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第5回 [地名「箱館」について -補遺- 2

2015-07-18 | 図書裡会歴史講座より 函館の歴史

1 [地名「箱館」について]の訂正(訂正済み)と補遺

ニ 市川十郎

市川十郎 いちかわ-じゅうろう     出典:フリー百科辞典(Wikipedia)                

文化10年(1813年)-慶応4314日(1868年))は、江戸時代後期の兵法家、史家。    

名は有翼、字を仲則、号に松筠。兵法家の市川一学の子。

経歴

嘉永3年(1850年)、父を補佐して松前藩福山城の築城に参加、その後幕命で蝦夷地(現在の北海道、樺太(サハリン)等)を実地調査し鎌倉時代の僧日持の足跡などをたどる。内地に戻ると、大坂の天保山に砲台を築き、慶応3年(1867年)までに、江戸で昌平黌教授に就任したが、間もなく没した。

参考資料

著作

函館図書館編「蝦夷実地検考録」(全53巻)郷土資料複製叢書

参考文献

「日本人名大辞典」講談社

市川一学いちかわ-いちがく出典:フリー百科辞典(Wikipedia)                 

 安永7年(1778年)-安政51223日(1858))は、江戸時代後期の儒学者、兵学者。名はまたは廷。字を孟瑶。号に達斎、梅顛など。父は市川鶴鳴、子に市川十郎。幕末の三大兵学者の一人。

経歴

武蔵国江戸神田の昌平黌に学び、高崎藩お抱えの儒学者となる。長沼流などの兵学にも広く通じ、嘉永3年(1850年)には幕府の命で松前藩に派遣され、子の十郎等と福山城の築城に携わる。この縄張りには当時最新式の洋式築城法も取り入れ安政元年(1854年)に完成した。その後は江戸に戻り晩年まで下谷(現在の台東区)で塾を開いたという。

参考文献

函館市史

市川鶴鳴 いちかわ-かくめい 『日本人名大辞典』[JapanKnowedge]                            

  1740-1795 江戸時代中期-後期の儒者。
元文5年生まれ。大内熊耳(ゆうじ)にまなぶ。上野(こうずけ)(群馬県)高崎藩につかえ,信濃(しなの)(長野県)飯田,薩摩などでおしえる。安永9年の著書「末賀能比連(まがのひれ)」で本居宣長(もとおり-のりなが)の古道論を批判,論争をおこした。寛政778日死去。56歳。名は匡(ただす),匡麻呂(たずまろ)。字(あざな)は子人。通称は多門。

市川鶴鳴 いちかわかくめい 『日本大百科全書 』[JapanKnowedge]               

(1740―1795) 江戸中期の儒者。元文(げんぶん)5年高崎藩士市川正芳の子として江戸に生まれる。名は匡(ただす)、通称多門。鶴鳴と号した。荻生徂徠(おぎゅうそらい)門の大内熊耳(ゆうじ)に学び、 園(けんえん)派に属す。のち尾張(おわり)、薩摩(さつま)、京坂の地に学を講じて名声を得た。晩年、故郷高崎藩(群馬県高崎市)に招かれ、寛政(かんせい)7年7月8日56歳で没す。墓所は東京・芝神谷町の光明寺。著書に『大学精義』『中庸(ちゅうよう)精義』『帝範国字解』『臣軌(しんき)国字解』などがある。また、市川匡麻呂(たずまろ)の名で著した『末賀能比連(まがのひれ)』は、本居宣長(もとおりのりなが)の古道(こどう)論に対する儒者側からの最初の批判書として名高い。[高橋美由紀]
『鷲尾順敬編『日本思想闘諍史料 第七巻』復刻版(1969・名著刊行会)』     

 永田方正                                

永田方正 ながた-ほうせい 『日本人名大辞典』[JapanKnowedge]              

18844-1911  明治時代の教育者、歴史家。                      

 天保15年3月1日生まれ。江戸の昌平黌に学ぶ。函館師範教師を経て、明治15年函館県御用掛となりアイヌ民族の教育にあたる。 20年北海道庁にはいり、24年に「北海道蝦夷語地名解」を編集、26年「あいぬ教育ノ方法」をまとめた。のち遺愛女学校、東京高女でおしえた。明治44年8月22日死去。68歳。江戸出身。旧名は宇高辰次郎。著作に「北海小文典」など                      

永田 方正(ながた ほうせい) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』                                                         

天保9年3月1日(1838年3月26日) - 明治44年(1911年)8月22日)は、明治時代の教育者。後年は北海道でアイヌ人教育とアイヌ語研究に力を注いだ。

略歴

伊予国西条藩士の宇高家の子として江戸で生まれた。永田吉平の養子となり永田姓となる。昌平坂学問所に学び、文久元年(1861年)西条藩主の侍講となる。明治に入ってからは英書翻訳を生業とした。主な訳書には『西洋教草』などがある。1881年(明治14年)7月に開拓使に採用され北海道に渡り、函館商船学校、函館師範学校の教諭を務めたほか、函館県の命により遊楽部(現在の八雲町)でアイヌ教育に取り組んだ。函館に在住の時、函館美以教会(現・日本基督教団函館教会)で山鹿元次郎より洗礼を受ける。1883年(明治16年)にはアイヌ語文法書『北海小文典』を著す。1886年より北海道庁の命を受けアイヌ語地名の調査に従事、1891年刊行した『北海道蝦夷語地名解』にその成果をまとめた。札幌農学校などでも教壇に立ったのち1909年に上京、東京高等女学校で国文学を教えた。

北海道蝦夷語地名解

俗に「永田地名解」の名で知られている。北海道全域約6,000のアイヌ語地名の原音・原義を採録した著作。実地に赴きアイヌの古老から聞き取った情報を基礎としているが、永田の推測に基づく解も多く、のちに知里真志保らにより多くの誤りが指摘された。しかしながら「永田地名解」はアイヌ語が日常言語であった当時の発音をかなり正確に収録している点で貴重な資料であり、アイヌ語地名研究においていまだ重要な地位を占めることに変わりはない。

参考文献

〇永田 方正『初版 北海道蝦夷語地名解』草風館、1984年、ISBN 978-4-88323-037-2。                

 明治24年(1891年)3月発行の初版からの復刻。

〇永田 方正『北海道蝦夷語地名解』国書刊行会、1972年、ISBN 978-4-336-01948-6。                  

昭和2年(1927年)8月発行の第4版からの復刻。

脚注 

1 『日本キリスト教歴史大事典』P.1106

 


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