前回までは、函館の歴史、その1~その8まで「函館市史」通説編を通して概略を流して来ましたが、ここからは本題の図書裡会歴史講座の内容に入って行くこととします。また、その9以降も順次載せてまいります。 紺野哲也氏による図書裡会歴史講座の資料順に掲載したいと思いますが、進展具合により変更されることもあります。 . . . 本文を読む
徳川の幕下に入る 「函館市史」 通説編第1巻第2編 P342-P344 NO 8 慶長3(1598)年8月、秀吉が没し、徳川家康が主として政務を執るに至ると、慶広は翌4年11月家康に会い、蝦夷島地図と家譜を奉ったが、蠣崎氏を改め松前氏としたのはこの時であった。次いでその後、関ヶ原の戦いに勝って天下を掌握した家康のもとへ、同6年赴いた盛広(慶広の長子)は、従5位下若狭守に任じられた。更に同8年江戸に参勤した慶広は百人扶持を給され、同9年再び家康から次の黒印の制書を受け、一層広い権限を確保したのである。 . . . 本文を読む
乱後の箱館 「函館市史」 通説編第1巻第2編 P335-P336 NO 7
コシャマインの乱後の箱館地方の状勢を見ると、小林良景の戦死によって、その子、小林弥太郎良定が衣鉢を継いで志海苔にあり、河野政通も箱館を回復し、また湯川と志海苔の間には、良景の2男小林二郎左衛門政景の子、小二郎季景が与倉前の館を築いて居住したと伝えるが、政治・交易・経済が、具体的にどのような経過をたどってきたものかほとんどわからない。ただこうして約50数年間の平穏が保たれてきたが、永正9(1512)年4月、東部のアイヌが再び蜂起し、箱館・志海苔・与倉前の前記3館を攻略、当時館主であった箱館の河野弥次郎右衛門尉季通をはじめ、志海苔館の小林良定、与倉前館の小林季景はいずれも戦死した。 . . . 本文を読む
津軽船の活躍 「函館市史」 通説編第1巻第2編 P331-P332 NO 6 安東氏が津軽十三湊を根拠として活躍していたことは、前節に述べたところであるが、この十三湊は、文明年間(1469~1487)のものと推定される『廻船式目』によると、三津七湊のうちの七湊の1つと称されていた。すなわち、三津とは、伊勢の安濃津、筑前の博多津、和泉の堺津を指し、七湊とは、越前の三国、加賀の本吉、能登の輪島、越中の岩瀬、越後の今町、出羽の秋田、津軽の十三湊をいい、早くから日本海沿岸の要港となっていた。 . . . 本文を読む
安東政季らの渡海 「函館市史」 通説編第1巻第2編 P329 NO 5 盛季が南部氏に破れて十三湊を放棄した時、盛季の弟安東四郎道貞の子、潮潟四郎重季(しげすえ)の嫡男政季(まさすえ)は、いまだ弱年であったので南部氏に捕われて、糠部八戸に人質となっていた。それがその後成人して名も安東太郎政季と改め、田名部を給せられていたが、享徳3年武田若狭守信広、相原周防守政胤(まさたね)河野加賀右衛門尉(又は加賀守)政通(まさみち)らが、ひそかに計って政季を擁し、大畑から船出して蝦夷島に渡った。 . . . 本文を読む
安東氏の勃興 「函館市史」 通説編第1巻第2編 P324-P326 NO 4 古代国家の形成という歴史的な背景のなかで、北海道に和人の政治的な触手が伸ばされてくるのは、実に12世紀末からである。 すなわち、文治5(1189)年平泉の藤原氏が滅亡すると、奥州一円は全国を掌握した鎌倉幕府の治下に属し、鎌倉御家人(ごけにん)の手によって分轄統治されるようになった。しかし津軽および南部の北端は、漁猟を主とする蝦夷によって占拠されていたため、同じ統治形式をとることができず、安倍貞任の後裔「東夷の酋長」をもって自任する安東氏によって統治されていた。 . . . 本文を読む
当時、この地に渡り住んだものは、渡党(わたりとう)の名で呼ばれていたものらしく、すなわち、延文元(1356)年小坂円忠の手になる、『諏訪大明神絵詞』によると、「蝦夷が千島というのは、わが国の東北に当る大海の中央にあって、そこには日(ひ)の本(もと)、唐子(からこ)、渡党の3種の住民がおり、その中の1島には3類が雑居している。 . . . 本文を読む
函館にはハクチャシ、蝦夷館山と呼ばれていたところがある。チャシとはアイヌの砦(とりで)の意味に解釈されているが、柵や柵囲いもチャシと呼ばれていて定義がはっきりしていない。渡島半島で砦としてのチャシは極めて少なく、成立が中世の室町時代と考えられるのは、函館の汐泊川チャシと、北檜山町と瀬棚町にまたがる瀬田内チャシである。 . . . 本文を読む
函館山噴火と歴史 contest.japias.jp/tqj1999/20197/jap/about/4.html - 約3億年前 「函館市史」 通説編第1巻第2編 道南は、深い海と浅い海で水中での火山活動が見られていた。 約2500万年前~ 道南は、陸域となっていましたが、地下のマグマの上昇で、地表の隆起と陥没が起こり激しい火山活動 が始まりやがて、高いところを残し海に没入します。 約100万年前~ 約90~120万年前の海は浅くなり、函館山は火山の噴火をくり返し、溶岩などの噴出物が堆積していきます。 今の函館山は、このときの堆積物が風と海流に削られた残骸といわれています。 . . . 本文を読む
函館の歴史 始めに 2015-01-08 開始 おことわり 函館を少しでも多くの方々に知って戴くため、このブログを掲載します。 函館は石器時代から本州の大陸と深い関わりがあり、感動的でエネルギーに満ち溢れた土地がらでありました。 こんな魅力ある函館に興味を感じていただければ幸いです。 その為にも随時修正をしていきたいと思っております。 . . . 本文を読む