村上島之允のこと
(1) 故村上島之亟 「函館市功労者小伝」より
本性秦、名は檍丸初め伊勢の浪士なろ、後幕府に仕ふ。地理学に通じ、地図を善くし、国学を修め、和歌を詠ず。一に志摩之允と云ふ。一日三十里を歩す。松平定信之を奇とし、召して幕府に仕へしむ。
寛政十年、近藤重蔵に附して蝦夷地を探査せしむ、爾後往復すること数回、その見聞は蝦夷島奇観、東蝦夷地名考、蝦夷国図説その他の著書として世に伝わる。中に寛政十年の箱館全景、亀田番所、市街図、風俗図、尻沢辺出土の土石器等を収む。百三十年前の箱館をたらしむるもの僅かに本書あるのみ。殊に本道最古の碑として、五百六十七年前の歴史を物語る称名寺所在の貞治の碑は、実に此の島之亟注意と記載とに依って保存せらる。 又漆を函館付近に植えたる如き、其功の一なり。
没年明らかならざるも、文化中五十四歳にて世を捐てたりと云ふ。嗣貞助又蝦夷の事に関す。墓碑東京谷中玉林寺に在り。
* 亟8画1010[白川静「字通」][字音]キョク・キ[字訓]ころす・きみ・すみやか・しばしば[同訓異字]きみ・ころす・すみやか・[字形]会意二十人+口+又(又)。二は上下の間の狭い空間。ここに人をおしこめ、前に自己詛盟を示す祈祷の器♉(さい)をおき、後ろから手でおしこむ。人を極所に陥れて罰する方法を示す。これによって殺すことを殛、また棘(きょく)に仮借して急棘、すみやかの意となる。
訓義
以下省略
(2) 函館市功労者小傳名簿 岡田健蔵
「港祭市功労者銓衡基準ニ拠ル功労者」第1号
1 河野 政通 コウノ マサミチ
2 村上 島之允 ムラカミ シマノジョウ
3 羽太 正養 ハブト マサヤス 従五位下安藝守
4 富山 元十郎 トヤマ モトジュウロウ
5 高田屋 嘉兵衛 タカダヤ カヘイ 贈正五位
6 高田屋 金兵衛 タカダヤ キンベエ
7 工楽 松右衛門 クラク マツウエモン 従五位
8 中川 五郎次 ナカガワ ゴロウジ 従五位
9 島野 市郎治 シマノ イチロウジ
10 入江 善吉 イリエ ゼンキチ
11 蛯子 吉蔵 エビコ キチゾウ
12 松浦 武四郎 マツウラ タケシロウ 従五位
13 堀利熙 ホリ トシヒロ 従五位下織部正
14 竹内 保徳 タケウチ ヤスノリ 従五位下下野守
15 村垣 範正 ムラガキ ノリマサ 従五位下淡路守
16 栗本 鯤 クリモト コン 従五位下安藝守
17 杉浦 誠 スギウラ マコト 従四位兵庫頭
18 河津 祐邦 コウズ スケクニ 従五位下伊豆守
19 武田 斐三郎 タケダ カイサブロウ 従五位
20 代島 剛平 ダイジマ ゴウヘイ
21 塩田 順庵 シオダ ジュンアン
22 鈴木 主一郎 スズキ シュイチロウ
23 松代 伊兵衛 マツシロイヘエ
24 西川 晩翠 ニシカワ バンスイ
25 渋田 利右衛門 シブタ リエモン
26 続 豊治 ツズキ トヨジ
27 松川 弁之助 マツカワ ベンノスケ
28 堀川 乗経 ホリカワ ジョウキョウ
「港祭市功労者銓衡基準ニ拠ル功労者」第2号
1 柳田 藤吉 ヤナギダ トウキチ 勲四等藍綬褒章
2 木津 幸吉 キズ コウキチ
3 横山 松三郎 ヨコヤマ マツサブロウ
4 黒田 清隆 クロダ キヨタカ 従一位大勲位
5 時任 為基 トキトウ タメモト 正三位勲一等
