品を判断するという肝心の問題にかんして、より謙虚な態度を身につける必要があるだろう。
(『美的判断力考』「美的判断力の可能性」持田季未子著)
持田の結論は、男女の差を問わず、これから学問的な研究に携わる者、あるいは芸術を探究する者への苦い助言となっています。まじめに近代までの思想について考えれば、あるいは芸術的な価値観について探究すれば、そこにはジェンダー差別のバイヤスがかかっていることが明らかで、それは当然、これから考慮していかなくてはならないことになります。そのことを理解したうえで、いままでの世界観をどう乗り越えていくのか、私たち自身の態度にかかっているのです。
それにしても、あまり最近の政治のことは言いたくないけれども、性的被害を受けた女性に対して心無い発言をする女性政治家の話題であるとか、政治が学問に介入しようとする動きであるとか、暗いニュースばかりのこの頃です。彼らについてはジェンダーの問題とか学問の自由の問題とか言う前に、はなから文化というものを理解しようともしない姿勢が見えて、怒りを通り越して悲しくなります。
聞く耳を持たない人たちのことを考えても仕方ありません。とにかく、芸術や文化に興味や関心がある人を、少しでも増やしていくように頑張りましょう。
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