~昭和天皇のリベラル発言~『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)、『昭和天皇』(古川隆久/中公新書)
〔驚くべき反戦・反軍部発言の数々〕
戦前や戦時中の昭和天皇の発言をひも解いて驚愕するのは、もし同じ発言を一般国民がすれば‹政治犯として投獄される›レベルの言葉をずっと言い続けていたこと。仮に僕があの時代に生きて同様の言葉をいえば、憲兵が飛んできて治安維持法違反でしょっぴかれ、右派からは「国賊」「売国奴」のレッテルを張られ、家族まで猛攻撃されるだろうということ。右翼は皇室を大切にしており、特に天皇家を心底から崇拝している。だが僕は問いたい。 ちゃんと昭和天皇の発言を知っているのかと。
昭和天皇は満州における軍の暴走に怒り、中国侵略に激しく抗議し、とりわけ日米開戦には徹底的に反対する立場をとっていた。アジア太平洋戦争(大東亜戦争)の時期、常にといっていいほど、軍部は天皇の心に反することをやって来た。それが言葉の端々から垣間見え、天皇の心労に胸が痛くなるほど。
これまで多くの左翼は昭和天皇を戦争推進派の象徴として見てきたけれど、きっちり発言を追っていけば、むしろ極めて左翼的であることが分かるはず。とても逆説的な言い方になるけど、保守論客の歴史認識に従えば、‹昭和天皇は非国民›ということになってしまう。僕のこの表現が大袈裟でないことは、以下の言語録を読んで頂ければ容易に伝わるだろう。
●昭和4年(1929)昭和天皇28歳
・「説明は聞く必要がない」(5月)・・・満州支配をもくろむ関東軍が暴走して張作霖爆殺事件が起きると、昭和天皇は軍の独走を懸念して田中義一首相に関係者の厳罰と軍記粛清を命じた。ところが陸軍の反対で軍法会議すら開かれない。事態を言い訳しようとする首相に立腹し、「この前の言葉と矛盾するではないか」「説明は聞く必要がない」と宮中の奥へ立ち去った。
・「将来陸軍軍人はかかる過ちを再びなさざるように」・・・張作霖爆殺のよな事件の再発防止を訴えて。
●昭和6年(1931)30歳
・「軍紀がゆるむと大事件を起こす恐れがあるから、軍紀は厳守するようにせねばならぬ」(4月)・・・‹三月事件›(陸軍将クーデター未遂事件)に際して陸相に軍記粛清を命じる。
●昭和7年(1932)31歳
・自分は国際信義を重んじ、世界の恒久平和の為に努力している。それがわが国連の発展をもたらし、国民に真の幸福を約束するものと信じている。しかるに軍の出先は、自分の命令もきかず、無謀にも事件を拡大し、武力をもって中華民国を圧倒せんとするのは、いかにも残念である。ひいては列強の干渉を招き、国と国民を破滅に陥れることになっては真にあいすまぬ」
・「陸軍が馬鹿なことをするから、こんな面倒なことになったのだ」(4月頃)・・・関東軍の満州国建設によって、日本が世界各国から非難を浴びたため。
●昭和8年(1933)32歳
・「予の条件を承(うけたまわ)りおきながら、勝手にこれを無視たる行動を採るは、風紀上よりするも、統帥上よりするも、穏当ならず」(5/10)・・・参謀総長が熱河省への進軍許可を求めた時、天皇はすぐに撤退することを条件に許可した。ところが、撤退後に再び関東軍が華北(中国北部)に侵入したため強い不満をもらした。
●昭和10年(1935)34歳
・「軍部に対して安心ができぬ」
・「君主主権はややもすれば専制に陥りやすい。(略) 美濃部のことをかれこれ言うけれども、美濃部はけっして不忠なものだはないと自分は思う。今日、美濃部ほどの人が一体何人日本におるか。ああいう学者を葬ることはすこぶる惜しいもんだ」
・「機関説でいいではないか」
・「思想信念をもって科学を抑圧し去らんとする時は、世界の進歩は遅るるべし。進化論の如きものと思う」(4月)・・・憲法学者・美濃部達吉が「国家の統治権は天皇にあるのではなく、国家(法人)に属し、天皇は国家に従うにすぎない」と天皇機関説を唱えると、政府・軍部は「天皇の統治権は絶対無限である」として天皇機関説を否定した。だが、天皇は美濃部を擁護していた。
・「日系官吏その他一般在留邦人が、いたずらに優越感を持ち、満人を圧迫するようのことなきよう、軍司令官に伝えよ」(4月)・・・天皇が陸相に伝えた、満州の関東軍司令官に対する注文。
●昭和11年(1936)35歳
