今日は、岩手県卓球協会総会と強化部会のために盛岡に来ている。
このブログも、友人宅を借りて約1ヶ月振りに更新している。
3月11日以来あっという間に通り過ぎた1ヶ月という月日は、今だに現実のものとは思われず信じられない気持ちである。
さて、今日の総会であるがh23年度の事業計画やその見通しや変更、来るべきh26年の2順目国体に向けどのような強化を図るのか、議論を尽くさなければ成らない。
今こそスポーツ、卓球の意義が問われる時でもある。
子どもたちが、そして卓球を愛する全ての人たちがこの困難から立ち上がり、前を向いて一歩を踏み出すことが出来るよう協会として活動していかなければならないと考えている。
東北地方太平洋沖地震津波①
3月11日 午後2時46分、1千年に一度と言われる悪夢が起きた。
誰もが予想しない震度6弱(大船渡)、マグチュード9.0強い地震からの未曾有の巨大津波の発生である。
今まで、固定電話(ひかり)回線が不通でブログを書けずにいたので皆様には多大なご心配をお掛けし大変申し訳なく思っております。
また、全国各地から数々のお見舞いと激励を頂いて感謝の気持ちで一杯です。
人々の有難さが、こんなに身にしみたことはありません。
あらためて皆様方のご好意に対し感謝をいたしますと共に、ご報告が遅くなりご心配と混乱を与えてしまったことを心からお詫び申し上げます。
東北地方太平洋沖地震津波②
3月11日 午後2時46分、私は運良く会社兼自宅にいた。
地鳴りと共に巨大地震が起き、横揺れが約3分位続き一旦収まったかに見えたが再び揺れが大きくなり、会社の外の駐車場にみんなで避難をした。
会社の道路向かいにある倉は、地震のせいで上から徐々に崩れ始め道路に落下してきたのである。
15分ほど外で様子をうかがい、大津波警報が発令されてはいたが揺れが一時的に収まったので社員を自宅に帰らせて地震の後片付けをしようとしていたのだが、海のある隣町大船渡から教え子のA君が車で会社の前で止まり、「今、後ろから津波がやってきているので早く避難してください!」との慌てた様子をみて、これは一大事と判断しみんなで逃げることにし、車で立根町に避難したのである。
我が家と会社は、大船渡湾につながる盛川の河口から約3kmもあるので、50年前のチリ地震津波でもそうであったように到底津波が押し寄せる位置ではないと高をくくっていたが、結果的には我が家まで約50mにまで迫ったのであるから驚き千万であった。
さて、一昨晩も大きな余震があり又もや非難を余儀なくされ、停電も昨晩の9時まで続き一日中仕事にもならなかったのである。
今日は、ここまでにして今から会議に向かうこととする。
又機会を見て、今回の災害について書いてみたいと思っている。
体育センター横の桜の木に引っ掛った流木
無残な南三陸リアス鉄道
地震の時間を示し止ってしまった時計
玄関の上に乗ってしまった車
奥が太平洋セメント工場
ガレキの山
流された民家の屋根
すっかり跡形もない湾口防波堤
マイヤ本店・プラザh・大黒家付近
市民体育館卓球場
このブログも、友人宅を借りて約1ヶ月振りに更新している。
3月11日以来あっという間に通り過ぎた1ヶ月という月日は、今だに現実のものとは思われず信じられない気持ちである。
さて、今日の総会であるがh23年度の事業計画やその見通しや変更、来るべきh26年の2順目国体に向けどのような強化を図るのか、議論を尽くさなければ成らない。
今こそスポーツ、卓球の意義が問われる時でもある。
子どもたちが、そして卓球を愛する全ての人たちがこの困難から立ち上がり、前を向いて一歩を踏み出すことが出来るよう協会として活動していかなければならないと考えている。
東北地方太平洋沖地震津波①
3月11日 午後2時46分、1千年に一度と言われる悪夢が起きた。
誰もが予想しない震度6弱(大船渡)、マグチュード9.0強い地震からの未曾有の巨大津波の発生である。
今まで、固定電話(ひかり)回線が不通でブログを書けずにいたので皆様には多大なご心配をお掛けし大変申し訳なく思っております。
また、全国各地から数々のお見舞いと激励を頂いて感謝の気持ちで一杯です。
人々の有難さが、こんなに身にしみたことはありません。
あらためて皆様方のご好意に対し感謝をいたしますと共に、ご報告が遅くなりご心配と混乱を与えてしまったことを心からお詫び申し上げます。
東北地方太平洋沖地震津波②
3月11日 午後2時46分、私は運良く会社兼自宅にいた。
地鳴りと共に巨大地震が起き、横揺れが約3分位続き一旦収まったかに見えたが再び揺れが大きくなり、会社の外の駐車場にみんなで避難をした。
会社の道路向かいにある倉は、地震のせいで上から徐々に崩れ始め道路に落下してきたのである。
15分ほど外で様子をうかがい、大津波警報が発令されてはいたが揺れが一時的に収まったので社員を自宅に帰らせて地震の後片付けをしようとしていたのだが、海のある隣町大船渡から教え子のA君が車で会社の前で止まり、「今、後ろから津波がやってきているので早く避難してください!」との慌てた様子をみて、これは一大事と判断しみんなで逃げることにし、車で立根町に避難したのである。
我が家と会社は、大船渡湾につながる盛川の河口から約3kmもあるので、50年前のチリ地震津波でもそうであったように到底津波が押し寄せる位置ではないと高をくくっていたが、結果的には我が家まで約50mにまで迫ったのであるから驚き千万であった。
さて、一昨晩も大きな余震があり又もや非難を余儀なくされ、停電も昨晩の9時まで続き一日中仕事にもならなかったのである。
今日は、ここまでにして今から会議に向かうこととする。
又機会を見て、今回の災害について書いてみたいと思っている。
体育センター横の桜の木に引っ掛った流木
無残な南三陸リアス鉄道
地震の時間を示し止ってしまった時計
玄関の上に乗ってしまった車
奥が太平洋セメント工場
ガレキの山
流された民家の屋根
すっかり跡形もない湾口防波堤
マイヤ本店・プラザh・大黒家付近
市民体育館卓球場