6 園田 実徳 ソノダ サネノリ 従五位勲五等
7 常野 正義 ツネノ マサヨシ 藍綬褒章
8 渡辺 孝平 ワタナベ コウヘイ 藍綬褒章
9 渡辺 熊四朗 ワタナベ クマシロウ
10 平田 文右衛門 ヒラタ ブンエモン 藍綬褒章
11 今井 市右衛門 イマイ イチエモン 藍綬褒章
12 平塚 時蔵 ヒラツカ トキゾウ 藍綬褒章
13 杉浦 嘉七 スギウラ カシチ
14 小林 重吉 コバヤシ ジュウキチ 贈従五位
15 金子 利吉 カネコ リキチ 藍綬褒章
16 伊藤 鋳之助 イトウ イノスケ
17 田中 正右衛門 タナカ ショウエモン
18 逸見 小右衛門 ヘンミ ショウエモン
19 辻 松之丞 ツジ マツノジョウ
20 平出 喜三郎 ヒラデ キサブロウ
21 馬場 民則 ババ タミノリ
22 中川 嘉兵衛 ナカガワ カヘイ
23 浅田 清次郎 アサダ セイジロウ
24 遠藤 吉平 エンドウ キッペイ 藍綬褒章
25 永田 方正 ナガタ ホウセイ
26 新妻 甚八 ニイズマ ジンパチ 藍綬褒章
27 相馬 哲平 ソウマ テッペイ 紺綬褒章
28 吉岡 憲 ヨシオカ ケン
29 長尾 含 ナガオ フクム 緑綬褒章
計64名
小傳には河野政通の説明で河野季通が入る
「港祭市功労者銓衡基準ニ拠ル功労者」第3号
1 岡本 忠蔵 オカモト チュウゾウ 緑綬褒章
2 佐々木 平次郎 ササキ ヘイジロウ 正五位勲三等
3 和島 貞二 ワジマ テイジ
4 平出 喜三郎 ヒラデ キサブロウ 正六位勲四等
5 堤 清六 ツツミ セイロク
6 森 卯兵衛 モリ ウヘエ
7 加賀 與吉 カガ ヨキチ
*藍綬褒章「教育衛生慈善防疫の事業、学校病院の建設、道路河渠堤防橋梁の修築、田野の墾闢(こんぺき、開墾)、森林の栽培、水産の繁殖、農商工業の発達に関し公衆の利益を輿し成績著名なる者又は公同の事務に勤勉し労効顕著なる者」に授与される。
*紺綬褒章=「公益のため私財を寄付し功績顕著なる者」に授与される。
*緑綬褒章=「自ら進んで社会に奉仕する活動に従事し徳行顕著なる者」に授与される。
(3) 村上島之丞『日魯交渉北海道史稿』 岡本柳之助著 1898年p75-76より
村上島之丞ハ伊勢神宮社家某カシノ二男ナリ、天明8年(1788)松平定信ニ知ラレテ幕府ニ召抱カヘラル、当時幕府ハ定信ヲ京師ニ遣ハシテ皇宮ヲ経営セシメタルニ、定信其任ヲ終ヘ帰途二伊勢ノ山田ニ赴キソノ地ノ風俗人情ヲ観、山田町ノ里正ヲ召シテ当所ニ珍シキ者アラサルカト問ヒシカバ、里正唯々トシテ坐ヲ退キ種々ノ奇石ヲ持チ来リテ之レヲ定信ノ覧ニ共ハヘヌ、定信喜ハスシテ申サレケレハ、余ノ尋ヌルモノハ斯ル木石ノ類二ハアラズ、何カ珍シキ人物無キカトノ意ナリ、里正畏ミテ、去レハニテ候、当初社家ノ二男ニ村上島之丞ト申スモノ之レアリ、弱年ノ頃ヨリ頗ル健歩ニテ日二三十里十日廿日ノ日ヲ重ヌルモ曾テ疲レタルコトナシ、且ツ此ノ者読書手跡モ人ニ優レ又タ畫ヲモ致シ、好ミテ諸国ノ地理ヲ調ヘ、近郷評判ノ高キ男ニテ候トゾ答エケル、定信ハ膝ヲ打チテ其レヲ召連レヨト所望セラレシカハ、早速二呼ヒ寄セテ謁見セシメ種々ノ談話アリテ辞シ帰レリ、定信頗ル之ヲ奇トシテ詳ニ其身分ヲ問ヒ江戸ニ帰ルヤ直チニ之ヲ幕府二召抱ヘ、松前地方取調掛ヲ命シテ其ノ地二赴カシメヌ。