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第5回 村上島之允のこと-蝦夷地を知り尽くした男- Ⅲ 

2016-08-16 | 図書裡会歴史講座より 函館の歴史

(7)秦億丸(村上島之丞)吉田武三著『北方の空白』時事通信社昭和45年7月刊p137-141

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(8)秦億麿編著書目年表『東京国立博物館:蝦夷島奇観』「秦億麿略伝」より

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(9)村上島之允略歴 [蝦夷地調査の先駆村上島之允展]より

村上島之允(しまのじょう)は、宝暦10年(1760)に伊勢国で生れた。島之允の出生地が伊勢国宇治山田であることは、諸説が一致しているが、生家の詳細については分からない。御師の家の次男に生まれたとも言われているが、神職にかかわりのある古い家に生まれたことは確からしい。

 村上島之允は島之丞と記すこともあり、秦億丸(はたあわきまろ)という筆名を用いることもある。島之允が年少期に土の師について学んだかはよく分かっておらず、伊勢は秀れた学者の多い土地であるが、宣長の高弟萩原元克(もとえ)や漢学の秋山章に師事したことが、記録から窺える程度である。

 島之允は年少のころから旅に明け暮れることが多く、生涯を旅に暮らした。1日に30里を歩き、10日歩き続けても疲れを知らぬという健脚だった。各地を旅したためか地理に詳しく、画筆に巧みで、後に蝦夷地の調査に活躍したが、アイヌの生活を見事な筆で描いている。三重県には蝦夷地探検の松浦武四郎がいるが、島之允は半世紀あまり前の先輩である。島之允も武四郎も共に健脚で画筆に巧みであり、これが当時の探検家の資格だったのであろう。

 寛政5年(1793)3月、海防を重視する松平定信は伊豆を巡視したが、島之允は案内役を勤めている。同年5月に『伊豆国全図』が作られ、地図には「伊勢 秦億丸図」と書かれており、地図制作の才能を発揮したようだ。島之允はやがて幕吏にとようされ、安房や上総の地図作成や古社寺の由来・物産などの記録を残したが、寛政7年病気により御暇となっている。ただ寛政7年の『越後名寄補遺』には「伊勢神宮・秦億丸参補」とかかれており、実地調査をしなければ書けない内容なので、病気ではなく役人生活の束縛を嫌ったためらしい。

 寛政10年、幕府は蝦夷地調査のため幕吏を派遣することになった。近藤重蔵はクナシリ・エトロフの調査を命じられた。島之允の地理知識と地図作成の能力を評価する重蔵は、島之允に共に蝦夷地へ渡ることを求めた。ただ重蔵のチームは全体の統一がとれず、重蔵のみ蝦夷地で越冬し、島之允らは別行動で帰りを急ぎ、江戸で勘定奉行石川左近政監に現地の状況を報告している。重蔵は命令を受けて翌年2月江戸へ帰り、蝦夷取締御用を命ぜられ、休む間もなく江戸を出発する。島之允は御普請役当分御雇として同行するが、中途から松平忠明の手附となる。島之允は忠明の調査に参加するが、忠明がアッケシで酋長イトコイを謁見したとき、会所役人の通訳が十分でないのを補ったという。

 寛政12年(1800)忠明は松前を経て江戸に帰るが、島之允も随行して江戸へ帰る。『蝦夷島奇観』の執筆はこの年から始められている。その後も島之允は江戸と蝦夷地の間をしばしば往復し、蝦夷地での開拓や農事の指導などを行った。『蝦夷島奇観』の他にも『東蝦夷地名考』『陸奥洲駅路図』などの著書を残している。文化5年(1808)8月12日、之允は急逝した。49才である。病気は当時流行していた、麻疹の感染だったという。

 島之允が蝦夷地で働いていた間に残した業績の1つは、アイヌの生活を観察し、幕府の和人化政策によって失われていくアイヌの民俗を『蝦夷見聞記』『蝦夷島奇観』などの書の中に残したことである。

