一休は、リアリティを求めた。(つまり実用性)
まやかしのたぐいが嫌いだったのである。
釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな
秋風一夜百千年(秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ)
花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの
女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む
世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり
南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ
親死に 子死に 孫死に
(これは仙崖が信者にめでたい言葉を書いてくれと請われ「祖死父死子死孫死」と書いた逸話の誤りだと思われる)出典『禅門逸話集成』禅文化研究所
筆者が昔見たアニメの一休さんでは、
「屏風に描いてある虎を捕まえてみせろ」
と無理難題を出され、
縄を持って「さあ、出してください!」
と言って大名達を困らしたという
話があるが、
これは、現に捕まえた事になる。
まず、人の念が想像で作り出した虎は、
人の中で恐怖を生む。
しかし、「出してください!」
と言った事で、「それは無理だ!」と誰もが思う。
それこそが狙いである。
つまり「出すのは不可能」「これは絵だ」と
観念を固定させたことにより、
人から「恐怖」を取り去る。
これが一休がやるとんちである。
つまり、一休は人から
そうした「観念的恐怖」を取り除くために必死になって色々していたのだ。
大きな木刀を、鞘に差し、街を歩くという風変わりな格好をしていた。これは、見かけは大刀に見えるが、
抜くと木刀である。その時代背景が、
「見掛け倒し」「見た目重視」「見せかけに騙される」
という時代だった事で、それを批判するために行ったのだという。
また、どくろを杖に差し、
それを持ちながら「用心、用心」と歩いて回ったという。
人に警戒心を呼び起こし、その印象を頭に植え付ける事によって、ちよっとした焼脳(焼き付けられるように記憶する事)を起こし、現代のパトカーのサイレン的な強烈印象を与えたかったのだろう。
一休は、インド批判をしている。
室町時代から、インドからの仏教伝来を否定したがる人間がいた。
これが事実である。
仏教の中にひとついい教えがあるとするなら、
「倫理」で、悪い事をすると地獄に墜ちる。
という地獄絵図など。
しかし、現代の仏教には色々な宗派があるが、
法華経だけはよろしくない。
※筆者の家系は法華経だが…※(それと般若心経)
経文の言霊的要素が、
南無妙法蓮華経
南無=信じる、
妙法=明るい未来を
蓮華経=周りが泥沼で咲かす花
筆者は過去に友達に誘われるままに※(創価学会という法華経を扱う宗教団体に)※ひと月ほど入信した事があったが、なんだか信者が強引で、やたらめったら教祖様教祖様崇めていて、「お前もああなりたいだろう!?なあ!?」みたいな態度だったので怖くなり辞めるに至った。
結局多数の宗教に興味を持ち出入りしてみたが、
最後には自分はスパイだったのではないかと思うぐらいに
どこにも根付かなかった。
なぜかと言えば、「宗教には金が絡む。」
最終的には、「あなたのお気持ちで結構です。救われたお礼に少しでも献金しませんか?」とこうなる。
これが多ければ多いほどその世界では偉い事になる。
筆者は貧乏性なので、「あらゆる宗教の知識を得て帰った。」
本当は宗教にはお金はいらないはずだ!
そう思っていた。
しかしどうしてもお金がないと回らないのだろう。
しかし俺は道具にはされたくない。
仕方がなかった。
そして、筆者が高校の時に出会った、一冊の本、
「アミ 小さな宇宙人」のほうが、
よっぽど宗教的(つまり人の心を救う)
だと思い、色々参考にはしている。
本当に筆者はスパイだろう。
すまない。
そんなつもりじゃない。
お金がないし、偉くなりたかっただけだ。
お金もないし、偉くもないけど。
人が最後に求める事は、恋人だ。
互いに支え合う間柄。
人生を楽しくする
信頼関係。
共に手を取り合う喜び。
ひと時の時間を、
大切に一緒に過ごすぬくもり。
そうした事でしか、
なくて、それをこの世から剥奪されないためにあるべきなのが、倫理であり、本来の宗教の姿だ。
どこかで、歯車が狂っているのかいないのか、
この世の成り行きは、これでいいのでしょうか?