当時鄙夫ヨリ直ニ公儀へ召抱ヘラルルハ希有ノ事ニシテ、人々ハ島之丞ノ栄エヲ羨ミ世ノ評判トハナリシトゾ。村上島之丞速ニ登用セラレタレバ是迄研究セシ所ヲ実行スルコト此時ナリトテ東西ノ蝦夷地ヲ巡視シ前代未聞ノ事柄ヲ報道スル多カリシト云フ。村上島之丞ガ蝦夷地ニ赴キシハ前後三四回ニテ、Ⅰ夷地見聞ノ広キハ天下第一ト迄ニ称レラレ、諸侯ノ間ニモ其ノ名ヲ知ラレテ大ニ持囃サレシガ、不幸ニシテ麻疹ノ流行ニ感染シ年齢四五歳ニシテ世ヲ損テリト。
*くれ【▽某】(三省堂「だいじりん第二版」より)(代)不定称。「何(なに)」という語を並べて用い、不定・不明の人や事物をさしていう語。だれだれ。なになに。
*か-が【某】『日本国語大辞典』解説・用例〔代名〕不定称。名のわからない人、または、いちいち名をあげない人をさす。だれそれ。「なにがし」と対にして用いることが多い。くれがし。
*い-い〔ヰヰ〕【唯唯】:「デジタル大辞泉」[感]かしこまって了承するときの応答の語。はい。
この村上島之丞略歴は、松平定信の事績中に(村上島之丞、最上徳内、間宮林蔵)草莽ノ中ヨリ挙クとある。
〇松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名、老中。陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。
定信は学問吟味の政策の一環と人材登用の手段として学力試験を行った。当時、学問・教養にあまり関心がなかった幕臣たちの態度に定信は落胆し、幕臣たちに学問を奨励するために試験を考えたという。受験資格は、主に幕臣や地役人などに限定し、昌平坂学問所で試験(学問吟味)を行った。近藤重蔵はこの試験で好成績を挙げたため、定信に登用され、後に寛政10年(1798年)、蝦夷地調査隊の一員に加わった。
まつだいらさだのぶ【松平定信】 大辞林 第三版の解説
(1758~1829) 江戸後期の老中。陸奥(むつ)白河藩主。田安宗武の子。松平定邦の養子。号は楽翁。藩政に尽力,天明の飢饉(ききん)に藩内で餓死者を出さなかったという。 田沼意次失脚後,老中となり寛政の改革を主導した。著「花月草紙」「宇下人言(うげのひとこと)」ほか。
〇岡本 柳之助 出典:フリー百科辞典『ウイキペディア(Wikipedia)』
岡本 柳之助(おかもと りゅうのすけ、嘉永5年8月14日(1852年9月27日) - 1912年(明治45年)5月14日)は、紀州藩出身の国粋主義者、大陸浪人、陸軍少佐、朝鮮宮内府兼軍部顧問。本姓は諏訪。乙未事変を主導。辛亥革命が勃発すると上海に渡り、当地で客死した。号は東光。
経歴
紀州藩の世臣・諏訪新右衛門の第二子。江戸藩邸に生まれる。岡本家の養子となり岡本姓を名乗る。幼少より文武の才に富み、15歳で幕府の砲術練習所に学び、16歳で江戸定府紀州藩砲兵頭となり、彰義隊に加わって佐幕派として官軍に抗するがのち敗れて伊勢松坂に送致される。維新後の藩政改革で津田出や鎌田栄吉、陸奥宗光に見出され、東上して1874年(明治7年)に陸軍大尉となる。