(二・二六事件に際し)
・「とうとうやったか」
・「まったく私の不徳のいたすところだ」
・「速やかに暴徒を鎮圧せよ」(2/26)
・「朕(ちん)の軍隊が命令なく自由行動を起こしたことは反乱軍と認める、反乱軍である以上速やかに討伐すべきである」(2/27)
・「朕ガ股肱(ココウ)ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ凶暴ノ将校等、其精神二於イテモ何ノ恕(ジョ)スベキモノアリヤ」(私の手足となって働く老臣を殺戮するという、このような凶暴な将校たちは、どんな理由があろうと許されはしない)2/27)
・「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締メムルニ等シキ行為ナリ」(私が最も信頼する老臣をことごとく殺すことは、真綿(まわた)で私の首を締めるに等しい行為だ)(2/27)
・「朕自ラ近衛師団ヲ率イテ、此レガ鎮定二当タラン、直チニ乗馬ノ用意ヲセヨ」(私が自ら近衛師団を率いて鎮定に当たるから、すぐに乗馬の用意をせよ)(2/27)
・「自殺スルナラバ勝手二為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ」(反乱将校が自殺するなら勝手にすればいい。あのような連中に勅使などもってのほかだ)(2/28)
*二・二六事件については、41年が経った1977年2月26日になっても、卜部享吾(うらべりょうご)侍従人に「治安は何もないか」と就寝前に尋ねており、当事件の衝撃が脳裏に焼き付いていることがうかがえる。
・「第二の満州事変の勃発ではないか」(11月)・・・関東軍が事前報告せず満州の西のチャハル省に蒙古族の自治政府を作ろうとしたことについて。
●昭和12年(1937)36歳
・「(お前がそう言うなら)外国新聞の東京駐在記者を官邸に呼んで、陸軍大臣自ら帝国には領土的野心がないことをはっきり言ったらどうか」(9/10)・・・支那事変への国際社会の非難が高まるなか、という杉山陸相に。
●昭和13年(1938)37歳
・「この戦争は一時も早くやめなくちゃあならんと思うが、どうだ」(7.4)・・・戦線拡大を続ける支那事変を憂慮し、板垣陸相と参謀総長・閑院宮(かんいんのみや)を呼び早期解決を問うた。対ソ戦を考えると中国と戦っている場合ではなった。
*「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いる様なこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」
・「今後は朕の命令なくして一兵でも動かすことはならん」(7/21)・・・板垣征四郎陸軍大臣に。この板垣陸相はかつて満州事変を画策した人物。
●昭和14年(1939)38歳
・「出先の両大使がなんら自分と関係なく参戦の意を表したことは、天皇の大権を犯したものではないか」(4/10)・・・大島駐独大使と白鳥駐伊大使が、独伊にたいして各々独断で「独伊が第三国で戦う場合、日本も参戦する」と伝えた。
・「(中立の)米国が英に加われば、経済断交を受け、物動計画、拡充計画、したがって対ソ戦備も不可能なり」
・「参戦は絶対に不同意なり」(5/26)・・・ドイツと同盟すれば英米と対立することを懸念。
・「満州事変のときも陸軍は事変不拡大といいながら、かのごとき大事件となりたり」(6/24)・・・ノモンハン事件の報告を受けて。
・「その後、京大は立ち直っているか」(7月)・・・京大の教職員が思想弾圧を受けた滝川事件から6年後、各大学総長との会食の場で。天皇が事件に関心を持っていたことが分かる。
・「政治は憲法を基準にしてやれ」(8/28)・・・陸軍の内閣介入に注意。
・「(日独伊三国同盟の交渉打ち切りを喜び)海軍がよくやってくれたおかげで、日本の国は救われた」(14-15年)・・・海軍の三国同盟批判を天皇は高く評価していた。
●昭和15年(1940)39歳
・「(国益の為なら手段を選ばぬという)マキャベリズムのようなことはしたくないね」(6/20)・・・ドイツの攻勢で英仏が弱体化。軍部はその隙に仏印、タイへの進出を狙った。こうした軍部の姿勢を天皇が批判した。