 次に寛政12年春、函館近郊に住みついた島之允は、付近の住民に農耕を指導した。楮(こうぞ)などの植林と製紙、椎茸の栽培にまで手を広げている。

 第3としては、測量と地図製作の能力を発揮し、函館を起点とする『函館表よりヲシャマンベ迄里程調』は享和2年(1802)に完成した。『蝦夷地之図』『諸島之図』などの地図は文化3年(1806)までに完成し、その社図は文化4年堀田摂津守の蝦夷地巡見で使用されている。

 島之允には村上貞助、間宮林蔵などの門弟がいた。村上貞助は嶋之允の養子となるが、島之允が中途で挫折した『蝦夷生計図説』を巧みな画才で文政6年(1823)に完成させた。貴重なアイヌ民族資料である。

 間宮林蔵は、カラフトを含む蝦夷図の製作に大きな業績を残した。林蔵の弟子、松前藩士今井八九郎は蝦夷地の地図製作に生涯をささげ、松浦武四郎は『再航蝦夷日誌』に引用している。武四郎は同郷の先輩島之允の業績を知っており、影響を受けていたようである。                三重県立図書館展示期間 平成7年9月1日(金)~11月29日(水)                                     三重県立図書館情報サービスグループ(TEL059-233-1180) 〒514-0061津市一身田上津部田1234番地

(10)北海道開拓の先駆者村上島之允(三重県環境生活部文化振興課県史編さん班ホームページより)

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(11)近藤重蔵、蝦夷地調査隊へ村上島之允の参加を求める 谷澤尚一「村上島之允をめぐって」(『三重県史研究』第5号平成元年3月31日発行)より

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(12)伊能忠敬と村上島之允の出会い 谷澤尚一「村上島之允をめぐって」より      

  寛政10年(1798)幕府は蝦夷地見分のため、多数の幕吏を派遣することになり、その一員として東蝦夷地いよびクナシリ、エトロフ両島の探索を近藤重蔵に命じた。重蔵はかねて意中に抱いていた島之允の参加を求め、漸く同意を得て、次のような願書を上司に提出している。   

 近藤重蔵が村上島之允を蝦夷地調査に参加させるために上司へ提出した願書                               浪人村上嶋之允義御普請役下役当分御雇被仰付、私手ニ付相勤候様被仰渡被支度奉願候書付浪人 村上嶋之允

 右之者地理絵図等心得、私義も兼兼出精之様子も存罷在、殊に別紙申上候通、先達一旦御用も相勤候者之儀二付、可相成儀二御座候ハバ、此度御普請負役下役当分御雇被仰付、並之通御手当被下、私手に付相勤候様被仰渡被下候様支度、此段奉願候  以上  近藤重蔵

 寛政12年春、箱館近郊の一の渡に住み着いた島之允は、付近の住民に農耕の指導に当たった。また、楮(こうぞ)その他の植林を行い、椎茸の栽培、製紙にまで手を拡げている。

 6月朔日には伊能勘解由(忠敬)の測量隊が到着し、伊能忠敬の訪問を受けた。9月10日、帰途の伊能忠敬が再び訪れたとき、島之允は、不在だった。『蝦夷干役志』(えぞうえきし)は「一の渡・村上島之亟殿へ立寄り、折ふし、他行、此夜、村上氏来り」とし、大野の宿舎へ島之允が赴いたとわかる。間宮林蔵は、この頃から島之允に隋身し、勘解由との懇親を深めるようになる。                          谷澤尚一「村上島之允をめぐって」(『三重県史研究』第5号平成元年3月31日発行)より

『蝦夷干役志』えぞうえきし)寛政12年庚申「蝦夷干役志」全(伊能忠敬記念館蔵国指定重要文化財)伊能忠敬の測量旅日記。寛政12年(1800)閏4月19日、測量の第一歩を歩みはじめた。伊能忠敬の日本全国沿岸実測事業の端緒となった蝦夷地南岸(吉岡よりニシベツまで)および奥州街道の測量日記。「測量日記之一」は2月15日ー閏4月14日の準備期間、「測量日記之三」(ニの誤)は閏4月19日江戸出立より10月21日帰着までの日記と幕府への報告を含む。活字本刻本:「伊能忠敬測量日記」(千葉県史料近世篇)千葉県昭和63刊