1875年(明治8年)の江華島事件の際に朝鮮に派遣された黒田清隆に随行して渡韓。1877年(明治10年)の西南戦争では、大阪鎭台の参謀大尉として山路元治と共に九州各地に転戦。戦後に、功で少佐に進み、東京鎭台予備砲隊大隊長となる。しかし、竹橋兵営の隊長として暴動を主導したとして、竹橋事件の首謀者として追及され、松尾三代太郎と共に官職を追放される。
路頭に迷っていた所を、同藩の鎌田栄吉から福澤諭吉を紹介され、門人となる。福澤邸で書生を務めながら慶應義塾に学び、金玉均・朴泳と親交を深める。次いで日蓮宗の新井日薩と日蓮主義を研究し、南方熊楠とも親交を持った。井上角五郎らと共に金玉均を追って上海に渡り、次いで大鳥圭介公使や陸奥宗光外相と共に京城に渡り、袁世凱との折衝に努める。陸軍の福島安正とはかり、雲峴宮より大院君を奉じて朝鮮内部の改革を主導して朝鮮政府の軍事顧問に就任した。
晩年は支那革命を援助しながら東洋政策の研究と『日魯交渉北海道史稿』・『政教中正論』などを記して北海道史や日蓮仏教の研究などを行った。1912年(明治45年)に清国上海を視察中、急死した。 以下 省略
(4) 村上島之允について 〔JapanKnowedge〕に人物記載はない
〔JapanKnowedge〕には、下記の「日本人物文献目録」があるのみ
村上島之允(秦檍丸) 「日本人物文献目録」 〔JapanKnowedge〕
【図書】
論題・副題 著編者 収録書名・シリーズ名・巻次 刊行所 刊年
学芸史上の人々 森銑三 二見書房昭和31年
【遂次刊行物】
論題・副題・連載回数 著編者 誌名・巻号 刊年
会田安明の「村上檍丸か伝」・同追記 皆川新作 伝記8巻9-10昭和16年
蝦夷地の先覚秦檍丸 伊藤武雄 伝記 7巻8昭和10年
蝦夷地の先駆者秦檍丸 一名村上島之允に就いて 伊藤武雄 御料林51昭和7年
秦檍丸と菅谷帰雲 本多夏彦 伝記 7巻4昭和15年
秦檍丸の事績 森銑三 伝記 7巻1昭和15年
秦檍丸の著書 森銑三 伝記 6巻12昭和14年
秦檍丸の著書 森銑三 伝記 6巻12昭和14年
村上島之允と間宮林蔵1-3赤羽栄一 伝記 6巻6-8-10昭和14年
村上島之允の蝦夷地勤務1-3皆川新作 伝記 7巻4-6昭和15年
村上島之允の略伝が世に出たのは、明治31(1898)年に岡本柳之助著『日魯交渉北海道史稿』で、松平定信の事績中に村上島之丞、最上徳内、間宮林蔵の3名を挙げ、草莽ノ中ヨリ挙クとあるのが最初である。
秦檍丸 はたあわきまる 『国書人名事典』第4巻 探検家 [生没] 明治元(1764)年、文化5年(1808)八月十二日(五日とも)没。四十五歳(四十九歳とも)墓、江戸下谷玉林寺。〔名号〕本姓、秦。村上氏。通称、島之丞(允)。号、檍丸(アワキマロ、アワキマルとも)。法号、無庵建了信士。〔家系〕一説、伊勢社家の次男。養子、村上貞助。〔経歴〕伊勢の人。天明八年(1788)幕命により蝦夷地を跋渉、報告を記す。書画を能くし、地理にも精通、殊に健脚だったという。〔著作〕「安房国地名考」〈寛政元〉蝦夷見聞記〈寛政十〉蝦夷常用集、蝦夷島奇観〈寛政十一〉蝦夷風俗史、蝦夷風俗史図説、越後名寄補 膃肭臍漁図説 上総国寺社縁起編 上総国郡郷沿革考〈寛政五〉上総国村高帳〈寛政五〉香覃播製 佐竹候操練図 東山道志日本国東山道陸奥州駅路図〈寛政十三〉東蝦夷地名考〈文化五〉松前考〈寛政十〉松前箱館江差奥地図〈文化四〉陸奥州駅路図〈寛政十二〉魯斉亜文字・法蘭文字〇蝦夷由来記[参考文献]森銑三著作集5 校訂伊勢度会人物雑誌三重先見伝 日本洋学人名事典