・「指導的地位はこちらから押し付けてでも出来るものではない、他の国々が日本を指導者と仰ぐようになって初めて出来るのである」(夏)・・・しきりにという言葉を掲げてアジアに進出しようとする軍部を牽制
・「近衛首相は支那事変の不成功による国民の不満を南方に振り向けようと考えているらしい。陸軍は好機あらば支那事変そのままの態勢で南方に進出しようという考えらしい。 海軍は支那事変の解決をまず為さねば南方には武力を用いないという考えのように思える」(7/30)・・・7/26に第二次近衛内閣がをスローガンに「基本国策要綱」を決定し、7/27に大本営政府連絡会議で、「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」が決まった。後者は日中関係打開と南方進出を軸に対米英戦も想定した決定的な方針であり、天皇は政府陸海軍3者の思惑の違いに疑問を示した。
・「(大政翼賛会を目指す)近衛がとかく議会を重んじないように思われるが、我が国の歴史を見るに、蘇我、物部の対立抗争以来、源平その他常に二つの勢力が対立しており、この対立を(武力ではなく)議会に於いて為そうというのがひとつの生き方だ」(8/31)・・・天皇は近衛首相の大政翼賛会構想に対し「憲法の精神に抵触しないか」と批判的意見を述べた。
・「これまではまるで昔の政府ができるようなものではないか」(10/11)…大政翼賛会発足の報告を受けて。
・「独伊のごとき国家とそのような緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる>(9月)・・・日独伊三国同盟の終結に際して。
・「この条約≪三国同盟」は、非常に重大な条約で、このためアメリカは日本に対してすぐにも石油やくず鉄の輸出を停止するだろう。そうなったら、日本の自立はどうなるか。こののち長年月にわたって大変な苦境と暗黒のうちにおかれることになるかもしれない。その覚悟がおまえ(近衛首相)にあるか」(9月)・・・このように天皇は的確に未来を予測していた。
●昭和16年(1941)40歳
・「強い兵を派遣し、乱暴することなきや。武力衝突を惹起(じゃっき)することなきよう留意せよ」(1/16)・・・北部仏印の駐屯部隊について、杉山参謀長に。
・「自分としては主義として相手方の弱りたるに乗じ要求を為すが如き、いわゆる火事場泥棒式のことは好まない」(2/3)・・・欧州で英仏がドイツに苦しめられている間に、彼らの植民地を奪おうという大本営政府連絡会議に。
・「支那の奥地が広いというなら、太平洋はなお広いではないか。いからる確信があって3ヵ月というのか!」9/5)・・・中国をなかなか倒せないというのは奥地が開けているためと言い訳する杉山参謀長が、今度は「米国を3ヵ月で倒す」というので天皇が怒った。
・「なるべく平和的に外交をやれ。外交と戦争準備は並行せしめずに外交を先行せしめよ」(9/5)・・・帝国国策遂行要領を見て杉山参謀総長に。
●昭和17年(1942)41歳
・「人類平和の為にも、いたずらに戦争の長引きて惨害の拡大しゆくは好ましからず」(2/12)・・・開戦初期の勝ち戦のなかにあって東条首相に早期終戦を訴える。「長引けば自然と軍の素質も悪くなる」とも。
・「いま日光なぞで避暑の日を送っているときではない」(8/7)・・・健康問題の懸念で日光で休養することになったが、米軍ガタルカナル島上陸の報が入り即時帰京を希望した。
●昭和18年(1943)42歳
・「わが陸海軍は、あまりにも米軍を軽んじた」(1/27)・・・と、軍部が敵を軽んじた為にガタルカナル島で尊い犠牲を出したことを嘆いた。
●昭和19年(1944)43歳
・「陸海の首脳部がついに意見一致せず、ひいては政変を起こすが如き事があっては、国民はそれこそ失望して、5万機が1万機も出来ないことになるだろう」(2/10)・・・戦局悪化で内部争いしてる場合じゃないのに、陸海両軍が航空機の生産量の配分を巡って激しく対立していることを批判。
●昭和20年(1945)44歳