まやかしのたぐいが嫌いだったのである。
釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな
秋風一夜百千年(秋風のなかあなたと共にいる。それは百年にも千年の歳月にも値するものだ)
花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの
女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む
世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり
南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ
親死に 子死に 孫死に
(これは仙崖が信者にめでたい言葉を書いてくれと請われ「祖死父死子死孫死」と書いた逸話の誤りだと思われる)出典『禅門逸話集成』禅文化研究所
筆者が昔見たアニメの一休さんでは、
「屏風に描いてある虎を捕まえてみせろ」
と無理難題を出され、
縄を持って「さあ、出してください!」
と言って大名達を困らしたという
話があるが、
これは、現に捕まえた事になる。
まず、人の念が想像で作り出した虎は、
人の中で恐怖を生む。
しかし、「出してください!」
と言った事で、「それは無理だ!」と誰もが思う。
それこそが狙いである。
つまり「出すのは不可能」「これは絵だ」と
観念を固定させたことにより、
人から「恐怖」を取り去る。
これが一休がやるとんちである。
つまり、一休は人から
そうした「観念的恐怖」を取り除くために必死になって色々していたのだ。
大きな木刀を、鞘に差し、街を歩くという風変わりな格好をしていた。これは、見かけは大刀に見えるが、
抜くと木刀である。その時代背景が、
「見掛け倒し」「見た目重視」「見せかけに騙される」
という時代だった事で、それを批判するために行ったのだという。
また、どくろを杖に差し、
それを持ちながら「用心、用心」と歩いて回ったという。
人に警戒心を呼び起こし、その印象を頭に植え付ける事によって、ちよっとした焼脳(焼き付けられるように記憶する事)を起こし、現代のパトカーのサイレン的な強烈印象を与えたかったのだろう。
一休は、インド批判をしている。
室町時代から、インドからの仏教伝来を否定したがる人間がいた。
これが事実である。
仏教の中にひとついい教えがあるとするなら、
「倫理」で、悪い事をすると地獄に墜ちる。
という地獄絵図など。
しかし、現代の仏教には色々な宗派があるが、
法華経だけはよろしくない。
※筆者の家系は法華経だが…※(それと般若心経)
経文の言霊的要素が、
南無妙法蓮華経
南無=信じる、
妙法=明るい未来を
蓮華経=周りが泥沼で咲かす花
筆者は過去に友達に誘われるままに※(創価学会という法華経を扱う宗教団体に)※ひと月ほど入信した事があったが、なんだか信者が強引で、やたらめったら教祖様教祖様崇めていて、「お前もああなりたいだろう!?なあ!?」みたいな態度だったので怖くなり辞めるに至った。
結局多数の宗教に興味を持ち出入りしてみたが、
最後には自分はスパイだったのではないかと思うぐらいに
どこにも根付かなかった。
なぜかと言えば、「宗教には金が絡む。」
最終的には、「あなたのお気持ちで結構です。救われたお礼に少しでも献金しませんか?」とこうなる。
これが多ければ多いほどその世界では偉い事になる。
筆者は貧乏性なので、「あらゆる宗教の知識を得て帰った。」
本当は宗教にはお金はいらないはずだ!
そう思っていた。
しかしどうしてもお金がないと回らないのだろう。
しかし俺は道具にはされたくない。
仕方がなかった。
そして、筆者が高校の時に出会った、一冊の本、
「アミ 小さな宇宙人」のほうが、
よっぽど宗教的(つまり人の心を救う)
だと思い、色々参考にはしている。
本当に筆者はスパイだろう。
すまない。
そんなつもりじゃない。
お金がないし、偉くなりたかっただけだ。
お金もないし、偉くもないけど。
人が最後に求める事は、恋人だ。
互いに支え合う間柄。
人生を楽しくする
信頼関係。
共に手を取り合う喜び。
ひと時の時間を、
大切に一緒に過ごすぬくもり。
そうした事でしか、
なくて、それをこの世から剥奪されないためにあるべきなのが、倫理であり、本来の宗教の姿だ。
どこかで、歯車が狂っているのかいないのか、
この世の成り行きは、これでいいのでしょうか?