またネットで検索で確認出来た略歴紹介は下記の「地図測量人名事典」のみである。
村上島之允(むらかみしまのじょう:秦檍丸 はたあわきまる1760-1808)「地図測量人名事典」
伊勢の人、幕府役人、間宮林蔵の師。「蝦夷島奇観」、「蝦夷地名考」などの著者。間宮林蔵が幼少の頃、茨城県小貝川の堰止め工事を担当した村上は、測量家で林蔵の師であった。伊勢国宇治山田に生まれ、地理に詳しく、画も巧みであった。天明8年(1788)松平定信に見出されて、幕史として各地をめぐり土木工事にあたり、絵図の作成に当たっていたが、普請役として関東各地をめぐっていたとき、少年時代の間宮林蔵が彼に会い、下働きとなったことが、間宮が地理・測量に興味を持ったきっかけだあるという。
寛政10年(1798)から文化3年(1806)まで、普請役御雇として近藤重蔵らと蝦夷地を踏査、植林・農耕を指導し地図を作成し、初期の北海道開拓に尽くした。1807年、大目付中川忠英の巡察に普請役となって随行して蝦夷地を訪ねたのが最初の旅であった。著書には、「蝦夷島奇観」、「蝦夷見聞記」、「蝦夷地名考」などがあり、アイヌの習俗などを忠実に紹介している。地図としては、「蝦夷島地図」「東蝦夷地屏風」「蝦夷地図・諸島図」などがある。文化5年(1808)に45歳で亡くなった。村上貞助(1780-1846)は島之允の養子で、林蔵を助け「東燵地方紀行」などを編纂したといわれる。 以下 省略
(5)岡田健蔵「アイヌ研究家秦檍丸」(「巖松堂展望」1932年5月Vol.2No.4)より 月讀のひかり畏み千島なる えみしの國もさやけかりけりとは今より百三十三年前の今月今夜即ち寛政十(1798)年の名月に近藤重蔵と村上志摩乃允(秦檍丸)最上徳内、木村謙次等が國後島島泊の僻地に於いて団子をつくり観月の雅莚を開いた時、檍丸の詠じた國風である。 *国風=(漢詩に対し)和歌
此檍丸は伊勢神宮家某の次男で幼少から足達者で日に行くこと三十里、然も十日二十日と続けても更に疲労しないといふ恐ろしい健脚家で、畫も描けば書も優れて居り、地理に詳しく、古典にも明るいと云ふので天明八(1788)年に松平定信に見出され、松前地方の取調掛を命東西蝦夷地を踏破すること前後数回に及び、当時蝦夷地に関する知見は天下第一とまで称せられたが麻疹の流行に感染して四十五歳で世を損てたとは、岡本柳之助の『北海道史稿』や松井柏軒の『日本百傑傳』河野常吉の『北海百人一首』などの傳ふる處である。
著書としては丸山純の『越後名寄』に参補した『参補』三十二卷の外に数種がある。
安房國地名考 (寛政元[1789]) 一巻
改正安房國全圖 (寛政元[1789]) 一鋪
改正上総國全圖 (寛政七[1795]) 一鋪
鎌倉勝墍圖 (寛政十[1798]) 一鋪
以下函館圖書館所蔵
陸奥洲駅路圖 (寛政十二[1800]) 三帖
蝦夷島奇観 (寛政十二[1800]) 十四帖
松前箱館江差島圖 (文化四[1807]、八) 一帖
佐竹候操練圖 (文化四[1807]、十一) 一巻