・「もう一度、戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う」(2/14)・・・近衛元首相との対話。左翼はよくこの言葉を例に「天皇がもう一度戦果をあげようとこだわったから終戦が遠のいた」と批判しているけど、この言葉には前後の流れがある。どうすれば終戦できるかと悩み、元首相と相談するなかで、軍部急進派を軍部穏健派で抑えつけるには、戦果があがって急進派のメンツがたつタイミングを選ぶべきという話。あくまでも戦争推進派をどう抑え込むかの議論。
・「わたくしは市民といっしょに東京で苦痛を分かち合いたい」(5月中旬)・・・軍部は東京が空襲で危険なので、長野県松代に完成した地下陣営に大本営と皇居を移そうとした。それに反対しての言葉。
・「これでやっとみんなと、同じになった」 (5/26)・・・夜間に空襲の火災が皇居にも飛び火し、中心の貴重な建物が全焼。火災の一報が入ったときは「正殿に火がついたか、正殿に!あの建物には明治階下が、たいそう大事になさった品々がある。大事なものばかりだ。何とかして消したものだ」と咳き込んで語るも、鎮火後は犠牲者の有無を問いかけ、焼け落ちた正殿に「みんなと同じになった」と静かに諦観。
・「なるべくすみやかにこれを終結せしむることが得策である」(6.20)・・・東郷茂徳外相が和平の為ソ連に仲介を頼むことを報告。天皇は大いに賛成した。
・「慎重に措置するというのは、敵に対しさらに一撃を加え後にというのではあるまいね」(6/22)・・・和平工作について陸軍の梅津参謀長が「和平の提唱は慎重に」と発言したことへ懸念を表明。この言葉からも、‹新たな戦果よりも速やかな和平>という思いが分かる。
・「この種の武器が使用された以上、戦争継続はいよいよ不可能になった。有利な条件をえようとして戦争終結の時期を逸することはよくない」(8/8)・・・広島に投下された新型爆弾が原爆と判明。東郷外相が原爆を戦争終結の転機にしたいと考え述べ、天皇は同意した。
・「自分は涙をのんで原案に賛成する」(8/10)・・・無条件降伏を求めたポツダム宣言をめぐって御前会議にて。受諾すべきという東郷外相&米内海相と、徹底抗戦を訴える阿南陸相梅津、豊田の軍首脳が対立したため、鈴木貫太郎首相は天皇に最終判断を求めた。天皇は受諾を求めた。
「本土決戦、本土決戦と言うけれど、一番大事な九十九里浜(米軍上陸予想地)の防備も出来ておらず、また決戦師団の武装すら不十分にて、充実は9月中旬になるという。飛行機の増産も思うようには行っていない。いつも計画と実行は伴わない。これでどうして戦争に勝ことが出来るか。もちろん、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰など、それらの者は忠誠を尽くした人々で、それを思うと実に忍び難いものがある。しかし今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う。明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲びたてまつり、自分は涙をのんで原案に賛成する」。いわゆるが下された。
・「たとえ連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではどうしようもない。人民の自由意思によって決めて貰って、少しも差し支えない」(8/12)・・・日本政府は「国体維持(天皇制)が約束されるならポツダム宣言を受諾する」と答え、その回答は「日本政府の形態は日本国民の自由意思によって決めるべきだ」というものだった。軍部がと反対すると、天皇はと答えた。
・「我が身ももはやどうなるか知れぬ。その前に今生(こんじょう)の別れとして、是非とも一目なりと母君にお会いしておきたい」(8/14)・・・昭和天皇の母が軽井沢へ疎開することになり、その前に一目と。
・「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」(8/14)・・・軍部がポツダム宣言「断固拒否」の姿勢をとり続けるため、14日に改めて御前会議が開かれた。かたくなに反対する阿南陸相、梅津陸軍参謀総長、豊田海軍軍令部総長の3人に対して天皇は次のように説得した。「陸海軍の将兵のとって武装の解除なり保証占領というようなことは真に堪え難いことで、その心持は私にはよく分かる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。このうえ戦争を続けては、結局わが国がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩をなめさせることは私として実に忍び難い。粗相(そそう)の霊にお応えできない。(中略)日本がまったく無くなるという結果に比べて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる」。