 うえき【干役】〔「干」は往の意〕『日本国語大辞典』[Japanknowedge]君命で他国に使者として行くこと。また、戦いに行くこと。

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 (13)蝦夷島奇観概説

蝦夷島奇観/秦億丸(村上島之允)(エゾシマキカン/ハタアワイマロ(ムラカミ シマノジョウ)成立年 寛政12年(1800)        資料注記 東京国立博物館所蔵(「堀田文庫」印あり)の複製。東京 雄峰社 昭和57年刊                             内容説明 寛政12年8月の自序を有し、次の12部および付録よりなる。1 古説部、2-3礼部、4居家部、5器械部、6熊祭部、7漁猟部地図部、8膃肭臍(オットセイ)部、9写生部、10雑部、11諸外島部、12唐太(カラフト)部、付録3邑(ムラ)図。影印本(自筆 折本 13冊)合本1冊27×38㎝

 「原典」を拝見 道南の郷土史>蝦夷島奇観*秦億丸 2004/06/21(月)「北海道新聞」夕刊

 「蝦夷島奇観」を書いた、秦億丸(はたあわきまろ)(本名村上島之丞、1760-1808年)は、伊勢国(現三重県)出身の幕府に仕えた役人。老中松平定信に才能を買われ、寛政、文化年間(18世紀末から19世紀初め)に、近藤重蔵に付いて松前に渡り、国後まで足を延ばすなどして、北海道を踏査。実際に見聞きした生活文化、地理などを記した。その記録は、多くの色を使って忠実に描いた絵を交え、行き届いた解説がされている。当時の漁具や船、現在の函館市住吉町付近で出土した「シリサワベ土器」を絵解きするなど、内容は多岐に渡るアイヌ民族の民族衣装や習俗についても。多くの事例を紹介していることから、貴重な民俗資料として有名で「蝦夷事典」ともいえるだろう。

 しかし、「蝦夷島奇観」は、たくさんの写本が出回り、長い間、「原本」の確認が待たれていた。1982年、東京国立博物館所蔵の「蝦夷島奇観」が、同館学芸員と研究者の5年間にわたる調査で、「原本」と分かった。オットセイ漁など色鮮やかな120点の絵や筆跡の特徴などが判断材料となった。13冊、延べ200ページに及ぶ、この原本「蝦夷島奇観」は、東京の雄峰社から、原寸10分の1(B4判)え「復刻版」として1巻にまとめられ、部数限定で発売された。(川崎裕幸)

‹メモ›市立函館図書館所蔵の雄峰社「蝦夷島奇観」で、B4判、260ページ。同図書館はほかにも版画、絵画、文章などに分かれた、十数冊の「蝦夷島奇観」(写本)を所蔵している。

 *影印本(えいいんぼん)とは、底本(通常は古い時代の貴重な書物)を写真撮影し、それを原版にしてオフセット印刷などの方法によって印刷した「複製本」の事。景印本あるいは影印本とも言う。

 底本が書かれた当時の絵や文字をそのまま参照する事が出来、また、複製による新たな誤植や書き換えの生じる恐れが無い為、専ら研究用の史料として使用される。

 木版印刷によって複製した場合は、覆刻本と呼ばれて区別される。また、複製本に限らないが、活字を用いて印刷した本は排印本あるいは援印本と呼ばれる。

 底本は印刷本でも書写本でも関係なく、その複製本の寸法は原寸通りに再現されていなくてもよい。但し、原本よりも縮刷されるのは構わないが、拡大印刷を行うことは好まれない。

(14)蝦夷島奇観 (『蝦夷島奇観:東京国立博物館所蔵』p148-201)