東蝦夷地名考 (文化五[1807]、四) 一巻
以上は松平定信に召出された翌年から著述されて、文化五(1808)年まで續いてゐる、此外のも著述はあるであろうが見界の狭い私には及ばない處である。 加藤房蔵の『蝦夷島奇觀』の解に「秦檍丸は村上島之丞なりと松浦武四郎の所説なり予未だの産にて久しく豆洲に居住し此度 御普請方見習いに召出されし人なり」とあり始めて確かむるを得たり』と書いてゐるが、之に依って推測すると天明八(1788)年に召出されたと云ふのは多少疑問とせらるるであろうが、それは次の機会に譲る。
最後の著書が文化五(1808)年であるが故に仮に没年をこの年とするならば定信に召出された時は二十五歳位で最初は安房地方を調べ、それから伊豆地方に移り、蝦夷地に足を入れたのは寛政十(1798)年が初めである。
私が特にこの檍丸の事を書いたのは北海道郷土史研究のために檍丸の墓地が発見されたことを知らせたい為である、それは未見の人で現に東京の帝室林野局の事務官である伊藤武雄と云ふ仁から、寶永七(1710)年七月松前で書いた『松宮觀山の蝦夷談話筆記』の借用を申込まれたのが動機である、氏は『松宮觀山の著書について』と云ふ研究を國學院雑誌に発表された事もあるので特に貸出しをした、處が氏は重ねて以外にも殆ど不明とされて居た檍丸の墓塔を谷中の玉林治境内で発見したと知らせ、そしてこの彼岸に度々展墓して墓表の拓本を贈られたのである。
函館の稱名寺が識者の間に有名なのは決してその堂宇が立派なためではない、實に檍丸其著『蝦夷島奇観』に記録し然も一度叢裡に遺棄されてあったと言はるる北海道最古の碑である貞治六(1367)年の碑(大町榊吉兵衛の屋敷より宝暦二(1752)年に発掘せるもの)が我が函館のために五百六十四年の歴史を物語ってゐるからである、然もこの碑が檍丸に依って探し出されて今日あることの出来たのは市川十郎の『蝦夷實地検考録』に
前略「之を称名寺に牧む其後久しく草叢の中に棄ありしを享和三(1803)年二月朔日秦檍丸といふ者之を捜し出して僧侶をして祭らしめ霊魂を弔ふことを為せりと云」 とある、この際護念山主徹龍和尚も檍丸のために一片の囘向位はしてよかるべきものであらう、それにつけても箱館の館主河野加賀守政通乃墓や、安永の芭蕉翁の汐干狩など充分保存を講ずるは勿論其他由緒ある墓碑を調査し適当の方法を講じたいと思ふ。
明治四十三(1910)年十一月五日であった、第五回全国圖書館大會が東京で開かれ明日は成田圖書館の祈念式を終わって散會と云ふ前夜、神田の古本屋街を個別的にあさってゐると、村口半次郎書店の帳場格子の近い處に高さ二尺五寸程度に積み重ねられた和本の一山があった。見ると蝦夷物や幕末外交の関係物で何れも北方問題の関係の深いものばかりである。食指は充分に動いてゐるが私は私立圖書館時代の経済では却々容易でないから蝦夷物だけを引き抜かんとすると、小僧さんはそれを全部でなければ賣れませんと云ふた、然し珍しい蝦夷物が斯くまで纏まってゐるとは偶然とは言ひながら大したものである、滅多に手に入るものでないので値段を聞くと二十五圓だと言った、今から考へると只貰った様な廉さであるが其時代としては相當高いものであった、幸ひ主人が留守で小僧さんだけであったので二十圓に値を付けて明晩を約して帰った。