・「私の切ない気持ちがどうして、あの者たちには、わからないのであろうか」(8/15)・・・終戦に反対する陸軍の一部の将校が、近衛師団長・森赳(たけし)中将を射殺したうえ、偽の師団命令で近衛歩兵連隊を出動させて皇居を占拠し、玉音放送を阻止するため録音盤奪取を企てた。報告を受けた天皇は「私が出て行ってじかに兵を諭(さと)そう。私の心をいってきかせよう」と、反乱部隊を説得しようとした。
・「今日の時局は真に重大であ、いろいろの事件の起こることはもとより覚悟している。非常に困難のあることはよく知っている。しかし、せねばならぬのである」(8/15)・・・終戦に反対する近衛師団の反乱を鎮圧した東部軍司令官の田中静壱大将に、予想される混乱に対する覚悟を語った。
・「自分が1人引き受けて、退位でもして納めるわけにはいかないだろうか」(8/29)・・・戦争責任者を連合軍に引き渡すことについて。
・「責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼らに責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお任せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」(9/27)・・・国連国最高司令官マッカーサー元帥との初会見で。「絞首刑も覚悟している」とも。マッカーサー「なぜあなたは戦争を許可されたのですか?」天皇「もし私が許さなかったら、きっと新しい天皇がたてられたでしょう。それは国民の意思でした(事実世論は鬼畜米英一色だった)。こと、ここに至って国民の望みに逆らう天皇は、恐らくいないでありましょう」。
・「自分があたかもファシズムを信奉するがごとく思われることがもっとも堪え難きところなり」(9/29)・・・昭和天皇は日中戦争前から一貫して戦争拡大に反対してきた。だが、米国のメデイアは昭和天皇をヒトラーやムッソリーニと同列に見ていた。独裁者は議会を軽視するものだが、天皇は常に議会の決定を尊重してきた。むしろ、介入せんと心がけすぎて戦争を止められなかった。そのことを悔い、と嘆いた。
*参考文献・・・『昭和天皇語録』(講談社学術文庫)、『昭和天皇』(古川隆久/中公新書)
●靖国参拝問題
昭和天皇は戦争指導者(いわゆるA級戦犯)が靖国に合祀されて以来、靖国への参拝をとり止めた。外交問題化する前のことであり中国が騒いだからじゃない。最後の参拝は1975年。中曽根元首相が公式参拝して中韓が猛抗議したのは1985年。外交問題に発展する10年前に、もう参拝を止めていたのだ。その理由を元宮内庁長官・富田朝彦(ともひこ)が聞いてメモに書いていた。
昭和天皇いわく
「私は或る時に、A級が合祀され、その上松岡、白取までもが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが松平の子の今の宮司がどう考えたのか。易々と。松平は平和に強い考えがあったと思うのに親の心子知らずと思っている。だから私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」。
これを解説文入りで書くとこうなる➡
「私はある時に、A級戦犯が合祀れ、そのうえ(ナチスとの日独伊三国同盟を締結した)松岡洋右・元外務大臣、(国際連盟脱退を主導した)元駐伊大使の下鳥敏夫までもが祀られた。(先の靖国神社宮司)筑波藤磨は慎重に対処してくれた(1966年に旧厚生省から合祀を依頼されても退任まで10年以上合祀しなかった)と聞いたが、(元・宮内相)松平慶民の子の今の宮司(松平永芳。1978年にA級戦犯を合祀)がどう考えたのか。やすやすと(合祀するとは)。松平慶民は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから、私はあれ(合祀)以来参拝していない。それが私の心だ」。