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 亀田番所のこと

 (1)亀田番所の設置(『函館市史』の記述) 

亀田番所の設置   (『函館市史』通説編第1巻p344-p347)より

 このような情勢下に、中世末のアイヌの動乱以来、久しく衰退の一途をたどった箱館地方も、ようやく復活のきざしを示し、松前藩独自のころには、かなりの和人が亀田付近に進出してアイヌと雑居していた。従って慶広は、現状によって和人地を知内以東亀田まで伸ばし、亀田をもって蝦夷地と和人地の境として、和人地はこれまで雑居しているアイヌのほか来住を許さず、また蝦夷地には、あったく和人の居住を許さない方針をとった。それはアイヌと和人との紛争を避け、取り締まりを容易にするためで、やがて亀田に亀田番所を設けて蝦夷地への出入者を監督するに至る。

 この亀田番所の設置年代はつまびらかでないが、『蝦夷島奇観』によれば「慶長中白鳥孫三郎(奥羽盤井郡白取村社家)と云うもの来たりしを、松前家招て臣となし、亀田村に番所を建て近郷を護らしむ」と見られ、また寛永10(1633)年には幕府巡見使分部左京亮実信、大河内平十郎正勝、松田善右衛門勝政が、松前家東端の地として、ここを経由して汐首・石崎まで巡見している。

 当時の亀田は、亀田川が貫流して箱館湾に注ぎ、漁業は湾内および湾外に出て行われ、土地も肥沃な沖積土で農業に適し、船がかりもよかった。ことに福山から上磯を経て下海岸六個場所へ通ずる要衝の地でもあった。のちにこれが亀田奉行所となったが、その年代も明らかでなく、元禄2(1689)年奉行職を辞した手代木惣右衛門まで、すでに8代の奉行が歴任しているという。亀田奉行の支配区域は知内以東の和人居住地とされた。

(『函館市史』通説編第1巻 第3篇 古代・中世・近世 第2章 松前藩政下の箱館 第1節 松前藩成立と亀田番所)より

(2)「蝦夷松前聞書」の亀田番所

 「蝦夷松前聞書」(宝暦8(1758)年      亀田村の項 家数42,3 戸切地より此所迄道法3里 此所にいしへ御領主の御城跡有之御番所あり城代手付け十人斗 是より南の方へ箱館村 家数65.6  皆々問屋小宿也日本船着也 続いて大もり村(家数記載無し)、いくら前村 家数12.3,  湯の川村(家数記載無し)、銭亀沢村 家数20斗 松前城下より此所迄は御領見御出也 (御領見御出也?)

(3)寛政3(1791)年『東蝦夷地道中記』(道文書館旧記録番号2096)

  箱館 領主支配                                                        御制札一ヶ所家数400軒余2300人程  勤番浅利利兵衛(里人これを奉行と唱う) 下代白鳥勝右衛門 榊太郎右衛門 名主白鳥九右衛門   年寄井口兵右衛門 村岡清九郎 逸見小右衛門 茅野忠兵衛 

地蔵町 内澗町 大町 弁天町 裏街 中町 山ノ上町 神明町      右は船問屋、木綿、古手、荒物、小間物の店。裏町、山ノ上町は借家住居の者、手間取職人等あり。弁天町は小船の中宿多し。わずかの村なれども湊故繁華の地なり。冬春の間は船も往返なく淋しいけれども、七月盆前後は大坂船、西国船、其外中国辺りより入込、昆布商売最中なれば殊の外賑わし。もっとも長崎御用俵物の内、煎海鼠、昆布は別に長崎屋とて会所あり。其外所産の交易蝦夷地産出何にもあり。第一は昆布、江戸向きの塩鮭、春は鰊なり、湊は松前地第一の泊まりにて大船数百艘程並べる所なり。 (写真参照 亀田番所「蝦夷島奇観」雑圖部十及び付録 三邑圖より 42ページ上段図)

 

 


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