翌晩成田からの帰り寄って見ると主人も居たが居らんでもよい客が前夜の自分の値を付けておいた書類を引繰り返してゐるのには驚いた、そればかりではない段々交渉の域に入っていた、早速一刻も猶予すべきでないことが解ったので、前夜の云ひ値二十五圓で引き取った、先客は不満げな顔をして店を出たが、私は小僧さんに本を背負わせて九段中坂の望遠館に引揚げた、此の時の気分決して悪いものではない。
此の私が村上島之丞の著書に接したのは初めてである、その中には二冊本と十三帳本との二部の『蝦夷島奇觀」があり、その他白石の『蝦夷志』、林子平の三國通覧圖説、松宮觀山の蝦夷談話筆記、板倉源次郎北海随筆などもその一部であった。この一括された書類には上原昌邦といふ人の舊蔵であることも後に判明したのである。今此の本屋は九段下の方に移ったが当時の主人公は今半白となって東京古本屋界の元老株である。
其後浅草の淺倉屋に十四冊物の素晴らしい蝦夷島奇觀が出たがそれは三十二圓とかで到底買ふ見込もなく、さりとて立派なものを他にやるのも残念なので、兎に角函館にさへあればといふので渡邊熊四朗氏に頼んで買い取ってもらったことがある、今ならば十倍の價値は十分にある代物である。昨年やはり淺倉屋に十四冊物が出てあったが價は二百五十圓で、絵も伯仲の間にあったが説明はとても及ばない、今の処では渡邊家のものが最上段の折紙附きである、之は金田一先生もほめきっていた。
相生町に片桐酋松といふ骨董商があったが札幌の支店で手に入れたとかいふ『奥羽州駅路圖』といふ三帳本をたしか一円八十銭ksに値切って手に入れたが之は亦珍本である、東京帝大の蔵本は震災で失われてゐるので、其他の所在の明らかな處は一寸見当たらぬ、惜い事は図書館本が下北半島と津軽半島の二巻を缺いてゐる事である。
東蝦夷地名考は中村意積が校合してた立派な淨寫本であるが之は或は版下本として作られたものであるまいかと思ふ程立派である。その他に松前箱館江差島圖や佐竹候操練圖などがあるが、それ等はたいしたものではない。
唯此に疑問とせられていて非常に貴重なものは、『蝦夷産業圖説』とか『蝦夷常用集』とか『蝦夷畫帳』『蝦夷雜誌』『蝦夷風土記』『蝦夷島圖説』等の異名で伝えられてゐる八冊本がある。内容は、稻穗、耕作、蝦夷舟、織物、刑杖、家屋等が彩畫と詳しき説明とで出来ているが、惜しいかな著日年月著者名もないので其方面の研究者を悩ましてゐる。河野常吉氏は秦檍丸の著書だらうと推測していゐる。今函館圖書館にあるのは文化四(1807)年箱館に出張した若年寄堀田摂津守正敦の舊蔵書で、正敦が下総佐倉の城主であるから『佐野文庫』といふ立派な蔵書印が押捺されてゐる。
特注記 東京国立博物館蔵本『蝦夷島奇観』の解説に、『蝦夷島奇観』各本の内容対比というページが有り、A類本とB類本と分けて紹介されている。その内A類本は、東京国立博物館蔵本(旧堀田家)、国立史料館本(旧津軽家)、函館・渡邊家本の3種で、内容比較が紹介され、その内容概観からも岡田健蔵が渡辺熊四朗氏に買って貰った『蝦夷島奇観』が、東京国立博物館蔵本に遜色ないことが判る。
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