確実にA級戦犯合祀に不快感を語っており、子である今上天皇も即位から一度も参拝していない。この「富田メモ」を2006年7月に日経新聞が伝えた際、櫻井よしこ、上坂冬子、大原康男ら保守論客が、信憑性を疑ったり、‹合祀に不快感を持っていたと解釈できない>などとアクロバット論評をしていた。だが、翌年07年4月に朝日新聞が「富田メモ」を決定的に裏付ける元侍従・卜部享吾(うらべりょうご)の日記を公開する。
『卜部享吾侍従日記』の1988年4月28日分に「お召があったので吹上へ長官拝謁のあと出たら靖国の戦犯合祀と中国(から)の批判・奥の発言のこと」とあり、「靖国」以降はわざわざ赤線が引かれていた。‹奥野発言>とは特高警察あがりの奥野国土庁長官が「(日中戦争について)当時の日本に侵略の意図は無かった」と国会で発言したこと(翌月国土庁長官辞任)。この4月28日という日付は、富田元長官が昭和天皇のをメモした日と全く同じだ。しかも卜部元侍従人は13年後の2001年7月31日の日記に「靖国神社の御参拝をお取り止めになった経緯直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」と記しており、昭和天皇が合祀に不満を持っていたことをハッキリ綴っている。さらに半月後の8月15日の日記には「靖国合祀以来天皇陛下参拝取り止めの記事合祀を受け入れた松平永芳(宮司)は大馬鹿」とまで書かれていた。
卜部元侍従人は1969年から約20年間も昭和天皇の侍従を務め、香淳皇后死去に伴う大喪儀ではを務めている。天皇家から大きな信頼を得た人物が、侍従時代から32年間もつけた日記33冊を、死の1ヵ月前に新聞記者に渡しと願った真意を、くみ取るべきではないか。
『富田メモ』『卜部享吾侍従日記』に続く第3弾の証言 「戦死者の霊を鎮める社(やしろ)であるのに、合祀でその性格が変わる」もある。中曽根元首相が靖国に公式参拝して近隣国から批判されたその翌年(1986年)、終戦記念日に昭和天皇は「この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」と詠んだ。同年秋、皇后の和歌相談役を長年務める歌人、岡野弘彦のもとを、先の歌をてにした徳川義寛侍従長が訪れた。岡野が「うれひ」の理由が歌の表現だけだは十分に伝わらないと指摘すると、徳川侍従長は「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです」と述べた上で、「お上はそのこと(合祀)に反対の考えを持っておられました。その理由は2つある」と語り、「一つは(靖国神社は)国にために戦にのぞんで戦死した人々の御霊(みれい)を鎮める社(やしろ)であるのに、そのご祭神の性格が(合祀で)変わるとお思いになっていること」と説明。そして「もう一つは、あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとのお考えなのだす」と述べた。さらに徳川侍従長は「それをあまりはっきりとお歌いになっては、差し支えがあるので、少し婉曲ににしていただいたのです」と述べたという。(岡野弘彦著『四季の歌』より)
*徳川義寛・元侍従長の長男・徳川義眞の談話「新聞で(富田)メモを見た時は、父の言っていたのと同じだなあ、と思いました。父は、家では役所の話をあまりしませんでしたがね」週刊新潮2006年8月10日号
*平成の今上天皇も同じ考えであることが次の報道からも分かる。
・「今上天皇が1996年に栃木県護国神社に参拝した際、宮内庁がA級戦犯合祀が無いことを事前に問い合わせし確認していた」朝日新聞2001年8月15日朝刊
・(護国神社は合祀基準が靖国神社とほぼ等しいが)「1993年に今上天皇が参拝した埼玉県護国神社にはA級戦犯が合祀されていない」産経新聞2006年8月7日朝刊 中国や韓国が知るよしもない、地方の護国神社の参拝にさえ、宮内庁がA級戦犯合祀の有無を事前に確認している。これほど明確な皇室のメッセイジ(合祀反対)がなぜ日本の保守右翼には届かないのか。
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